- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480098023
感想・レビュー・書評
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概ね食人を介して考える文明論というか中国文明論だった。
食人のタブーというものが虚飾であり「糞リアリズム」の前にはなんの意味もないという話はなんとなく分かる。
こういった、つきつめると意味の分からないタブーは人間社会の中に多いものだなともう分けです。カニバリズムを文学的テーマとしている作品は多い。
ただ、書かれた時代が1970年~1980年代なので、事実の誤謬も多いのは仕方ない。一例として欧州の魔女裁判は拷問の流血を嫌ったし、実際の最盛期は中世ではなくそれ以降の近世なのです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
我々はまさに〝気が狂ったネズミ〟
ヒトは〝直立した殺戮ザル〟と呼ばれるにふさわしい
辛辣ぅー!
世界各地の食人鬼のいろんな実例を淡々と列挙してて、こういうのが1番いいんだから -
何について語っていても反権力反現代の主張が入ってくる。カニバリズムについての記述よりそっちの方が単純明快で印象に残り、これなんの本だっけ…状態。
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【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/738215 -
40歳頃のエッセー集。
中野先生は『西遊記』の注でも「蹴鞠の技の訳が分かる方は連絡ください」みたいに書いてたけど、この本でも『「良識」よりもカニバリズムに感応する』のように述べていて、正直で素晴らしいと思った。 -
澁澤龍彦の序がまずよい。残虐や攻撃=動物性、友愛や連帯=人間性と一般的にイメージされてるが、むしろ逆なのでは?という定義。道具の発明は力の均衡を壊し、バランサーであった動物的本能が働かなくなり、同類殺害が生まれた。だから、カニバリズムは人間的な行為なのだという完璧な導入。
本文で好きなところの要約、引用
・「思えば、肉欲の至高の表現は、愛する者を滅ぼし、これを食いつくすことにありはしないだろうか。性が形而下の目的として生殖すなわち有を一方の極におくならば、一方の極には、完全な無があるはずだ」
・ジョルジュ・バタイユの「エロティシズムとは、死にまでいたる生の称揚である」。戦争もカニバリズムも人類が禁忌としながら避けられなかったエロティックな欲望。永遠に未知なものに対して渇望と想像力の交流が発生するエロスの原理。達成したい、しかし達成すれば終わり......
・高価な珍奇な中国料理の価値は一元的であり、飢えに苦しむ人の誘惑の対象にはなりえない。食物として、こんなにも二元的な倒錯的な価値があるのは、人肉だけ。
・西洋人は血を噴出するものとして捉えたが、古代中国人は体内を平和に巡るものと捉えた。だから残虐な処刑絵にも血は登場しない。つまり、血のイメージ化は一切なかったといえる。流れ出る血はもはや、その人のものではない。
・サディズムの思想は、人と人が対等であるという前提によって成立する。
・日本の武士道は死という幻想、虚構の目標に向かう無私の苦行であり、マゾヒズム。一方、中国の科挙試は富や美女という現実的な目標に向かう「有私」の苦痛。しかし、この「有私」の苦痛は体制に奉仕する目的を帯びると無私の自己修養へと転換する。「体制化されたマゾヒズム」と言ってよい。
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最初の方はタイトル通りで、その周辺のエッセイのまとめ本。
何度も再版されてる。
色んな本の元ネタがまとめられてる感じがあって興味深い。
半分以上のメインは中国関係のカニバルとか宦官とか纏足とか。