翔太と猫のインサイトの夏休み: 哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫 ナ 13-1)

著者 :
  • 筑摩書房
4.04
  • (88)
  • (74)
  • (52)
  • (9)
  • (3)
本棚登録 : 891
感想 : 83
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (282ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480090928

作品紹介・あらすじ

哲学とは何よりもまず、好奇心と探究心に満ちた子どもの遊び場だ-。中学生の翔太と猫のインサイトが、「いまが夢じゃないって証拠は?」「心があるって、どういうこと?」「たくさんの人がいる中で、ある一人だけが『ぼく』なのはなぜ?」「死ぬって、どういうこと?」といった問いをめぐり対話する。「私」が存在することの奇跡性のほか、実在論や可能世界、正義原理、言語ゲームなど哲学の諸問題を取り上げ、自分の頭で考え抜くよういざなう。予備知識のいらない、「子ども」のための哲学入門。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 真夏の自由研究シリーズのつもりでほんの出来心で読み始めたところ、とんでもない思考と思索のなかへ飛び込んでしまっていました。
    読んでは考え、読んでは戻り、しばしば居眠りこきつつもどうにかこうにか読了。気付けば10月に。これが’永井哲学’か…。

    「予備知識のいらない、『子ども』のための哲学入門。」という紹介と本秀康氏のほのぼののんびりした装画が醸すシニカル。これらを額面通りに受け取るのは早計、いや、確かにこれは哲学に関しては何にも知らない、ナチュラルな「子ども」の状態のうちに読んでおきたい一冊でありました。〈はじめに〉に曰く「この本の語っていることが、たとえ専門家には理解されなくても、中学生・高校生には理解される可能性を、私は信じています。」(p9)とある通り、妙に中途半端な知識を持たずに触れるべきであろう。

    以下、私なりに得た事を書き出す。
    ・「ぼくらが知ることができないような事実によって正しい主張であることはできないんだよ。」(p36)…感情論や感覚論でほんとうは/実は〇〇に違いない!と正しく主張することは出来ない。「その『正しさ』がどういう観点からのものか」(p37)を認められるか否かが重要。
    懐疑論的アプローチ。デカルトのはなし。
    ・自分という、《ぼく》が存在することの「奇跡性」(p126)、超越論的観念論、カントのはなし。超越論的とは「ぼくらが経験できる世界を超えて、あたかもその外に立ったかのような立場から、ぼくらが経験できる世界の成り立ちとしくみを調べる、そういう哲学者の立場」(p136)のこと。
    ・「自分の気に入った考えしか自分のものとして持てない人は、思想は持つことはできても、哲学をすることはできないんだよ。」(p155)「ぼくらの側に絶対的な正しさがあるという事実と、それはぼくらの側がたまたま多数派だったからだという事実とは、いわば次元が違うんだよ。」(p156)…「哲学が人々に受け入れられるっていうのはね、みんながその主張に賛成するようになることじゃないんだよ。むしろね、その主張に反対する人でさえも、その哲学が設定した空間の中でしか反対できないようになるってことなんだ。」(p207)「前提されることになる空間こそが哲学なんだ。」(p208)’正しい’ということの不確実さと心もとなさ。ちょっとまだ腑に落ちていない章。
    ・人生の意味とは。「死ぬのが嫌なのは、死んでるって状態じゃなくて、もう生きられないってことが嫌なんだよ。」(p244)「存在と無は、生と死は、究極的にはね、話じゃないんだよ。それは、現実なんだよ。ただ、受け入れるべき現実なんだよ。」(p249)「人生の全体を、つまりそれが存在したってことを、まるごと外から意味づけるものなんて、ありえないさ。そんなものがありえないってことこそが、それをほんものの奇跡にしているんだ」(p251)。ハイデガーのはなし。存在論的差異。


    目が覚めるような読書ではあったが、まだまだ自分の言葉に落とし込めるまでには至らず。その意味でまだ星は付けられないと判断した。クタクタになるまで探究を続け、考えなければ。


