小川未明集: 幽霊船 (ちくま文庫 ふ 36-9 文豪怪談傑作選)

著者 :
制作 : 東 雅夫 
  • 筑摩書房
3.71
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本棚登録 : 157
感想 : 14
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  • Amazon.co.jp ・本 (378ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480424716

感想・レビュー・書評

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  • 怪談短編集。全体的に北国の寒く暗いイメージが漂います。じんわりとした恐怖感が味わえる一冊。
    お気に入りはやはり「赤い蝋燭と人魚」。不朽の名作ですねえ。
    あとは「過ぎた春の記憶」「僧」も怖かったなあ。なんともいえず嫌な雰囲気が読後もまとわりつくような印象でした。

  • 後味引く気味悪さ。
    最後の一文で『そして〇〇が死んだ』みたいなのが突然現れて『えっっ!!?』てなる。
    そこに行き着くまでも、文章がザワザワする怖さを感じる。幽霊が出てきそうな、あの雰囲気の怖さ。

  • R3/8/13

  • これを読むと小川未明の恐ろしさがよくわかる。理不尽な不幸、幼い子供の死、呪文を唱える老婆、悪夢、幻想、妄想の湧き出る源泉である小川未明が怖い。なぜこのような作品を書き留めるに至ったのか、実に恐ろしい。

  • 幽霊船
    森の暗き夜

    児が死ぬ話が多いやうな。

  • 小川未明は童話の方が好き。最後の話はそれまでの話の幾つかの原点のようで興味深い。

  • ◆卒業論文用
    「赤い蝋燭と人魚」を筆頭に、小川未明作品から不思議恐ろしい物語を33篇

  • 子供向けに書いたお話は物悲しい怖さがある。

    そのほかの話は、神経質、発狂、孤独、黒い人などがテーマになっていて、陰気な暗さ、怖さがある。

  • 人間以外のもの、空や山や植物の描写が鮮やかでみずみずしくて不気味。普段の読書では人物の発言と行動にばかり気を取られて、情景の描写は流しがちなんだけれど、小川未明の文章は情景の描写が魅力的。

    怪談選ではあるんだけれど、ストーリーというより、怖い/不安な状況のスケッチのような話が多い。入り込んで・読み終わって・引き戻される感覚とか、物語の切り取り方とか、ジャンルは違うけれど山尾悠子の『歪み真珠』を思い出した。

  •  小川未明。彼の遺した怪談は、何故こんなにもひんやりと冷たくて、湿っていて、出口の見出せない印象がつきまとうのだろう。

     長い年月開けてさえもいなかった死んだ人の部屋に、つと入って、仕舞い込まれたままの着物を取り出してみる。その絹地が異様なほど湿り気を帯びているのを掌に感じて、堪らず、ぞくり、と来るあの感覚に、それは似ている。死んだ人の用いた着物が、降り積もり、沈殿した時間を含んだまま、「なぜ、思い出してはくれなんだか…、なぜ、顧みてはくれなんだか…」と冷たく静かに問う。生きている者がその声を聞いて、死者を顧みることのなかった永の歳月に後ろめたさを感じるのに、それは似ているのだ。

     そう、小川未明の怪奇作品には後ろめたい感情を基盤とした「恐怖」が蟠(わだかま)っている。

     ジャパニーズ・ホラーというものが海外の映画業界などに認知されて既に久しい。私が子供の頃は、海外の恐怖映画といえばスプラッター的要素がふんだんに盛り込まれていたような気がするが、昨今では、極めて日本的というか、情緒的演出が多分に採用されているようにも思える。それどころか、日本のホラー映画そのもののリメイク版なども公開されたりして、それが映画業界的に成功したかどうかは甚だ疑問ではあるものの、日本のホラー小説やホラー映画というものが、派手に血しぶきが飛ぶわけではないが、じくじくとした恐怖演出を得意とするものであるということは理解されたのではないかと思う。

     海外でジャパニーズ・ホラーが一時もてはやされたのは、その演出が今までのアメリカ映画などにはあまりないタイプのものであったからだ。人間は「恐怖」を楽しめる唯一の動物と聞いたことがあるが、更に人間は、その「恐怖」が斬新なものであることを望むようでもある。同じ演出の「恐怖」にばかり接していると次第に慣れてしまうので、常に異なるタイプの「恐怖」や刺激を求めているわけである。井戸と亡霊、びしょびしょに水に浸った廃屋、付きまとう因縁・悪縁などといった演出は、今まで接したことのない人々にとっては非常に魅力的な「恐怖」としてその眼に映ったのであろう。

     そして、日本人にとってもジャパニーズ・ホラーといいならわされるジャンルは、目新しい存在であったと言える。井戸と亡霊というだけなら『番町皿屋敷』のような話もあるが、その井戸端の亡霊が這いずりながら、テレビから自分に向かって抜け出てくるといった演出は、日本人にとっても未体験ゾーンであったからだ。要するに、近来のホラー小説なりホラー映画というものは、その未体験の、斬新な、意想外の演出によって、読者や視聴者を恐怖させてきたと言うことが出来る。

     しかし、そういった恐怖演出もじきに飽きられてしまうことは明白である。

     反対に、小川未明の怪談・怪奇小説には「恐怖」についての目新しい舞台装置は無いに等しい。それにもかかわらず、彼の作品を読めば、読者は覚えず肌を粟立たせてしまうだろう。それは、小川未明の描き出す「恐怖」が、人間の持つ後ろめたさという感情、それも弱者や貧者、遭難者といった「助けが必要であった者」を故意に無視し、虐げた果ての後ろめたさを、そのモティーフとしていることが多いからなのだ。

