カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫 ト 7-3)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480091307

作品紹介・あらすじ

独自の視点で哲学史に取り組んできたドゥルーズは、本書で、カントの3つの主著、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の読み直しをはかる。カントの批判哲学が、理性・悟性・構想力という諸能力の組み合わせの変化によって作動する一つの置換体系として描き出され、諸能力の一致=共通感覚に、その体系の基礎が見いだされる。カントを、乗り越えるべき「敵」ととらえていたドゥルーズが、自らの思想を形成するために書き上げたモノグラフィー。平明な解説と用語解説を付す。新訳。

感想・レビュー・書評

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  • カントの三批判について、能力の関係を中心に要約されているが、説明があまりに端的で、カントへの導入としては使いにくいものである。むろん、『判断力批判』の共通感覚からみた二批判の関係として、確認用にはなる。このことは、訳者解説にもあるが、当然ドゥルーズの哲学のカントへの関心であり、その後のドゥルーズ哲学を理解するために本書を利用するのが、真っ当な使い方だろう。
    共通感覚とは何か、そしてなぜそれが自然の目的論に関わるのか。共通感覚に目をつけたという点で、ハンナアーレント『カント政治哲学講義録』と、方向性は全く違うにしろ、共鳴する部分があり、カント哲学の耐用性を物語る(カントが最も強調した道徳の形而上学的な側面を捨象していること、カントの歴史観を再定義してヘーゲルマルクスの歴史観を批判する点も共通している)。アーレントが共通感覚を人類の共同体の共通認識的な意味で取り上げたのに対し、ドゥルーズはむしろ個人の三能力の一致、内省的なあるいは生物学的な観点で捉えているといえる。いわばアーレントは人間から、ドゥルーズは自然からの観点、という違いといえる。その意味では、カントの道徳は、いずれでもない超感性的な視点にもっていく。ドゥルーズは、結論の歴史理解にあるように、個人の特殊性よりもむしろ、人間が自然に回収されるような構図を描いているといえる。
    本書を貫くテーマを端的に表せば、悟性概念認識と理性理念欲求の「裂け目」を、経験的「領土」でつなぐための判断力を「基礎づける」、美的共通感覚の「発生」を問う、ということ。このカントにはなかったドゥルーズ用語の片鱗がすでに文中にあり、まさにドゥルーズ哲学を用意するものだ。そのような観点で読むならば、本書は刺激的に映る。『差異と反復』『意味の論理学』と重ね合わせた読みは、國分功一郎の訳者解説に詳しく、たんに時勢的な解説にとどまらない哲学的仮説を提示していて読み応えがある(約50ページもある)。用語の解説も丁寧で、初期ドゥルーズ哲学の導入として優良である。
    ・序論 超越論的方法
    カントの哲学の定義、知識が理性の目的に対してもつ関係についての学問、理性の目的に対して理性的存在が感じる愛。理性の目的は、文化の体系という形をとる。これらの定義は、経験論と独断的合理論に対する闘いがみえる。
    経験論的理性には目的はない。カントは理性の文化的な究極目的は、自然だけでは産出できないとする。カントの論証は3つ。自然的な動物性と同じであれば理性に存在価値はないことになるという価値による論証。仮に理性ではなく自然に目的があるとすれば、本能だけで事足りるので、理性には頼らないという帰謬法による論証。人間の中で動物的目的と道徳的目的が対立する事実があるという対立による論証。
    合理論は、存在、善、価値という超越的な外的なものに理性目的を求め、経験的快には関わらないという意味で、経験的次元では経験論と大差ない。カントの反論は、理性が目的を定めることで理性自身を措定する、すなわち自身を目的とするということ。理性には関心があり、自らがその審判。内在的批判、理性の審判としての理性、それこそが超越論的方法の本質的原理。この目的は2点を規定すること、①理性の諸関心ないし諸目的の真の本性、②それら諸関心を実現する手段。
    表象は主体客体の関係にあり、その数だけ精神能力がある。表象と対象の一致ないし適合の認識能力、因果関係に入る欲求能力、表象が主体に生命力強化ないし阻害の効果を及ぼす快不快の感情。問題はこれらの間の関係ではなく、各能力が高次の形態をもちうるか。そのためには自身のうちに法則をもつこと、自律的であることが必要となる。
    認識は、一個の表象だけでなく、別の表象と結びつけられたものとして、再認されねばならない。この総合には二つの形態がある。経験に依存するアポステリオリか、経験に依らず「すべて常に必然的に最も」という語で表されるアプリオリか。アプリオリな総合は、自らの法則を自らに見出すから、高次の認識能力を定義する。自然法則と異なり、経験対象がその法則に従属し、表象になかった特性を付与される。理性が関心を抱くのは、高次形態の認識能力に従属する対象。この対象は、それ自体存在する物自体ではなく、認識に従属する現象だけである。だからこそ、アプリオリな総合は、経験から独立しているが、経験対象にしか適用されない。これが批判の出発点であり、理性の物自体の考察はその向こう側にある。
    →現象のみがアプリオリな総合として理性の法則に従うが、現象は経験に従うから、アプリオリな法則は経験とは別だが、それは経験の現象に基づく。
