差別語からはいる言語学入門 (ちくま学芸文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
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本棚登録 : 158
レビュー : 13
  • Amazon.co.jp ・本 (219ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480094629

作品紹介・あらすじ

片輪、めくら、特殊部落…。公には使ってはいけないとされるこれらの言葉。しかしなぜこれらは「差別語」であり、使用する側にもされる側にも、そう感じさせるのだろう?例えば「屠殺」の場合、生きているウシと食材としてのギュウという二つの言葉を用意せずにはいられなかった私たちの感覚に、問題を解くカギがあるのではないか。自ら公の場で使用し、糾弾された経験を持つ著者が、一つ一つの言葉が持つ文化的背景などから、差別語の差別語たるゆえんを解読。避けて通ったり排除したりするだけでは何の解決にもならない、日本語の、日本社会の根本問題に取り組む。

感想・レビュー・書評

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  • 差別語ができた経緯や、それが差別となった背景などを通して、人間の生活や文化の推移やモノの見方を分析する。

    単にモノを指す言葉だったのが差別用語となったのには、人の観点の問題ということで、言葉は人間が作ったのだから、人間により徐々に変わってゆく。その経緯で人の争いや差別化が生まれてゆく。

    著者の主張は「言葉の由来は音で分かる」ということで、漢字より平仮名や片仮名表記が多い。
    例えば「男・女」と書くより、音で「オトコ・オンナ」とすると、古い段階の「ヲトコ・ヲトメ」が浮かび上がり、「ヲト」をついとして、オス・メスを表す「コ・メ」が付いたと言葉だと分かる、という感じ。

    昔人が自分で動物を食用にしていた頃は「しめる、ほふる」だったのが、肉を加工する人と食べる人が分かれた事により、「とさつ」ができて、「生きたカウ」と「食べるビーフ」と言葉が分かれた。

    終盤に書かれた、裁判での言葉による印象操作(結果的には)の経緯は興味深かった。
    ある男が会社に豚の頭を持って抗議に行ったところ脅迫罪で訴えられた。
    家畜解体の仕事をする男にとって、豚の頭は日常品。
    この豚の頭を最初は「豚の頭」「豚の首」と言っているのが、会社側が「豚の生首」などと残酷性を感じる言葉を使った(会社側からすればまさに「切り落としたばかりのナマクビを持ってきた」という正しい表現なんだろうけれど)。
    それに被告側も合わせて「はい、豚の生首を…」などと答えてしまった。
    それにより被告側の残虐性が印象付いてしまった。
    …というように、言葉により印象が変わってゆくそのさまが書かれていて非常に興味をそそられた。

  • これは、読んでいてワクワクする刺激的な本。

    著者は、「ことばの歴史は、ことばが誕生して以来、ずっと権力闘争の歴史であった。」(P197 )という立場から、差別語糾弾運動を「言語の問題で、人民が自己主張を示した、日本語史の上でまれな経験だった。」(P76 )とし、漢字語の多用は、「ことばの民主主義に反する度合いがより高く、ことばの使用に関するサベツを助長するおそれがある。」(P49)と反漢字的立場をとる。
    ただし、現在の差別語糾弾運動は、反民衆的であり、国民運動にもなりえておらず、サベツ文字である漢字の多用という点からみると、エリート的である、と批判している。

    ヤマトコトバは「いつも低い、俗な文脈で用いられ、高級な文脈には外来なものが用いられる。」(P64 )という。外来なものとは、漢語であり、外来語のこと。
    たとえば、コンビニ強盗に入った犯人は「三十ぐらいの覆面をしたオトコ」であり、男性とはいわない。

    ・・・なるほどね。「カタテオチ」や「トサツ」に関する考察など、うなる。
    そして、第12講の「豊橋豚のナマクビ事件の巻」。
    「豚のアタマ」「豚のクビ」だったものが、「豚のナマクビ」と呼ばれ、弁護側もその言葉を使うことで、事件全体のイメージが変わっていく様子がスリリング。
    この攻める側も防ぐ側もまったく自覚的でないこのことが、「じつは文学は、こうした戦術を用いて、読者を作者の意図する方向にさそい込み、そこから出られないようにことばでしばってしまう方法に満ちている。」(P161)という。

    からだに備わった機能としてのことば、という概念も示され、おお、「虐殺器官」のあれか、と思ったり、ソシュールとかの言語学/記号論をかじった者としては、刺激的なネタがいっぱい。

    権力側の差別語を跳ね返すヒントは、
    「蔑称がコンテキストを失い、あるいはコンテキストが異なる解釈を受ければ、それはもはや蔑称でも差別語でもなくなり、逆にほめ言葉に転化することさえある。」(P43)
    にあるのではないだろうか。

    最近、仕事をしてて「あの人はヘンタイだから」という言葉を聞いた。ああ、そうなのね、と思ったら、「こだわりのある人」を指すほめ言葉になっているようだ。
    糸井重里の「ヘンタイよいこ」により「変態」が「ヘンタイ」になり、その意味はさらに変化していくのだなあ、とおもった。って関係ないけど。

