てつがくを着て、まちを歩こう―ファッション考現学 (ちくま学芸文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
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本棚登録 : 373
レビュー : 30
  • Amazon.co.jp ・本 (284ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480089878

作品紹介・あらすじ

ケータイ電話が日常のコミュニケーションの主流となり、現実とヴァーチャルな世界との境界がかぎりなく曖昧なものになりつつある今日、ファッション、モードの世界はかつての規範から解きはなたれた人びとの思い思いの「てつがく」の交響の場となっている。目まぐるしく変遷するモードの世界に、変わることのない肯定的眼差しを送りつづけてきた著者のしなやかなファッション考現学。

感想・レビュー・書評

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  • てつがくを着て、まちを歩こう
    2020年2月29日読了

    何冊目かの鷲田清一の著作。パッと見に白い文章分かりやすい文体で書かれているためサクサク読めました。

    私たちはじぶんのことが一番見えない。

    じぶんの顔は鏡を通してしか見られないし、身体のパーツにも見ることが叶わない箇所がある。それは当たり前なのだけど、当たり前すぎて忘れてしまっていること。

    だからこそ、他者と全く違うことを怖がる。

    じぶんの顔を常に他者に晒しているにもかかわらず、じぶんでは見ることができない。だから他者の目線や評価が気になるのだ。

    他人と全く同じファッションを嫌がる一方で、全く異なることも恐れるというなぞ。それを以上の理由をもって説明されていて、とても納得しました。


    一番気になった一節を引用します。

    『一分の隙もない人は、尊敬されても魅かれない。不幸の影がぜんぜんないひとはうすっぺらに見える。百パーセント男性の人、あるいは隅から隅まで「女」そのもとであるようなひとはどうしてもマンガになってしまう。逆に、なにかになろうとしているのに、それを裏切るものを同時に分泌してしまう、そういう対立を秘める人は、危なっかしくて目が離せない。つまり気を惹くのだ。』

    どちらか一方ではない、矛盾を内奥した存在、つまり人間臭さを感じる人物ってことじゃないかなぁ。そんなゆらぎがあって、かつそれを楽しめる人間でありたい。

  • ファッション好きに良くある、『なんかいい』『なんかイケてる』その『なんか』の部分をきちっと言語化されていて読んでいて気持ちがいい。
    そうそう、これが言いたかったんだよ〜!
    と思わず言いたくなる。そして、ファッションが哲学的なものとして書かれており、その広がりが面白い。学術性の高い良書。

  • 少し前のファッション考現学の本。八ヶ岳リゾナーレのbooks&cafeで目に止まり。ファッションに興味のない自分なので、雰囲気の力って怖い。そういえば代官山蔦屋も無駄に本買わせるな。 女性の認知症の進行を止めるための化粧セラピーの話題から、「他人の眼にうつるじぶん、それへの関心を失うとき、ひとはおそらくじぶんへの関心をも失う。」おっしゃる通り。耳(目)が痛い。

  • ファッションとは、自己の表現であるとともに、他人へのホスピタリティの表出であるとの考え方に激しく同意した。

  • 良い本だった! ファッションそのものというか哲学の本で、時代に廃れぬまなざしがある。身にまとうものを含めた自分というおしだしについての哲学。
    その人がそのまま表出されているすがたというのが一番魅力的なんだと語るような場面(ちょっと受け取り方に語弊があるかもしれないけど)が何度となくあって印象的。あるがままのシワとか、そのひとの人生史(時間の澱という言葉が心に残る)をいつわらぬ顔というものに価値を見いだすこと、それはやはり豊かだよな、かくありたいね、と思える。
    そしてなにより言葉選びがつくづくツボで、非常につやっぽい。読んでて無性にどきどきした。乾いた肌に湿り気を取り戻すような読書体験だった

  • 2000年前半に書かれている本なので
    今現在と比較するとあーそうそうあったわ、そうゆうことも。とか
    懐かしいような
    それでいて、ごもっともと思うこともしばしば。
    自分に一番遠い自分とか。
    鏡越しで見ないと自分を見れない自分がいて
    でも自分以外の人からは自分がよく見えるって。
    当り前なんだけどごもっとも。
    化粧もファッションもなんだかんだでそうゆうことよね、って。
    誰かに承認されたいし自分はこうです!っていう理想とか。

