読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫 ハ 46-1)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480097576

感想・レビュー・書評

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  • この本はタイトルが胡散臭いなあと思いましたが、30か国で大ヒットしたフランス発のベストセラーだそうです。

    かなり長い事積んでいて、読んでみると内容はしごくまっとうで、非常に良書だと思いました。
    「読んでいない本について堂々と語ること」は悪いことではなく、むしろ推奨されるものであるということがわかりました。
    以下重要と思われた部分。

    〇本書は<読んでいない本についてのコメントを求められるという状況に対するテクニックを提案する>
    〇どんなに熱心な読書家でも、すべての本を読む時間はない。
    〇教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではなく、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ。本の内容は知らなくてもその位置関係が分かっていること。『ユリシーズ』を読んでいなくても位置が分かっていればよい。
    〇<共有図書館>を把握していることが書物について語るときの決め手となる。本を読まない人間と読書と無縁な人間とは本に対する態度においても、その奥にある動機においても違う。
    〇ある本を深くは読むが、それを位置づけられない者と、いかなる本のなかにも入ってゆかないが、すべての本のあいだを移動する者の、どちらがよりよい読者といえるだろうか。
    〇文学について考察しようとする真の読者にとって、大事なのはしかじかの本でなく、他のすべての本の全体であり、もっぱら単一の本に注意を向けることは、この全体を見失う危険をともなう。
    〇一冊の書物は、私が<共有図書館>と呼んだ大きな全体のなかの一要素にすぎないので、評価するのにそれをくまなく読んでいる必要はない。大事なのは、それが<
    共有図書館>のなかで占める位置に似ている。
    〇しかじかの本を読んでいないとはっきり認めつつ、それでもその本について意見を述べるというこの態度は、広く推奨されてしかるべきである。
    〇読んでいない本について語る方法を学ぶということが、創造の諸条件との出会いの最初の形である。教養に従事するすべての者にはこの実践の意義を説く責任がある。
    〇学生たちは学校で本の読み方や、本についいて語る方法は教わっているが、読んでいない本について語る方法を教えることは学校のプログラムには欠けている。つまり、教育が書物を脱神聖化するという教育本来の役割を十分果たさないので、学生たちは”自分の本を書く権利”が自分たちにあるとは思わない。
    〇本書の目的のひとつは「読書コンプレックス」からわれわれを解放することである。
    〇「読んでいない本について語る」行為がめざすべきゴールとしてむしろ「自分自身について語ること」に結びつけられている。
    〇本がわれわれの内部にすでに書かれてあるのだとしたら、それを「読んで」いなくても自信をもって語っていいのだ。

  • 読後思わず「ああ、面白かった!」と声を挙げてしまった。
    全く新しい読書論、あるいは書物論、そして教養書とも言える。
    読書というものに大きな方向転換を促す本で、書物との関係を根本から変える力も持つ。
    本を読まずとも語れるというアンチテーゼに臆さず、また決して舐めることもせず、およそ全ての本読みさんにお薦め。
    著者の挑発とユーモアによる仕掛けが何箇所かあるが、もし気づいてもミッテランのように「Et alors( それで)?」と微笑むことを忘れずに。間違ってる!と騒ぎ出すのは無粋の極みなのだ。

    第一部;未読の諸段階「読んでいない」にはどんな段階があるかを解明。
    第二部;どんな状況でコメントするのか「未読書について語る」状況の説明。
    第三部;これらの窮地への対処法。読まずに語る方法のアドバイス。

    どれも四章からなり、各章には一人の作家の作品からとったエピソードを配している。
    構成も整然として、翻訳も平明で大変読みやすい。
    また、引用された作品については、左ページの端に記される箇所がある。
    〈未〉ぜんぜん読んだことのない本 〈流〉ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
    〈聞〉人から聞いたことがある本 〈忘〉読んだことはあるが忘れてしまった本
    ◎とても良いと思った ○良いと思った ✖ダメだと思った ✖✖ぜんぜんダメだと思った
    ・・言い換えれば、どれだけ読んでいないかを明示しているというイジワルさ。
    その手には乗るかと受けて立ったワタクシだが、本を読まなくても語れるという本を読んでしまったわけで、これもまた丸ごと仕掛け本なのかと頭を悩ますことになる。

