精神現象学 下 (ちくま学芸文庫)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (624ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480097026

作品紹介・あらすじ

人類知の全貌を綴った哲学史上最大の快著。四つの原典との頁対応を付し、著名な格言を採録した索引を巻末に収録。従来の解釈の遥か先へ読者を導く。

感想・レビュー・書評

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  •  後半は〈精神〉章から。普遍性と個別性の統一的表現である〈ことがらそのもの〉に到達した自己意識が、立法的/査法的理性を持って恣意的にこれを認識しようとしたのに対し、社会制度を本質的なものとみなしこれを自らの行為で作り上げようとするのが〈精神〉。「精神」という名前とは裏腹に、それは万人の行為の根拠であり、自己の本質を内在化した人々の自覚的行為で作り上げられるような社会的な実体を指しているようだ。
     個人と社会が美しく調和した〈人倫の世界(ギリシャ)〉では、精神は普遍的実体としての〈人間の掟〉と個別的意識としての〈神々の掟〉の二態で構成されるが、そこでは自ら考え行動する自由な主体が存在せず、個人はどちらかの掟に与せざるを得ない。したがってどちらかの掟が侵害されることになり、精神は人倫的な性格を失い没落し、絶対的正義の契機が現れる。しかしギリシャ的人倫は運命的偶然(自然や幸運)に依拠しており、個別性の契機を抑制することができない。
     そこで個人こそが実体であるとする法的状態としての共同体・ローマ帝国が成立する。そこでは全ての個人に権利主体としての〈人格〉が承認されているが、未だ抽象的なレベルでの存在にとどまっている。この背後にあるのが自己意識のところで出てきた「ストア主義」と「懐疑主義」であり、いずれも自己のうちに逃避するためその人格の権利は普遍的具体性を帯びていないため、権利主体としての人格性は〈世界の主人(ローマ皇帝)〉が独占し、人々はその恣意性に翻弄され、自らの実体性を確信できないままに抑圧される。その結果、意識は現実世界すなわち〈此岸〉では自己と本質の統一を見出すことができず、〈彼岸(純粋意識の国)〉にその統一を求めることになる。

     このような国家権力を克服するには、意識は自らを〈外化(放棄)〉して精神的威力を得る必要があるが、この外化は〈教養〉、すなわち自己意識のうち〈純粋意識〉が現実の国権や財富の善悪を自己の基準に照らして〈判断〉し、これらを習得する自己形成的プロセスを経て獲得される(これと対比される〈現実意識〉は教養の世界にどっぷり浸かるのみ)。この精神的威力は普遍的な自体存在としての〈国家権力〉と個別的な対自存在としての〈財富〉の二契機からなるが、これらが相互に転換され区別が解体されていく。
     最初は〈高貴な意識〉が国家と自己犠牲(財富)を連結することで、意識が普遍性を、国権が実効性をそれぞれ獲得する(名誉)が、どちらもその反射的効果として自己利益と絶対権力をそれぞれ欠いているため〈下賤な意識〉としての側面を持つ。この下賤な意識に対し、高貴な意識は言葉、即ち〈忠言〉による自己犠牲により、君主に対する〈追従〉の態度をとる。この高貴な意識の自己犠牲(内的確信の外化)により、国権は対自的意識を伴った〈絶対君主〉となるのだが、これはつまるところ高貴な意識の傀儡であり、財富と同じく犠牲にされることで本質を保っている状態である。高貴な意識の側でも自己犠牲の名のもと国権に依存しているのであり、所詮下賤な意識と同根であることが明らかとなる。
     こうして財富化した国権は〈富者〉や〈食客〉による分配の対象となり、もっとも主要な部分が疎遠な権力者である彼らに握られる状態に置かれる。このように、国権と財富、高貴と下賤が互いに交代してしまう無常感(「ラモーの甥」)のもと、意識は自分自身への二重の回帰(純粋意識=純粋洞察と信仰)に向かうことになる。
     まず〈信仰〉は彼岸への逃避であり、世界本質の達成を表象するが現世でこれを実現することはできない。一方〈純粋洞察〉は自体存在(神)を希求する素朴な信仰と対立する形で、対自存在すなわち外的なものを理解し自分のものにするという〈否定性〉、自分の洞察で普遍的判断能力を得ようとする近代的理性を重視する。