  • 随分前に購入して、積読になってた本。
    購入したきっかけはなんだったかなー…。

    収録されている文章が書かれたのは90年代なので、ファストファッションが隆盛を誇っている現代から見ると「へー」「ほー」という感じ。

    引用も参照。

  • 「ファッション考現学」というサブ・タイトルがつけられているように、さまざまな雑誌に掲載されたファッション論を集めた本です。

    著者は本書の冒頭で、次のように述べています。「ファッションにぜんぜん気がいかないひとはかっこよくないが、ファッション、ファッション……とそれしか頭にないひとはもっとかっこわるい。このふたつ、一見反対のことのようで、じつは同じ態度を意味している。他人がそこにいないのだ」。他者の視線を浴びる衣服は、われわれが世界と出会い、両者が互いにせめぎあう最前線にほかなりません。人びとは着飾ることで、他者の注目を集めたり、他者のまなざしを拒絶したりしながら、自己の輪郭をかたちづくっていきます。そうしたせめぎあいの場において、「自己」はあらわにされています。著者は、表層のファッションの背後に隠された「ほんとうの自己」の存在など信じてはいません。そのつどの状況にあわせて可変的である衣服こそが「自己」であり、流行に追随したり抵抗したり、背伸びをしたり少し気を緩めたりと、そのつどのイメージに揺さぶられながら、われわれはそのつどの「じぶん」を選びとっていると論じられています。

    ファッションは、けっしてわれわれの存在の「うわべ」や「外装」ではなく、むしろ「魂の皮膚」だと著者は述べます。ファッションについてセンスよくありたいと願うことは、他者のまなざしを受けるときのひりひりするような感覚にセンシティヴであることに通じているのかもしれません。

    ファッションを論じる著者の文章に、センスよくありたい、あるいはセンシティヴでいたいという意識の過剰を感じとって鼻白むひともいるかもしれません。しかし本書を読んで、オタクが自分の趣味について延々と語りつづけるのを聞かされるときに感じるようなどうしようもない倦怠感を覚えることはありませんでした。「好きなもの語り」の臭みを感じさせないファッション時評というのは、もしかするとそれほど多くないのではないかという気がします。

  • 著者はファッション評論家かなんかの人だと思ったら、京大の教授なんかやってる思想家だったらしい。内田先生のような、読ませる文章なので呼んでてとてもリズムがあって小気味よい感じ。若い頃、狂ったように服のことばかり考えていたときの、ファッション哲学というものを自分もよく考えていたが、そのギラギラしていた頃の自分に似たようなエッセンスが随所にあった。

  • ファッションについて鷲田清一なりの視点を通して書かれる

    fashionの意味の一つとして「流行」という意味があったり、「ファッション」メンヘラみたいになんとなく軽いイメージのあるものゆえ、その意味であったりを見いだすっていうのは中々難しいのかなとおもったりした。うまくまとまらないけど.....

    服は他人への気配りという当たり前といえば当たり前のことにきづかされる
    いま他人が見たいものを着る(季節感のあるものであったり)ということが、お洒落というこもなのかも

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著者プロフィール

1949年京都生まれ。お寺と花街の近くに生まれ、丸刈りの修行僧たちと、艶やかな身なりをした舞妓さんたちとに身近に接し、華麗と質素が反転する様を感じながら育つ。大学に入り、哲学の《二重性》や《両義性》に引き込まれ、哲学の道へ。医療や介護、教育の現場に哲学の思考をつなぐ「臨床哲学」を提唱・探求する、二枚腰で考える哲学者。2007~2011年大阪大学総長。2015~2019年京都市立芸術大学理事長・学長を歴任。せんだいメディアテーク館長、サントリー文化財団副理事長。朝日新聞「折々のことば」執筆者。
おもな著書に、『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫、サントリー学芸賞)、『「聴く」ことの力』(ちくま学芸文庫、桑原武夫学芸賞)、『「ぐずぐず」の理由』(角川選書、読売文学賞)、『くじけそうな時の臨床哲学クリニック』
(ちくま学芸文庫)、『岐路の前にいる君たちに』(朝日出版社)。

「2020年 『二枚腰のすすめ 鷲田清一の人生案内』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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