     『赤い蝋燭(ろうそく)と人魚』を童話の範疇で読んだ方も多いだろう。
    その『赤い蝋燭と人魚』の話が、今回この未明作品の中で怪談として選ばれているのも、人魚の娘を自分たちの子供として養育しておきながら、見世物商売の種になる生き物を探す香具師(やし)の口車に乗せられ、大金に眼が眩んで売り飛ばしたといういきさつを持つからである。信仰深いはずの蝋燭屋の老夫婦は、金の魔力に取り付かれ、今まで愛育していた人魚の女の子を香具師に引き渡してしまう。人魚を閉じ込めた檻と香具師とを乗せて船は出港するが、折からの嵐に船は沈没。それまでは、人魚の娘が描く美しい絵蝋燭は、山のお宮に捧げ、その燃えさしを身に付けてさえいれば、漁師は絶対に海難事故に遭わないと言われていたのに、娘が売られていく時に悲しみのあまり真っ赤に塗った赤い蝋燭がお宮に灯ってからというもの、その灯火を見た者は必ず海で溺れて死ぬのである。禍々しい赤い蝋燭をお宮に灯すことは不吉以外の何ものでもないはずなのに、今日もまた、誰の手によるものか、真っ暗な参道をちろちろと赤い蝋燭が、山のお宮に向かって上げられていく…。

     老夫婦は自分たちがしでかしたことを悔やむのだが、その後悔はもう既に遅いのだ。
    山のお宮は鬼門となって、その村は程なく滅んでしまう。

     または『黒い人と赤い橇(そり)』。
    北方の国の人々が、黒い獣の毛皮を着込んで、海の凍った氷上で仕事をしていた時のこと。突然その氷が割れ、三人の人が割れた方の氷に乗せられたまま、はるか沖へと流されてしまう。残りの者らはうろたえるばかりで直ちに助けることが出来ないまま、沖に流された三人の姿は見えなくなってしまった。無事だった者の内、勇気のある五人の男が「見殺しには出来ない」と、五日分の食糧を赤い橇に積み込み、捜索に出て行くが、五日待っても六日待っても帰ってこない。先の三人と捜索に出た五人の者を救いに行こうと提案する者も出ないまま、残った人々は諦めて日を送り始めたのであった。そして、遭難者の出たことを忘れ始めた数年後、漁師達がいつものように海で仕事をしていると、海上に三つの黒い人影が浮かんだ。彼らには…足が無い…。その影を見た者達はぞっとして、あの時行方不明になった三人だと確信する。漁師達が早々に引き上げようとしたところ、彼らの乗った船はなぜか一つ残らず海に引き込まれ沈んでしまったのだった。またある時は、夕陽で赤く染まる地平線に向かい、五つの赤い橇が無言で走っていくのを見た者まで出る。あの時、捜索に出たまま、何事かが起こって帰って来れなくなった五人の橇だ。

     そして初めて人々は悔いるのである。
    あの時、誰も彼らを助けに行かなかったではないか。
    戻って来れなくなった者を誰も祀ってやらなかったではないか…。

     小川未明の作品が恐ろしいのは、その恐怖の根源が人間誰しもが持っている「我が身可愛さ」というエゴイズムから、助けるべき対象に救いの手を差し伸べなかった後ろめたさと悔恨に由来しているからなのだ。これまで生きてきた人生の中で、人は誰でもそんな後ろめたさと悔恨の情を抱いたことが、多かれ少なかれあるのではないか。これまでに無かった新しい手法による「恐怖」というものも確かに恐ろしさを感じさせはするが、「我が身可愛さ」から生じる他者への冷淡さ・残酷さを我々が秘めている限り、それが人間の性質の中に深く密接に根ざしている限り、そして己の冷淡さがいきなり眼前に突きつけられる時、小川未明の怪奇小説は極めてシンプルでありながら、「本能的恐怖」を誘発し続ける…。

     『文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船』では、上に挙げた作品を含めて、全三十三篇の怪奇幻想作品を読むことが出来る。その中には、上記のような人間のエゴイズムを発端とした妖しの物語もあるし、小川未明の出身地・新潟県の重々しく湿った雪や風、闇に閉ざされた夜そのものが「恐怖」として描き出されるものもある。または、幼い子供が得体の知れぬ旅僧に会ったり、正体不明の現象・兆しに出会ったことで、ある日突然不条理に死んでいく話もあったりと、読者は非常にバラエティーに富んだ妖異物語に遊ぶことが出来る。それらを読むと、「恐怖」とは作りこまれたフィクションの世界にばかりあるのではなく、我々の日常生活の其処ここに、ひそやかに佇んでいることも解かるのである。
    それは日常生活の眼には見えない部分に、蛇がとぐろを巻くように、か黒く蟠っているものなのだ…。

     子供時代のあの日、あなたに「遊ぼうよ」と声をかけてきたのは、確かに見覚えのある友の顔であったか。去年死んだ子供の顔ではなかったか。
    あの四辻で泣いている子供は、帰りの遅い母を案じているのか、それとも死んだ母を慕って泣くのか。
    黒い夜、あなたの側で寝息を立てているのが、確かにあなたの家の者という確証はあるか。悪意と害意に満ちたこの世ならぬモノが、あなたのすぐ背後で、あなたの寝姿をまねて寄り添い、あなたに、妖しの世界へと導く息を夜ごと吹きかけ続けているのではないか……。
    我々の手には、そうではないと断ずる何らの証拠もありはしないのである。―――

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著者プロフィール

明治・昭和時代の小説家・児童文学作家。新潟県出身。「日本児童文学の父」と呼ばれ、『赤い蝋燭と人魚』『金の輪』などの名作を多数創作。

「2018年 『注文の多い料理店/野ばら』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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