夜の鼓動にふれる: 戦争論講義 (ちくま学芸文庫 ニ 12-1)

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  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480096944

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  • SDGs|目標16 平和と公正をすべての人に|

    【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/737897

  • 戦争を、さまざまな哲学者の言葉や考え方に依拠しながら哲学的に論じた本。(講義の内容をまとめたもの)

    戦争の持つ無秩序性という現実に目を背けず語ろうとする一冊。
    戦争はすべきことではない。平和が第一だ。などという単純な帰結で済ますことはできない、すべきではないという筆者の想いが伝わってくるように感じた。

    「戦争を避けようとしているニモカカワラズ戦争は起こる」
    「戦争を考察するということは、合理的な分別が崩れるところから、この〈崩壊〉として現出する世界や人間の有様に目を見開くこと、つまりこのニモカカワラズに踏み込むことである。」

  • 哲学的な面から戦争を紐解くことができて、読むのは時間がかかったが勉強になった。


  • 「もう戦争なんかこりごりだ。あんなこと絶対にやってはいけない」と人々は口々に言ったくせに、それを言いながら人々は次の戦争の準備をせっせとしている。戦争は、文明が発展すればするほど激しくなってきた。我々は戦争とどう向き合うべきか。人間にとって戦争とは何か。『戦争論 我々のうちに潜むベローナ Bellone ou La pente de la guerre』(1963)を書いたのはロジェ・カイヨワ(1913-1978)だ。この本のタイトルの直訳は、『ベローナ あるいは戦争の傾向』。カイヨワが生まれたのは第一次世界大戦の前年で、彼は、それまでの合理主義や物質主義に疑問を抱いた。第二次世界大戦直後から執筆を開始したカイヨワは、ユネスコ国際平和文学賞を受賞した。タイトルにあるベローナというのは、ローマ神話の戦の女神なのだが、しかしこの女神が象徴しているのは、雄々しい戦争ではなく、生身の肉が傷つくことであった。軍神マルスは戦争の雄々しさの象徴だが、女神ベローナは血肉が飛び交うリアルな戦争の象徴であった。

    カイヨワの主著『人間と聖なるもの』は1939年に出版された。その本の講演のためにアルゼンチンへ着いたところで、第二次世界大戦勃発して、カイヨワは終戦までフランスに帰国することができなくなってしまった。そこで、10年以上の歳月をかけてアルゼンチンでヨーロッパで起きている戦争を客観的に見つめながら書いたのが『戦争論』であった。『戦争論』は、戦争そのものの研究ではなく、人間がなぜ戦争に惹きつけられ恍惚とさせるかを研究したものである。

    近代の合理的な考え方では捉えられない聖なるものが、表向きは合理的に捉えられる人間社会の結びつきの根本にあるのではないか、というのがカイヨワの考えの根幹にはある。生きていることの全体を役に立つことや合理性では覆うことができない。近代社会は「生産」を原理にして成り立っているが、無限に生産をしてしまったら、市場のほうは無限ではないので、いつか飽和してパンクする。それゆえ、無駄遣いや、祭りや、遊びが社会を調整しているというのがカイヨワの考えである。このような聖なるもののひとつとして戦争は、他の聖なるものとは違って社会がうまく取り込めていない。聖なるもののひとつとしての遊びや祭りは、社会が取り込むことができるが、同じく聖なるものである戦争は取り込むことができない。社会は、遊びや祭りのほうは受け入れて取り込んでいるが、戦争を受け入れることができていない。戦争を社会がうまく取り込めず、戦争を直視せず、目を背けているせいで、ズリズリと社会は戦争に引き込まれていくのだ。

    【聖なるもの】
    個人の考えることと複数の人間の総体が考えることは違うということは、カイヨワは既に前提している。それなのに、聖なるものの論理は個人を飲み込んでしまうことがある。これが危険だとカイヨワは言っているのである。生きる力は通常構造化され、枠組みに従って発動し、既にして方向つけられている。たとえば、私はこういう人間であり、それゆえにこういう行動をするということを、意識の枠組みとして我々は既に持っている。その枠組みが取り払われて、生きる力が暴発し噴出してくる。このきっかけとなるのが、カイヨワのいう聖なるものであり、そのひとつとしての戦争である。

