- Amazon.co.jp ・本 (476ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480424181
作品紹介・あらすじ
「咳をしても一人」などの句で知られる自由律の俳人・尾崎放哉。前途を嘱望されたエリート社員だったが、家族も仕事も捨て、流浪の果て、孤独と貧窮のうちに小豆島で病死。その破滅型の境涯は、同時代の俳人・種田山頭火と並び、いまなお人々に感銘を与えつづける。本書は、遁世以後の境地を詠んだ絶唱を中心に全句稿を網羅するとともに、小品・日記・書簡を精選収録する。遁世漂泊の俳人の全容を伝える決定版全句集。
感想・レビュー・書評
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尾崎放哉の俳句をよんで、まず思ったのはオノマトペが可愛らしいなぁ、でもなぜだか淋しいなぁ、放哉以外の人の気配を感じないからかなぁ……でした。
〈山水ちちろ茶碗白く洗ひ去る〉
〈ホツリホツリ闇に浸りて帰り来る人人〉
〈落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事〉
〈破れた靴がぱくぱく口をあけて今日も晴れる〉
ヒョコリ、へたへた、ぎしぎし、ほんほん……
これらの作品が遁世以降に作られたと知ってからよんだからかもしれませんが、愛嬌のある音の向こうに、たった一人静寂のなか耳をすます放哉を想像せずにはいられませんでした。
前半生、尾崎放哉はエリートコースを着実に歩んでいました。
鳥取県下第一の名門中学を卒業すると上京。
明治35年(1902)9月には第一高等学校法科に入学。
一高時代はボート部の選手として活躍。
寮生活では自治会委員を務め、また文芸方面でも頭角を現す。
この頃、放哉は1つ年下の沢芳衛(母の実弟の娘、つまり従兄妹)と相思相愛の仲でした。まさにリア充。放哉は自信に満ち溢れ、皆の注目を惹きつけていたのではないでしょうか。
ところが。
明治38年(1905)9月、放哉20歳。芳衛に結婚を申し込んだところ、血族結婚という医学上の見地から夫婦になることを、医者である芳衛の兄によって拒否され、断念することになります。
もしかすると芳衛との別れは、放哉が初めて人生で思い通りにならなかったことなのかもしれません。なぜなら、この出来事がその後の放哉の生き方を変えるきっかけとなるからです。以後の放哉は酒を覚え、放埒になったそうです。
明治40年(1907)、これまで俳号としていた芳哉に変え、放哉の号を用いるようになります。
芳衛の“芳”を“放”に変えたとき、放哉のなかで、なにかを手放してしまったのでしょうか。
後半生、放哉は近代社会のなかで挫折、堕落。早々に遁世(大正13年から大正15年)を決めこみました。
放哉が独自の俳境を拓き、真価を発揮することとなるのが特に大正13年(1924)の遁世以降です。
もしかしたらエリート放哉のままでは、よむ人を魅了する俳句は生まれなかったのかもしれません。なれば、芳衛との別れも必然だったのでしょうか。何かを得るためには、何かを捨てなければいけない……そんな言葉が頭に浮かびます。
〈一日物云はず蝶の影さす〉
〈柘榴が口あけたたはけた恋だ〉
〈うそをついたやうな昼の月がある〉
〈底がぬけた杓で水を呑もうとした〉
〈犬よちぎれる程尾をふつてくれる〉
〈どろぼう猫の眼と睨みあつてる自分であつた〉
〈一本のからかさを貸してしまつた〉
〈咳をしても一人〉
大正15年(1926)4月7日、放哉は小豆島の南郷庵において41歳の生涯を閉じました。
“……放哉は勿論、俗人でありますが、又、同時「詩人」として、死なしてもらひたいと思ふのでありますよ……”
“放哉、決して生きたく無いのだから……ソコヲ、トリチガへない様に、お願申します。”
(大正15年3月23日 萩原井泉水・内島北朗あて書簡より抜粋しました) -
尾崎放哉さん、どのような方かというと、ウィキペディアには次のように書かれています。
尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉、1885年〈明治18年〉1月20日 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、日本の俳人。『層雲』の荻原井泉水に師事。種田山頭火らと並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。鳥取県鳥取市出身。大正15年、4月7日(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)に南郷庵で死去。死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル。
