青色本 (ちくま学芸文庫 ウ 15-2)

  • 筑摩書房
3.67
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本棚登録 : 669
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  • Amazon.co.jp ・本 (212ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480093264

作品紹介・あらすじ

「語の意味とは何か」-本書はこの端的な問いかけから始まる。ウィトゲンシュタインは、前期著作『論理哲学論考』の後、その根底においた言語観をみずから問い直す転回点を迎える。青い表紙で綴じられていたために『青色本』と名付けられたこの講義録は、その過渡期のドラスティックな思想転回が凝縮した哲学的格闘の記録であり、後期著作『哲学探究』への序章としても読むことのできる極めて重要な著作である。

感想・レビュー・書評

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  • 巻末の野矢茂樹の解説がありがたい。まずこれを読んでから本編に挑戦。そして再度野矢の解説を読んだ。本編も何とか読み通せたし、ある程度理解できたように思う。本編を読んだことで得られた収穫は、ウィトゲンシュタインの思考の息遣いのようなものを感じ取れたことだろうか。粘り強く、というか、どちらかといえば執拗に思考実験を繰り返す。その様についていくのはなかなか大変だが、それだけに、ついていけたときには結構うれしい。内容的には、言語ゲームの序論といった感じ。

  •  初期『論考』の「世界ー言語並行論」に基づく意味論的発想を離れ、中期の「文法」すなわち規則を重視する立場から後期『探求』の「言語ゲーム」への移行期における、ウィトゲンシュタイン(LW)の講義の口述録。ここではすでに「言語ゲーム」という言葉は表れているが、あくまで中期LWの特色である「文法」「ルール」に重きを置いた考察がなされており、後期のようにそこに我々の生活があって初めて実質が与えられる、という立場は取られていない。野矢茂樹氏の解説によれば、あくまで「文法」内での語の使用のされ方に焦点を当て「あてがわれるべきものと異なる文法を適用してしまうことにより生ずる我々の誤謬を治癒しよう」というのがここでのLWの狙いだという。

     世界には数多の「文法」があり、そこでの語の使用は文法ごとに異なっており、恣意的ですらある。しかし語それ自体は共通して用いられることが多いため、我々は往々にして文法の適用を誤り混乱してしまう。LWは具体的な場面(有名な歯痛の例など)を挙げつつ、より混乱の少ない文法を提案するのだが、そもそもそのような混乱の根本にあるのは「一般名辞の意味を明確にするには全ての適用を通じて共通する要素を見つけねばならぬという考え」であるという。LWによればそのような要素は存在せず、あるのはただ語の使用によって付随的に浮かび上がってくる「家族的類似性」のみだというのだ。つまり語の意味というのは帰納的にしか把握できず、全ての語の意味を決定づける演繹の起点となるような「本質」など存在しないというのだ。確かにこの点からするとLWを論理実証主義者と呼びたくはなる。

     後半はLWを論ずる上で避けて通ることのできない「独我論」。ここでもやはり基本となるのは「文法」であり、独我論的語りを可能にする(強いられる)のは「私的言語」、ただ自分の経験のみを表現することにのみ適した文法を有する言語なのだと論じられる。この私的言語は、指示対象と記号の対応関係がその発話主体にしか検証できないため、トートロジカルな無内容を必然的に含む。これが独我論的語りにまつわる違和感の正体だというのだが、どうやらその治癒方法までは本書では明らかにされないようである。

  • [第6刷]2013年12月10日
    訳文は読みにくい、が、野矢先生の解説は分かりやすい。
    ネットで見つけた、別の訳を読んでみようと思う。

  • 後期ウィトゲンシュタインの思考の端緒。「語の意味とは使用である」という主張を掲げ、語の背後に何らかの実体を想定する本質探求を批判していく。語の意味は具体的実際的な語の使われ方にあるという考え方は今日様々な社会科学の基本的前提をなしているが、そうした「言語論的転回」の根源にあたる記念碑的著作。

  • 何年もほったらかしていたウィトゲンシュタイン。久しぶりに読んでみたが、実に分かりやすくなっていたのにびっくりした。用語の使われ方の多様性。使われ方そのものが大事、、、という論旨は実にシンプルで説得力がある。なのに、なんでこういう回りくどい文章を書くの?ウィトゲンシュタイン先生。

    僕も、「定義はできないけど例示はできる」という命題で文章を書いたことがあるので、しごく納得。それでよかったんだ。

  • ウィトゲンシュタインといえば懐かしい。『論理哲学論考』読んだのはもう20年位も前だったか。
    で、この本を買ってみたのだが、あんまり面白くなかった・・・。
    この「言語へのこだわり」が結局どこへ向かうのか、それが見えなかった。しかも、文章が体をなしていない。本の成立事情からやむをえないのだろうが、訳者が大量に補足を加えなければ意味が通じない文章。
    ラッセル系の分析哲学なので、「言語」に関する省察も、ソシュールや構造言語学とはまるで関係がないように見える。
    このスタンスは・・・自分には今回はちょっとなじめなかった。

