増補 広告都市・東京: その誕生と死 (ちくま学芸文庫 キ 17-1)
- 筑摩書房 (2011年7月8日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480093820
作品紹介・あらすじ
「私を見よ!」と主張することなく、自らを不可視化して「見ずにはいられない」世界の枠組みを巧みにつくりあげてきた80年代広告戦略。パルコを中心に渋谷を演出した西武の展開や、資本という「リアル」を隠蔽したディズニーランド等の構図に見られるように、それは街全体を"広告"と化すことにより、消費社会を駆動させてきた。この戦略が崩壊するとき、我々の身体には、アイデンティティには何が起こるのか。"広告‐メディア‐消費社会"のトライアングルの変遷は何をもたらすのか。現在の社会状況の変化に鋭い問いを投げかける補遺つき。
感想・レビュー・書評
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北田先生の本は、「嗤う日本の『ナショナリズム』」以来の2冊目。
広告と都市
メディアと人
ここら辺のテーマは学生時代から関心テーマの一つではあったんだけど、
今曲がりなりにも仕事として広告に携わるようになってから、
広告やメディアを社会学的な観点から考えなおすとまた面白い。
広告都市としての東京、特に渋谷の話は、
個人的には全くリアルタイムでないどころか、
東京で働くようになった現時点でさえ完全に縁遠い自分にとっては、
(まさにただの情報アーカイブでしかなくて、渋谷でなくちゃいけない意味を感じたことがない)
はーそういうものだったのか、というぐらいの歴史物語でした。
そういう「広告都市」の流れを知ることができたこと、
その時代における消費社会論や(文化)記号論の態度を知れたこと、
この2点は知識として読んで良かった。
考えるべきテーマとしても面白かったのは、
広告とは本質的にメディア寄生性を持つものである、という点。
いや、これはテーマというより前提なんだけど。
補遺でインターネットにおけるコミュニティについても触れられていたけど、
その進化、深化について考えたり、
またはソーシャル化(ソーシャルメディア)というテーマを考えるのも面白い。
ソーシャルメディア上での広告、マーケティングのあり方、
それに対する個人の受け止め方、
企業と個人の関係性について、
などなど。
ここら辺考えてみようと思うけど、
その前にもっかい記号論ちょっとだけ勉強したい。
あ、でもその前に「オトナ帝国」もっかい観たくなった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
北田さんは、東浩毅氏との対談で知った気がする。
職場で、都市論を探していたときに、偶然本棚から発見。一度読んでみたかった。
広告論とかメディア論とか難しく語っているが、渋谷の盛り場論として理解できる気がする。
①1980年代までは、西武が西武百貨店からパルコまでを道路や周辺の土地利用も含めて、劇場化して、人を呼ぼうとした。それにつれて、東急も道玄坂側で頑張った。
②しかし、1990年代のバブルがはじけてから、そういうまちを劇場にして、一定の雰囲気をもった商業展開は、商業資本側の弱体化もあって下火になった。
③しかし、今でも、渋谷は、若者たちには、便利なまち、特別ではないけど、行けば何でもそろうまちとして人気を持っている。
自分は、1980年代の西武系の人たちの熱気のこもった雰囲気を知っているので、ああ、バブルだったんだな、今の方が渋谷もわかりやすいなと思う。
これから、駅の再開発など周辺開発が進むと、東急のイメージが渋谷は前面にでてくるような気がする。 -
■一橋大学所在情報(HERMES-catalogへのリンク)
【書籍】
https://opac.lib.hit-u.ac.jp/opac/opac_link/bibid/1001045858
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秩序の社会性から繋がりの社会性へ
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【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/738151 -
1980年代とポスト80年代の広告と都市のあり方を対比的な枠組みの中で比較検討し、消費社会的な感性の変容について考察をおこなっている本です。
著者はまず、ジム・キャリー主演の映画『トゥルーマン・ショー』を読み解きつつ、広告が差異を創出することで資本主義の運動を絶え間なく駆動させていくような性質を持っていることを指摘し、そのことが映画の中で「シーヘヴン」という自己完結的な空間を維持することを不可能にしたという解釈を示しています。