    方言を追放し、標準語による日本語の中央封建化については、奄美大島出身の父が、
    「本土に行って対等に渡り合うために、学校で標準語を学んだ」という言葉を思い出した。

  • タイトルと装丁に惹かれて読んでみたけど、なかなかおもしろかった。著者の熱さが素敵!
    最近は言葉狩りじゃないけども、SNSなどですぐに「炎上」→削除、謝罪みたいになって、無難な表現を〜みたいになってる気がする。
    ので、改めて自分の発する言葉にしても、自覚と責任を持たなくちゃだなあ。

  • 田中克彦の名にはじめてあたったのは、図書館をうろついてゐて「スターリン言語学」精読 (岩波現代文庫―学術)をみたときだっただった。ソビエト思想からとおくはなれた年代のわたしには、「スターリン言語学」といふとりあはせが奇妙にみえて、印象に残った。その本は読まなかったが、後日にエスペラントの興味から田中克彦のエスペラントにかんする新書を読んで、なんだこのバカ者は、とおもうた。こいつの脳内には文学をつくりだしてしまふ人間といふものの精神も、日々日本語をはなしてゐる人々の意識もなにもねえじゃねえかといふのがわたしの感想だった。

    cf. 田中克彦『エスペラント ――異端の言語』 - 文学的悦楽 #book http://c4se.hatenablog.com/entry/20100518/1274160210

    先日漢字が日本語をほろぼす (角川SSC新書)といふ本でまた田中克彦の名をみつけたから、ちょうどわたしの現在の興味にもあってゐるし、いっちょこの著者をやってしまおうとおもうて読み、考へをかへた。わたしは漢字をとくべつ擁護する気もまるごと否定する気もないが、著者の観点はほかにないもので考察にあたいすると考へることにした。その書のなかで「評判がよかった」と紹介されてゐた差別語からはいる言語学入門 (ちくま学芸文庫)を偶然に文庫でみつけたので、読んでみたところだ。
    田中克彦の言語思想には、言語は現実にも意識にも直接ではなく、その双方にたいして関係であるといふ思想はない。言語の権力を〈言語学〉といふところでかんがへることができるのが田中のすぐれた点である。しかし田中は言語の現実と意識への直接性を無意識に信じてゐるから、〈言語学〉の外にでるとただの愚痴おやじである。ほんたうはこの一点でもって田中の〈言語学〉をすべて否定してしまってもいいのだ。民衆ただひとりといふ視点なしに言語の権力を比定し理想をつくれるものならやってみやがれ。わかりやすさを擬裝してひろげてみせる散文よりも、詩の隱喩の一語のほうが、はるかにひとびとにわかるといふのはあるのだ。もちろんわけもわからぬ喩に身を隠してかざった詩よりも、ひとつひとつの足運びを丹念にたどった散文のほうが、よりよく現実をみせてくれることもあるのだ。だが言語と〈言語学〉の社会性を、ただひとりでひろく体系的に考察してきた田中の功績は消えはしない。「言語は社会的だ」とさえずっておけば言語を考察したことになるちゃちな哲学者どもといっしょにできるものではないのだ。また日本をふくむ東北アジアの人々への田中の無意識なやさしさをかんじられれば、「愚痴おやじ」の顔もふくめてわかったことになるとおもふ。

    From: http://c4se.hatenablog.com/entry/2015/01/23/012218

  • 差別語にまつわるさまざまな問題を、言語社会学的な観点から考察している本。

    著者は、差別語糾弾運動に対するいくつかの批判を取り上げて反論をおこなっている。第一は、言葉を変えても現実が変わるわけではないというもの。第二は、言葉はその共同体にとって中立の道具であるというもの。そして第三は、言葉は公共のものだから、一部の勢力の圧力によって変えられてはならないというもの。この三つの批判は、たがいに密接に結びついている。だが著者は、言葉の現状はたえざる矯正の結果作り上げられてきたものであるということを考えるならば、現状の言葉遣いを「自然」なものとして承認することはできないと論じている。

    だがその一方で、差別語糾弾運動の方にも、重大な問題が残されていることを著者は指摘する。それは、特定の語を差別語と指定して排除する運動は、現状の言葉遣いを矯正によって作り上げてきた手法と同じだということである。著者は、差別語糾弾運動が、日本の近代化における中央集権主義のもとで推し進められてきた方言撲滅運動と同じ色合いを帯びていると論じる。差別語糾弾運動と方言撲滅運動の両者を培った共通の土壌としての、言語と社会との密接な結びつきに目を向けることが求められなければならないというのが、著者の立場である。

    こうした立場に立って、いわゆる「差別語」だけではなく、言葉と差別の問題について深く考察を展開している。

  • 語り口が緩く、半分エッセイのような感じですらすら読めますが、後半のブタのナマクビ事件はハッとしました。

    おそらく、多くの差別語と呼ばれるものでもその要素の全てが差別的ではなく、ある要素のくみ取り方の問題ではないでしょうか。
    例えば文学者はそれ以外の要素の煌めきを求めてその言葉を使ってしまう。難しいのはその言葉の差別的な側面を敏感に汲み取る能力とポエジーの読解は同一の技能の裏返しなことでしょう。(ただそれ以降にその言葉を否定する群衆の多くは音声と記号の合致からの脊髄反射でしょうが)