享年41とのことです。
尾崎放哉さんの有名な俳句に、
咳をしても一人
がありますが、この句を私は、孤独を感じる時に、思い出したりします。
尾崎放哉さんが、どのような時に、この句を作ったのだろうかと考えたりします。
問題行動の多かった俳人と言われていますが、本人的には生きづらかったのか、自由気ままに生きて楽しかったのか、その辺はわかりません。
ただ、今でも俳句が残っていることを思うと、幸福な俳人なのかもしれません。 -
少し関心を覚え、入手してみて、ゆっくりと読んでみた一冊である。
「自由律俳句」と呼ばれる系譜の作品が在る。本書はその作品を多く掲載した一冊である。尾崎放哉(おざきほうさい)による作品として伝わっている句を殆ど網羅し、一部の随想や書簡も掲載している。そして詳しい年譜と解説が在る。
「俳句」と言えば、「“5・7・5”の定型で“季語”が入るモノ」ということを思い浮かべるかもしれない。これに対し、「感情の自由な律動を表現する」という意図で「定型に縛られずに作られる俳句」を「自由律俳句」と言うのだそうだ。荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)という俳人が提唱者であるという。
この「自由律俳句」の系譜となる作品を残した俳人として知られている種田山頭火が在って、最近も山頭火の句集を紐解いてみた経過が在った。
俳句の約束事というようなモノを排した「一行詩?」のような感で、何処かを歩きながら、ふと漏れる言葉のような、少し独特なリズム感が在る山頭火の作品に何処となく惹かれるのだが、「他の人による、この種の“自由律俳句”の作品?」と思うようになった。そして出くわしたのが尾崎放哉である。
「感情の自由な律動を表現する」という意図で「定型に縛られずに作られる俳句」だが、「(作者の)内に在るモノを表現する一行詩」という感でもある。戦時中に「自由律」を「内在律」と言い換えた経過も在ったらしいのだが。
本書に在る尾崎放哉の作品は、「(作者の)内に在るモノを表現する一行詩」ということを少し強めに感じた。尾崎放哉は41歳で静かに他界してしまったというようだが、そこへ至った「流転の経過」というようなことへの想いが滲む感の作品が見受けられる。そして、そういう句を詠むようになって行く経過、習熟へ向けた執念、或いはそういう活動を地道に続けることを「拠所のようにしていた?」ということも感じられた。
尾崎放哉は「明治時代のエリート」と呼び得る存在だった。鳥取池田家中の武士の流れを汲む家に産まれ、父は官吏であった。本人は東京帝国大学に学んでいる。
尾崎放哉は文芸を愛好する青年として、普通な俳句も詠んでいたが、年長の学友でもあった荻原井泉水が唱える「自由律俳句」に傾倒して行くこととなる。
大学を卒業後は保険会社の仕事等、幾つかの仕事を経験することになる。「酒の上での失敗」、更に「半ば酒に溺れて真面に働いているとも言い悪い様子も見受けられた」という話しが伝わるようだが、何れの仕事でも余り巧くは行っていないようだ。そして、大陸での仕事に携わった際に体調を崩してしまったというような経過が在った。病気を抱えて弱っているような状態で帰国した後、妻と離れて1人になり、遁世の暮らしになったという。若かった頃、将来を誓った女性が在って、その女性が従妹で血縁関係が在ることから一族の中で大反対ということになってしまい、そこから屈折したのではないかと推察はされているようだ。
或いは「エリート」の矜持という他方、掴み得た様々なモノを零すようなことを繰り返し、またはそういう何かを棄てるかのような振舞いに及び、終には健康も害して思うように何かが出来るということでもない境涯の尾崎放哉である。そういう境涯の中、句作を「残る生」の拠所のようにしていたかもしれない。句集は没後に荻原井泉水が択んで纏めて発表されたようであるが、その荻原井泉水に向けて尾崎放哉は「句稿」というように、多数の句を書き綴ったモノを送り続けていた。
解説や年譜も含めてゆっくりと読み、幾つか記憶に止めたい句にも出くわしたと思う。幾つか挙げると「一日物云わず蝶の影さす」、「沈黙の池に亀一つ浮き上る」、「漬物桶に塩ふれと母は産んだか」、「咳をしても一人」、「掛取も来てくれぬ大晦日も独り」というような辺りが気に入った。棄てたのか、零したのか、何も無いような境遇に向かって、そういう中での孤独、自身を見つめる悔恨とも諦観とも判じかねるような感の言葉が、何か迫る。
