精神現象学 上 (ちくま学芸文庫)

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感想 : 6
  • Amazon.co.jp ・本 (670ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480097019

作品紹介・あらすじ

人類知の全貌を綴った哲学史上最大の快著。四つの原典との頁対応を付し、著名な格言を採録した索引を巻末に収録。従来の解釈の遥か先へ読者を導く。

感想・レビュー・書評

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  •  古典哲学を解説本でなく直接原訳を読もうと思い立ち、デカルト、カントの次に選んだのがこのヘーゲル。カントの認識論を読んで大陸合理論に興味を持ったのが理由の一つだが、調べてみるとどうやらヘーゲルは哲学研究者の間では素人が迂闊に手を出してはなら哲学者の最たるものとされているらしい。普通はもっと他の哲学者に親しんでから手を出すべきもののようだが、しかしそんな遠回りをしていては僕のような門外漢の遅読者はいつまで経ってもヘーゲルに辿り着かずじまいだろう。だから、順序なんか関係ない、理解できなければそれまで、という軽い気持ちで読み始めた。僕は学徒ではないのだし。もちろん徒手空拳で挑む愚を避けるべく、事前に解説本2冊(「新しいヘーゲル」「精神現象学入門」ともに長谷川宏)を読んで準備は万全…のつもりだったが、やはりそう甘くはなかった。以下は多分間違いだらけの要約(間違いを気にしているとはっきり言って読めないと思う)。

     冒頭の「諸論」を読んで、どうやらヘーゲルはカント的「物自体」と「現象」の区別に飽きたらないものを感じていたということは理解できた。またこの本は、認識と対象、特に絶対知との分離を駆逐すべく意識が真実の知に至る道程を記述したものだとされるが、一応なるほどとは思える。しかしその記述のややこしさがとにかく通り一遍ではない。例えば、続く「〈A〉意識」で主観と客観をカント的な対立関係ではなく、それらをともに内包する「意識」を考察の中心に置き、これが弁証法的運動を経て更新されより高次の知に至る様が描かれる。ここでこの「意識」やその形態変化である「自己意識」「理性」などとは別に、これらを対象化して見つめる「われわれ」なる視点が登場するのだが、この「われわれ」がいかなる存在なのかは本書内で全く説明がなく、主語として現れるたびに混乱をきたすことになる。ともあれ、意識はこの「意識編」では外部の対象を無媒介に受け入れるだけの〈感覚的確信〉から、対象の普遍性と個別性を反省的に捉え、存在の二重性格(対他存在/対自存在)を認識する〈知覚〉を経て、変化する現象から安定的な「法則」を取り出す〈悟性〉へと至る。このあたりまでの記述は極めて観念的で具体性に乏しく、イメージすることが難しい。

     そしてこの法則を見出すための思考過程をメタ的に認識し、自己同一性に閉じこもることなく他者と関わることで非同一性を見出した上で、さらにこれらの同一性/非同一性がより高次な同一性=普遍性を維持することを発見するのが「〈B〉自己意識」。この〈自己意識〉は、自我を保持するために他者の承認を必要とする点で、単に他を否定して自立する〈意識〉とは異なる。〈自己意識〉が経験することとなる〈承認を巡るたたかい〉のあたりからようやく話が具体性を帯びてくるものの、語用が独特で理解しにくい。どうやら〈否定〉(=区別と統一を繰り返すことで生じる一連の運動性)という概念が鍵らしいのだが、とにかく他者の自己意識を否定することこそが自己意識にとっての生命線である一方で、その他者から承認を得ない限り自己確信が持てないという、なかなかに面倒臭い存在ではある。
     この〈自己意識〉はまず「主ー奴(支配ー隷属)関係」の「主」の位置に立ち、意識かつ物としての「奴」を威圧的に支配しようとするが、それは自己確信をもたらすような対等な承認にはなり得ず、むしろ「主」の「奴」への依存が顕になる。この「奴」は、現実を自己の意識内でのみ認識する「主」とは異なり現実=他なるものを実際に経験するがゆえに、外的な事物が自己の意識の運動の結果であり、自己と現実の区別が概念の内側にしか存在しないことを自覚している。これが「思惟における自由」に引きこもる〈ストア主義〉的隠遁、そしてあらゆる外的存在を否定する〈スケプシス(懐疑主義)〉に繋がるが、一切を相対化するこの段に及んでは、絶対的であるはずの自分自身すら相対化することになり、ストア主義にも懐疑主義にも統一されない矛盾する自己を自覚する〈不幸の意識〉に至ることになる。
     〈不幸の意識〉は絶対的普遍性(=神、理想)と相対的個別性(=自己意識、現実)に引き裂かれた存在だが、ここに初期キリスト教が入り込むことにより、絶対神(普遍)→キリスト(個別)→聖霊(個別と普遍の融合)、という信仰対象の変遷を経験する。この過程で〈不幸な意識〉は普遍者を絶対視する素朴な〈純粋意識〉に変容するが、彼岸(個別的な自己の到達できない普遍性)を希求する一方、個別性に執着したまま普遍者と一体化するという欺瞞を抱えている。この執着に着目したのが教会であり、自己欺瞞を否定する方策を〈純粋意識〉に提供するのだが、これに対応してそのキリスト教的ストイシズムに飽き足らず真の神=普遍との合一を求める〈理性〉が萌芽してくることになる。

