坂口安吾 [ちくま日本文学009]

著者 :
  • 筑摩書房
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レビュー : 43
  • Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480425096

感想・レビュー・書評

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  • 日本の荒れた山賊の話はなぜこんなに魅惑的

    桜が咲く前に「桜の森の満開の下」が読みたいな、と思ったのに、読めたのは5月も中ごろという。

    「桜の森の満開の下」に「堕落論」「白痴」が入っているものを、となるとこの本になりました。
    昔谷崎潤一郎を読んだ記憶があるちくま日本文学です。

    堕落論と白痴は学生時代に読んだのですが、当時よりも味わい深く、楽しく読み終えることができました。
    読むのには若すぎたのか。最近戦争関係の本を多少は読んだので、心得が違ったのか。

    小説と随筆が混ざるなか、「石の思い」「風と光と二十の私と」での学生時代・代用教員の思い出話に沿って出てくる、白痴への思い、堕落への背景。それが戦中、戦後の「日本文化私観」「堕落論」「白痴」に結実するのでしょう。

    「桜の森の満開の下」は初めて読んだのですが、芥川といい、日本の荒れた山賊の話はなぜこんなに魅惑的なのでしょう。桜の下に大勢の人が集まるのは、無人になった時の桜の力を怖れるかのようですね。

    この作品を読む前と読んでからでは、桜への対応方法が変わってくると思います。来年の春は、一人で桜の下に行けないのでは。

    ああ、思い出した。カレカノで出てくる話だ。
    (彼氏彼女の事情)
    この漫画を読んだ当時に読みたいなと思っていたのに、実際読むのには15年ほど間が空いてしまいました。

  • 角川文庫版の『堕落論』・新潮文庫版の『白痴』に入っているもののみ再読。
    何度読んでも<堕落論><続堕落論>は良い…。

    <FARCEに就て><石の思い>には泣いた。
    矛盾に満ちた愚かな存在たる人間を嫌なほど理解した上で、こんなにももがき続けられる人がいるなんて。
    坂口安吾。一人ひとりの事情を肯定したり甘やかしたりは絶対しない、だけどそれぞれに人生七転八倒している姿が人間なんだ…と背中を押してくれるような存在だなぁ。
    愛情と憎悪というのは「その感情を抱いた対象に行動を支配されてしまう」という点に関しては全く一緒であって、なので愛情と憎悪は私にとって全く一緒のこと。甘い私は「だから両方いらないんじゃないかしら。」と思いがち。もちろんそんなあり方を望むのは、人間として本当は違うとわかっている。逃げだと知っている。
    矛盾や、愛情や憎悪も自分のものと受け入れて、七転八倒してみせろよ!と私に力をくれるのが坂口安吾…、なのかもしれない。

    他には、「風博士」「勉強記」「湯の町エレジー」「桜の森の満開の下」が特に好きだった。

  • 安吾は日本観が独特でいいなあと思う。飾らない、うつくしくない日本を愛していたんだなというのは、小説を読んでいても伝わる。

  • 「桜の森の満開の下」「白痴」「風博士」「風と光と二十の私と」「村のひと騒ぎ」

  • 僕の乏しい読書履歴。
    小学生の頃はふつうにスニーカー文庫とか読んでました。
    (今で言う「ラノベ」とは当時はちょっとニュアンスが違ったと思う)
    でも思春期から20代まで、読書を全然しない人間になってしまって。
    中学生の頃はホームズ全集を読んだだけ。
    高校生の頃は安野光雅の本を図書館で一冊借りただけ。
    『旅の絵本』が好きだったので。

    若い子は知らないと思うけど、昔『知ってるつもり?!』って番組があって、
    僕が高校生の頃、坂口安吾の回がありました。('96年の6月)
    TVの内容は全然覚えてないんだけど
    それがたぶん、めちゃくちゃ面白かったんでしょうね。
    次の週の現国の授業、小論文の課題かなにかに
    安吾のことをびっちりと書いた記憶があります。
    安吾を読んだこともないのに!!!(笑)

    今考えたらまったく意味不明で、
    「当時の俺はいったい何を考えてたんだろう・・・」と不思議になります。
    思春期ってほんと、変なことをやらかしてる。
    頭おかしかったんだろうか・・・。


    この、ちくま日本文学全集の坂口安吾のやつは
    読書をまったくしなくなった僕が、大学生の頃に唯一買った本。
    大学の生協でふら~っと、表紙に惹かれて。ジャケ買いですわな。
    なんかこれ、かわいいんですよ・・・。

    あとは
    『安吾なんて知らないよって あの娘は言った
    自分の事をボクと呼ぶ女の娘が増えている』
    の影響だったんじゃないかなあ。
    『夕暮れ模様の俺の部屋
    ニューヨークの音楽が鳴り響くときもある』
    ですね。

