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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784480423238
みんなの感想まとめ
内省的なテーマを持つ詩集は、著者の深い思索と感受性が織りなす言葉によって、読者に強い印象を与えます。1999年に発表されたこの作品は、普段使いの言葉で表現されながらも、生命の息吹を感じさせる柔らかさと...
感想・レビュー・書評
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1999年に発表された詩集の文庫版。著者が72,3歳の頃になります。
また、発表時以降のものから追加された3篇のうちの一作「球を蹴る人」は、当時、現役サッカー選手として名を馳せた中田英寿さんへのもので、当時の雰囲気を懐かしく思いださせもする作品でした。
普段使いのことばで表現された詩たちなのですが、やっぱり素晴らしかったです。なんというか、生命から生まれる言葉であり、柔らかで、繊細だったり力をこめていたり、そしてセンスが跳ねていて見事だったりしました。
そして、詩の中味としては、内省的といったらいいのでしょうか、読んでいて頷かされるところがあれば、たしなめられるところもある。気づかされたり、思いださせてくれたりもする。
自分の足で立って生きなさい、というメッセージのある方のようですが、でもその作品からは優しさというか、人の体温がしっかり感じられもしました。だから、おそらく極端な人ではないですし、型やパターンにはめてしまう人でもないのがよくわかります。もしも極端に見えることがあるのだとしたら、見ている側のほうが極端なんであって、ご本人はごく自然な姿勢でいらっしゃる。茨木のり子さんご自身は、そういう、時代や社会の趨勢のようなものに振り回されたり巻き込まれたりするのを嫌がってがんばったからこうなんだと僕には思えました。そして、かくありたい、と思いましたねえ。
では、ちいさな引用をひとつ。
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苦しみに負けて
哀しみにひしがれて
とげとげのサボテンと化してしまうのは
ごめんである
(「苦しみの日々 哀しみの日々」の一節 p80)
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→僕もこんなのはごめんなのだけど、自分の生活の中で傍目で見ていて、トチ狂ってしまって性格もひどく悪くなってしまった人というのはこれなのかもなあ、と思いました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
著者、茨木のり子さん、どのような方かというと、ウィキペディアには次のように書かれています。
茨木 のり子(いばらぎ のりこ、本姓・三浦(みうら)、1926年(大正15年)6月12日 - 2006年(平成18年)2月17日)は、日本の詩人、エッセイスト、童話作家、脚本家。
大阪府大阪市生まれ、愛知県西尾市育ち。愛知県立西尾高等女学校(現・西尾高等学校)を卒業後上京し、帝国女子医学・薬学・理学専門学校薬学部に進学する。上京後は、戦時下の動乱に巻き込まれ、空襲・飢餓などに苦しむが何とか生き抜き19歳の時に終戦を迎え、1946年9月に同校を繰り上げ卒業する。
で、本作の内容は、次のとおり。(コピペです)
「もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくはない/ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい/じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある/倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」。強い意志とナイーヴな感受性によって紡ぎだされた詩集『倚りかからず』に「球を蹴る人」「草」「行方不明の時間」の詩3篇と高瀬省三氏のカット16点を添えて贈る瀟洒な一冊。 -
なくなって久しいのですが、忘れてほしくない人です。
茨木のり子さんの73歳の時の詩集です。題になっている「倚りかからず」があまりにも有名ですが、他にもいい詩がたくさんあります。「私が一番きれいだったとき」から60年の歩みを支えた矜持にはやはりうなります。
ブログにもあれこれ書きました。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202109080000/ -
茨木のり子の詩は、静かだが硬い。読むたびに、背筋がすっと伸びる。
本書で強く心に残ったのは、表題作「寄りかからず」である。
宗教や学問、権威といった既製のものに頼らず、自分の目と耳、そして二本の足で立つこと。その覚悟が、まっすぐに書かれている。読むうちに、言い訳を許されない気持ちになる。
けれど詩の結びで、もし倚りかかるものがあるとすれば、それは「椅子の背もたれだけ」とある。その一行に、思わず息をついた。
強さだけではない。そこに少しの安らぎがある。 -
