敗戦後論 (ちくま文庫 か 45-1)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (362ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480421562

作品紹介・あらすじ

「戦後」とは何か?敗戦国が背負わなければならなかった「ねじれ」た国のあり方から、われわれはどのような可能性を受けとるべきなのか?自国の戦死者300万への弔いが先か、被侵略国の犠牲者2000万への謝罪が先か。発表後、大きな反響を巻き起こしたラディカルな議論の原点が、戦後60年経ったいま、ここに、文庫で蘇る。「靖国」問題や「政治と文学」について考えるための、この先の指針となる基本書。

感想・レビュー・書評

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  • 自国の3百万あるいは被侵略国の犠牲者2千万、どちらにつくか、という分裂(=ねじれ)の感覚を私たちは抱えている。それを理解した上で、そこから抜け出すために、どちらも公共性として串刺しに捉え、法を"決め直す"

    文学、語り口、の切り口から展開していて面白い

  • 著者は、日本をはじめ敗戦を経験した国にとって、戦後とは「ねじれた時間」だとする。今まで真だったものがひっくり返るからだ。戦勝国の論理が通るようになり、敗れた自国のこれまでの「真」は「虚」になる。いわば「ねじれ」を中核に抱えて在立する社会となる。おそらくそれが、復興や成熟の原動力にもなるのだろうけど、日本にいたっては「ねじれ」がありながらも、「ねじれ」として認めていない国だとする。たとえば、ついさっきまで「鬼畜米英!」と叫んでいたのが、あっという間に「民主主義万歳!」となり、アメリカを慕うようになった変わり身の速さなどをいっているのだろう。
    こうした浅薄な日本がいま進んでいる道が危惧される。本書が単行本で出たのが17年前。その頃は、戦争責任を認め謝罪する政府談話が発表されるような時代だった。その頃にして、著者は日本の来し方といまのあり方に対し、ねじれを認めていない国だとして疑問を投げているのだが、果たしていま、再び続編を書いたらどのように今の日本を論じてくれるだろうか。
    先日、新聞で小熊英二が、日本が「慰安婦」問題などに関して、国際理解を得る一つの方法として面白いことを述べていた。日本は、戦前の日本(大日本帝国)と戦後の日本(日本国)がひとつながりだと認識して、自身の過ちだからこそ肯定したがらず、それが他国との軋轢を呼んでいる。でも、戦前と戦後とは違う国なのだととらえ、戦後の日本として戦前の日本のやり口を非難、反省することができるのではないかというもの。
    本書の著者がいう「ねじれ」の解消に向けた取り組みといい、小熊のいうように真摯に自国のあり方を見つめることといい、そうした行動を欠いてきた国の何といやしく、まずしげなことか。
    本書には「敗戦後論」のほか、太宰治やJ.D.サリンジャー、ハンナ・アーレントといった文学者、哲学者に関する論考もあるのだが、そもそもこれら人々の著作を読んだことがないので、いまいちわからず。

  • [ 内容 ]
    「戦後」とは何か?敗戦国が背負わなければならなかった「ねじれ」た国のあり方から、われわれはどのような可能性を受けとるべきなのか?自国の戦死者300万への弔いが先か、被侵略国の犠牲者2000万への謝罪が先か。
    発表後、大きな反響を巻き起こしたラディカルな議論の原点が、戦後60年経ったいま、ここに、文庫で蘇る。
    「靖国」問題や「政治と文学」について考えるための、この先の指針となる基本書。

    [ 目次 ]
    敗戦後論(戦後の起源;ねじれと隠蔽;分裂の諸相 ほか)
    戦後後論(太宰治と戦後;文学とは何か;戦後以後)語り口の問題(ハンナ・アーレント;素描―戦後の歪み;『イェルサレムのアイヒマン』 ほか)

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 靖国参拝論鋭い

  •  どうやって話しながら生きていけばいいのかを実際的に考えた本でした。

     ここでは四人の文筆家が挙げられています。いずれも第二次世界大戦経験者です。すなわち、大岡昇平、太宰治、サリンジャー、ハンナ・アレントの四人です。
     では、彼らは生き残ってしまったあと、どんな「語り口」を選んだのか?