    最初に登場するのはムージルの小説「特性のない男」に出てくる図書館司書。
    書物に対するあらゆる愛情を持ちながらも、本を読むことはないという。
    彼にとって大切なのは、様々な書物の間の「通路」や「接続」であり個別の書物ではない。
    この「全体の見通し」の概念を直感的に知っているのが教養の有無であると。
    本の内容は知らなくとも、本の位置関係を分かっていればどんな本の話題にも対応できるのだ。
    その次に登場するのは「ヴァレリー」で、本を読まなくても良いと繰り返し説かれる。

    そもそも「本を読む」とはどういうことなのか。
    切れ切れの記憶も月日と共に忘れ去られ、読んだことさえ覚えていないこともある。
    「読んだ」と「読まない」の境界さえ曖昧だということだ。
    著者は「共有図書館」という概念を提示し、それが書物について語るときの決め手であると。
    本を読まないという行為は、決して読書と無縁ということではない。能動的に読まないのだ。
    このあと引用されるのはエーコの「薔薇の名前」で、この本の中でも読んだこともない本について登場人物たちは語っている。指摘されるまで気づきもしなかったが。
    ラストに最初の仕掛けがあるのだが、たまたま最近再読したため、すぐに見破ることに。
    だがもしも、一度目の読書(20歳のぼおっとした娘っ子だった)の断片的な記憶のままだったらたちまち騙されただろう。「読んだ」という記憶の、なんと曖昧なことか。
    (こんな仕掛けを考え付くなんて、著者はさぞかし精読したに違いない!)

    では、読まないで堂々と語るためには何が必要か。この解説がなかなかの説得力だ。
    批評を創造の一形態として捉え、あえて読まないことで自由な解釈ができるというのだ。
    良い読者が実践することは「さまさまな書物を横断すること」であり、書物はあくまでも通過点に過ぎないということ。
    書物そのものに入り込まない賢明さを持っていれば、創造性という道をひらいてくれるだろうと。
    気後れせず、自分の考えを押し付け、本をでっちあげ、自分自身について語ること。
    それは他ならぬ創造性のある行為であると。
    表現はやや乱暴だが、耳を傾けるべきは現実の書物にではなく自分自身なのだ。

    最後に近い章では、漱石の「吾輩は猫である」が引用されている。これはちょっと嬉しい。
    左ページには〈流〉の表記があるが、◎だから許してあげよう。
    「ハムレット」を初めて聞かされたティボ族の人々のように、自分を方向づけることが出来ていれば、読まなくても堂々と意見が言えるのだろう。

    多くの本読みさんは「十分に読んでいない」という意識を一種のやましさとして抱えているという。しかも存在する全ての本を読むことは不可能なので、このやましさには出口が無い。こうした読書コンプレックスから解放する本でもあるというのは言い得て妙かもしれない。
    ひとつだけ疑問があるとすれば、読まずに語る方法があるのなら、読書から得た知見は無駄になるのだろうか。いくら読んだところで成長などないということなのか。
    ああ、幻惑の森を彷徨うようだ。そこがまた、面白いことこの上なしという厄介な本。
    繰り返し吟味したい、貴重な一冊だ。

    • nejidonさん
      夜型さん、このスピーチは素晴らしい!
      言葉にうまく出来なかったけれど、まさにこれでした。
      これ、ずっと保存します。
      とても嬉しいです。...
      夜型さん、このスピーチは素晴らしい!
      言葉にうまく出来なかったけれど、まさにこれでした。
      これ、ずっと保存します。
      とても嬉しいです。やはり夜型さんは少し先にいる方です(^^♪
      2020/05/04
    • まことさん
      nejidonさん。こんにちは!