    13刷
    2023.10.14

  •  永井均は、大学一回生の頃に『転校生とブラックジャック』を読んで一目惚れし、それ以来ずっと気になっている哲学者である。とは言え、彼の著作は今までほとんど読めていない。それは、彼の著作に挑むには、かなりの勇気を要するからだ!
     本書は、副題に「哲学的諸問題へのいざない」とあることからも分かるように、哲学の入門書である。読むのに哲学の特別な知識は必要でない。中学生の翔太と猫のインサイトが対話をする中で考えを深めていくという内容になっている。だが、この設定や可愛らしい表紙に騙されてはいけない。入門書と言いつつも非常に本質的な議論が展開され、読者は、普段の生活のなかでは気にも留めなかったがよくよく考えてみると不思議な問題について自分の頭でトコトン考える営みに誘われる。レビューの最初に「永井均を読むには勇気を要する」と書いたのはこれである。つまり、生半可な覚悟で読み始めると目は紙面を滑るだけで議論を追えず、ましてや自分の考えを深めることなどできず、ただ時間を浪費するだけになりかねない(僕自身の経験です笑)。哲学は、決して知識の羅列ではなく、自分の頭で考え続ける営みそのものだ、ということに気づかせてくれる一冊だ。

    ・p.11 少し前に書いた『鬼滅の刃無限列車編』のレビューと偶然にも関連している。
    ・p.32 「立花由美」が生まれてから死ぬまでに一度も怒ったことがないのに、(彼女を怒らせる出来事がなかっただけで)彼女は実は怒りんぼうだったということが有り得るかという問題について。「怒りやすさ」のアナロジーとして「才能」が思い浮かんだ。例えば、「何に才能があるか分からないから色々なことを経験するべき」という言説があるが、これは暗黙のうちに才能というものの実在を仮定している。現実としてあるのは、「人物AがあることBをして上手くいった」ということだけで、それを後から見て「AはBに才能があった(だから上手くいった)」と言っているだけなのに。そういう言い方をすると、人の一生は予め決まっているのだ、みたいな決定論・運命論に繋がってくる。あたかも実在があるかのように言っていることは、身の回りにたくさんある気がする。そのほとんどは別に実在的だろうがそうでなかろうが特に困らないだろうが、才能のようなセンシティブな事柄については慎重にならなければならないように感じた。
    ・p.35「自然な」超越とはなんだろうか?何をもってその自然さは妥当なものとされるのだろう。以前読んだ『科学哲学の冒険』には、科学の一推論手法としての帰納法は、世界の連続性がないと成り立たないと書いてあった。多分、自然さも世界の連続性から担保されるのだと思う。ただ、世界は連続だと言っても、僕たちが感じている世界には不連続性が至るところにあるし、僕たちにとっては僕たちが感じ取れる世界がすべてなのだ。例えば、瞬き(コンマ数秒の不連続)・夜寝ること(数時間の不連続)。確かにそれこそ「寝ている間」にも世界は実在していると思い込むしかないだろう(し、それが自然だと思う)。
    ・p.56 「H2O」が物質であるのに対し、「水」は現象であるように感じる。「水」というものは、僕たちが普段感じるあの「水らしさ」から定義されていると思う。例えば「水に流す」など、比喩の中で水という言葉が使われることも多いが、そういうとき、水を物質としてではなく、性質から構成されるものとして捉えている気がする。つまり、「水」は「H2O」であろうとなかろうと依然として「水」だ。
    ・p.110 時空間的な連続性が他者の同一性を保証しているとあるが、普段の生活の中ではそんなことはしていないだろう。ある日友人と別れて次の日また会ったとき、(その間の連続性を確認していないわけだから)ある日あった友人と次の日あった友人を同一であると見なすのは、結局顔や声・体つきだ(もちろん、別れてからずっと監視していれば、時空間的に連続しているかあるいは不連続かが確かめられるけど)。自分がどのように同一であるかを他者にも当てはめているか、見た目で区別がつかない人間が二人現れることは滅多にないという確率的・統計的な推論をしているのだと思う。
    ・p.135 有名なラッセルのパラドックスに構造が似ている。
    ・p.206 大学に入ってすぐの頃、数学基礎論を少し勉強してなんか大学っぽいことをやってるなぁと嬉しがっていたのだが、例えばモーダスポネンスといった推論規則は公理として認めることにガッカリした記憶がある。それを最初から認めるなら、全然「基礎」じゃないじゃん、と正直不満だった。大学院生のチューターの方はそれについて「メタ的な議論なわけだね」って言ってたけど。今考えてみれば当たり前で、数学は公理が与えられないとどうしようもない(それは、数学基礎論であろうと)。数学も「言語ゲーム」の一つなわけだ。今となってはそのとき勉強した知識を使う機会もないけど、数学基礎論とか公理的集合論とか勉強して良かったと思っている(唐突な自分語り)。
    ・p.232 「ここ」と「いま」の違いには、空間は前進・後退ができるけど、時間は一方向にしか流れないという違いも大きいと思う。