     まず大岡昇平は、戦争体験という「よごれ」を自覚し、ごまかさないことを選びました。たとえば彼は『俘虜記』にこう書きます。

      広島市民とても私と同じ身から出た錆で死ぬのである。兵士となって以来、私はすべて自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情を失っている。

     彼はどんな死者も超越化しない、そのことによって悼む、という方法をとり、またそのようにしかできませんでした。「自国の死者を悼み、そのことによって他国の死者を悼みはじめる」、という、加藤のいう「ねじれ」の体験への可能性をもった語り口ではありますが、この態度はやはり換算しきれない無限の個人の「よごれ」、その量によって超越化され、私たちに生きづらさを強いるでしょう。しかも私たちがその生きづらさに撞着してしまう可能性は充分にあります。

     では太宰はどうだったのか。
     彼は坂口安吾などと違い、決して、戦後になってから「戦中書かれるべきだった」書き方で戦中を書かなかった、と加藤は解釈しています。太宰は戦後には戦後のことだけを書いた。
     私たちは間違った。間違いを信じた。加藤によればこの間違いこそ文学の可能性です。だから間違ってしまった後から間違いに気が付いていたかのような書き方をしてはいけない。その可能性の質が倫理的かどうかはここでは考えないけれど、間違うということを文学の可能性としています。
     たとえば太宰は「トカトントン」を書いた。信じることのできなくなった青年を小説家は叱ります。私たちは間違える。それを「恐れる」のではなく「畏れろ」と。
     この小説家の態度は、『ライ麦畑でつかまえて』のアントリーニ先生の態度です。青年を「未成熟な人間」とし、「卑小な生」を「高貴な死」に優先させる「成熟した人間」になれ、というあれです。
     しかしこの態度の「正しさ」はなんと落ち着き払ったものでしょうか。ホールデン君はその「正しさ」をうけいれず、「The catcher in the rye」になりたいと言います。加藤はこう書きます。

    ここでホールデンは、あの「何かを肯定すること」とはじめて出会っている。彼は、上方からくる「正しいこと」、「誤らないこと」によってではなく、むしろ下方からくる、より「誤りやすい」存在の手で、一つの肯定を摑む。あのゲヘナの苦しみにみちた勇気に対し、もう一つの秤におかれるのは、弱い倫理、ちゃらんぽらんな受け答えにささえららえた、この「誤りうること」の勇気なのである。

     「語り口の問題」では、『イェルサレムのアイヒマン』を書いたハンナ・アレントの「語り口」が「同胞への同情に欠ける」というショーレムと、ハンナ・アレントの論争を契機にして、アレントの「語り口」を問題にしています。アレントの語り口とは次のような嫌味っぽいものです。

     ブーバーのように単に知名であるのみかきわめて高い知性を持った人が、このように喧伝される罪責感などというものは事の必然としていかに作為的なものであるかということを見ていなかったとすれば不思議である。何も悪いことをしていないときに罪責を感ずるというのはまことに人を満足させるものなのだ。何と高潔なことか!…むしろ現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性へ逃れようとしているのである。

     ではなぜアレントはそのような「語り口」を選んだのか? それは一口にいって、「共同性」から「公共性」に至るためだったとされます。
     私的な「愛」から公共的「友愛」へ。加藤はここに、「日本三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジア二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道」への可能性を見出しています。
     私たちが「よごれ」ている以上、私的な「愛」は私たちをいやおうなく「分裂」させる、と加藤はいいます。しかし「共同性」と「公共性」は、ほんとうに異なるのか?加藤はその疑問に対し、「あとがき」でこういっています。

     しかし、たとえ国民という考え方が、これに立ってものごとを考えていくと、最後、ナショナルなものに取り込まれることになるとしても、また、主体という考え方に立つことがすでにして、ネーションあるいは国民共同体の法への恭順になり、主体の形而上学に陥ることだとしても、しかし、わたし達は、この道を、この道がこのような危険をもつということを組み込んだうえで、この順序で、進んでいくのがいい。そしてそれが現実の問題として現れたら、そこで、これを解決するのがいいのである。