      おかげ様で、やっとのことで読みました。
      ありがとうございます。読んでよかったです。
      少しづつ読み...
      nejidonさん。こんにちは!

      おかげ様で、やっとのことで読みました。
      ありがとうございます。読んでよかったです。
      少しづつ読み1週間くらいかかってしまいました。
      『本を読む本』より私には難しく感じられました。
      「読んでない本について堂々と語ってよい」とこの本には書かれていますが、最初から最後までちゃんと読んだのに上手くレビューできませんでした(笑)。
      やっぱり、nejidonさんのレビューの素晴しさには改めて脱帽です!!
      2021/03/19
    • nejidonさん
      まことさん♪
      おお、とうとう読まれましたね!
      ずいぶんお待ちしておりました(笑)
      読んでみると面白くて驚かれたのではないでしょうか。
      ...
      まことさん♪
      おお、とうとう読まれましたね!
      ずいぶんお待ちしておりました(笑)
      読んでみると面白くて驚かれたのではないでしょうか。
      私は最初図書館で借りたのに、傍に置いておきたくて買ってしまいました。
      関連本を読むと本書のタイトルが頻繁に登場しますから、読んでおくに越したことはありません。
      トピックをたくさん拾ってましたが、それもまた大変だったのではないでしょうか。
      お疲れさまでした(*^_^*)
      これからも、他の方のレビューなど一切気にせず、しれっと載せてくださいね。
      被ろうが被るまいが、そう考えたのであればその方のものですから(笑)
      お越しいただいてありがとうございました!
      2021/03/19
  • 読書とはなんなのかを突き詰め、読書・教養の弊害、本に囚われないことの効用を説いた書。

    著者の主張は要するに、書物というものは、内容の捉え方自体百者百様だし、時間と共に記憶が薄れ曖昧模糊となる一方、思い込みや嗜好などによってその記憶が歪められてしまうものでしかなく、書物を精読して客観的に理解した状態などというものはそもそも存在しない。なので、本を読んでいないことは恥ずべきでなく(他人からの受け売りだって立派に本を理解していることになる)、むしろ読んでいない方が内容に囚われず自らの思いを創作的に語れるからいいくらいだ、ということかな。「読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである」!

    暴論ではあるけれども結構頷ける。自分のことを振り返ってみても、既読書の殆どは、読んだ事実をブクログで確認できるだけで、内容が頭に何も残ってない。何のために本を読んでいるのかといったら、読むプロセス自体を楽しむこと&自己満足、この2つ以外のなにものでもない。本を読んだからその分賢くなっているはず、などと勘違いしてはいけないのだ!

    本書、とにかく文章が堅くて、その上抽象度も高いから、内容がスッと頭に入ってこなかった(何ヵ所も読み返しながら読んだ)。読みにくい書ではあった。

  • 【感想】
    本書を読みながら、ピケティの「21世紀の資本」を思い出してしまった。

    あなたは「21世紀の資本」を最初から最後まで通読しただろうか?
    おそらくほとんどの人がしていないだろう。
    だが、ピケティの「資本収益率(r)はつねに経済成長率(g)より大きい(r>g)」、「富は持てる者のところに集まり、格差は拡大していく」という主張は、知っている人が多いと思う。

    この読み方は正解か不正解か、と言われれば、恐らく正解である。
    正直なところ、どんなに長い本であっても、骨子はA4用紙1枚程度に収まる。500ページだろうと、1000ページだろうと、必要とされる部分はその何十分の1にも満たない。
    しかし、読まれないと分かりつつも、筆者は無駄な部分を書き続けねばならない。
    なぜなら、本は読まれない部分が無ければ本にならないからだ。

    もしピケティがA4用紙1枚に「(r>g)」「資本主義社会において格差は拡大していく」とだけ書いても、世間は見向きもしないだろう。言っていることに根拠が無いからだ。その証明をするべく、戦前から現代までの税務データをかき集め、ページの大半をグラフと説明に費やした。