    戦争は定期的に起こる爆発である。全体戦争は聖なるものである。全体戦争はめまいである。聖なるものによるめまいである。めまいとは、あまりの気持ちよさによる陶酔としてのめまいもあり、あまりの気持ちの悪さによるめまいもある。戦争も祭りもめまいである。戦争と祭りはどちらも騒乱と動揺の時期であり、蓄積経済ではなく浪費経済を行う時期である。近代の戦争と、原始的祭りとは、どちらとも、強烈な感情の生まれるときである。単調な日々の生活を打破するのが祭りと戦争である。戦争と祭りは平常の規範の一時中断であり、老朽化とマンネリ化という不可避の現象を防ぐための唯一の手段としてのリセット、つまり破壊である。以上のような意味で、戦争とは社会をリセットするための、新陳代謝なのであるというのがカイヨワの考えだ。戦争と祭りとは神の顕現であり秘跡の時である。戦争とは生きる力の在庫一掃である。

    ところで、犬のケンカは戦争にはならない。街のチンピラの殴り合いも戦争とは言えない。戦争は、兵器の開発や軍隊の組織化とは切り離すことができない。戦争は文明とは対極にあると通常考えられているが、そうではなく、実際には戦争は文明の影であり、文明とともに成長する。

    逆に、①「戦争は文明そのものである」というのも正しくない。また、②「戦争が文明を生んだ」というのも正しくない。③「文明が進めば人間は戦争を避ける」というのも正しくない。原爆の光は目を焼き尽くすほどの文明の光だ。何ヶ月間か平和でなければ米も取れない。その富は文明をもたらす。だから文明は平和の産物だが、しかし、文明によって生み出されたもののうち、すべてが全体戦争には注ぎ込まれる。(全体戦争という言葉は、まず第一に、戦闘員の数が動員可能な成年男子の数に接近する、ということを意味する。第二に全体戦争は、そこに使用される軍需品の量が、その交戦国の工業力を最大限に働かせたときの生産量と等しい、ということを意味する。)したがって、戦争は文明を表出する、というのが正しい。

    平和は文明の産物だが、戦争は文明を表出する。戦争と平和(による文明)とのこの循環運動を、世界戦争は絶ってしまった。循環がある間はよかったが、世界戦争はその循環が成り立っていたころの戦争と連続的に理解することができない。


    【戦争の形態の歴史】
    戦争には以下のような形態があり、時代とともに戦争の形態は変わってきた。

    ⑴古代の戦争
    部族という小集団同士の縄張り抗争としての原始的戦争。

    ⑵中世の戦争
    階層化された封建社会における専門化された貴族階級の機能としての貴族戦争。貴族戦争の目的は騎士階級の名誉や王家の領土なので、目的としては一般民衆には関係がない。敵を全滅させることも目的ではない。勝負が決まれば戦争は終結する。一般民衆は農地を荒らされたり頭数を揃えるために召集されたり傭兵として雇われたりするくらいでしか戦争に関わらない。しかも傭兵の数は王家の財政によって制約されている。このようなさまざまな制限があったので、殺戮は制限的に行われる。

    ⑶近代の戦争
    国民が銃を取り兵士として闘うのが国民戦争すなわち全体戦争である。これは近代の戦争である。近代は、表向き平等な社会になって、人々は自分の政治的権利を主張できるようになった。これによって戦争の担い手が格段に広がった。国民戦争への移行の原因はフランス革命であり、民衆から兵士を募る徴兵制を導入したナポレオンは革命的自由を守るために集まったやる気のある兵士たちを得たのである。剣士は専門訓練が必要だが、マスケット銃は、持って撃てば人を殺せた。