    アプリオリな欲求能力は、経験的な快の対象表象内容を取り除いた、普遍的立法の形式となる。このとき高次な欲求能力となり、実践的総合はアプリオリになる。自身の法則を自らに見出す自律的になる。経験的、思弁的でない実践的関心。
    批判のテーゼ、諸能力が異なる理性的関心をもつということ。それが目的の体系をなしている。合理主義者は思弁的関心のみを取り上げ実践的関心もそこに属するとするが、これでは関心の体系的な複数性階層性を度外視してしまう。
    能力は第一に表象の関係、第二に表象の源泉を指す。認識の分類、①感性直観、②悟性概念、③理性理念。表象は、現れるがままの自己呈示するものと区別されねばならない。空間と時間は呈示である。自己呈示はアプリオリで純粋な多様性である。空間と時間という純粋な直観は、感性がアプリオリに呈示する唯一のもの。表象において重要なのは、接頭辞re、表象=再現前re-présentation、自己呈示するものを取り戻す動き。能動性と統一性がある。直観的感性が能動的に捉えられるとき、構想力へ関連づけられ、統一性において悟性、全体性において理性に関連づけられる。
    関係と源泉の二つの意味で能力があるとしたとき、では理性の関心はどうやって自らを実現するのか。それを保証するものはない。
    純粋理性批判において、高次の認識能力、理性の思弁的関心は現象に向かい、現象を従属させることで知識を可能にする。関心を実現する、認識能力の立法行為は、悟性。純粋理性は悟性に全てを委ねる。
    それぞれの批判に対する答えは異なる。理性の実践的関心において立法するのは理性。
    構想力、悟性、理性は、さまざまな関係に入り、どれか一つが統括的な位置に立つ。理性のどの関心かによって、能力の関係は変化する。能力の第一の意味、関係において、認識能力、欲求能力、快不快の感情には、第二の意味、表象の源泉において、悟性、理性、構想力の関係の一つが対応しなければならない。かくして能力の理論は、超越論的方法を構成するネットワークを形成する。
    ・第一章 純粋理性批判における諸能力の関係
    アプリオリ=必然的普遍的。すべて常に必然的、明日という言葉すら、我々は経験以上のことを語り、超え出てしまっている。超過による認識を定義したのはヒューム。カントは認識の事実とは何かを問う。事実はどうなっているか?という問いは形而上学の対象。認識の事実は、アプリオリな呈示ないし直観として空間と時間があることで、これはカントの空間と時間の形而上学的究明の対象。これに対し、悟性がアプリオリな諸概念カテゴリーを自由に用いて、判断の諸形式から演繹されるということ、これはカントの諸概念の形而上学的演繹。
    経験を超え出てしまうのは、主観的原理。経験がそれを裏付ける時、諸原理を行使する機会を得る。経験が主観的原理に従属する。ヒュームにとって認識の超越は人間本性にすぎないものだった。カントは問題を転換し、一個の自然として呈示されるものは、表象の規則と同原理に従属せねばならない。主観的原理は、経験的心理学的ではなく、超越論的主観性である。事実に続いて、権利上どうなっているのか?と続くのはこのことによる。アプリオリな表象の事実だけではなく、経験的由来でなく、経験的に適用されるのか。経験が表象と同一の原理に従属するのか。これが権利問題。アプリオリとは、経験に由来しない諸表象。超越論的とは、経験がアプリオリな表象に従う際の原理、経験に適用される際の原理。空間時間の形而上学的究明の後に超越論的究明、カテゴリーの形而上学的演繹の後に超越論的演繹が続く。
    独断的合理論は、認識は主客の対応、観念と事物の一致。ヒューム経験論も自然と人間本性の予定調和を余儀なくされた。カントは、コペルニクス的転回をし、物自体の主客一致ではなく、現象の主体の原理に客体を従属させた。認識能力の立法行為があり、命ずる。主客関係は内側に向かい、主観的能力の問題になる。
    表象は、多様な自己呈示するものの総合として、再呈示される。表象の内に閉じ込められる。総合は、空間時間内の多様の部分を産出する把捉と、先行する部分を産出する再生産の二つ。総合は、構想力の行為。しかし、認識は意識を含むが、構想力の総合は意識を含まない。また、認識は、対象の必然的な関係、すなわち多様を一対象に関係づける再認がある。我々が客観性を形式一般(対象=x)として自由に行使できなければ一対象に関係づけられない。対象とは、〈私は思惟する〉ないし意識の統一性の相関項、つまりコギトの表現、その形式的客観化である。したがって、コギト真の総合的な定式は、私は自己を思惟し、そのことによって表象された多様性を関係づけるところの対象を思惟する。対象の形式は構想力ではなく、悟性に差し向ける。悟性が使用するアプリオリな概念であるカテゴリーは、意識の統一の諸表象であると同時に、対象の術語である。カテゴリーは構想力の総合に他のものとの統一を与え、我々に認識を与える。
    カントのテーゼ、諸現象は必然的にカテゴリーに従属している。アプリオリな直観である時間空間は感性が受動的であり直接的である。従属は、悟性という立法者と現象を関係づける、構想力の総合という媒介者を必要とする。空間時間は超越論的究明、カテゴリーは超越論的演繹。問題の解決は、①現象は空間時間にある。②構想力の総合は空間時間へとアプリオリに向かう。③現象は、超越論的統一とそれをアプリオリに表象するカテゴリーに従属する。悟性は感性的自然一般の形をなす法則を構成している。
    悟性は判断する。構想力は図式化する。図式は総合を予想する。総合は空間と時間の規定であり、その規定によって多様がカテゴリーに従い対象一般に関係づけられる。図式はそれ自身でカテゴリーに対応する空間時間的規定であり、形象ではなく、概念的な関係を実現する空間時間的関係に存する。悟性概念の判断の条件。ただし、構想力が図式化を行うのは、悟性が立法的権限をもつとき。つまり、思弁的関心、規定的であるときのみ。