    我々「読む側の人間」はなんてお得な立場だろう。
    一方、「書く側の人間」はサボってはいけない。

    知識はインプットの際にはコンパクトで済む。しかし、アウトプットの際にはインプットの数倍の情報を記さねばならない。ひと握りのエッセンスを自分の頭で膨らませ、論理とストーリーで証明し、読者を納得させなければならないからだ。

    本書で述べられた「読んでない本について堂々と語ること」は、簡単そうに見えて相当に難しいのだ。

    人間は誰しも、自分自身が著者の立場(何かを語る立場)になれば、冗長で退屈な前フリを書かねばならない。読んでいない本について堂々と語るように、自分自身について堂々と語らなければならない。読んでいない本の概要をざっと流し読みするように、自分自身について知っていることの断片を、誰にでも分かるかたちで翻訳しなければならない。

    どう本と付き合い、どう本を読むか。転じて、そのエッセンスをどう自分のものにし、どのような言葉で語るか。

    簡単なように見えて、難しいテーマである。


    【本書のまとめ】
    1 全然読んだことがない本
    読者が把握を試みるべきは、個々の書物が他の書物と取り結ぶ関係に関心を払うことである。逆説的に言えば、「全体を正確に把握するために、個々の書物には目を通さない」という態度を取ることである。
    教養ある人間が知ろうとつとめるべきは、さまざまな書物の間の「連絡」や「接続」であって、個別の書物ではない。さまざまな思想の間の関係は、個々の思想よりも大切なのだ。


    2 流し読みをしたことがある本
    そうした「全体の見晴らし」とでもいうべき概念は、一冊の本をひとつの全体として考えた場合にも有効である。そのため、本を始めから終わりまで読む必要はない。

    こうした読み方、つまり流し読みの概念は、少なくとも2通りに解釈することができる。
    ひとつは本の冒頭から初めて、途中を適当に飛ばしながら最終ページに向かう「線的な流し読み」。もうひとつは本の中を自由に行き来する「円的な流し読み」。
    いずれにせよ、読んでいる本を軽んじているわけではない。

    もし流し読みをしている人たちが本についてコメントした場合、その行為を「本を読まずにコメントしている」と言えるだろうか。

    流し読みとは、本のしかじかの箇所に埋没せず、本に対して適当な距離を保つということを意味する。こうしてはじめて、本の真の意味を見極めることができるのだ。


    3 人から聞いたことがある本
    以上のように、教養とは、書物を「共有図書館」のなかに位置づける能力であると同時に、個々の書物の内部で自己の位置を知る能力である。端的に言えば、一冊の本について何らかの考えを抱き表現するのに、その本を手にしている必要はないのだ。

    人は一度も手にしたことが無い本――人から聞いたことがある本――についても、比較的詳しく語ることができる。

    われわれが話題にする書物はすべて「スクリーンとしての書物」だ。
    2人の人物が書物について語るとき、それは本について語るのではなく、自分の記憶、思想、自らの意見について語っている。そして、われわれがそのときどきに置かれている状況と、その状況が内包する無意識的価値によって、本についての記憶は書き換えられている。
    書物というのは、世間一般で思われているほど不動ではないのだ。


    4 読んだことはあるが忘れてしまった本
    このように、読んだ本と読んでない本のあいだに大した違いはない。

    読書を始めた瞬間から、抗いがたい忘却のプロセスが作動する。
    我々は、本についてというより、本の大まかな記憶について語るのである。その記憶が、そのときそのときの自分の置かれた状況によって改変されることは言うまでもない。

    読むということは、たんに情報を得ることではなく、もう一方で忘れることでもある。
    読書主体のイメージは、自己を保証された主体のイメージではなく、テクストの断片のあいだで自分を見失った主体だ。


    5 大勢の人の前で語ること
    他者との間で一冊の本について語るとき――たとえその本を参加者全員が読んだことがあっても――話題にされるのは、現実の書物よりも断片的な、再構成された書物である。
    人はみな、自分の心の中に「内なる図書館」を持っている。内なる図書館は、個々人の読書習慣の断片、日常体験により形作られている。もっと言えば、我々自身が内なる図書館に蓄積されてきた書物の総体であり。
    そして各陣営の「内なる図書館」が一致しない以上、一冊の本について語る行為は必然的に緊張を生み出す。