    ⑷現代の戦争
    現代の戦争の特徴は、後述するがその非対称性にある。

    【全体戦争を可能にした条件】
    近代の戦争を可能にしたのはどんな条件が揃ったからであったのだろう。以下の条件が揃ったからである。

    ①18世紀後半の産業革命によって新しい戦争の道具ができたこと。軍隊は18世紀の武器をもう使わず、爆薬や銃が大量生産された。労働者や工場も増え、経済活動は拡張した。

    ②国家による人々の意識の統合。個人の生きる意味は国家のために生きて死ぬこととされた。産業革命は人々を田舎から都会へと向かわせ、言語統一によってナショナリズムが強化された。

    ③メディアと映像はナショナリズムを熱狂的に高揚させた。たとえば、自らの演説に国民が熱狂する映画や、オリンピックの映画をヒトラーは各地で上演した。

    【戦争と経済システム】
    戦争は経済活動を止めてしまうから、経済システムは自然と戦争の発生を避け、平和をベースにして駆動するというのが古典的な了解だったが、実は、産業システムが大きくなって戦争による武器の需要が広がれば広がるほど、今度は経済システムそのものが戦争に依存するようになった。経済システムそのものが戦争に依存するようになるとは、つまり、戦争をしたほうがいいという論理が経済の論理の中から出てくるということだ。たとえば砲弾というのは破裂するように作られているため、使われたらもう一度作られなければならないし、砲弾が使われた要塞はもう一度作られねばならない。これらは、そういう商品である。国家に誇りを与えられた兵士もそういう商品になる。つまり、兵士も砲弾になる。兵士たちは、無名のまま死んでいくことこそが栄光であるとすべきだという方向に国家は舵を切って行った。組織的破壊は新規需要の最大の補償なのである。一般に兵器とは使って何かを壊したり壊されたりする以外に需要と用途がなく、壊れたらまた確実に新しいものが必要とされるような、そういう商品である。つまり経済がそういう商品を必要とするようになる。そうすると、経済の自由、市場の自由に任せるという論理で経済が動くと、経済活動が戦争のなかに組み込まれるということが起こる。こうして、国家が戦争をしたほうが経済が回るようなサイクルになるのである。


    【戦争と人生の意味】
    かつての農村社会では自分が誰かとか自分の存在の意味は何かということが分からなくなるなんてことはなかった。自分の存在意義なんかみんな周りの人達が知っているし、教えてくれたからだ。そもそも、自明過ぎて、尋ねようとすら思わなかったはずだ。しかし、近代社会では、個人はもしかしたら砂つぶのようなものかもしれないとか、私の存在意義はなんだと問う人が出た。そこで国家は、戦争で肉片となり虫けらのように無名のまま死んでも、それはその人にとって最大の栄光であり、周りの人々は無名戦士の墓を称えなければならないし、塹壕の肉片を素晴らしいと言わなければならなくした。肉片を素晴らしいと言わされるのである。


    【エルンスト・ユンガー(1895-1998)】
    エルンスト・ユンガーという作家は、103歳まで生きた。いや、生きてしまった。103歳まで生きた人が、戦争で死んだ自分以外の人のために、戦争を美と捉えた。そもそもユンガーはドイツ軍人として闘ったひとで、第一次世界大戦中、西部戦線でフランス軍と対峙したユンガーは何ヶ月も続く塹壕戦を生き抜いた。このとき、兵士の命は弾丸として使い捨てられた。この非人間的状況こそが近代文明のもたらした秩序だとユンガーは考えた。そして、戦争という死の工業が作り出すこの新しい秩序の中で、人間は確固たる地位を占めることができるとユンガーは言う。ユンガーによると、人間は精密機械のようになればよいのだ。いとも複雑な戦争計画という全体の中で、機械のような精密さを持って動けばよいとユンガーはいう。ユンガーは、まさに戦争計画に美を見出すのである。戦争を全面的に受け入れることこそが人間の栄光であり、それによって自らの存在を正当化し、ユンガーは戦争信奉者となっていく。ユンガーは自らを戦うものとして存在の在り方を変革したのである。