茨木のり子の詩は、心をシャンとさせてくれる。ふとした折に、手に取ってきたが、今またそのタイミングだったのだろう。倚りかからず。中々できていないが、これからも時折、思い出したように読みたい。
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岩波文庫の「自分の感受性くらい」を読んだあとに、たしか前に読んだはずと探してみたら、ちくま文庫「倚りかからず」がやっぱりあった。もう一度と読み進めた。何と「倚りかからず」の詩だけ読んであとは放っておいたようだ。まことに恥ずかしい。
こちらの詩集の方が直截的な言葉が迸る、強い調子だ。山根基世さんの解説でいろいろ教わった。茨木さんが詩は「生る」ものだと話していたこと。そして「夕鶴」の山本安英さんとの交流のこと。
一つひとつの詩が「生る」背景には、それを支える宝のような現実との関わりがあったのだなあと詩作の素晴らしさを思い知らされた。難しさも含めて。 -
詩集、初めて読みました。
凛とした美しい詩が収録されていて、読んでいて気分が落ち着きました。「行方不明の時間」が自分の今の気持ちにピッタリで、良いなと感じた。
また違う気持ちのときに読んでみたい。 -
詩を久しぶりに読んでみた。茨木さんの詩は勇気づけられるとのことで、たまには、一遍一遍噛み締めてみるのも良いなとおもいました。☺
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茨木のり子さんの、緩みなくきりっとした詩の世界は好き。しっかりしなきゃと思う。
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詩なんてぜーんぜんわからない私が、はじめて忘れられないと思った「自分の感受性くらい」。この詩集には載ってないけど、他の作品もぜんぶ枠は大きいのにさっぱりまろやかな読み心地ですごくすごく好き。茨木のり子さんの詩のリズムをこころに秘めて生きていきたい。
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詩なんてぜんぜんわからないけど
悲しくて寂しくて
なんにもしたくなくてできなくて
そんなときでも
なんだかわからないけど
茨木さんの詩は読め...詩なんてぜんぜんわからないけど
悲しくて寂しくて
なんにもしたくなくてできなくて
そんなときでも
なんだかわからないけど
茨木さんの詩は読めたんです
2021/03/10
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『倚りかからず』読了。
初めて茨木のり子さんの詩集を手に取りました。こちらの作品は生前に発表した最後の作品だそうで、割と最近のことについての詩もありました。フェスに行った時にtoeの演奏を聴きながら読んでいたんだけど、タトゥー入れてる人が「戦争反対」とか言っていてギャップを感じていたところで、詩集の内容も大きく立ちはだかる組織や機関といった目に見えないものに頼らず自立して生きていきなさいというメッセージみたいなものを受け取りました。
フェスでこの本を読んだあの時間は本当に自由な空間と時間があって解放感を味わった一方で突然終わってしまうこともあるよなあ…と、一抹の不安も感じた。戦争を体験している人の言葉は重い。軽く受け流すことをしてはいけないと思う。静かに姿勢を正す思いで読んでしまいました。
自分の言葉を持ち話せるような人になりたいね。あと人を見る目付きに言葉や魂が宿っていることを感じ取れる人にもなりたい。
2026.5.25(1回目) -
解説に「茨木さんの詩には、ご自分で書いたことを自ら茶化す表現がよくある」とある。
それは例えば「苦しみの日々 哀しみの日々」という作品に顕著に表れている。「苦しみの日々 / 哀しみの日々 / それはひとを少しは深くするだろう / わずか五ミリぐらいではあろうけれど」とか。
「少しずつ 少しずつ深くなってゆけば /やがては解るようになるだろう /人の痛みも 柘榴のような傷口も / わかったとてどうなるものでもないけれど / (わからないよりはいいだろう)」に至っては、二重に突っ込んでたりする。
茨木さんは、詩は言葉を削らないといけないからどうしても言葉が強くなる、と言って羞じるように笑っていたという。
「倚りかからず」みたいな強い詩ばかりだと思って読むと意表を突かれるかも。 -
「よろしい
お前にはまだ笑う能力が残っている
乏しい能力のひとつとして
いまわのきわまで保つように」
人の痛みも 柘榴のような傷口も
わかったとてどうなるものでもないれけど
(わからないよりはいいだろう)
が、好きで買った
柘榴のような傷口っていいな、素敵だな -
手放すことなく、ときどきパラパラとめくって、
自分の気持ちを緩めたり律したり、そんな存在になりそう -
札幌 seasow booksで購入
前田エマさんからの興味で、詩、茨木のり子さんわ読んでみようかな エマさんをどう掻き立てたんだろう?と思ってちょくちょく読んでた
タイトル作「倚かからず」は
自分の感受性くらい自分でまもれ ばかものよ
と似ている
自分したいことくらい人に頼らず自分で決めようよ
その方が、偏らずにいろんなことができるようになるよねー!