    神話的、集団的、ないし個人的な表象の総体を「内なる書物」と呼ぼう。
    この想像上の書物は、新しいテクストの受容にさいしてフィルターの役割を果たし、テクストのどの要素を取り上げ、どのように解釈するかを決定する。
    内なる書物の存在により、他人との一冊の本の議論が不均質になる。しかし内なる書物のおかげで、作品がもちうる無数の豊さに接近するきっかけを与えられる。


    6 読んでない本について著者自身の前でコメントする
    正直、著者自身も自分が書いた本を全て理解しているわけではない。そのため、もし著者自身の前でコメントしなければならない状況にある場合、とにかく褒めることを勧める。作品が気に入ったと、できるだけあいまいな表現で言ってもらうことが、作者にとっては一番うれしい。


    7 読んだことのない本について語るためには――気後れしない
    大事なのはひとつの文化に共通する「共有図書館」全体であって、そこでは個々の書物は欠けていても構わない。従って、しかじかの本を読んでいないとはっきり認めつつ、それでもその本について意見を述べるという態度は、広く推奨されてしかるべきだ。
    にもかかわらずそれがほとんど実践されないのは、本を読んでないことを認めることが、われわれの文化において重い罪悪感を伴うからだ。

    読んでない本について気後れすることなしに話したければ、「欠陥無き教養」という重苦しいイメージから自分を解き放つべきだ。
    人は読んだ本を忘れる。どこからが「読んだ」で、どこからが「読んでいない」かなんて曖昧だ。堂々と語っていい。
    他人に対して「教養人と見られたい」という欲求を捨て、知らないことの恥ずかしさから解き放たれたとき、堂々と語ることができるようになる。


    8 読んだことのない本について語るためには――自分の考えを押し付ける
    テクストの変わりやすさと自分自身の変わりやすさを認めることは、作品解釈に大きな自由を与えてくれる。作品に関するわれわれ自身の観点を他人に押し付けることができる。
    内なる図書館は、自分のものの見方の正しさを主張する者の欲求に合わせ、いとも容易に変化するのだ。

    読書のパラドックスは、自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまで通過点でなければならないという点にある。
    しかし、あらゆる読者は、他人の本に没頭するあまり、自身の個人的宇宙から遠ざかるという危険にさらされている。

    良い読者が実践するのは、さまざまな書物を横断し、書物をつうじて自分自身について語ることである。それが批評活動の究極のねらいだ。

    われわれはもっと、本を通じて自分自身のことについて語っていい。発信していい。

    読んでいない本について語るのは、まぎれもない創作的活動なのだ。

  • 読んだ本について語るには、むしろその本を読まない方がいい。こんな矛盾しているような言い分ですが、唸ってしまうほど納得がいきます。なにが読んでいる状態で、なにが読んでいない状態なのか、「読書」の不確定さから議論が広がっていきます。

    本を読むときはどんな形であれ必ず自分と対話しているはず。読書は、自身の内部で書物を変容させ取り込んでいく過程であり、自分というフィルターでろ過していく作業ですよね。同じ本を別々の人が読んでも違うし、再読によっても変わる。読むことは創りあげることでもあると思います。

    読書の延長としてある批評という行為も、だから、教養という枠には収まらない創造的なものですよね。私は著者のいうことを既にどこかで理解していたような気がします。

    「ル・モンド」などでとりあげられたベストセラー。

  • SNSでちょっとした流行になった「7日間ブックカバーチャレンジ」。
    趣旨は読書文化の普及に貢献するためで、好きな本の表紙を1日1冊、7日間投稿するというもの。
    外出を控えたいこの頃、なかなかの好企画で、人様の投稿も楽しみながら拝見した。
    自分が挙げた未読の書籍をまとめつつ、あわせて名著『読んでいない本について堂々と語る方法』をご紹介。

