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- / ISBN・EAN: 9784480093394
感想・レビュー・書評
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民俗学をなぜ今学ぶのか、納得できる一冊。
副題で「差別の文化的要因」と書いてある通り、今なお存在する差別(人によっては差別とすら思っていないかもしれない)がどのようにして発生、変遷しながら現在に至るのかの考察を丁寧に行っている。
性差別の原理の部では、「ケガレ」という言葉の意味がもともと何を表すものなのかを分析、考察しながら「女性はけがれている」とは本来どうして発生したかアプローチを試みている。すると現在神社の行事や相撲などでみられる女性忌避は「本当にこれは「伝統」なのだろうか」という疑問がわく。
汚いとか、現在の意味での穢らわしいという意味ではなかったと推察されるからだ。
食肉の忌避や皮剥ぎ、エタ・ヒニン間の信仰など、現在根強く残る差別問題を取り組むにあたって、当時の文化的背景や発生原初について学ぶことの重要性を実感できた。
また、創作の元になるような民話、奇祭独特の信仰や習俗にはそのウチのものだけが知る隔絶された歴史があるかもしれないと思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
SDGs|目標10 人や国の不平等をなくそう|
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/738155 -
ケガレとか祓え、日常に続く非日常について
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2010-12-23
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従来の民俗学でタブーとされていた領域に、若き日の宮田登氏が取り組んだ力作であり、私にとってあまりにも興味深いテーマを扱った一冊。
白山信仰に性差別(穢れに関わる)。ケガレとは「ケ枯れ」が起源だ、とはよく聞いた話だが、それが「ハレ・ケ」とどういった三者関係を結ぶのか、なぜそれが「汚穢」としてのケガレに結びついていったのかなどなど、著者渾身の論文が並ぶ。
著者がご存命の頃、私の目はたぶんまだ曇りっぱなしだった。差別とはどこか言葉の上のもののような感覚で捉えている甘い奴だった。
もっと早くにこれら民俗学の仕事に出会っていれば少しは違っていただろうか。いや、これからでも遅くない、見えないけれどそこに確かにある、これらの現象に改めて向き合い考えることを続けていこうと思った。 -
面白いが読みにくい、暇な時に読もう
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本州では被差別部落というものが昔あって、その名残とかあるらしいのだけれども、わが北海道では、それはない。倭人によるアイヌの蹂躙、その後のアイヌの人びとの被差別については、北海道ならではの問題とは言えるが、この本が語っているような、異民族間ではない・民俗文化的なレベルでの差別問題に関しては、北海道出身者の私にはどうもぴんとこない。そういえば、そもそも北海道(の倭人の)民俗伝承ってのも、あまり古いものは残っていない。
被差別部落(エタ・非人等)について知りたくなったのでこの本を読んだのだが、実はそのへんの具体的な実情についてはあまり詳しく書かれていなかった。
ケモノの皮を剥いだり、死体の処理をおこなったりする人びとが差別されていったようだが、この本が触れているのは彼らだけではなく、柳田国男が「非常民」として排除してしまった人たち全般にさえ、論述対象が広がってゆく。
最終的に、ケガレ=気枯れへの特別視が、白山信仰のような「再生」の思想と結びついている、ということらしい。
だがこの宮田登さん、木訥な語り口で、文章はうまいとは言えない。なんとなく読後は茫漠とした印象。
しかし民俗学自体は好きなので、こういった本もまだまだ読んでいきたい。