  • 圧倒的な一冊である。圧倒的というのは、これほど哲学をしている書物は他には見られないからである。どうすれば、哲学「書」を読めるのだろう?なるほど、永井が自画自賛するだけのことは在る。ニーチェのツァラトゥストラの冒頭に、「誰でも読めるが、誰もが読めない書物」とあったが、まさにこれこそがその一著だと思われてならない。というか、永井はそれを狙ったのではないだろうか?とはいえ、本著に所々に永井の罠があるように思う。例えば、我々が考えられないことは実在しないのだとか、それが実在しうる根拠がなければ可能性(~かもしれない)すら認められないだとか、そういうのはやはり永井の哲学観でしかありえないだろう。ただ、それがある種絶対的であるかのようにインサイトによって語られていたりするとさもそうであるかのように思われてしまうが、実際はそういったことはないのではないだろうか?本当に本著を甘く見すぎていたように思う。永井の著作にはいくつも触れたが、本著が圧倒的にずば抜けている。今だから、理解できる部分もあったが、しかし、今だから理解できない部分もあっただろうし、そもそも、永井がここに書いたことを本当の意味でなどという言葉はありえないのだろうが、まあ、それを理解できていたとしたら、それは、事前に知っていたのだということだろう。よく、実感を伴って文学作品を読めるということを耳にするが、実感を伴えたとうことは知っていたということだろう。逆を言えばそれだけ実感を伴うことは難しいことであるし、実感を伴うためには、それだけの不幸を経験する必要がある。本著は、ソフィーの哲学に対する、痛烈な皮肉として書かれてもいる、確かにソフィーの哲学は「哲学史」でしかなくて、あそこには哲学はなかったように思う。疑問はあっても、それは疑問で終わってしまっており、疑問への答えは哲学者の哲学観のみで終わらせてしまっていたように思われる。また、一つ一つを深く吟味しているわけでもないので、やはりそれは永井からすれば到底哲学とは認められないものなのだろう。ただ、本著は終盤にかなり失速する。それは永井自身も感じているのではないだろうか?まあ、それはいいのだけれど。


    一応、要旨だけをまとめておけば、こうなるだろう。私がこの私であること、僕がこの僕であること、俺がこの俺であること、それこそが奇跡なのである。なぜかといえば、そこには実は理由などないからだ。ただの偶然なのである。我々はあれこれ考えをめぐらせることができる。しかし、根拠がないことに対してはそれが実在しているとは実は到底考えられない。あれこれ考えをめぐらせれば、自分が自分でなかったとしたならばという考えが全て無意味だったというところに回帰する。つまり、奇跡なのだ。そこに感動せずにはいられない。その非常に当たり前なことに。だが、そこに至るまでのプロセスがあったからこそ感動できるのである。また、それは今にも言える。時間軸があれば、それは無限に続く無限直線となるだろう。その中の、今がこの今である理由などやはりないのだ。だからこそ、それもやはり奇跡なのである。しかし、ここで私=存在、この私=存在するもの、として置き換えてみる。存在が存在するものであることは奇跡である?ハイデガーはここで、存在は存在するものでないと述べている、それはそうだろう。存在と存在するものを同列に語ってはいけないのである。だとすれば、私はこの私ではない?ちなみに、先ほど、根拠がないことは語れないと書いたが、それはつまりヴィトゲンシュタインなのであろう。我々は我々の外部にあることはどうあがいても語れないのだ。我々が神を語ればそれは我々に内在する神でしかないのだ。だから、ある意味でグノーシス主義はかなり優れているのかもしれない。なぜならば、我々は全て我々の統覚においてしか、カテゴリーにおいてしか物事を捉えられないのだから、ということは、全ては我々に内在するものなのである(観念論)。だとすれば、そこからはみ出したものは我々は統覚することすらもできないのだ。それは感動なのか?絶望なのか?ともかくも我々はそれを語れない(物自体)。最後に一つ、意味について。実は意味などはない。なぜなら、我々は我々が日ごろから使っている言葉の意味を語れない。もし、語ろうとすればそれは辞書の言葉を借りたりして、つぎはぎしていくことになるだろう。つまり、日常的なタームであればあるほど我々はその意味を知らないし、そこには意味などないのだろう。必要ないのだ。それがなくとも、日常的に我々は生活できるのだから。だから、我々は母国語に対して、「自覚障害者」なのであろう、それでいて、外国語に対しては「実践障害者」(理論は知っていても使いこなせない)というわけである。そして、意味などないのに我々は意味を追求し、いわゆる一般的な意味をそこに当てはめる。意味などないのだから、国語教師が意味を語るのは無意味であるし、著者が意味が違うと異議を唱えることも無意味である。無意味というのは、それは批判的なタームではなくて、この場合純粋に「意味がない」ということなのである。ここで、意味についてあれこれ語ったのは我々が意味づけにとらわれているからであり、それこそが永井曰く「ニヒリスト」である。意味なくしては生きられない、つまり、意味がないことの感動を知らず、ということである。これが永井なのだ。これこそが、永井なのだ。