80年代の消費社会を領導したパルコに代表される西武セゾン・グループのイメージ戦略においては、そうした広告の持つ運動性を都市計画の中に文化的な意匠として取り込むことがめざされていました。これによって、あらかじめ一定の計画のもとに設計された都市空間を逸脱していく広告の運動が、「広告=都市」という形でキャナライゼーションされることになります。80年代の渋谷の街を歩くことは、消費社会的な主体としてみずからの欲望を水路づけることにほかなりません。著者は、こうした広告=都市が批判という外部を持たず、むしろ消費社会に対する批判的言説でさえもたちまち広告の有効な戦略として機能してしまうことを指摘します。
ところが、こうした文化的な都市空間としての渋谷のイメージは、80年代末頃から退潮を示すようになり、やがて情報量のアーカイヴの中で、相対的な優位を占める都市にすぎないとみなされるようになります。こうした「脱舞台的なまなざし」を持つ新しい世代の若者たちの行動を考察するに当たって著者は、ケータイによって「つながっていること」そのものが重要とされるようなコンサマトリーなコミュニケーションのあり方に注目します。渋谷という現実の空間も、他者との「つながり」を確保するための素材(ネタ)でしかありません。著者はここに、消費社会的な感性の大きな変容を見ようとしています。 -
[交換の動機付けとなる欲求を自己創出する動的システムを産む広告の存在価値は、資本の論理において自明である。広告は脱文脈性を持ち、人の心をマッサージするためにメディアに寄生する。
80年代渋谷においては西武における都市=広告化が進んだ。街をつくり文化を形成することで、そこを通る人々に「この街に似合う人間にならねばならない」と思わせる。
文化という大前提を作ることで、広告の存在を幽霊化させたのだ。
パルコ界隈、公園通りを中心に、意識的無意識的関わらず多くの店舗が共犯となり、記号論的に渋谷らしさを追求した。
その結果、消費社会論的には外部から隔離されたシミュラークルが生まれたと言える。
このシミュラークルは映画トゥルーマンショーやディズニーランドにも当てはまる。
資本の論理のピラミッドの頂点にある資本は不可視化し、シミュラークルの外側も見えなくなる。ただオリジナルなきコピー達のみが比較の対象となる。このシミュラークル主体的に追従する主体の塊によって成り立つのである。
しかし、80年代を過ぎ渋谷シミュラークルは崩壊した。
渋谷の特別さは失われ、渋谷は猥雑で好きではないと答える若者が増えた。
文化の陰に隠れていた広告はQFrontなどで大々的に姿を見せ始めた。
この崩壊は、携帯ネットワークが原因であると考えられる。
秩序の社会性よりも繋がりの社会性が重視されイマ=ココは繋がりのための単なる情報でしかなくなった。
マスメディアの一方向性のつよいコミュニケーションではなく、個々人の繋がりを求めるコミュニケーションが若者の間で重要性を増した。
しかし、脱文脈性を持つ広告はメディアに寄生し姿を変える。資本の論理に基づき我々の心をマッサージしてくる広告を知り、その実態を理解し利用することが必要である。]
糸井重里氏の名コピー、西武の「おいしい生活」が提案するような80年代渋谷広告=都市戦略の盛衰は、もはや広告が入口となっている渋谷しか知らない私にとって興味深かった。
2002年の著書であるため、SNSではなくメール、電話のみのケータイが繋がりの社会性を重要にされたものだと書かれている。
ケータイの進化やSNSの登場でより繋がろうと思えば多くの人といつでも繋がれる状態、またいつでも繋がれるのに繋がれない状態が可視化されてしまっている現在は更に社会性のバランスが変容しているように思われる。
広告在り方も様々に変容していくだろうが、世界的不況が続く昨今資本は可視化されていくのか不可視のものとなるのかが課題であるように思われる。
あと個人的にタイトルは東京ではなく渋谷の方がよいのではと感じられた。各地方都市でもシミュラークル的な区画は存在していると思われるが、そのシミュラークルがどこにも増して神格化されたのは、資本の集中した東京だからこそであろう。 -
広告それそのもののことではなく、それをテーマに都市と社会を書いた本。2002年発刊のものを文庫化しているが、ちょうど読み時という感じがした。増補で触れられている昭和への憧憬については、まさに数日前の野田総理の発言とリンクしている。
これからの広告と社会の関わり方や有り様、モバイル端末が普及した社会についてとか、SNS/SMOなんかのことを考えるときの足がかりになると思う。
本編は映画「トゥルーマンショー」、増補は映画クレヨンしんちゃん「オトナ帝国の逆襲」を据えて論が進む。未見の方は読む前に見たほうがいいかも。