    戦争が人間と同水準にあった間には戦争を神格化しようとするものはひとりもいなかった。しかし、戦争がもはや人間の理解可能性を超えてめまいをもたらす神話になったのだとカイヨワは指摘する。戦争は、その量と理解不能なまでの複雑性によって人間に目眩をもたらし、人間を呆然とさせ、神格化されるようになった。エルンスト・ユンガーは、人間が晒されている事態をどう受け止めるかということが人間の誇りに関係すると考えていた。たとえば、生きている人間が、「もう後は死んでいくだけだ」という状況にあると悟った時、個々の人間が複雑怪奇な全体の消耗部品であるということに納得して、諦めたとき、その現実を見据えることによって、その鉄砲玉としての自分の存在に意味を与えるということが人間の誇りだとユンガーは考えた。ユンガーは、複雑怪奇な全体を見据えてることによって、その一部としての自分に意味を与えられることを、自分の精神の崇高さの証しとして考えていた。死を超えた高みに自分を持っていくということがユンガーの言う、精神の崇高さなのである。

    【核兵器で勝つことのできなさについて】

    核兵器とはなにか。「いかにして勝つか」ということを目的にして核兵器は開発された。しかし、核兵器は勝つための道具ではないことがのちに判明した。というのも、「勝つこと」というのは「相手を負かせてそいつを思い通りにすること」である。しかし、核兵器を使って相手を負かせ、そいつらを思い通りにするということができない。

    核兵器には、核兵器で負けた相手に言うことを聞かせるということができない。なぜならば、核兵器を使ったら、核兵器を使われた相手は消滅するからだ。これが殲滅兵器である。これが核兵器という殲滅兵器の本質である。

    勝つということは、負けた相手を存在させることまでをも前提している。つまり、あえて分かりにくくいえば、負けた相手をその存在資格で存在させてやるという配慮がなくして、勝者は勝者として承認されないし、そうでなければ勝者という言葉を有意味に使えないし、その意味で勝負ごととは、ひとつの協働なのである。私が言っているのは、「勝者は敗者に最低限の配慮をせよ」などという道徳的なお題目ではなく、そのような配慮なくして勝者は勝者であることが「できない」と言っているに過ぎない。

    たとえばスポーツマンシップというのは、推奨されるべきものなどではなく、それなくしては勝者になることができないような条件である。

    核兵器を使って勝つことは以上の理由で出来ず、核兵器によって残るのは勝者と呼ばれることを意図したはずの者の孤独である。核兵器は勝利ではなく孤独をもたらす。ちなみに、同様の理由で、核兵器を使われたことによって負けることも出来ない。不可能だからである。

    核兵器は国民戦争の時代を終わらせた。なぜなら、敵対する双方の陣営が核兵器を持ったら、そこでどちらかが核兵器を使えば使い遅れたほうの国民がいなくなるため、相手国民ではないことによって否定的に自己国民を定義することができなくなるので、国民戦争にならないからである。核兵器が使われると、敵を設けて対峙することによるアイデンティティの戦争、つまり国民戦争ができなくなる。そして核兵器は使われたことがある。


    【冷戦と代理戦争】
    戦争は全体化して世界を包み、その究極として核兵器ができて、核戦争をしてしまえば全てが終わるので、こんどは世界戦争ができなくなった。これが冷戦である。

    しかし核兵器が出来てからも、戦争が途絶えたことが実はない。これが代理戦争である。


    【非対称的戦争】
    まとめると、核兵器が出来てから、兵士の意味はなくなった。兵士などいても核兵器があれば無意味である。戦争において国民の枠も崩れて、国家は戦争において自律性も独立性も失った。戦争は国民の出る幕ではなくなったからだ。核兵器によって、戦争から人間的意味も失われた。生きる意味を供給できるほど面白いものでは戦争はもうない。国家どうしの国民戦争の時代は核兵器によって終結した。国民が戦う意味もないからだ。戦闘のなかで、自分を確からしくしようとすることが核兵器があるとできない。核兵器を使った戦争では敵も味方もどちらも破滅しかねないし、核兵器戦争に勝利すらもない。それでも、広島と長崎の甚大な惨劇を目の当たりにして世界の核兵器開発はむしろ加速した。要するに人間は戦争がしたいのである。戦争がしたいが、しかし核兵器は使えない。そこでアメリカでは軍事傭兵組織という商品が現れた。


