藤原定家全歌集 上 (ちくま学芸文庫 コ 10-11)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (752ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480097545

作品紹介・あらすじ

『小倉百人一首』の選者としても有名な藤原定家自作の和歌四千六百余首を収録。上巻には私家集『拾遺愚草』を収め、全歌に現代語訳と注を付す。

感想・レビュー・書評

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  • ・定家の和歌をすべて読まうとは思つてゐないので、これまで読んだことはない。この先もまとめて読むことはないであらうと思つてゐたところで、久保田淳校訂・訳「藤原定家全歌集」上下(ちくま学芸文庫)2巻が出た。文庫ながら大冊である。合はせて1,500頁ほどある。見開きで右に本文、定家の歌が載り、左に訳と注が載る。1頁12首、読み易い。訳など気にせずにこれだけ読むこともできる。これはこれでおもしろい。大体の意味が分かれば良いと割り切ればいくらでも読める。ただ、すべてが何となく意味が分かるといふわけにはいかない。掛詞等が使つてあつたりすると、一読読解不能といふことになる。稀に一読三嘆の歌もあるのだが、そんなのがさうあるはずがない。定家でなくとも、やはり1,000年近く前の人の作品である。五七五七七の形は同じでも思考が違ふ。感性が違ふ。訳や注が必要となり、それを頼りにせざるを得ない所以である。さうして一気呵成に読み飛ばしたり、訳註を頼りにつかへつかへ理解しようとしたりで、読めさうでなかなか読み進めない。古典とはかういふものであらう。
    ・上は「拾遺愚草」である。20歳の「初学百首」から始まる。最初の立春の歌「いづる日のおなじ光に四方の海の」は決まりに従つたいかにも若書きの作なの であらうか。初めてまとめた百首歌の巻頭の一首であるといふ。最初の頁の8首のうち3首が体言止め、春20首のうち7首が体言止めになつてゐる。これは多いのか少ないのか。これくらゐなら上代中古にありさうな気がする。ただ、個人的な感じとして、この体言止めに万葉の古風はない。新しいけれど、新しくなりきらぬ中途半端といふか、まだ定家が定家としての作風を確立する前の作品かと思ふ。全作品を巻頭から読んででもいかなければかういふのには気づかない。その意味で、全作品は読んでみるものである。しかも本書は全訳である。巻頭作の口語訳、「立春の今日、日の出の光はいつもと同じだが、それとともに四海にも、春がやってきたのであろう。」(11頁)。ほぼ直訳である。比較的分かり易い歌なのでこれで良いのだが、もしかしたら学者でない訳者ならばかうは訳さ ないかもしれない。もう少し色をつけてそれなりに格好良く訳すかもしれない。いかにも直訳ではおもしろくない。しかし、そこは学者である。格好つけることなくきちんと作品通りに訳す。実は本書にはこんなのが多い。例の三夕の歌、25歳頃の作である。若いと思ふ。「見わたせば花も紅葉もなかりけり」の訳はかうである。「見わたすと、花も紅葉も、はなやいだ色彩は何も無い。ただ漁師の苫屋がぽつんのあるだけの、海浜の秋の夕暮の風景。」(37頁)これもほぼ直 訳、他に訳しやうがないのかもしれない。もつと端的に訳すこともできようが、理解するうへで最低限必要な語を補つてかうなつたのであらう。そこが学者、研究者の業である。これだけの大冊だと、変に格好つけた訳だと読んでゐるうちに疲れが出てきさうである。読む方だけでなく読んだ本人も疲れてゐることが分かる1首、「なべて世のなさけゆるさぬ春の雲たのみし道はへだてはててき」、歌詠みとして優れてゐても世渡りにはあまり関係がない。「おしなべて世の情けに 甘えることは許されないのだ。春の雲に、留守中の巣をよろしくと頼んで谷を出た鶯のように、私は今後のことを政治の枢要にある人々に頼んでおいたものの、 期待した道はすっかり隔ってしまった。」(445頁)これなどは定家の置かれた状況を分かりやすく訳文中に補つてある。さう、定家とはかういふ人だつたのである。「紅旗征戎我が事にあらず。」と言つた人なのである。

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