    悟性は判断し、理性は推論する。カントはアリストテレスに従い、三段論法として推論を考える。理性は、悟性概念の中間項、すなわち条件付けを行なっている別の概念を探す。すべての対象にカテゴリーを適用すると、経験を超えでる超越論的理念を想定せねばならなくなる。関係カテゴリーのうち、実体は魂、因果性は世界、共同性(相互性)は神。
    理性は、悟性と悟性の合目的的適用のみを対象としてもつ。主観的には概念に総合的統一と拡張を与えるため。統一は、経験外の焦点を構成すること。拡張は、概念を映し出し包括する高次の地平を形成すること。無制約的なものにまで連れ出す絶対的総体性。
    客観的には、諸現象がカテゴリーに従属するように、内容が理念に対応する、あるいは象徴的に符合する。ただし、要請にすぎない。理性は「すべてはまるで…であるかのように進む」と述べる能力。理念は、フィクションではないが、無規定、蓋然的。現象の内容に関して象徴する。
    思弁的形態における論理的共通感覚では、悟性が主宰し、諸能力の調和一致を規定する。構想力、悟性、理性の一致は、共通感覚を定める。共通感覚は危険な言葉で、経験的な色合いが濃い。共通感覚は、伝達可能性の主観的条件。
    カントの独創的な点は、能力間の本性上の差異。認識、欲求、快不快の間のみならず、感性直観、悟性概念、理性理念。カントの難題は、主客の調和は否定するが、能力間の調和として戻してしまっている。批判一般は、一致の原則を共通感覚の発生として要求している。★
    →合理論的悟性か経験論的感性のどちらかが世界と客観的に調和するのではなく、両者を分離して調停したが、それは結局は主観的には調和しているのであり、共通感覚を生み出す地盤として統合している。
    ただし、一致の基礎の生成の問題が提起されるのは美的共通感覚の水準において。『純粋理性批判』『実践理性批判』では能力の関係の起源は指摘するにとどまる。能力の調和の根拠は『判断力批判』において初めて意味を見出す。
    純粋理性批判の根本的問題は、悟性と理性の内的錯覚と能力の不当な使用。構想力の夢想、悟性の経験的現象を超えた物自体という超越論的使用、しかし最も重要なのは、理性の内在的統制的でない超越的構成的使用。悟性は限界への注意を怠るだけだが、理性は悟性に超越を命ずる。超越論的使用とは、悟性が物一般の認識(物自体)を望むこと。感性的対象なき認識。
    自然状態では理性の錯覚の方が支配的立場にある。自然状態は社会状態、自然法と混同してはならない。批判とは社会状態の創設。
    →ドゥルーズ独自解釈、カントは自然状態とは言ってない。自然状態の理性→批判→社会状態
    ただし、錯覚は批判的社会状態においても存続する。錯覚がまっとうな意味をもつことになる。目的の体系。
    ・第二章 実践理性批判における諸能力の関係
    欲求能力の高次の形態は、純粋な形式の表象、普遍的立法の形式。道徳法則は、意志の格率を普遍的立法の原理として思考することを命ずる。感性の(したがって悟性も)対象ではないから、理性に属する。道徳法則の意識は推論ではなく、ひとつの事実。欲求能力は自律的意志となる。意志の本質は自由であり、それを規定するのは道徳法則だ。道徳法則によって自由はアプリオリな総合として客観的積極的な実在性を獲得する。
    では実践理性の立法行為に何に向かうのか?実践的総合の対象とは何か?これは究明ではなく演繹。手がかりは、自由な存在だけが実践理性に従属できるということ。現象は、悟性カテゴリーでいう自然的因果性の法則に属す。反対に、自由は、時間規定の他の原因によらず、状態を自ら始める能力。直観的現象に表れない、物自体。①物自体ヌーメナは、可想的=超感性的事物。②我々は感性的自然法則に還元されない、ヌーメノンに対応する自由なもの、知性、理性的存在、可想界の成員。③自由は、道徳法則が意志の規定であるから、可想界的観念、すなわちあらゆる理念に先行する。
    自然法則は、悟性が認識能力すなわち思弁的理性の関心のうちで、感性的現象の領域において立法する。自由法則は、理性が欲求能力すなわち実践的理性の関心のうちで、超感性的物自体の領域において、立法する。二つの領域の「大きな裂け目」(『判断力批判』)。
    →ドゥルーズ裂け目
    悟性は現象に、理性は理性自身に立法する。理性が道徳法則を立法し、自身で従属するのであれば、崇高性がある。超感性的存在として立法者、感性的存在として臣民。
    →ルソー一般意志
    自由の中に、意志があり、道徳法則に反した(自然法則に従った)行為も可能。二つの法則には類比アナロジーがあるだけ。超感性的自然は、完全な実現がないことから、感性的自然との類比でしか自然と考えることができない。感性的自然は、可想的自然の範型。悟性の合法則性と理性立法の調和。このときの悟性のように立法しない場合も、代替不可能な役割を演ずる。
    欲求能力の定義に因果性が含まれるので、理性の実践的使用にも含まれる。悟性カテゴリーの因果性は自然法則。実践的理性は悟性から因果性を取り戻し、超感性的な自由に結びつける。
    道徳的共通感覚は、理性立法のもとでの悟性理性の一致。
    不当な使用は、自然法則を象徴の範型ではなく直観の図式として使用すること。さらに、義務と欲望の一致を求める使用。ここから、自然的調和(共通感覚)と不調和な行使(無意味)がいかに両立するかの自然的弁証論が生まれる。純粋理性批判は、理性が立法するという思弁的理性の超越的使用を告発する。実践理性批判は、経験的に条件づけられる実践理性の超越的使用を告発する。二つは理性の内在的使用という点で共通する。