  • 通学途次、田んぼの畦道に下りる段差を下りたその瞬間に、「あ、こうやって"今"一歩踏み出したことは、既に決められていたことなのだ」という感覚に撃たれたときのことを思い出した。神だか宇宙の意思だかによって、あらゆる事象現象が決定付けられているという考え方は中学生の私にはショッキングであり、しかし一方で、いささかの興奮をも感じさせるものだった。
    認識とか存在とか懐疑とか現実とか時間とか世界の一番外側の枠とか、当時の私が考えていたことが、あれもこれもこの一冊の中で論じられていて、懐かしくなった。
    答えの出ない問いを問い続けるのは大変なことだ。ある日を境に私は、もう答えは求めることはしない、ときっぱりと決めて、それからは、ずいぶんと楽になった。
    答えを知るためではなくて、哲学というのは考え方を考えるレッスン、と思ってこういう本も読んでいる。

  • 先日、本屋の中を何の気なしにブラブラ散歩していたら、哲学関係の本なのになんとなく面白そうだし、タイトルもとっつきやすそう(内容も簡単そう!)な本があったので中身も見ずに衝動買い。そのまま喫茶店でコーヒーを注文したあと、軽い気持ちでページをペラペラとめくってみたら、鼻歌を歌いながら会計していた10分前の僕をグーで殴り飛ばしてやりたくなるような作者独特の言い回し、難しい哲学用語の雨あられ、というかもはや嵐。今まで哲学関係の本を全く読んだことがない僕は、本を読み終わる頃には、瞳孔は開き、全身を痙攣させながら泡を噴いていたといいます。嘘です。とにかく、内容を理解するには少し頭をひねりますが、作中で猫のインサイトと翔太が論じていることは実はいたってシンプル。僕自身も小学生のときに布団の中で考えていたことと同じ話題がでてきたときには心底驚いて心臓を口から吐き出してしまったほどです。「人間は死んだらどこへいくんだろう」とか「魂とか心ってなんだろう」とか、僕たちがその昔、漠然と考えていろいろ妄想したけど結局よくわからなかった内容を、本書では哲学的な論点から分析していて、読んでいるうちに、ふむふむなるほどなァ!と喫茶店の中で何度も叫び白い目で見られたい自虐的な方には最適な一冊だと思います。

  • 「考えるということ」を思い出させる良書。
    といってもよくある哲学解説書ではなく、夏休みを満喫せんとする中学生・翔太と、人語を操る不思議な猫・インサイトとの対話で構成された物語である。哲学は概ね古代ギリシャ人と哲学屋のための眠たい理論でしかないが、哲学嫌いの猫派諸氏はシャープでキュートなインサイトを愛でるために、猫嫌いの皆様におかれましては子供ができた時の予行演習のために(子供は得てしてかような疑問を抱きがちである:すなわち今が夢ではないという保証はあるか、死とはどういうものか、神とは何か、自分とはいったい何者であるのか?等々)、子供嫌いの暇人は純粋に暇潰しのために読むことをお勧めする。

