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- / ISBN・EAN: 9784480094698
感想・レビュー・書評
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この本の中でラ・ロシュフコーの「省察と箴言」について記述があった。
「気前がいいというのは、大概は与える虚栄である。与える物よりも虚栄を選ぶというだけのことである。」
「虚栄が喋らせないと、人はほとんど喋らない。」
「人は一般に、悪意よりも虚栄のために悪口を言う。」
ラ・ロシュフコーの、人間の虚栄についての箴言。まさに若い頃の私に説教しているかのごとく、胸に刺さる。
「虚栄が喋らせないと、人はほとんど喋らない。」とは、要するに自慢話しかしない人のことを指摘した言葉だろう。確かにいる、こういう人。2,3年前に一緒に仕事をした人がこんなタイプだった。そういえば彼は悪口をたくさん言っていた。次から次へと自慢と悪口が口を衝いて出る。裏では私の悪口も言っていたようだ。
自分に自信がないのでしょうね。そう考えるとなんだか少し悲しくなってくる。だって、自慢と悪口でしか自分を飾れないのだから。
まあ、それにしてもラ・ロシュフコーの人間に対する洞察はあまりにも冷ややかで、ちょっとニヒリズムが過ぎるなあとは思います。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
私には全く古典は向いていないことを再認識した。
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串田孫一、三冊目。
古典と一口にしても、ヨーロッパ、中国、日本と多岐に渡って紹介されている。
パスカル、デカルト、ショーペンハウアー、吉田兼好、孔子などなど。
名前は知っている!という人たちがズラリと勢揃いしているので、斎藤孝の『古典力』と併せて読むと良いのではないでしょうか。
読みやすいようで頭に入って来なかったのだけど。
鴨長明や吉田兼好を挙げて、世捨人の覚悟についてはなるほどな、と考えさせられた。
普遍的な魅力があるから、生き残ってきた書物なのだけど、時代や生き方が彼らをそのように思い至らせている。
過去が必ずしも劣っているわけではないということは、様々な文章で読んできた。
それでも、人として何を思い考えるのかを、これだけの人が人生を賭して残してきた重みがあるなぁと感じるのである。
そうした書物を紐とかなくては、また、見えないこともある。
膨大な古典の中で、何から触れるかというのは、こうした作品が一番優しく教えてくれて、便利。 -
真の知識を得るための好奇心がなければ人類の進歩はない。
好奇心と目的を誤ると他人のあらさがしになってしまう。
人は次々に新しい問題に直面している。その新しい問題を乗り越えるには、何か特別の新しい知識が必要であるかのように思いこみがちであるが、品源の本質に対してなぜか自ら目を覆っていることが多い。ただちに役立つ手段を焦って考えようとしてしまって失敗している。 -
多くの古典を、著者や当時の時代背景などに触れながら紹介している。
古典から学べる普遍的な事項を現在にどう活かすか、当時と現代の違いを勘案しつつ読むことが大切だと説かれている。 -
平易で端麗な文章で一般にもよく知られた哲学者が書く、塵ひとつ落ちていない清潔なエッセイ。生涯の友としてきた有名な古典(随筆、エセー、断章の類が多い)の数々について、借り物でない言葉で解題を試みている。
誰にでもよめる軽いエッセイだが、さすがに使われる言葉は選び抜かれている。章全体を包み込むコラーゲンのようなものが乏しくて(これを著したときの著者の年齢のせいもあろう)一文一文が孤立している趣もあるが、日本語としては最上質なものではないだろうか。
各々の古典に対しての、著者が抱く印象を「印象派」のように提示しているが、別に難しい見方をしているわけではなく、素直な解釈である。
パンセ、方法序説、モラリア(プルタルコス)、随想録(モンテーニュ)、美味礼讃、マタイ伝、省察と箴言(ロシュフコー)、君主論、エピクロス、アミエル、方丈記、徒然草、意志と表象としての世界、千字文、論語、詩経、荘子、告白録(アウグスティヌス)、自省録、昆虫記、エミール、道徳論集(セネカ)、ユートピア。
桃の夭夭として・・・:詩経
蝶の夢:荘子
天地玄黄:千字文
著者プロフィール
串田孫一の作品