    →理性に対しては思弁的使用が悟性であるにも拘らず、純粋理性が立法するという越権を批判した。実践理性は理性が実践的使用をするから、立法する純粋理性そのものを批判する必要はなく、経験的不純を取り除く純粋化としての批判をすればよい。
    カントはこの平行関係で問題に十分答えられているか?弁証論は二つあり、一つは幸福と徳のアンチノミー。幸福は道徳法則の原因にはなりえないし、徳は感性的な幸福を約束しない。しかし、純粋な実践理性は徳と幸福の結びつきを求める。二律背反の内的錯覚は次のとおり。①道徳法則に決定される欲求能力は、快楽的満足を排除することで消極的に満足を感じる(悟性理性の一致)。②この消極的享楽を経験的な積極的感性的感情と混同し、内的錯覚(論点窃取の誤謬)を起こす。③二律背反はこの満足と幸福との混同(徳は幸福の原因だという思い込み)による。
    弁証論の第一の意味は、経験的欲望が理性を不純にすること。第二は、純粋な実践理性のうちの内的な原理、反省が二律背反の解決として全体化を強いる。有益な誤謬。
    感性と構想力は道徳的共通感覚において役割をなさない。ここでは感性は不快という消極的な感情としての尊敬。道徳的動機としてのアプリオリな規定だが、感性の役割というより貶めるもの。道徳的動機は、知的満足ではなく、法則に対する尊敬によって与えられる。道徳性それ自体。感性と実践理性の関係の問題は、解決も除去もない。しかし、カントの道徳が実現に無関心だというのは、危険な誤解である。超感性界は原型であり、その実現可能性を含む感性界は模型である。我々には現象も物自体も同じ一つの存在である。一つの行為も、感性的連鎖であると同時に、自由な原因の表徴ないし表現。
    →ニーチェ永劫回帰と瞬間
    自由は現象に因果性をもち、超感性的自然は感性界の中で実現される。この意味で、結果のうちに、自然と自由が関連する。つまり、経験という領土においてのみ。
    →ドゥルーズ領土
    実践理性の対象は、道徳的善。自由によってなされる感性的結果。実践的関心は、実現するための関係。道徳法則も自由も感性界から切り離されれば何ものでもない。感性的幸福と超感性的道徳性の一致を前提することは、純粋実践理性の対象の総体としての最高善の理念を前提すること。実現可能への問いは二律背反になる。幸福は徳を前提しない。道徳は幸福の感性的自然法則に影響を与えない。しかし、不死の魂の無限進行の展望の中で、感性界の道徳的原因である神を媒介とすれば、道徳と幸福は結びつきうる。
    宇宙論的理念としての自由は、道徳法則の事実としてある。心理学的理念としての魂、神学的理念としての最高存在も、道徳法則のもとで客観的実在性を得る。実践的規定において、三大理念は、実践理性の諸要請と呼ばれる。ただし、事実による直接規定は自由のみで、二つは意志の対象の条件としての要請。
    しかし、要請だけではなく、感性的自然に含まれる条件が必要である。三つの相の呈示。①現象内容における自然的合目的性。②美的対象の自然の合目的性という形式。③自然の無定形なものにおける崇高なもの。美と崇高は構想力が役割を担う。道徳性の意識、すなわち道徳的共通感覚は、信仰のみならず、構想力がその一部をなす。
    →超感性的自然の実現には、感性的自然に含まれる条件がある。自然目的、美、崇高。目的の体系、道徳性の象徴、法則命令の象徴。美と崇高は構想力によって共通感覚となる。
    理性の関心においては、能力の高次の形態に対象が従属する。思弁的関心における感性的自然の現象、実践的関心における超感性的自然の物自体。実践的関心は、直観がないから、認識の拡張ではなく、実現されるべき何かを指示するのみ。実践的関心の下位に思弁的関心が置かれ、従う。信仰も思弁実践の総合であるから、神の存在の道徳的証明が、思弁的証明に優越する。神は、認識的には類比的規定にとどまるが、信仰としては創造者としての実践的規定と実在性を獲得する。
    関心は、目的を含む。認識は究極目的を表象しないが、価値は究極目的を前提する。究極目的は二つを意味する。究極目的は、第一に、目的そのもの。第二に、感性的自然に最終目的を与える。最終目的は、高次形態の欲求能力の概念。道徳法則だけが理性的存在を目的そのものにする。道徳法則は、自由によると同時に、感性的自然の最終目的を規定し、幸福と徳を結びつけ、超感性的なものの実現を命ずる。目的は本質的に実践的であり、感性的自然に対する思弁的関心の目的をも含む。
    ・第三章 判断力批判における諸能力の関係
    高次の快とは何か?経験的感覚による感性的魅力や、知的な満足としての尊敬による知的傾向性ではない。したがって、原理的には無関心のときのみ表象が及ぼす効果として、純粋な判断の感性的表現として、美的判断において現れる。対象の物的存在ではなく、対象の形式であるから、構想力の反省として、物質的要素に対立させてなされる。色や音ではなく、デッサン、構図が形式的反省。美的判断は、思弁実践から独立しており、無関心に個別に判断する。対象に対して立法しないから、自律でもない。自己立法的。感情能力は、主観的条件のみであるから、対象が従うような適用される領域はない。
    美的判断は主観的であるから、概念を介さない。その快が誰もが感じるはずと伝達可能であることを推測するにすぎない。この仮定は、単独の対象の形式を反省する構想力が、悟性の合法則性に関係する。概念なしの図式化のようなもの。自由な構想力と、無規定な悟性の一致。これは、美的な共通感覚(趣味)を明示するもの。感情の伝達可能性は、主観的一致の共通感覚。主観的な美的共通感覚は、客観的な論理的共通感覚と道徳的共通感覚を基礎づける、ないし可能にする。美的共通感覚は、超越論的な発生の対象であるべきではないのか?