     この近代的理性としての純粋洞察が、信仰の抱く「国権=父(自体)・財富=子(対自)・本質=精霊(自体かつ対自)の三位一体」性を否定し、伝統的信仰の感覚性を否定した上で、行為と創造による対象の洞察こそが本質であると主張する〈啓蒙〉となる。この啓蒙は、「理神論(合理的推論による神の存在の必然的肯定)」とカント的「唯物論(物自体だけが存在し、精神はその反映)」や「功利主義(存在は全て対他的=何かにとっての有用性があるのみ。宗教も人間のためにある)」の間の対立を調停し、〈概念〉の力で対象を対立項に区別して洞察しようとする。この概念の力とは弁証法的運動(区別→統合→更なる区別)に他ならず、自体→対他→対自の絶えざる交替の中から〈有用性〉という対他的な契機が生じてくることになる。
     有用性とは、絶対者や物自体に対してではなく、常に自他を対象化し自己意識の対他的側面(他者にとってどのような存在か)に対し焦点を当てる純粋洞察によりもたらされる概念。デカルト的一元論(存在と思考の統合)に到達しているが、前述の弁証法的な概念の運動は潜在的に現れているに過ぎない。ただし、人間の対他的本質、すなわち「社会」から見た人間というヘーゲル哲学の中心的理論の軸となる概念であるようだ。
     こうして、純粋意識(普遍)の否定態である「教養」とその肯定態である「信仰」、その対立を先鋭化させた「啓蒙」を経て、個別と普遍を統一し社会的本質を希求する「有用性」に至ったが、この時点では未だ外的な対象に焦点が当てられており、「自己意識の内的運動が対他的存在を創り出す」という意識には至っていない。このような自己内部の普遍的側面を意識するのが〈絶対自由〉の精神。「世界が自己の意志に関係して存在し、それが万人にも当てはまる」という〈普遍意志〉を強く志向し、「社会とは特定の誰かによる統治ではなく万人の個人としての意志の表現の場でなくてはならない」と主張する自己意識である。
     そしてここから〈革命〉の思想が生じる。世界の認識の中心に自己意識を据えると、有用性の観点からは正当化不可能な古い政体や体制は、もはや支えを失い崩壊せざるを得ないのである。すると、普遍意志が登場した今となっては個々の役割は意味を失い、個別(個人)と普遍(社会)の対立は絶対自由の理念のもとに解消され一致するべきとする意識が生まれてくる。すると、革命後は自分が普遍的意識であるとの自覚のもと、個人がそれぞれの役割を果たすべく個別化され、「限定された人格性」へと貶められ、普遍的意志とは逆に乖離してゆくことになる。個々人の自由意志の一部が権力へと分裂するのである(フランス革命におけるロペスピエール)。
     このような恐怖政治に際し、自己意識は絶対自由に期待を寄せ、絶対的なるものを希求する。最初は〈普遍意志(ルソー的一般意志)〉こそ本質とするが、次第に死の恐怖に促され、自らの否定性で自らの絶対自由を廃棄し新しい秩序を築きあげ、そこで個別的役割を担おうとする。それが〈最高の教養〉であり、彼岸の追求に終始したかつての教養とは一線を画し、自己の内的本質として普遍的意志を自覚した上で、世界本質に対する純粋な知を確認しようとする。ここに〈道徳的精神〉が現れる。