     この〈理性〉は「いっさいの実在性であるという確信」だという。これは「いっさいの現実が自己意識に他ならないと確信している」と意味だという。つまり現実が自己の運動の結果生じているということを覚知している存在だということか。〈意識〉にとっては自己と現実が別物で、〈自己意識〉も自己と現実の邂逅を希求するあまり現実を否定する側面があった。この〈理性〉はこれら二者を統合する立場でありそもそも自己と現実を別のものとは見做さず、自己の思考は思いなしなどではなく現実と一致しておりその本質を認識できるはずであるという確信を持っている、ということらしい。上巻最後の「〈C(AA)〉理性」の章は、この確信を持ちつつも自らの行為でそれを実証できていない理性が、〈普遍的自己意識(個別的な意識がそれ自体として絶対的な実在である、という意識)〉をもつに至るまでのプロセスが述べられる。
     まず〈理性〉は、〈自己意識〉が現実として経験可能なのは自己の思惟だけであるという確信、すなわち「観念論」に思い至り、「〈私〉は〈私〉である(私こそがただ一つの対象であり実在・現在である)」と確信する。この点、〈物自体〉は認識できないとしたカントやフィヒテとは明確に主張が異なり、ヘーゲルでは自体存在と意識に対する存在は明確に一致することになるようだ。カントでは客観と主観を仲立ちする〈カテゴリー〉も、ヘーゲルでは無限性の「運動」(「統一」→「数多性」→「個別性=具体化した普遍」)の形をとることになる。ヘーゲルは一元論(意識)と二元論(物自体ー意識)を同居させるカントやフィヒテを批判し、自己意識と実在の同一性を確信し客観的社会制度と自己の関係を模索する理性の遍歴を辿ることになる。
     〈理性〉が観察するのは〈自然〉や〈有機体〉。理性は〈意識〉と異なり、初めから普遍者の存在に自覚的で、本質/非本質の別に着目して〈法則〉を抽出する。ただ、このあたりの「個体性と環境の相関」について論じるくだりは正直なところナニを言っているのかよくわからないが、この後からは徐々に考察の対象が〈理性〉の行為と〈社会〉の関係に移り始める。〈理性〉は、対象である他もそれぞれ自己意識を持っていることを理解し、多数の自己意識を統一する〈社会制度〉の存在に気づくわけである。ようやく話が具体性を帯びてイメージしやすくなってくるところだ。
     古代ギリシャのポリスで体現されていた〈人倫の国(個人の自立と社会制度の確立が並存)〉では、個体のうちに普遍的な物性が〈習俗・掟〉の形で生きていた。これを理想とする〈理性〉は、具体的な「行為」を通じて幸福=自己と現実との統一を図ろうとする。まず〈理性〉は、特定の他者のうちの存在という「形式」を否定(cf. 欲望=対象そのものを否定)し、習俗や掟を捨て対象を普遍性の中に取り込み統一する〈快楽〉を追求するが、結局は新たな必然性(さだめ)に囚われ没落することになる。ここが物の本によると、社会のしがらみを捨て恋愛に走るが、子供が生まれることで新たなしがらみに直面せざるを得なかったヘーゲルの実体験が反映されているそうだが、なかなかに俗っぽいところのある男ではある。
     その後、〈理性〉は現実では掟に弾圧されながらも、心情的には個別性と掟の一致を表象することになる。これが〈心情の法則〉で、個人による法則を実現したもののその普遍的な威力が結局は個人を疎外するという矛盾を生んでしまい、〈理性〉は自身の〈心情の法則〉を非本質と考える錯乱状態に陥る。ここから、〈理性〉は心情こそが個別と普遍を顚倒させる原因であること、そして普遍的な秩序が、個々の心情法則の単純和や万人の万人に対する闘争の結果などではなく、個体性を安らえその基盤となる本質性〈徳〉を備えていなければならないことに気づく。
     〈徳〉の主張は「個体性の撤廃」であり、個々の快楽から切り離されたカント的な「真・善それ自体」を希求すべきと説く。これと対立するのが、個体性こそが本質と説く〈世間〉であり、普遍性は個人により利用されるべきとする。〈徳〉は〈世間〉と対立しつつも、〈世間〉内の〈個人〉を排することにより〈世間〉の「自体(本質)」を顕現させようとする。いわば「世直し」であるが、結局は〈徳〉のイメージする「普遍的なもの」とは天賦の能力などの抽象的な力であり、それが具体的に使用されないままでは現実的な〈世間〉に太刀打ちできない。ここにおいて「個体性の行為は、行為すること自体が目的なのだ」ということが明らかになり、この後個人は自己と現実の疎隔を顧みず、自分の素質のみを発揮することに邁進するようになる。これが〈社会的理性〉であり、自らの行為を通じて「普遍的なもの(自体存在)と個体性(対自存在)の自動的な相互浸透」の実現を志向する。ヘーゲルにとっては主観と客観を媒介するのが〈カテゴリー〉だったが、この〈社会的理性〉こそが自体(客観)と対自(主観)をその行為において自覚的に統一しようとする存在だということになる。
     では、自分が普遍性=絶対的実在性と繋がっているという確信はどこからくるのか。実は、個体は根源的に限定(=固定された否定。前段階を否定し高次に至る本来の運動的な否定とは異なる)された自然ということができ、この限定状態こそが個体の「目的」であるとされる。個体はその限定された自然という「目的」に関心を持ち、才能と現実の行動でその目的を達成しようとし、その結果として「作品」を産む。この作品こそが自体(目的)と対自(結果)の一致を体現するものとなる。当初はこの作品に対し個体はロマン主義的な自己陶酔を味わうだけだが、作品は個々の自然の限定を表現しているため、常に他者からの攻撃を受け、その場限りの「偶然性」を有している。個体はこれに対抗して、自らの作品に永続的な「必然性」=〈持続するもの、ことがらそのもの〉を与えようとする。この〈ことがらそのもの〉が〈精神的本質〉、つまり単なる自己表現に止まらない、外部からの批評に耐えうる名作となる。このように〈ことがらそのもの、精神的本質〉は根源的自然を否定し普遍的な自己を見出そうという止揚の運動により得られるものであり、これにより自然を限定する諸原則を確立しようとする〈立法的理性〉が生ずる。これは無媒介に善を知ろうとする健全な理性だが、直接・無条件的に真理を確立することの矛盾に突き当たり、形式面のみから普遍性を吟味する〈査法的理性〉にとってかわられるが、これも尺度として無意味であると結論される(カントの定言命法批判)。
     結局、真理の立法と査法は互いに止揚関係にたち、普遍に回帰する〈精神的本質〉が再認識される。そこでは自体と対自が同時に成立し、あらゆる個人の絶対的純粋意志に立脚した諸法則、つまり自己と社会的制度が一体となったものが意識されるに至るのだ。