    崇高においては、構想力が形式の反省とは別の行動に至る。無定形ないし奇異な形態に崇高を感じる。構想力の限界。総括の極大。構想力を無力に追いやり、感性的自然に引き戻す。感性界を全体化するよう強いるのは理性であり、理念に比すれば何者でもないことを構想力に学ばせる。したがって、崇高は、理性と構想力の不一致、矛盾を示す。崇高は不快。理念への近づき難さを感性的自然の中に現前させる。構想力は感性の外で無制限であり、魂を拡大する。理性だけでなく、構想力もまた超感性的な目的地をもつ。崇高の共通感覚は、不一致の中で生み出される。発生の運動としての文化=陶冶から切り離さない。★
    認識能力的な広大な数学的崇高、欲求能力的な威力の力学的崇高。実践的規定として、力学的崇高において、目的は道徳的存在に予定されたものとして現れる。
    →構想力から理性への一致は、崇高の威力の顕示によって、道徳的目的に向かって示される。
    崇高は主観的。しかし、美においては、主観的一致が客観的形態をきっかけとして起こる。演繹が提起される。崇高の分析は、共通感覚を生み出されるものとして示した。美は無関心ではあるが、理性的関心、快の伝達可能性、普遍性発生原理、共通感覚発生に役立つことは可能。理性的関心は自然の資質に向かう。美に結びつけられた関心は、自然が用いる素材に向かう。その意味で、色や音は美ではないが、美の関心の対象ではある。美への関心は、美の要素ではなく、自然美の産出に関わる。
    →美は、物質的存在ではなく、形式の産出に感じる快。
    しかし、この関心において、諸能力の全体と自然とが偶然に一致しているのみ。だが、理性的関心を感じる。これが理性の第三の関心。
    自然の自由な素材、例えば色や音は概念をはみ出し、類比によって別の概念へと関係づけ、多くのことを考えさせる。理念の一つ。白いユリ、色と花の概念ではなく、純粋な無垢という理念を喚起する。白さの反省的相似物。美への関心を規則とする間接的な呈示、象徴作用。
    二つの帰結。第一に、悟性概念が無制限に拡大する、第二に、構想力が図式機能から自由に形態を反省する。悟性構想力の一致は、美への関心によって突き動かされる。能力の超感性的統一、集中点。自由で形式的な一致、主観的調和の源泉。
    一致は、思弁実践いずれの規定においても前提している。しかし、一致は、実践理性の道徳的存在という目的地を用意している。美それ自体が善の象徴である。美への関心は、道徳性へと向かわせる。
    自然は、天才の資質を通じて、芸術に総合的な規則と豊かな素材を与える。天才は美的理念の能力。理性理念は直観なき概念、美的理念は概念なき直観。その現象が真の精神的な出来事であり、直接的規定であるような、別の自然についての直観を創造する。考えることを強いる自然。美的理念と理性理念は、同じものである。理性理念の表現不可能なものを表現する。天才は、趣味ではなく、趣味に魂ないし素材を与えて芸術における趣味を活気づける。天才は、自然美を芸術美へと拡大するための規則を提供する。芸術美も善の象徴となりうる。線も構図の趣味の形式的美学に、美に対する関心と天才の質料(素材)的なメタ美学を付け加える。カントのロマン主義を立証する。『判断力批判』には、完成された古典主義と、現れたばかりのロマン主義が複雑な均衡を保つ。
    判断力は、常に構想力悟性理性が含まれており、一致を表現するにすぎない。理論的判断力は、立法する悟性に構想力の図式が一致する規定。実践的判断力は、道徳法則を立法する理性に悟性の範型が一致する規定。反省的判断力は、全能力の間での自由で無規定な一致を表現する。能力の一致は、理性的関心の法則に従い、能力のうち一つが主宰となる。一致という意味で、判断力は一つの能力。
    感情が高次形態であるのは、立法が判断力であるとき。自己のみを規定する美的判断力とは異なる一致はないのか?思弁的理性の理念は、統制的で無規定ではあるが、客観的価値としての統一がある。この合目的的統一は、自然目的の概念に従うことで得られる。経験的多様性と両立することを前提するから、理性立法ではない。また、悟性の規定は、形式で一般的法則の可能的経験を立法するが、内容個別偶然的経験の法則は規定できない。かくして別の悟性(原型的悟性)による統一を想定する。これは人間悟性の無力の表現。
    自然の合目的性は二重の運動に結びつく。第一に、自然目的は理性理念に由来する。自然目的は、対象を有するから他の理性的概念とは異なる。ただし対象を規定しないから悟性概念ではなく、構想力は自由であり、悟性が理性と一致する仕方で概念を得る。自然目的は、統制的理念に由来する反省的概念であり、能力は一致する。これにより、自然に対して経験的法則を考察しうる。反省的判断力の第二の型としての目的論的判断力。
    第二に、理性理念の対象を規定するのは、自然目的から出発するとき。神の意図を類比的に規定するよう強いるのは合目的的統一ないし自然目的。自然目的論から物理神学への移行の必要。自然に反省を加えることで、類比的に最上の原因という理念に到達する。
    目的論的判断力と美的判断力の違い。美的判断力は、有用性や完全性などの目的を排除する、主観的形式的合目的性。客観的には、合目的性の主観的形式のみになる。
    反省的判断力は美的対象の中で個別的原理に訴えかける。能力一致の形相因、快の感情能力の質料因(素材)、目的なき合目的性の目的因、美への関心の発生因。
    目的論的判断力は、目的を内包する客観的物質的な合目的性。自然目的。形式的ではなく、対象の素材に反省を加える。美学と異なり、自然が好意を示すとみなす。
    二つの判断力の違いは、目的論的判断力は個別的原理を適用されない。悟性は立法しないが、認識能力として思弁的関心の一部をなす。目的論的快は、偶然的に自然と能力が一致する認識と一体のもの。認識が感情に与える効果。
    能力一致と結びつく美への関心は、道徳法則ないし純粋な実践的関心の優位の到来を準備する。目的論は思弁的関心、悟性立法の規定。認識はそこから、ひとつの固有の生を引き出す。