     「最高の教養」からは、意識と対象、媒介性と直接性の対立を克服し、純粋知を自己の本質だと自覚する「道徳的精神」が生じた。そこでは自己の内的な〈義務〉こそが絶対本質とされる。何が義務かを知りそれに自分の意思で従う意識だが、カント的「道徳と自然の分離」を展開させたものである。
     自己の本質は義務に従うことだが、自然と義務とは互いに独立しており、義務に従うことが自然法則に適うかどうかはわからない(カントによる「福徳一致の否定」)。しかし道徳的意識はこの義務(普遍)と現実(個別)の一致をあるべきものとして要請し(第一の要請)、さらに意識の自然的側面である感性と道徳的理性の統一も要請する(第二の要請)。両者の要請における完全な調和は「即自(世界自体の調和)かつ対自(人間存在)における調和」であり、これは行動によってもたらされるが、個々の「当為」と純粋・普遍的な「義務」は必ずしも一致せず、矛盾を含んでいる。ここで、純粋義務を希求する純粋な道徳的意識とは別に、個々の数多の義務を本質とみなすもう一つの「道徳的意識」が現れ、「何が正しいか」のみならず「なすべきこと」の必然性と正当さが問題視されるとともに、絶対実在としての「神」による道徳の特殊性と普遍性(主観と客観)の一致、すなわち人間には望むべくもない「福徳一致」を目指すことになる。
    この神の要請は、道徳的意識が純粋義務の内容を「表象」としてしか把握していないために行われるもの。彼岸として思考の中だけに存在する不完全な理想状態は、神の否定性によって初めて止揚されると考えている。この否定性により「どんな自己意識も道徳的には不完全であり、またこの世自体も道徳的に不完全である」との命題が導かれ、自己と世界の道徳の一致が不可能だからこそ「彼岸こそが当為である」という主張が表象される。つまり内的には道徳的な自己意識が成立していても、現実的には困難であるという矛盾を、神の要請で回避しているだけということになる。意識は絶対存在たる対象を自己意識があるがゆえに存在するとしながら、同時に自己を離れた彼岸にあるものと想定するという矛盾を犯しているのだ。
     ここから生じるのが〈置き換え〉だ。これは道徳の本質とも言える「福徳の不一致」を道徳的意識が行動で一致させようとする(第一要請)のだが、その目標を普遍的絶対目標である〈最高善〉に置き換えてしまうため個別の行動がその普遍性の獲得に「真剣でな」くなり、かつ最高善はすでに完成形にあるため道徳自体が不要となってしまう、という矛盾含みの行動である。また、理性と感性の一致(第二要請)においても、先述の通り完成形の道徳は道徳不要論につながるため、自分の中の自然と理性の一致こそが重要だと考えるのだが、ここでの一致は理性が感性を手懐けるべきであることを言っており、目標が彼岸という遠い位置に置かれているためまたもや道徳的意識は「真剣でない」ことになる。
     このように、道徳的意識が道徳への途上という未完成の状態を理想とする以上、完成形としての「真の幸福」に値する人間は存在しないこととなってしまう。つまり道徳を幸福の前提条件とする第一要請と第二要請が双方ともに成り立たないことになってしまう。
     そこで要請されるのが第三の要請、すなわち道徳の完成形である「聖なる立法者」たる神を要請するのだが、これも結局は〈置き換え〉とされる。元来道徳的意識は、自らの自立的判断以外を絶対的なものとは認めないはずだからである。また、道徳的意識は道徳的意識の感性的側面を不完全とみなす一方で、絶対者の道徳の感性的側面は肯定するという、ある意味で非道徳的な態度をとってしまうことになるy(感性は克服されるべきなので)。
     このような置き換えは普遍と個別の綜合には至っておらず、道徳的意識は個々の行為の全体的な道徳性を担保すべく神を要請する。真の道徳性は、神においてのみ「現存在」する、すなわち道徳性が意識のあり方として存在(対自)し、かつ道徳性が現実世界においても存在(即自)するとされる。道徳的意識は感性を理性に一致させるべきとするが、神の導入により感性と理性が対等な立場で完全に一致するというのだ。しかしこれは結局のところ、両者の一致が神のみに可能ならば神ならぬ我々には不可能であり、感性・理性はともに道徳的なものにとり非本質的なものとなるし、一方で道徳と感性が現実に一致しうるのであれば両者は本質的なものとなるがその一致は彼岸にあり実現しない、という決着不能な〈アンチノミー(二律背反)〉につながることになる。
     この二律背反から、道徳的意識は事態を理想状態の表象(イメージ)と捉え、人間は福徳一致に到達不能であり神の恩寵に縋る他ないと考えるようになる。これは本来道徳的意識の抱く純粋義務(絶対本質に対する自己の洞察を本質とする)とは相反してしまう。ここから、自己意識は自らを個別的な偶然性を持ちながらも同時に純粋知と普遍的行動をとる存在とし自覚する契機が出てくる。これが〈良心〉である。