みたいなイメージ
山根さんの解説で、
「働く女性に読んで欲しい」とあったけど、まさにそう。強く、柔らかく生きていきたいね〜
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茨木のり子さんの詩集。日常の中のちょっとした心情が記されていて親近感がわくものもあった。
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【感想を書く対象の詩】
「倚りかからず」
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
(茨木のり子、1999年)
【以下は上記の詩に対する感想】
最後の一行で、あれ、もしかしてこの人、むしろ弱いのかなって伺わせるところが好きである。
寄り掛かかるものが、やはりあるにはあるわけでしょ。背もたれが必要かもしれないわけでしょ。しかもそれは身体性を意識させるような、物理的な寄り掛かかりなんだよね。あと、実はそういう虚飾の無い寄りかかりには、寄りかかってもいいんだよ、と、寄りかかりを勧めているとは言わないまでも、寄りかかりが肯定されているように感じる。
「耳目」と「二本足」という言葉選びにも、身体への意識が強く働いているとおもう。
この詩の中に強さと弱さが同居している。椅子にもたれないといけないけど、でも書くことはちゃんと書くぞって、言っているかのように感じられる。
あと、「もはや」の語の繰り返しから、いままで思想と宗教と学問と権威にさんざん寄り掛かかってきたことは含意されてると思うんだよね。それらから受けた影響を一枚、また一枚と剥がしていって、その最後にこの境地に到達したんだろうなと思わせてくる。ナイーブどころかとても洗練された詩だと思う。軍国主義の教育を幼い頃に受けた著者だからこそ、この究極の境地に達することができたんだろうなと思う。
そして全てを剥がして、最後に残るのは、椅子の背もたれしかないってところがとても寂しいよね。でも、同時にそこから始めようとできるところが、強いよね。だからやっぱり、弱さと強さがこの詩には同時に存在しているとおもう。
最後の「背もたれ」がとにかくいいんだよね。なんか結局、「寄り掛かかる」という言葉の原義に戻って行った感じだよね。そもそも寄り掛かかるって「身体を支える」って意味ですよね、みたいな。「思想に寄り掛かかる」なんていうのは本来の用法ではありませんよね、みたいな。だから実は最後に見つけ出した寄りかかれるものは、実は出来合いの思想なんかよりも全然、ちゃんとあてにできる支えになるんじゃないかと思える。
あと、寄り掛かかれる具体的なものには、なんだって寄り掛かかるつもりだっていう帰結になっているのも、とてもかっこいいと思う。
寄りかからない強さではなくて、寄りかかるに値するものを選んでちゃんと寄りかかるという態度があると思う。
「これからはもう何にもよりかからないし、寄りかかれないぞ、どうしよう!」みたいな感じで、緊張して終わるのではなく、むしろ緊張を緩和して終わるところも素晴らしいと思う。読者をイデオロギーの渦巻く世界にただ放り出して、はい終わり!、なんてことをこの詩の作者は決してしない。そこに優しさがあると思う。
世界には信用できる確かな物体というものがあって、身体と物体は相互に作用しあって、抵抗しあう。その抵抗によって見出される秩序だけは、決して裏切らないという感じが強烈に伝わってくる。
「そんなに気を張らなくても、具体物がつくる秩序に我々は寄りかかれるのだと知っていることが実は最大の思想なのだよ」という大きな構えが作者にあるのを感じる。
要するに、最後に登場する「背もたれ」が意味しているのは、
①何も信じられない状況のなかでも信じられるものは常に生活の中の具体物だということ
と、
②気を張ってばかりいないで、背もたれにもたれたりして、たまには一息つく必要が我々にはあるくらい我々は弱く、疲れる身体を持っているんだ、そのような身体と一緒にしか存在できない生き物なんだということ
と、
③そのようなゆったりした背もたれが作り出す、安定した秩序によって支えられた生活の時間の中で育まれ、蓄えられるのは、地に足のついた強靭な思想だということ
だと思う。これが俺のこの詩に対する解釈。 -
自販機に白々しさを感じたことはないし、駅で休憩している人にお茶を出す駅員さんを見たこともない。
茨木のり子さんと私の最も異なる点は生まれ育った時代でしょうか。
かつての人情は合理性を追求する社会に淘汰されていっているようです。
この詩集を読んだことで、失われていく人情への寂しさや虚しさを少し感じ取ることができました。
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著者プロフィール
茨木のり子の作品
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