    「7日間ブックカバーチャレンジ」のルール、~好きな本かつ表紙画像だけアップ~ということを生かして、積ん読本シリーズでピックアップしてみた。つまり未だ読んでいないものを選んでみた次第。これならお手軽で、7日間毎日選び続けることができそうだったからだ。

    それに名著『読んでいない本について堂々と語る方法』にはこうある。
    「書物において大事なものは書物の外側にある。なぜならその大事なものとは書物について語る瞬間であって、書物はそのための口実ないし方便だからである。」

    つまり大事なのは本の表紙であると(笑)。他人の書いたブックカバーチャレンジを読んでいると、本は読むものではなくて、その人とその本の関わった背景や理由を楽しんでいることに他ならない。また、その人と作家の解釈という名の対話を読み取って楽しんでもいる訳でもある。だから、本は読まなくても充分楽しめる。そう言う意味でこの「7日間ブックカバーチャレンジ」の「本についての説明はナシで表紙画像だけアップ」というルールは秀逸だと感じた。

    『読んでない本について堂々と語る方法』、なんとも不道徳なタイトル。しかし、読み終える頃には、圧巻の理屈と説得力をもって、自らも読んでない本を語ろうとし、大団円を迎える知的サスペンス。壮大な読書のメカニズムを説き明かす羞恥心なき果敢な試みに拍手喝采であった。

    とにもかくにも、本書は読書行為なるものを掘り下げまくり、面白くて一気に読破した。著者はパリ大の先生、しかも文学部。なのにこのタイトル(笑)。

    『読書は神聖にして、神聖とされる本を読まねば人に軽んじられる / 飛ばし読みや流し読みは軽蔑の対象、プルーストを流し読みしたという文学者はいない / 本を読まなければ、その本について語る資格がない』以上が読書の3常識。この常識を恥ずかしげもなく覆し、著者は、読書という行為について語りまくる。

    詳細はコチラ↓
    7日間 ブックカバーチャレンジ まとめ / 『読んでない本について堂々と語る方法』 ピエール・バイヤール 著を読む
    https://jtaniguchi.com/7%e6%97%a5%e9%96%93%e3%83%96%e3%83%83%e3%82%af%e3%82%ab%e3%83%90%e3%83%bc-%e8%aa%ad%e3%82%93%e3%81%a7%e3%81%aa%e3%81%84%e6%9c%ac%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e5%a0%82%e3%80%85%e3%81%a8/

  • 「脱読書論」
    ビジネス書のようなタイトルで、単純に何が書かれているのか興味本位で手にとったのですが、同じように興味を持つ方も多いのではないでしょうか。結論から言えば、本書は「脱読書論」とでもいうべき内容となっており、通読の絶対視や、「完全な読書という幻想」、「書物の神聖化」といった、書物から情報を吸収するだけの受動的な受け止め方を戒めたうえで、本をあくまで自分自身について語るための媒体とみなす能動的な姿勢を薦めるものです。

    挑発的なタイトルへの回答は、おもに全三章のうち最終章で触れられていますが、最終的には、そもそも読んでいないことを恥だと思う必要はないといった身も蓋もない結論に落ち着いています。それ以外の回答もないわけではないのですが、"自分自身を語る"ことで本自体について触れないであるとか、"曖昧な褒め方をする"といった、アドバイスとしては誰でも思いつきそうな内容に過ぎず、タイトルから即効性に期待を寄せた読者は肩透かしを食らうかもしれません。

    このようにタイトルそのものは、どちらかといえば「釣り」に近く、本書における筆者の主張は教養を得るための方法として読書を神聖視する態度や風潮を否定し、自分自身の立ち位置を確認するために利用する読書を薦めることにあります。そのため、主要な対象読者は普段から読書を、教養を身に付けるための手段として位置付けている読み手が該当し、そのような方は本書を通して本を読む意味や、読む対象、読み方、読書の要否そのものなどについて、再考を迫られる可能性があります。一方、普段から読書を嗜好や娯楽としている方にとっての影響力は限定的だと思われます。ひとつ読んでいて気になった部分として、本書では著者が再三、自身の読書量の少なさを強調するのですが、その比較は世間一般ではなく、あくまで大学教授である著者の所属するコミュニティ内においての比較であろうという点です。