     これまで、人倫の世界(個人の権力なし、個別≠普遍)、教養の世界(社会革命でも普遍性は実現せず)、そして道徳の世界(普遍=内的義務、ただし普遍と個別は統一されず)と変遷してきた。そこでは自己は形式的には空虚な個体性、空虚な普遍意思、空虚な自己意識でしかなく、これに内実としての自己の信念を与えるべく生じてきたのが良心ということになる。
     この良心のあり方としては、自己の内的な理想を行動により実現化する〈行動する良心〉があり、これは対象と知の一致を行動によって直接もたらすことにより、個々の行為と普遍との一致を追求しようとする。福徳一致のために神を要請する道徳的意志とは対照的な存在である。道徳的意識では自分の行為が純粋義務と一致する場合のみを「真の道徳」と看做したのに対し、良心は純粋義務を抽象的なものとしか考えておらず、個々と普遍の一致は「確かに自分のこの行動が普遍的であり正しいのだ」という〈自己確信〉のもとにしか得られないとする。このように〈行動する良心〉では、道徳的意識が純粋道徳の保証を聖なる絶対者に求めた上、自己と理性、感性と道徳などの間の動揺を抑止すべく〈置き換え〉を要したのとは異なり、自己と当為(普遍)の間に乖離は生じない。また、〈行動する良心〉は道徳の実現は困難であり神に委ねるほかないという道徳的意識が内包する「矛盾」が持っていた自己と当為の区別が、もはや区別ではなく〈概念の純粋な否定の運動〉となっており、これこそがそもそも〈自己〉であるということだ、ということになっている。ここではカント的「福徳一致のアポリア」は存在せず、〈自己確信〉が行動を通じて普遍性を獲得できるかだけが問題となるのだ。
     また、純粋義務は2つの側面、すなわち対自的側面(意識)と対他的側面(普遍、他人からの承認)を持つが、〈行動する良心〉は自己の固有の義務を行動に移すことで他者からの承認を得、これにより普遍性を獲得する。つまり個人の表現が同時に普遍的現実として存在することになり、これは理性章で出てきた〈ことがらそのもの〉とかなり近い概念であり、そこでは個人が種々の対象に絶対本質を見出す〈誠実な意識〉により担保されるという構造になっていたが、〈良心〉ではこれを支えるのは〈自己確信〉すなわち主体である。つまり、「ことがらそのものが自己に内実として存在しており、自己の選択と決断以外には絶対的根拠はない」という純粋義務についての自己確信なのである。
     そうすると、自己確信においてはこれまでと異なり、追求すべきものは外部の〈対象〉ではなく、自己の内的な〈感性〉の方が手掛かりとして重要だということになる。つまり〈述語〉(外部に媒介されてもたらされる)ではなく〈主語〉(無媒介に直接自己に与えられるもの)が重視され、ここに絶対の自主性すなわち〈絶対的至上権〉が生じる。絶対的・客観的「正しさ」の基準はなく、にもかかわらず/だからこそ、主体は自己の「正しさ」の信念に賭けるのである。カント的道徳観(正/不正h自明に決まっており、正であれば信念に背いても従え)との相違は鮮明だ。ヘーゲルの考える〈良心〉では、自体存在としての「純粋思考」と、対自存在としての「個性」が行為としての〈止揚〉を通じて統一されているのである。
     一方、良心は自己のうちに真理をもつとはいえ、他人の承認がなければ自己満足に陥る危険性もある。自己の普遍性を支えるために、〈言葉(断言)〉による「自己外化」、すなわち「普遍性ある自己」という存在可能性を獲得する必要があるのだ。行動の内容ではなく形式を〈言葉〉によって外化することで、〈批評〉という相互承認の営みの可能性が開かれるのである。
     このように〈絶対的至上権〉を獲得した良心は〈道徳的天才〉となり自らの内なる声と神声を同一視し、自らの行為を神への奉仕とみなすようになる。そこで良心どうしが相互承認する場としての〈教団〉が形成される。教団内での語らいにより、実際の行為せずとも行為に現実性が付与されるのである。一方で、良心が内に籠って外化する力を失う不幸な〈美しい魂〉も生じ、良心は限定された一般的義務である〈掟〉を否定して自己内部の捏造を純粋義務とみなすようにもなる。しかし最終的には内部の純粋義務は自分にとっての現実に過ぎないと気づくことになる。
     「自分の行動する良心」は「他人の行動する良心」との対立を意識するようになり、自らの行動の本質を自己確信とする一方で、他人の行動においては自己確信は本質ではなく契機に過ぎず、自己確信を欠いた〈悪〉であると批判するようになる。この〈批評する良心〉は、他人の良心の偽善(個別を普遍と強弁する)を暴くのだが、その根拠も自己信念(=独善)でしかないという自己撞着を内包しており、かつ実際に行動しないため個別と普遍の対立から逃避している。そのため、行動する良心からやはり偽善者としての批判を受けるのだが、これを拒絶し〈頑な心情〉と化す。しかし最終的には批評する良心が自己の固執を放棄し非を認める〈赦し〉が生じる。自ら認める普遍性が他人から見れば単なる個別性であるという、〈絶対精神〉の本質と同時に、自己確信が同時に自己との対立や交替として表れる(どちらかが正なのではなく、今まで同一であったものに区別が生じ、この区別がさらに自らを区別して自己に回帰する)という否定性の運動として顕在化してくる。
     そして、自己を普遍と確信する批評する良心と、自己を個別と確信する行動する良心が、〈然り〉という相互承認の言葉で互いに自己を放棄し、ここに分裂していた内面の連続性を確保する存在として〈神〉が現れるのだ。