     加藤はこのように「誤りうる形」を信じようといいます。しかしここでは、「誤りうる形」を信じることと、じっさいに「誤る」こと(=それが現実の問題として現れる)ことは、別の事態だとされているのです。
     これがどういうことなのかを理解しないと、わたし達がこのような道を実際に生きることはできませんが、無限の他者へつねにすでに負う責任にとらわれて生きることにやはり鳥肌の立つ思いがする私は、「誤りうる形を信じつつ実際には誤らない」という可能性、このオイシイ話をぜひ受け入れたい。しかしそれがどうして可能なのか、そんなオイシイ話が本当にありえるのかは、まだわかりません。
     そのような、卑怯とされ、実際的だと私の信じるオイシイ生き方を、ぜひ実践するために、私はリチャード・ローティを読みたいと思いました。リベラル・アイロニスト、公的にはリベラルでありながら私的ではアイロニカルであることがありえると主張する(と聞きかじった)思想家の話に、耳をかたむけることで、ぜひ幸せに生きていきたい、強く生きていきたいと思うのです。
     

  • 「戦後」とは何か?敗戦国が背負わなければならなかった「ねじれ」た国のあり方から、われわれはどのような可能性を受けとるべきなのか?自国の戦死者300万への弔いが先か、被侵略国の犠牲者2000万への謝罪が先か。発表後、大きな反響を巻き起こしたラディカルな議論の原点が、戦後60年経ったいま、ここに、文庫で蘇る。「靖国」問題や「政治と文学」について考えるための、この先の指針となる基本書(「BOOK」データベースより)

  • 発表直後から言論界で論争を巻き起こした問題作。著者は、日本の戦後をどう認識し、それに対し私たちはどのように向き合っていくべきかを考えていくうえで「ねじれ」の概念を提起しますが、彼は論考を深化させていく過程でその拠り所を最終的に文学に求めています。これは彼が文芸評論家であることを考えれば自然なことではあるけれども、文学にあまりなじみのない自分にとっては一読でその論旨を把握することは不可能でした。全体的には半分は分かるけれど半分は納得いかないと言うような全体的につかみづらい印象でした。内容はかなり濃いので一読の価値はあると思います。

  • 加藤さんの「ねじれ」認識は、周知の通り、右派からも批判されると同時に、リベラル・左派からも批判されております。前者は措きますが、後者の批判もわからなくはない。

    ようするに「手ぬるい」ということでしょう。

    しかし、加藤さんの議論は、アレかこれかと整理してしまう批判理論に収まりきらない「考える沃野」を提示しているように思われ、どちらかといえば、高橋哲哉さんあたりの批判のほうが、こっけいにすらみえてしまうところもある。

    左派・リベラルの批判は批判としては至極まっとうなのでしょうが、悪く言えば、批判が先鋭化し、事態の認識構造として現実から乖離してしまうことが盲点になりますが、その批判と状況をどうつないでいくのか。ひとつのヒントになっていると思われます。

    なお、後半のH・アーレント論は秀逸。

    参考:文芸評論家・加藤典洋氏、憲法「選び直し」再論発表
    http://book.asahi.com/clip/TKY200705010125.html

    僕は加藤さんの議論は必要だと思います。

  •  先生のおすすめからもう一つ。
    「現在の自分を肯定しようとすれば、敵であったもの、自分達を蹂躙した相手を寿がざるをえない、その『ねじれ』こそが敗戦国の国民に背負わされる構造なのだが、そのねじれをねじれとして意識すらしていないという、さらに二重のねじれの中に戦後の日本人はある」

     …ぷは!息きれそうな長文を書いた!がんばった!
     で、戦後の日本人は「ねじれ」の両極にあるものを、それぞれ別の人間を代表させて対立することで、内的な葛藤を避けている…と続きます。あ、これって岸田秀先生の言うところの「黒船来寇以来日本は分裂症である」って話だね?…と思ったら、文中にちゃんと触れられてました。やっぱり。
    ご一新以来の日本人の病理ってことなのかな。

  • ちなみに太宰の年少の友の美男子の戸石君は夫のおじいちゃん。

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著者プロフィール

文芸評論家・早稲田大学名誉教授

「2021年 『9条の戦後史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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