     これで漸く半分。70ページにも及ぶ読書ノートをつけながら約3ヶ月、四苦八苦しつつ読み進めたが、解説本なしでは何を言っているのかすらわからない箇所ばかり。こういう訳書を何の解説本もなしに読み進められる人というのは本当にどういう頭をしているのかと思う。

  • 挫折した。難しい。

  • 非常にわかりやすい新訳という触れ込みであったが、残念ながら流し読みができなかった。
     わかりづらい。文字が大きいので老眼にはいいとは思ったが、文字間隔と行間隔が詰めてあるのでそれほど読みやすいとはいかなかったのが残念。

  • 2019年3月2日図書館から借り出し。意外と字が小さく難渋し、とりあえず序文を原文を横目に読み始める。文庫オリジナルみたい。批判する言説が誰かは名前がカッコ書きで入っていて、読んでいてなるほどと思いつつも、それがどこに書いてあるのかが気になる。そこまで注釈が入らないのは文庫本の制約かな。ついでに世界の名著の山本信訳も引っ張り出したが、机に長谷川訳まで広げる場所がない。

    ネットにあった原文に、熊野訳に付けられた見出しを挿入したワード・ファイルを作成。(序文のみ)

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著者プロフィール

(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)
1770年、南ドイツのシュトゥットガルトで生まれ、テュービンゲンの神学校で哲学と神学を学んだのち、イエナ大学講師、ハイデルベルク大学教授、ベルリン大学教授となる。発表した本は6点、翻訳『カル親書』(1798年)、小著『差異論文』(1801年)、主著『精神現象学』(1807年)、大著『論理学』(1812–16年)、教科書『エンチクロペディー』(1817年、1827年、1830年)、教科書『法哲学綱要』(1821年)である。1831年にコレラで急死。その後、全18巻のベルリン版『ヘーゲル全集』(1832–45年)が出版される。前半は著作集で、後半は歴史・芸術・宗教・哲学の講義録である。大学での講義を通して「学問の体系」を構築し、ドイツ観念論の頂点に立って西洋の哲学を完成した。

「2017年 『美学講義』 で使われていた紹介文から引用しています。」

G.W.F.ヘーゲルの作品

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