     〈宗教〉は、「精神としての世界」を絶対者=神と看做し、自己の本質を支えるものとして認知しようとする精神のこと。ここでは人間の精神は世界の精神の本質を分有した個別の精神として扱われている。世界を自己の意識の中で対象として経験する〈理性〉や〈精神〉とは視点が異なっている。ここで宗教の歴史とは、本体から分離された個別の人間精神が、本来の絶対者=神としての精神を自らの本質として認識していく、和解と統合の過程として描かれている。ここではこれまでの意識→自己意識→理性→精神という進み行きが以上の視点から〈自然宗教〉→〈芸術宗教〉→〈啓示宗教〉の「表象の形式の変遷」として再構成される。「人間の創造と堕落」が絶対的存在からの個別性の分離を、「父・子・精霊の三位一体」が始原の「一」(神)からの個別精神の分離(イエス)の分離と赦しと復活を経た「個別と普遍の統合」、すなわち〈絶対知〉を表象する、といった形で展開される。
     自己と現実世界の関係の認識を深める〈現実的精神〉と、世界の本質=実体それ自身を追求する〈宗教的精神〉が、それぞれ〈良心〉〈キリスト教〉として結実し、両者が和解することによって〈絶対知〉が生じるのだ。

     最終章の〈絶対知〉のテーマは、(1)対象と自己との同一性の達成(理性章でも扱われていたため、絶対知は理性の特殊概念と考えることも可能)と(2)精神が自らの本質である〈無限性〉の運動を自覚すること、の2点。ここで無限性とは①無媒介な実存在②他者との関連③本質、の3つの契機を経る運動を指すが、これは実質的にはすでに見たように〈良心〉ですでに到達された地点であり、〈絶対知〉とは実は良心とほぼ同一の地平にあるとも言えるようだ。
     〈啓示宗教(キリスト教)〉において〈絶対精神〉(=対立者同士の相互承認)が見出されたが、これはまだ自分と対象が分離した状態である。自己と対象の同一を打ち立てるには、自己意識を外化した「事物のあり方」を定立する必要がある。つまり、「自分とは他であることのうちで自らのもとに存在(549、422)するものであるという図式を見出さねばならない。
     これまで意識の運動は、上記の無限性の3つの契機に照らせば①感覚的確信(無媒介な対象の知覚)②知覚(対他かつ対自、規定されたあり方)③悟性(本質・普遍)を経験してしてきた。これらを個別の契機ではなくその総体を自己として知ることが〈絶対知〉だという。
     詳述すれば①は観察する理性、無媒介な知覚による「自我の存在は事物である」とする〈無限判断〉である。この判断は共通性のない物を直接結びつける対自的なものである。②は国権や財富などに照らした有用性において考察される「実物は自我である」とする判断。物は自我との関係において存在するという対他的な判断である。そして③において、事物は本質・内なるものとしても認識されねばならない」とする〈道徳的自己意識〉が生じてくる。これは道徳法則を絶対本質とし、現実存在は空虚として退ける意識で、本質と存在を分裂させその不一致を〈置き換え〉で取り繕うという自己欺瞞であるが、これを統合させたのが〈良心〉というわけだ。
     この〈良心〉では、①の無媒介な知覚が「行為(現実)ー道徳(知)」、②の限定されたあり方が「行動する良心(個別)ー批評する良心(普遍)」、③の普遍性が〈赦し〉による「行動する良心(個別)ー批評する良心(普遍)」の統合を経た〈純粋知〉の獲得、としてそれぞれ統合されることになる。これが自体的側面(意識・対象)と対自的側面(自己意識・自己)の和解であり、前者を体現する〈宗教的精神〉と後者の〈良心〉との融合としての〈絶対知〉、つまり自体的かつ対自的に自己を知ることなのだ。ただ、良心はこの領域にすでに達していたともいえる。良心は〈美しい魂〉として神的なものを自己として直感していたが、この神的なものとは〈啓示宗教〉における絶対本質としての神であり、これは行動する良心(悪・人間)と批評する良心(善・イエス)に分裂していた良心が赦しにより統合されることで〈概念〉すなわち自分の外化(反対)との統一が達成されていたのだ。これこそが絶対知であり、普遍的良心と個別的良心の統一(啓示宗教ではイエスと人間、精霊と教団の統一)である。