    前述のブタのナマクビ事件においても、差別があると思われたところにはこれといった差別はなく、それ以外の言葉の節に差別的ニュアンスがあり、しかもそのことに誰も気がついていないことは衝撃でした。
    しかし、気がつかなかったから良いという事にはなりません。それは発話者でも聴衆のものでもなく、日本語が築いてきた文脈に依拠するものであり、繰り返しになりますが、そういう要素こそポエジーなのですから。

    そういうことに気がつかせてくれるという点で、この本は紛れもなく言語学入門の良書でしょう。

  • ・田中克彦「差別語からはいる言語学入門」(ちくま学芸文庫)はおもしろい。実を言へば、まだ半分も読んでゐない。それでも本当におもしろいと思ふ。ただし、これが言語学の書として、特に入門書としておもしろいかどうか、よく書けてゐるのかどうか、この点は分からない。私だとて言語学的な内容に関心はある。差別語に関する諸々を知りたいとも思ふ。実際、さういふことが書いてある。ただ、本書を読んでゐると、どうしてもこの著者田中克彦といふ人が、そんな内容より先に私に迫つてくるのである。文は人なりといふ。本書は、いや田中克彦の著作はなべて正にそれである。文体や内容、そこに含まれる思考方法等等、さういふものが見事に田中克彦である。私はこの人の不熱心な読者でしかないから、この人の著作をほんの数冊しか読んでゐない。それでもそのいづれにも紛れもなき田中克彦が存在してゐるのに気づく。これがおもしろいのである。本書第6講までは『小説トリッパー』に連載されたといふ。第7講、第8講はその編集部から突き返された。そこで以下は他の雑 誌に連載された。「私としてはいよいよ論佳境に入った、悪くないできだと思っていた(中略)やっと、この第8講で、いくぶん『説得的』になってきたのではないかと思っていた」(76~77頁)といふのにである。佳境に入らうとするところで掲載を拒否された、その理由など私に分かるはずもない。ただ、想像をたくましくすれば、「論佳境に入った」がゆゑに、あまりに田中克彦的になり、それが鼻についてきたからだといふことではないかなどと思ふ。もちろん、これ以前も十分に田中克彦的だつたので、掲載拒否は単なる編集部の言ひがかりでしかなかつたのかもしれない。いづれにせよ、天下の大『朝日』ともあらうものが、このやうな論考を拒否するとはである。つまり、本書はそれほどに田中克彦なのである。
    ・例へばこんなのがある。蔑視語「はりこのとら」に関して、「くりかえし私が愛読していた、そしてまた、今でも折にふれてとり出して眺める、中国人民解放軍総政治部編『毛沢東語録』にあった、『帝国主義とあらゆる反動派は張子の虎である』というあの第六節を思い出した」 (43頁)と書く。かういふ形で毛語録を出せる日本人はあまりゐないのではないかと思ふ。文化大革命の頃ならいざ知らず、当世、中国での毛語録はどうなつてゐるのかと思つてしまふほど、中国自身が帝国主義、拡張主義になつてしまつた。本書元版は10年ほど前の刊行である。 かうなりつつあつた頃である。信念の人だからこんなことも書けるのである。この少し前にはかうある。「『かわりもの』、『ばか正直』、 『世間しらず』などは、私には蔑視どころか、私のようにたいへん気高い精神の持主に対するほめことばのような気がする。」(同前)痛烈な皮肉だが、もしかしたらまじめな本心かもしれないと思はせるのはさすがである。この人はかういふ人なのである。更に、私の関心あるものを 捜すとこんなのがある。漢字についてである。「考えてみれば、それはひどく頭の悪いめいわく文字なのである。」(48頁、「めいわく」傍 点付き)さう、迷惑なら使ふのやめたらと言ひたくなる。この人、実際には、本書でも人並みに漢字を使つてゐる。完全仮名書きにして漢字を捨てるつもりはないらしい。「十世紀の日本で、女たちが、かなもじだけで、どれだけ豊かな愛の表現技術を獲得したかはいうまでもない。」 (49頁)これは皮肉ではなく本心であらう。さう分かつてゐても、漢字を捨てられないらしい。これもまた信念、かういふのは鼻につくが、 おもしろいこともまた確かなのである。

  • 2012-6-12

  • さすがです、田中克彦氏。とても分かり易い。そして納得できる説明だ。表面的な、ヒステリックな「差別語」の扱いを退け、その本質を突いている。読むべき一冊だ。

  • 真面目な言語学研究のなかに、毒舌がちょいちょい出てくるのが、小気味よい。難しくなりすぎず、ぐだけすぎず言語学に触れ合える。面白い。

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著者プロフィール

一橋大学名誉教授

「2021年 『ことばは国家を超える』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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