    国家どうしの戦争においてはテロリズムや、「テロとの戦争」と称して主権を侵害してアフガニスタンに侵攻するということは通常なかった。国家の自律性は現代戦争において崩れ始めている。「テロとの戦争」と掲げれば主権を侵害できるからである。「テロとの戦争」は国家への侵略ではないので、戦果はテロリストの殺害人数として知らされるし、降伏や講和に関する事前の取り決めも存在しないので、どうやったら「テロとの戦争」が終結できるのかに関する取り決めもない。「テロとの戦争」はアメリカ国内でも行われ、戦時と平時の区別はなくなった。

    国家対国家の戦争は対称的であり、敵と味方がいて対称的であり、敵も味方も人間であるという共通了解としての対称性があった。非対称的戦争においては、相手を自分と同じ人間だとしての対称性は認めないので、相手の存在を認めなかったり、相手殲滅兵器によって殲滅したり、テロリストとの交渉や講和に応じなかったり、宣戦布告がなかったり、テロリズムには国の枠組みというものがなかったりする。

    敵を同じ人間として認めない。しかも敵は国内にいるかもしれない。戦果は「何人殺したか」という文でしか報道されなくなる。殺害されたのがどこの国民であったかとか、殺されず傷をつけられた人は報道されないし、存在もしない。なぜならば、テロリストを生半可に傷つけたら復讐されるかもしれないので、復讐されないように殺すからだ。これが殲滅である。現代の戦争は、対称性の時代から、殲滅の時代に入った。人間ではなくウイルスとして国家の内部にいるかもしれない敵に対して、監視の目が光っている。

    参考文献『夜の鼓動に触れる 戦争論講義』

  • 世界戦争の時代
    戦争の全体性
    “夜”に目覚める
    “光”の文明の成就
    戦争の近代
    世界戦争
    ヘーゲルと西洋
    露呈する“無”
    “世界”の崩壊
    “未知”との遭遇
    アポカリプス以後
    おわりに
    二〇年目の補講―テロとの戦争について

  • 個別的な戦争を論じるのではなく、我々人類の経験した戦争=世界とは、何であったのかを論じた作品。

    自分の中で、戦争を表層的にこねくり回す議論、陰謀説や単純な因果論にしっくりきていなかったので、この本を読んで頭がすっきりした。
    ここまで、全体を引いてみせる、論の力強さに感動。

  • 参考文献

  • ちくまプリマーで、中高生向きの講義がとても面白く分かりやすかったので、読んでみたいと思った著者。分かりやすい!

    この本の趣旨を引用すると、
    「戦争を考えるということを、わたしたちの日々の生存や人間の歴史的経験のなかに置き直して、〈戦争〉を専門家たちの特殊な考察の対象とするのではなく、一般の人びとの生存と地続きのものとして扱いたかったからです。」

    〈戦争〉を繰り返す人間って何なのか?
    人間は本能的に〈戦争〉を行ってしまう生物で〈夜〉の世界を抱えている。

    人が人間になり、社会が生まれ、国という集合体の中でその権威を守るための戦争に繋がってゆく。
    ただし、その状況が進んだところにアウシュビッツとヒロシマが生まれた。
    それは、人が人ではなくなること。システム的破壊と、人という生物の崩壊を意味する。

    そこで、人間はこの切り札をちらつかせることで、戦争にそれ以上の進展を持たさらないための引き換えの平和?を手にする。
    それもまた、切り札を切り札と捉えない〈テロリスト〉の出現により、非対称な戦争は新たな局面へと向かっている現状である。