    反省的判断力は、認識から欲求、思弁から実践、後者への従属を準備し、合目的性は自然から自由への移行、自然における自由の実現を準備する。
    ・結論 理性の諸目的
    三つの批判の置換体系。表象の関係(認識、欲求、感情)。表象の源泉(悟性、理性、構想力)。構想力は立法ではないが、解放することで能力が一致をなす。最初の二批判は、能力の一つが規定する能力関係。最後の批判は、能力の一致という関係の可能性の条件。一致は二つの仕方で現れる。認識能力においては悟性、そして理性あるいは欲求能力に運命づける。精神にとって最も深いもの。最も高いものは、理性の実践的関心、すなわち欲求能力に対応する関心、認識能力ないし実践的関心をおのれに従属させる関心。
    カントの能力理論の独自性は、高次形態が人間の有限性から切り離さない、能力差異を消し去ることもない。独断論は主客の調和に神を置いたが、カントは客体の従属とした。有限な立法者のまま。道徳法則も有限な理性の事実。
    調和と合目的性を再導入しただけだという反論は本質的でない。能力の合目的的一致の主観的合目的性(美)、自然と能力の偶然的一致の客観的合目的性(目的論)。本質は、判断力批判の新しい理論が、超越論的観点から立法と両立すること。神学が人間的な合目的的根拠をもつようになることから二つのテーゼ。能力の合目的的一致が、特別な発生の対象であること。自然と人間の合目的的帰結は、人間的な実践的活動の帰結であること。
    →人間の認識能力の目的論の探究が、自然神学に根拠を与える。
    美学はどの対象が美しいか決定する配慮を趣味に委ねる。目的論は、自然目的に従う規則を要求する。演繹は、合目的性の形式から自然目的の概念へ、自然目的から自然への目的論の適用へ。
    自然目的の適用は二重である。第一に、原因と結果二つの対象に対して適用する(外的合目的性)。第二に、原因かつ結果、すなわち部分が形態と結合において相互に産出する事物、自己組織化する有機的存在に適用する(内的合目的性)。ただし、全体は原因ではなく、自然所産の可能性の基礎として。
    →ドゥルーズ有機的
    自然を観測していても、最終目的としての外的目的性は確認されないから、内的合目的性に従属する。すなわち、物が原因手段であるためには、それ自体が有機的存在であることになる。しかし、内的合目的性も最終目的としての存在が現実にあるわけではなく、可能性にとどまるから、なぜ存在するかではなく、なぜこの形態かへの問いしか生まない。最終目的は、それを自身に含む究極目的の理念である。感性的自然を超え出ている。自然目的は可能性の基礎、最終目的は現実存在の理由、究極目的は存在理由を有する存在。
    理性的存在としての人間だけが、存在理由を自らのうちに見出せる。しかし、幸福は形式を問えない、認識は究極目的たりえない。認識による反省的類比から規定される自然目的論では、創造者としての神は可能性としての臆見にすぎず、神学の基礎になりえない。創造行為の究極目的への問い、すなわち世界と人間の存在理由は、自然目的論が考えつくことはできない。
    究極目的は、実践理性の概念である。道徳法則の条件なき目的。自由が最高目的の内容を与える。究極目的は、道徳的存在としての人間。最高目的を自身のうちにもつ。最高目的は道徳的存在あるいは存在理由としての自由。この実践的合目的性と無条件的立法との絶対的統一は、道徳的目的論。神学が目的論を基礎にもつ(逆ではない)。反省的な自然目的論から、叡智的制作者としての神の物理神学へ到達することは、思弁的規定からは経験的条件内にとどまる。反対にアプリオリな究極目的の実践的目的論から、信仰対象としての神の道徳的神学へ向かう。神学の探究に向かわせるのは、自然目的論。道徳的神学は、理性の関心に従って物理神学に取って代わる。
    最後の問題、いかにして究極目的が自然の最終目的でもあるのか?言い換えれば、いかに人間が感性界の最終目的たりえるか?自由は道徳法則による目的を実現せねばならない。一つは神的条件としての理性理念の実践的規定、幸福と道徳性の一致としての最高善。もう一つは地上の条件としての美学と目的論における合目的性、感性的なものの高次の合目的性への適合としての最高善。自由の実現は、最大幸福と善の最高条件との結合としての最高善の実現。
    →道徳的最高善と自然目的論的最高善を自由によって実現。
    自由と最高善が現実になるには、人間の活動を要する。歴史こそが現実化。自然と人間の合目的的関係は、形式的には感性的自然から独立しており、この創始は完全な市民的体制の形成のことである。文化の最高の対象、歴史の目的、地上的な最高善。
    感性的自然では自らの最終目的を達成できないという事態は、超感性的自然の第一の狡知である。自然と人間能力の一致で偶然的なのは、最高の超越論的外観であり、狡知が隠されている。しかし、自由法則は自然を従属させない。歴史をそのように語るのは、出来事を理性による規定、ヌーメノンとしての個々人に存する理性による規定と考えてしまうこと。
    →ヘーゲルマルクス批判をカントを使って行っている。
    歴史が個人的意図になってしまう。感性界は、常に自然法則に従う。しかし、自然は人間の社会を創設する。自然の意図たりうる。歴史は個人理性ではなく、種の観点から判断されねばならない。第二の狡知は、超感性的自然が、人間の超感性的効果を受け入れるよう欲しているということ。
    ・訳者解説
    ドゥルーズは、1953『経験論と主体性』のヒューム論以降8年の沈黙があり、1961『ニーチェと哲学』刊行、翌年に『カントの批判哲学が出版された。その後、毎年単著を発表し、1969『差異と反復』『意味の論理学』へ辿り着く。本書は思考加速の頭に位置する。1963『無人島』「カント美学における発生の観念」では本書のエッセンスを凝縮したもので併読を勧める。その他1986『批評と臨床』「カント哲学を要約してくれる4つの詩的表現。
    本書の基礎は、ソルボンヌでのカント講義。初版にあった副題「諸能力の理説」は、ドゥルーズのカント研究の中心問題。本書は三批判を一つのシステムとして描き出したもの。非常にオーソドックスだが、読み方が二つある。一つはカント解説の教科書、もう一つはドゥルーズ哲学の一契機の証言。