    最後に、本書は各章で具体的な思想家や作品を例示しており、参考までに各章のタイトルとともに、そこで取り上げられる主な作品や個人名を残します。
    ----------
    【Ⅰ.未読の諸段階】
    【Ⅰ-1.全然読んだことのない本】
     『特性のない男』ムージル
    【Ⅰ-2.ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本】
     ヴァレリー
     『失われた時を求めて』プルースト
    【Ⅰ-3.人から聞いたことがある本】
     『詩学』アリストテレス
     『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ
    【Ⅰ-4.読んだことはあるが忘れてしまった本】
     『エセー』モンテーニュ
    【Ⅱ.どんな状況でコメントするのか】
    【Ⅱ-1.大勢の人の前で】
     『第三の男』グレアム・グリーン
    【Ⅱ-2.教師の面前で】
     『ハムレット』シェイクスピア
    【Ⅱ-3.作家を前にして】
     『フェルディノー・セリーヌ』ピエール・シニアック
    【Ⅱ-4.愛する人の前で】
     『恋はデジャ・ブ』(ビル・マーレイ主演の映画作品)
    【Ⅲ.心がまえ】
    【Ⅲ-1.気後れしない】
     『交換教授』『小さな世界』デイヴィッド・ロッジ
    【Ⅲ-2.自分の考えを押し付ける】
     『幻滅』バルザック
    【Ⅲ-3.本をでっち上げる】
     『吾輩は猫である』『草枕』夏目漱石
    【Ⅲ-4.自分自身について語る】
     オスカー・ワイルド

  • 仮に通読しても大部分は忘れてしまう。思い出せるのは大きな骨組みと印象に残った細部のみ。読書は常に不完全なもの。

  • 想像していたよりも固い本でした。
    本を「読んだ」のか、「読んでいない」のか、その線引きはしっかりと分けられるものではないということをはじめとして、「読書」という営みについて、また本について語ること(このブクログに読書記録を残すということそのものも)はどのような作業なのかということについて、いろいろな作品や執筆家の言葉を引用しながら言及されています。

    とはいえ、本書を最初から最後まで一言一句逃さずに読み切ることはいささか骨が折れる作業で、私も第一部で挫折し、残りは「飛ばし読み」「流し読み」でした。
    けれど、筆者によればこれも立派な「読書」という行為だとのことで、安心して(堂々と?)ブクログに記録を残している次第です。

    p27「本を読むことは、本を読まないことと表裏一体である。どんなに熱心な読書家においても、ある本を手に取り、それを開くということは、それとは別の本を手に取らず、開きもしないということと同時的である。読む行為は常に「読まない行為」を裏に隠している」という指摘は面白いと感じましたし、世の中のすべての本を一生のうちに読み切ることは到底できることではありません。その中で、自分が読んだ(あるいは見聞きした)本がどのような立ち位置にある書物なのか、その全体像を把握できるような司書を目指したい、と思うようにはなりましたが、教養・素養を身につけるためにもやはり「読書」をはじめとする情報収集に終わりはなく、遠い道のりを感じています。

  • 読むという行為を考え直そう。

    「われわれには他人に向けた真実より、自分自身にとっての真実のほうが大事である。後者は、教養人に見られたいという欲求ーーわれわれの内面を圧迫し、われわれが自分らしくあることを妨げる欲求から解放された者だけが接近できるのである。」

    「読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである」。

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著者プロフィール

1954年生まれ。パリ第八大学教授(フランス文学)、精神分析家。『アクロイドを殺したのはだれか』、『読んでいない本について堂々と語る方法』等、多くの著作がある。

「2023年 『シャーロック・ホームズの誤謬』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ピエール・バイヤールの作品

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