    だが、〈テロリスト〉と呼ぶ者は誰で、呼ばれる者は誰なのか。
    筆者が言うように「罰されずに殺すことの出来る者」をまたもや生み出しているという言葉には、なるほど、と思った。

    「かつて日本で「散華」とか「玉砕」と美化された振る舞いが、欧米人には理解しがたい狂気の行動としてこの名で記憶に刻印されていたのです。それがいまの日本語では「テロ」ということになってしまいます。このことは、日本で戦争を振り返るときに、よく考えてみる必要があります。」

    あらゆる自然を資源とし、そこから強大なテクノロジーを生み出してきた人間は、〈死〉さえも超越しようと目論む中にいる。
    体内に自分のものではない薬や、血や、臓器を取り入れて〈生〉を獲得する人間。
    一方で同じ技術を使ってボタン一つで崩壊させ、また人が人でなくなるような暴力を行使してしまえる人間。

    私たちの存在とか如何なるものか、確かに考えずにはいられなくなる。

  • 現研推薦

  •  ふだん、人は生活するとき国家をそれほど意識する必要はないでしょうが、「非常時」には日常のなかにうずくまっていた<国家>がムックと立ち上がり、自分が<主体>であることを顕示します。そしてそのとき、人びとは自分が<国家>の身体の一部なのだと気づかされるのです。(p.54)

     要するに「否定する」というのは、相手の存在を抹殺することではなく、相手が相手として自立して存在すること、つまりは相手の自立性を抹消して、自己の支配のもとにくみこむことであり、そのように相手を自分のために「活用する(活かして使う)」ことを言うのです。これは<森>の場合とまったく同じで、<否定>によって森は森としては「死ぬ」けれども、森を構成していた土地や樹木は、「人間にとってのもの」として、居住地や木材となって人間のために「活かされる」わけです。だから<否定>とは<征服><同化>そして<統合>のプロセスに貫かれる作用だと言うことができます。(p.185)

     <アウシュヴィッツ>を、単なる「狂人」や「集団的凶器」の生み出した「例外的悲劇」として切り捨てるのではなく、<人間>はこういう「非人間」的なこともなしうるのだし、収容所でもはや誰でもない<非―人間>として「死」に包まれて蠢いていた無名の生存さえ、<人間>の生存の可能性(ありうる様態)なのだとして考慮に入れないかぎり、あらゆる<人間>についての思想は虚構だということになるでしょう。それに、そうしないかぎり、この<非―世界>を生き死にした人びとの経験は救われないのです。「これが人間か」という問いに対して、「いや、これでも人間だ!」ということです。(p.251)

     「テロとの戦争」は、いっさいの人権保護の埒外に置かれる人間、そして「罰されずに殺すことのできる人間」というカテゴリーを新たに実践的に作り出したのです。「テロリスト」と呼ぶことはすでに断罪であり、それに対する戦争行動は「刑の執行」の意味をもちます。それは世界の秩序、「人権」の保障される世界を守るために排除し抹消しなければならない「敵」と位置付けられ、「人類の敵」とさえみなされます。そのように、「敵」を「人類」のカテゴリーから排除して、その国家的あるいは超国家的殲滅を「戦争」として遂行する、それが「テロとの戦争」の最大の問題だと言ってもよいでしょう。(p.333)

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著者プロフィール

西谷修(にしたにおさむ)
哲学者。1950年生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。明治学院大学教授、東京外国語大学大学院教授、立教大学大学院特任教授を歴任したのち、東京外国語大学名誉教授、神戸市外国語大学客員教授。フランス文学、哲学の研究をはじめ幅広い分野での研究、思索活動で知られる。主な著書に『不死のワンダーランド』(青土社)、『戦争論』(講談社学術文庫)、『夜の鼓動にふれる――戦争論講義』(ちくま学芸文庫)、『世界史の臨界』(岩波書店)、『戦争とは何だろうか』(ちくまプリマー新書)、『アメリカ異形の精度空間』(講談社選書メチエ)などがある。

「2020年 『“ニューノーマルな世界”の哲学講義』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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