    →前者は端的すぎ、領土などの用語から、後者として読むのが妥当といえる。
    ドゥルーズは三批判を一体と考えるだけでなく、悟性理性構想力を三項として批判ごとに認識欲求感情の役割ごとに変化する置換体系として捉えた。表象を軸に能力を二つの意味に区別する。表象の主客関係の認識、欲求、感情。表象の源泉として、直観の感性、概念の悟性、理念の理性。ドイツ語にはないフランス語的な表象の再定義、re-présentation再呈示、自己呈示を取り戻すこととドゥルーズは解釈する。表象は、呈示された多様の総合で、直観は総合される前なので含まれない。したがって、感性の受動的能力と、構想力、悟性、理性の能動的能力。ドゥルーズは一般的解説にあるような定言命法などには触れず、むしろ一般的には触れられない実践的関心における悟性の役割などに注目する。教科書として読むには異様で、ドゥルーズの独自解釈。教科書を書くために、三批判の解説として書かれたのではない。
    ドゥルーズは、カントの批判哲学の要石として共通感覚に注目した。能力の一致、共同作業。
    『純粋理性批判』における、カントのコペルニクス的転回は、主体の支配の主観的観念論ではなく、関係性全体が変化する経験的実在論である。物自体は実在するが、我々が認識できるのは現象にすぎないとする立場。主客調和一致ではなく、主体への客体の従属。ただし外部から内部にずらされただけともとれる。諸能力の一致へ収斂していく。
    『実践理性批判』における、カントの倫理学が斥けることを目指しているのは、感受的パトローギッシュ、病的、常軌を逸したという意味合いで非倫理的行為を表すもの。ただし、正常の対義語ではない。カントによれば、刺激を受けた行為、駆り立てられた行為は、すべてパトローギッシュ。正常とされるものも病的。カントの処方箋は、欲求能力の規定が、快不快ではなく、純粋形式表象、定言命法、普遍的立法であること。誰でも理性における内なる道徳法則の意識があるという事実。自身で規定する自律した理性的存在そのものが物自体。理性が命令し、悟性が合致するか判断する。道徳的共通感覚とは理性主体の理性悟性の一致。
    『判断力批判』では、道徳的共通感覚において、構想力が美や崇高を通じて、感性的自然が高次の合目的性を備えていることを教える。構想力によって、道徳法則が事実たりえる。
    →単に主観的原因性としての法則にとどまらず、現実の自然に道徳性を見出す。
    どうして共通感覚(能力の一致調和[の基盤])を形成することが可能なのかという起源は二批判では未解決のまま。判断力は立法するが、自らに対してのみであって、能力の一致としてのみ存在する。低次の形態とは、経験に依拠していること。高次の形態とは、認識は、アプリオリな総合的判断である理性推論。欲求は道徳法則による自律。感情は無関心な感情。無関心は、放心ではなく、あらかじめ目を向ける領域が決まっていない状態。認識は現象、欲求は物自体に目を向ける。美的判断は、個別的主観的だが、誰にとってもそうでなければならないという意味で、普遍的でもある。美的判断の逆説。感性的直観を、構想力が概念なしで図式化し、悟性の無規定なものと一致する。美的判断は、異質な能力が一致するという意味で、共通感覚の起源の鍵。美的共通感覚は、二つの共通感覚の基礎としてあり、能力一致の前提。
    では、なぜ美的判断を下す必要があるのか。崇高の分析論には発生の視点がある。美は構想力と悟性の一致だが、崇高は構想力と理性の不一致。脅威と威力により構想力の限界を感じ、理念の近づき難さを感じる。崇高という不快からの快。
    崇高の発生の原理を用意するのは理性である。自然は、偶然的に美的対象を差し出す。理性はそれに関心を持つ。美的判断は無関心だが、理性の関心によって我々は自然に向かう。美は、理性に促される。★
    能力の内的一致と、自然との外的一致が問題になる。いずれも偶然的。
    論点を整理すると、能力は一致、すなわち共通感覚で作動するが、『純粋理性批判』『実践理性批判』では一致を前提するのみで、発生や起源には触れない。能力は一致可能でなければならないから、『判断力批判』で美的共通感覚という能力一致の原型を描いた。その起源として理性の関心による能力と自然の偶然的一致を呈示する。置換体系は偶然によって支えられる。ドゥルーズはこのシステムの基礎となる一点を探し当てた。このことが、ドゥルーズ哲学形成の一契機としての『カントの批判哲学』である。
    ドゥルーズ『記号と事件』、カントについての本は、他の本と違い、敵について書いた本。
    國分功一郎の仮説では、ドゥルーズが、カントを現在の哲学のフォーマットを敷設した哲学と捉え、この枠を解体せねばならないと捉えていたとする意味で、敵である。ルクレティウス、ヒューム、スピノザ、ライプニッツはカント以前の可能性として論じられているが、『ニーチェと哲学』はカント批判の後継者、ベルクソンはカントの乗り越えとしての独自概念として描かれる。『カントの批判哲学』のような書かれ方は他にない。一つのシステムを基礎付けている点を、脱構築しているといえる。ドゥルーズの課題は、カント哲学の乗り越えである。本書は引用が多く、他の自由間接話法的ビジョンの引用の少なさとは異なる。カントの「想定」をドゥルーズはその「発生」を理論化しようとする。『差異と反復』におけるカント批判では、統覚が超越論的構造であるのに、自我という経験的領野で説明されて、超越論的なものとして想定されてしまうとする。『意味の論理学』では、フッサールとサルトルが、カントの経験的な統覚のイメージから抜け出ていないとする。個体と人称を前提してしまうが、基礎付けるものが、基礎付けられるものに似ていることなどありえない。
    →基礎づけるとは何か