尚、本書には収録された句の索引が在る。辞書の方式に、50音順でキーワードが並べられている。これは好いと思う。
こういうような“句集”というのは、自身の読書の傾向の中では少し特殊になるかもしれないが、時には好いかもしれない。 -
孤独感、寂寥感がみなぎる。
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「咳をしても一人」で知られる自由律俳句を代表する俳人、尾崎放哉が他にどんな句を詠んでいるのか知りたくて手にとった。
全体を通して感じられるのは、孤独、淋しさ。しかも湿っぽい淋しさではなく、カラッと乾いた木枯らしのような淋しさ。
鳥がだまってとんで行った
ひとをそしる心をすて豆の皮むく -
すっかりはまってしまった自由律俳句だけれど、やはりこの人が第1人者といえるだろう。「咳をしても一人」は余りにも有名だが、やはり放浪した末の晩年の句は、寂寥感と精力が入り混じったようで、何ともいえない迫力を感じた。
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お風呂とかトイレとかでパッと開いて読んでヌフフッと笑ってる
「すばらしい乳房だ蚊が居る」が出たら次の日の運勢は大吉ということにしている
雑記から書簡から句稿まで読めちゃってスーパーお得 -
放哉というとその寂廖感、孤独、生死感に着目しがちだけど、わたしは放哉の筆を動かしたのがそれだけだとは思えなかった。
慈愛に満ちたやさしい目線も確かにある。
「なん本もマッチの棒を消し海風に話す」
「少し病む児に金魚買うてやる」
「花火があがる空の方が町だよ」
「たのまれたかなしい手紙書いてあげる」 -
通読するって様子ではないので、パラパラめくっただけで返却。手元において、何かのときふと味わってみる、がいいかな、と。テイストはかなり好み。
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さびしいことばかり書くのはアンチテーゼなんだ。
若い頃は華々しい世界で生きて、暖かい家族も持ってただけに
本当にさびしくて仕方なかったのかな。
詳しい解説とか年譜がありがたい。
コメントありがとうございます。
重松清さんの「ひこばえ」まだ読んだことがありませんが、
重松さんならきっ...
コメントありがとうございます。
重松清さんの「ひこばえ」まだ読んだことがありませんが、
重松さんならきっと心に響く感動的なものなんじゃないかなと想像してます。
またいつか読んでみたいと思います。
それにしても読みたい本がたくさんで、とても時間が足りないです (^o^;
恥ずかしながら俳句のこと(だけではありませんが……)は不勉強なもので、
松尾あつゆきさんのお名前は初めて知りました。
少し調べてみたところ、尾崎放哉とは重なっていませんが、
松尾さんも放哉と同じ『層雲』の荻原井泉水に師事して自由律俳人となられたようです。
その辺りから、もしかしたら物語に放哉の名前が出てきたのか、
いるかさんの記憶に残ったのかもしれませんね。
それにしても、こうして一冊の本からどんどん繋がっていくのって面白いですね(#^.^#)
と、いうことで気になって「海も暮れきる」の感想を調べてみたんですが、出てきませんでした(^^;)。ほんで、岩波文...
と、いうことで気になって「海も暮れきる」の感想を調べてみたんですが、出てきませんでした(^^;)。ほんで、岩波文庫版句集を読むと、小豆島に居たのは一年にも満たないんですね。その間の句がすごいものばかりで。
彼は何故小豆島に行ったのか。死ぬ為に行ったのか。
好きな句は以下の通り。
あの小説は最後までちゃんと書いていたし、それが書いていたから、泣き通したのだから、十二分に遁世以降のことが書いていると思います。
豆を煮つめる自分の一日だつた
鼠にジャガ芋を食べられ寝て居た
蚊帳のなか稲妻を感じ死ぬだけが残つている
アノ婆さんがまだ生きて居たお盆の墓道
線香が折れる音も立てない
わが肩につかまつて居る人に眼ががない
入れものが無い両手で受ける
机の足が一本短い
咳をしても一人
墓のうらに廻る
カタリコトリ夜の風がは入つて居る
「海も暮れきる」益々読んでみたくなりました。
お好きな句もたくさん、ありがとうございます。...
「海も暮れきる」益々読んでみたくなりました。
お好きな句もたくさん、ありがとうございます。
放哉の句、わたしも気に入ったものをレビューに全部載せようと思いましたが、とても絞りきれませんでした。
それでも見返すと、選んだのは遁世以降の句がほとんどでした(*^^*)