- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480092724
作品紹介・あらすじ
「私は、あるいは草木の精ではないかと自分で自分を疑います」-植物へのあふれる愛情を背景に、碩学がおおらかに、またユーモアたっぷりに綴った、最晩年の随筆集。さまざまな植物について知られざる知識を語り、誤称を正し、また社会と植物のよき関わりへの夢をつづる。「東京全市を桜の花で埋めよ」「花菖蒲の一大園を開くべし」「熱海にサボテン公園を作るべし」といったスケールの大きな提案、「野生食用植物の話」「武蔵野の植物について述べる」などの興味深い知識満載の講演録、「植物と心中する男」など人生観を語る数篇、また自らの研究生活を振り返る「受難の生涯」などを収録。
感想・レビュー・書評
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植物学は図版で学びたい感。
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馬鈴薯の話が印象的だった序盤と、
後半は学術的な内容。
学術的な部分はイメージできなくて難しく感じた。 -
摂南大学図書館OPACへ⇒https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB99184598
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他の著作と重複する箇所もありましたが、学問を続ける困難さや厳しさを感じました。とはいえ文体が明るいので元気を貰えます。
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貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784480092724 -
★我が姿たとえ翁と見ゆるとも心はいつも花の真盛り/牧野富太郎
牧野富太郎は、今から150年前の1862年5月22日に高知県に生まれて55年前の1957年1月18日に94歳で亡くなった植物学者。
「私は植物の愛人としてこの世に生まれてきたように感じます。あるいは草木の精かもしれんと自分で自分を疑います。ハハハハ。私は飯よりも女よりも好きなものは植物ですが、しかしその好きになった動機というのは実のところそこに何もありません。つまり生まれながらに好きであったのです。どうも不思議なことには、酒造家であった私の父も母も祖父も祖母も、また私の親族の内にも誰一人特に草木の嗜好者はありませんでした」
どんな高学歴の研究者も由緒正しい研究室・大学も、好きの一徹にはかなわないということを身を持って証明した人とでもいうのでしょうか。
いったいどこの誰が、小学校を2年で中退した人に、ただ植物が好きなだけで採集・写生・観察を一途に続けてきただけで、世界に誇る研究という名に値する仕事ができるようになると想像できるでしょう。彼もそうですが、『昆虫記』のジャン・アンリ・ファーブルにしろ『動物記』のアーネスト・トンプソン・シートンといい、好きだからという独学の極みはすごい。
その植物を極めた眼差しは、ただ単に愛玩するだけにとどまらず、誰も見たことのない植物を観察し調べ上げてその知識を広く知らしめ、今までの通説の間違いを正し、そして人間/社会と親密に関わる植物との理想的な共生・夢を熱く語りかけます。
《東京全市を桜の花で埋めよ》
《花菖蒲の一大園を開くべし》
《熱海にサボテン公園を作るべし》
などという特大スケールの提案は、鎮守の森の喪失を危惧して神社合祀令に反対運動を起こし後の自然保護運動の先駆をなす南方熊楠にも似た文字通り《自然主義者》の面目躍如たるものだったと思います。
あるいはまた、牧野富太郎のやってのけたことを、学問とか研究と呼ぶことだけはやめてほしいと言いたくなるような、そう、彼の植物への執着は、もうほとんど何が何でも植物が好きで好きでたまらない、植物への情熱的な愛に満ちた行為で、余人が入る隙間のない固く強い絆で結ばれていることがわかるような、人間同士の愛に勝るというかそれを超越した究極の愛みたいなものを感じます。
私は、あるいは草木の精ではないかと自分で自分を疑います・・そうかもしれないと強く思います。