    ドゥルーズは、個体以前、人称以前である特異性を、真の超越論的な出来事として捉える。ライプニッツの可能世界論を援用する。ルビコン河を渡るという出来事が、現実のシーザーを発生させた。出来事は個体に先行し、発生させる。ライプニッツ『形而上学叙説』、述語すなわち出来事。個体にはあらゆる述語が含まれている。この点は、ドゥルーズ『襞』に詳しい。ライプニッツは可能世界を、神の最善の選択と予定調和による現実世界の肯定にしか用いなかった。それは現実性と可能性でしか考えていなかったから。出来事-特異性の系列セリーによって超越論的領野を定義する試みは、潜在性の議論に取って代わる。ベルクソン潜在的。可能世界を、ライプニッツのように過去に見るのではなく、現在の潜在性として捉える。ベルクソン持続としての現在。潜在的多様態。人は休みなく変わっている。状態そのものが変化である。
    ドゥルーズ『無人島』「ベルクソンにおける差異の概念」、持続とは、自己に対して差異化していくものである。
    →柄谷行人、自己差異的な差異体系、ミクロな差異
    ドゥルーズの四区分、実在的\可能的、現実(動)的\潜在的。実在的は、持続を切断して凝固するもの、過去。可能的は、過去の可能世界。現実的は、持続としての差異化(潜在的多様態)。潜在的は、その生きたままの姿。潜在的なものの現動化こそが特異性であり、切断分割によって現動化したものはすでに構成された個体。切断分割の場を「内在平面」という。内在平面の理論によってドゥルーズ哲学は完結する。カントの超越・経験の前に、潜在的なものが置かれ、現動化の場として内在平面がある。ドゥルーズの新しい超越論的哲学。
    しかし、差異のみからなる多様態、潜在性は、内在平面という一者の優位ではないか。『カントの批判哲学』の新しい超越論的哲学は、内在平面は一者か、あちこちで発生が起こるのかという問題を提起する。『哲学とは何か』、内在平面は思考のイメージ。実際にはドゥルーズ一人で書いた本書は、わかりやすいドゥルーズ哲学として提示されているが、本書に委ねるのではなく、書誌全体で読解する必要がある。
    本書の三つ目の読み方は、第三章末と結論におけるドゥルーズがその後取り上げなかったテーマに注目すること。それは歴史の問題。ドゥルーズは本書で、内的一致の再導入を本質的でないとしたはずなのに、その後ドゥルーズ哲学としては維持したままになる。本書では本質的なのは外的一致の歴史である。カントにとって偶然的な自然と人間の外的一致は、完全な市民体制の確立として最高善。ヘーゲルの歴史理性の狡知とは異なる、カントの自然の狡知。
    狡知は二つある。第一に、感性的自然は、自ら最終目的を達成できないから、人間理性を目的に仕向ける。第二に、人間という種の発展は、個人には無意味に思われる。カントの能力理論の帰結としての歴史観、人類は進歩せざるを得ないが、個人の意図とは無関係。
    →アーレント、注視者の意味づけとしての歴史
    ドゥルーズはカントの[目的論的]歴史観について問い直すことはなかった。
    (誤植p237次第である→次第である「。」)

  • T.N

  • 難しくてよくわからん。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784480091307

  • ジル・ドゥルーズによるカント批判哲学の解体と再構成の試み。ドゥルーズの哲学史的著作の評判は、伝え聞く所では非常に悪い(あまりにも独自の解釈が目立つ)が、しかしこの著作はカント哲学の平明な教科書としても読むことが可能である。もちろん、諸能力が本性上異なるのになぜ働きにおいて一致するのか、というドゥルーズ独自の問いは、カントの著作を素直に読む限りではおそらく出てこない問題ではある。しかし、カントが、主観における物自体として、認識し得ないものとして措定した「こころSeele」もまた規定しうるものなのではないか、と考えたのは何もドゥルーズだけではなく、ドイツ観念論の哲学者みながそう考えたのである。その点で、ドゥルーズの問いは哲学史の伝統に則した問いであると言えよう。そしてドゥルーズの出した解答がその後のドゥルーズ哲学にどのような要素を孕ませることになったかについては、訳者による詳細な解説が参考になる。カンティアンにもドゥルージアンにも読んで貰いたい良著。

  • 図書館から借りた

  • ドゥルーズによる整理は圧倒的な冴えを見せているが、本書においては、彼自身のカント哲学に対する評価や独自の視点が前面に押し出されることは少ない。(不明)

    『カントの批判哲学』には、諸能力の構造論的な体系性と(超越論的)構造と発生を矛盾なく思考するという論点を、カント哲学そのもののなかに見いだそうとする企図がある。これは、60年代のドゥルーズを索引していた問題意識であるとともに、主著である『差異と反復』に結実する。この意味で本書はドゥルーズがカント哲学をどう理解し換骨奪胎することで自らの哲学を形成したのかを知るための手がかりとなるだろう。(小林卓也)

  • 超感性は原型であり、感性会は模型である。
    心の能力には、すべて関心を与えることができる。
    あらゆる能力の無規定で超感性的な統一、そしてそこに由来する自由な一致は、魂においてもっとも奥深いものである。

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著者プロフィール

(Gilles Deleuze)
1925年生まれ。哲学者。主な著書に、『経験論と主体性:ヒュームにおける人間的自然についての試論』『ベルクソニズム』『ニーチェと哲学』『カントの批判哲学』『スピノザと表現の問題』『意味の論理学』『差異と反復』『ザッヘル゠マゾッホ紹介:冷淡なものと残酷なもの』『フーコー』『襞:ライプニッツとバロック』『フランシス・ベーコン:感覚の論理学』『シネマ1・2』『批評と臨床』など。フェリックス・ガタリとの共著に、『アンチ・オイディプス』『カフカ:マイナー文学のために』『千のプラトー』『哲学とは何か』など。1995年死去。

「2021年 『プルーストとシーニュ〈新訳〉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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