    ウィトゲンシュタインの『哲学探究』は抄訳しか持ってないので、完全版を読んでみたいな・・・。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/738196

  • 確かに読みにくい本だが、ウィトゲンシュタインが事例として挙げる問題を自分なりに丹念に追いかけていくとそれらがけっして浮世離れした次元の話ではなく、むしろ私たちの住む平凡な日常とつながっていることがわかる。なぜ私の発する言葉が通じるのか。なぜ人の感覚を私たちは言葉を通したことで理解に至るのか。系統/筋道がはっきりせず、思ったことをつらつらと書きなぐっているような中身に辟易するのもわかる。しかし、別の言い方をすれば思索/思念の動きが実に生々しく捉えられる1冊でもあるとも思う。もっとゆっくり読むべき1冊なのかも

  • ■0977 2019年06月02日。一読。

  •  『論考』から『探求』に移行するまでの間に記されたWittgensteinの後期思想への入り口的な著作。Wittgensteinがケンブリッジ大学の少数の学生に口述した内容を元にしており、Wittgenstein自身の生々しい哲学的思考の軌跡をありありと見て取ることができる。
     ここでのテーマは一貫して「語の意味とはなにか」ということであり、本は「語の意味とは何か」という文から始まる。ただ、この意味についての議論は、錯綜を極め、「望む」「期待する」「欲求する」という語を検討し始めたかと思うと、「知る」「推測する」という語について論じ始めるなど筋を追うのが難しい。本の最後は後期著作の大きなテーマとなっていた私的言語論の話題であり、「私は歯が痛い」という文を例にとり、独我論の論駁に費やされている。全体でいうと、前半は心の働きとされる諸概念にまつわる哲学的困惑について、後半は言語を通じた他我問題、独我論について論じている。
     Wittgenstein自身のその解決法としては、日常言語の観察を主としている。日常での言葉の用法をつぶさに観察し、哲学的な用法での言い回しと日常言語との「文法」の相違に気付くことによって哲学的困難を解決しようとする。この本では、その実践をいやというほど目の当たりにできる。
     後期の主要なテーマとなるアイデアが随所に現れており、「言語ゲーム」や「家族的類似性」「意味の使用説」(と我々が呼ぶ立場)、「意味の心像説批判」(と我々が呼ぶ立場)、規則順守のパラドックス、についてその思索の原型を眺めることができる。そして、この本では、これらの問題はすべてつながっていることを感じることができる。

    ___________

    ずっと読んでいると船酔いのような気持ち悪さがある。野矢茂樹の解説がなかったらちんぷんかんぷんで終わるだろう。むしろ、解説から読んだ方が良い。

    だが、これをここまでの読める文章にした大森荘蔵はすごい。文中の訳者挿入にかなり助けられている。

    Wittgensteinはいろいろあれがだめだ、これがだめだと言うけれども「本当にそうなのか?」という気持ちになる。これは私の理解がまだ生半可なのだろうが、「文法」が本当に異なっているのか? それを取り去ってもなお、哲学的困難は消えないのではないか? 意味については比喩や像を通すことによってしか得らず、把握できない意味があるのではないか? みたいな気持ち。何をそんなに目くじら立てて怒っているのかがよくわからない。細かいことをぐちゃぐちゃうるせえな、こいつは、みたいな気持ちにもなる。これは私に哲学をやるセンスがそもそもないかもしくは、この哲学的困難が私にとっては追求したいテーマではないのかもしれない、ということなのかもしれない。いや、「たしかにこいつの言うとおりだな」と思う箇所ももちろんあるのですが。赤色をイメージしろの話とか。規則順守の話とか。

    というか、たびたび目にするWittgensteinから哲学的立場を取り出してはいけない、というのがやはりよくわからない。野矢自体は解説でそれは役に立つしありだと思う、って書いているがそもそもなぜだめなのかがよくわらかない。哲学的治療であることと哲学的立場を認定すること(表明すること?)は両立するのではないか?

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著者プロフィール

1889年、ウイーンに生まれる。1912年、論理学を哲学的に研究するため、ケンブリッジ大学のバートランド・ラッセルをたずねる。1914年、志願兵として、第一次世界大戦に参加。1922年、生前に出版された唯一の哲学書となる『論理哲学論考』を刊行。1945年頃、後期の哲学とされる『哲学探究』第一部の最終版を作成。1949年には『哲学探究』第二部を作成。1951年、死去。20世紀を代表する哲学者であり、また、現代哲学の最重要哲学者の一人であり続けている。

「2016年 『ラスト・ライティングス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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