     そもそも〈絶対知〉とは、真理を対象として捉えた場合、それが〈自己知〉という形式を持つことであり、それは真理が〈現存在〉でありながら〈自己〉というあり方も持つことである。これがヘーゲルのいう〈概念〉であり、感覚的な具体性を一切削ぎ落とした純粋な思惟の諸規定を指すようだ。それは存在/無、本質/現象、個別/普遍といった、対象であってかつそのまま自己の知であるようなあり方だ。これは〈意識〉では自己と対象は明確に異なるものとされていたのとは好対照をなしている。この概念的に把握する知のあり方は、ヘーゲルでは〈学〉(論理学)と呼ばれる。

     「精神現象学」を通じてキーワードとなるのは〈無限性〉としての自己の運動である。つまり①「この自我」でありながら直ちに「普遍的な自我」であり、②「知」が一つの内容をもち、これを自己から区別する〈否定性〉の契機を持つ。すなわち自分を概念の両項に分裂させ、③区別された内容もまた自己として自己のうちに帰還させる、という運動だ。ここのところがすっと入ってくるか否かが、この長大な書物を受容できるか否かの分水嶺になると思う。

  •  
    ── ヘーゲル/熊野 純彦・訳《精神現象学 下 20181211 ちくま学芸文庫》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4480097023
     
    ── ヘーゲル/熊野 純彦・訳《精神現象学 上 20181211 ちくま学芸文庫》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4480097015
     
    (20230501)
     

  • 面白かったですね。
    (数年前に一度読んでいて、今、再読中)

    もちろん哲学書の御多分に洩れず難解なのだけれど、この難しさの質は「何とかなりそうな」難しさです。私たちにも馴染みのある合理や理性の射程範囲にあるような。まあそれでも私のような凡人には難解極まりないのですが。

    私個人としては哲学のテクストに文学性や矛盾性のようなものを求めているふしがあります。ヘーゲルのこれはまさにその宝庫で楽しく味わえます。

    本書の面白さの一つは、困難や苦難を肯定し、受容するきっかけを与えてくれる(かもしれない)こと。
    荘子の「楽しむところは窮痛にあらざるなり」を思い出します。
    対立や衝突というものをどのように見なすか。

  • P154 381
    「反抗する自己意識である場合にのみ、自己はみずから自身が引き裂かれ、分裂していることを知っている。そしてそのように分裂しているのを知ることで、自己はただちに分裂を超えて高められているのである。」「肯定の対象となるのは、ひとり純粋な〈私〉そのものだけである」
    この辺りとか、本当にナショナルアイデンティティとかに悩んだりしていた私には刺さる表現だった。ヘーゲルは国家を枠組みとしてみているけど、同時に国家の限界も思考しているという印象。

  • 1年ぶりに読み返したけど面白かった!
    良心が赦しによって相互承認に至る過程は特に面白い。しかし、現代に引き付けて考えてみると、ヘーゲルの言うような「赦し」による和解が難しくなっているように感じる。むしろ、道徳の段階のような、自己の正しさに固執する契機の方が目につくのではないだろうか。自己の知の有限性を自覚する良心だからこそ、和解が可能なのか。そうなると、情報が溢れる現代社会において、良心の段階に達することこそが難しいのかもしれない。

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