  • 哲学について考えるきっかけの本

    中学生の伊豆蔵翔太と猫のインサイトによる対話型の哲学入門

    今が夢ではない事を証明できるか?
    培養器の中の脳が体験している可能性
    「自分」という特別性
    他者との認識違い
    他の人と見ている色は違う可能性
    他人が感じる痛みとは?
    そもそも他人に心はあるのか?
    自由意志とは?
    時間と空間は存在するのか?
    死を恐れる理由


    哲学書を読んで学べるのは「思想」であって、哲学そのものではない
    哲学とは、ただひたすら己の中で自問自答することで得られるものなのかもしれないですね

    私は今まで哲学書のようなものは読んだことないけど
    本書で語られているような事はある程度は考えた事がある

    今が夢でない証明もできないし、培養器の中の脳の可能性も否定できないしのはわかる
    なので、その時点で考えるのをやめてたな

    他人の感覚は自分には想像することしかできないし
    他人にも自分と同じような意識体系がある事も若干の疑いを持っている
    そもそも自分の意志というものが存在するのかも疑わしい

    自由意志なんてものはなくて、どちらかというと決定論寄りの考えかな

    空間と時間に関しては、もともと高次元の何かが存在していて、ビッグバンによってこの宇宙のルールが決まったというイメージをしている
    宇宙の発生の前には「無」があったというよりは、「何ものでもない何か」だったのではなかろうか


    死を恐れるのは、自分という主体の喪失だからでしょうね
    どうなるのかを知らないし、想像もできないし、他者の有様から想像するに待っているのは消滅
    だからこそ人は宗教というものを発明したのでしょうし
    哲学も結局はそこに行き着きますよね


    哲学について、今まで本を読んでこなかったけど、意外とそれっぽい事については考えていたんだなぁと我ながら感心した
    だからといって新たに哲学の本を読もうとは思わない
    本書でも語られているように、哲学書は思想を知るための本に思える
    本当の哲学が自分の中にしか答えはないと思うよ

  • あくまで「あなたの感想ですよね?」な戯れ言を書くが、私はよい本とは結局のところこちらを気持ちよく和ませる本とは限らないと思っている。そういう良書もありうる。だが、こちらに迫り、こちらの常識という枠組みを壊しただちに再構築させ、私自身をして生まれ変わったような気にさせる。そんな本もあっていいのではないだろうか。そして永井均のこの本はまぎれもなくそうした「再生」を味わわせてくれる得難い1冊だと唸った。ナメてはいけない、真に「問い抜くこと」「考え抜くこと」「生き抜くこと」の大事さを教えてくれるファンタジー作品だ

  • 一度読んだだけではすっと落ちてこない。大体の場面で、翔太の言っていることが自分の意見に近く、この猫はない言っとんじゃという感じ(そもそも本当に猫なのか?)。理解できる部分はあるし重要なことが書いてある雰囲気はあるが、私のレベルでは何回かの読み返しが必要であると思われる。
    その前に、より簡単そうな同著者の<子どものための哲学対話>を読んでから再挑戦したい。

  • 何度も読み返すのに値する本だと思います
    他者についての議論がすごく面白かったです。
    でも私も本当は作者が言いたいことが分かってないのかも…
    分かったと思ったのは全て思い込みであるかも…
    ただ自分の貧しい頭を何か面白い考えで満たしたいだけかも…
    そうだったら虚しいね
    それでも凄い本です
    「私」について考えさせずにいられない本です

全83件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1951年生まれ. 専攻, 哲学・倫理学. 慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位所得. 現在, 日本大学文理学部教授.
著作に, 『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房, のち講談社学術文庫),『転校生とブラックジャック──独在性をめぐるセミナー』(岩波書店, のち岩波現代文庫), 『倫理とは何か──猫のインサイトの挑戦』(産業図書, のちちくま学芸文庫), 『私・今・そして神──開闢の哲学』(講談社現代新書), 『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(NHK出版), 『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店), 『ウィトゲンシュタインの誤診──『青色本』を掘り崩す』(ナカニシヤ出版), 『哲学の密かな闘い』『哲学の賑やかな呟き』(ぷねうま舎), 『存在と時間──哲学探究1』(文藝春秋), 『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』(春秋社)ほかがある.

「2022年 『独自成類的人間』 で使われていた紹介文から引用しています。」

永井均の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
安部公房
遠藤 周作
村上 春樹
フランツ・カフカ
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×