    最近になって、この表紙と装丁が安野光雅さんだと知ってびっくり。
    やっぱり安野さん良いなあ。

    それで、これさっき知ったんですけど
    ちくま文庫の松田哲夫さんってトマソンをやってた人なんですね。
    そりゃ好きになるわ・・・。
    安野光雅→松田哲夫→トマソン→赤瀬川原平→ネオダダ→磯崎新
    ってね。
    赤瀬川原平も磯崎新も、僕のGMTにゆかりがある方なので。

    磯崎建築は使いにくいって話もありますけど(笑)、
    県立図書館、旧県立図書館(現アートプラザ、展覧会したりするとこ)
    それから北九州に居た頃は市立図書館等々
    僕が通ってきた図書館は全部磯崎さんの設計したやつですので
    だいぶお世話にはなってるなあ。

    そんなわけで、ちくま文庫がより大好きになってきました。
    (本文と本の内容は関係ありません)

  • 「堕落論」に期待して手に取ったものの、結局どの作品も肌に合わなかった。
    文章のそこかしこから無責任臭が漂ってきて、それが苦手。
    自分の思っていることを素直にズバッと書いているのはすごいと思うけど…。

  • 作品より随筆?論文?の方がいい作家ですね。
    日本文化私観、堕落論、続堕落論が面白かった。
    とりあえず桜の森の満開の下読みたかったので読めて良かったです。
    しかし、この人、小学校の教員時代に数名の生徒を挙げて娼婦になったらなんて妄想書いてるけどなんなの‥‥男に子に対しては悪ガキでも子供ってのは可愛いもんだってすごくいいこと書いてくれてるのにこれにはドン引きしました。時代ですか? それにしてもひどいわ。

  • 前から堕落論を読みたいと思っていました。日本文化私観もそうですが力強くて逆説的な主張が小気味良いです。

  • 『村のひと騒ぎ』『堕落論』『続堕落論』『桜の森の満開の下』が良かった。
    坂口安吾って、難しい人なんだなぁと思った…

  • 「風博士」「FRANCEに就いて」「石の思い」「白痴」が良かった。「桜の森満開の下」は傑作。

    以下引用。

    「TATATATATAH!」
     すでにその瞬間、僕は鋭い叫び声をきいたのみで、偉大なる博士の姿は蹴飛ばされた扉の向う側に見失っていた。僕はびっくりして追跡したのである。そして奇蹟の起ったのはすなわちちょうどこの瞬間であった。偉大なる博士の姿は突然消え失せたのである。
     諸君、開いた形跡のない戸口から、人間は絶対に出入しがたいものである。したがって偉大なる博士は外へ出なかったに相違ないのである。そして偉大なる博士は邸宅の内部にも居なかったのである。僕は階段の途中に凝縮して、まだ響き残っているその慌しい跫音を耳にしながら、ただ一陣の突風が階段の下に舞い狂うのを見たのみであった。
     諸君、偉大なる博士は風となったのである。果して風となったか? しかり、風となったのである。何となればその姿が消え失せたではないか。姿見えざるはこれすなわち風である乎? しかり、これすなわち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。風である。然り風である風である風である。諸氏はなお、この明白なる事実を疑るのであろうか。それは大変残念である。それでは僕は、さらに動かすべからざる科学的根拠を付け加えよう。この日、かの憎むべき蛸博士は、あたかもこの同じ瞬間において、インフルエンザに犯されたのである。(「風博士」p.19~20)


     一般に、私達の日常においては、言葉は専ら「代用」の具に供されている。例えば、私達が風景について会話を交す、と、本来は話題の風景を事実に当って相手のお目に掛けるのが最も分りいいのだが、その便利が無いために、私達は言葉を藉(か)りて説明する。この場合、言葉を代用して説明するよりは、一葉の写真を示すにしかず、写真に頼るよりは目のあたり実景を示すに越したことはない。
     かように、代用の具としての言葉、すなわち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称し難い。なぜなら、写実よりは実物のほうが本物だからである。単なる写実の前では意味を成さない。単なる写実、単なる説明を文学と呼ぶならば、文学は、よろしく音を説明するためには言葉を省いて音符を挿(はさ)み、蓄音機を挿み、風景の説明にはまた言葉を省いて写真を挿み(超現実主義者、アンドレ・ブルトンの“Nadja”には後生大事に十数葉の写真を挿み込んでいる)、そしてよろしく文学は、トーキーの出現と共に消えてなくなれ。単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。
     言葉には言葉の、音には音の、そしてまた色には色の、おのおの代用とは別な、もっと純粋な、絶対的な領域が有るはずである。(「FRANCEに就いて」p.50~51)


     一体、人々は、「空想」という文字を、「現実」に対立させて考えるのが間違いの元である。私達人間は、人生五十年として、そのうちの五年分くらいは空想に費やしているものだ。人間自身の存在が「現実」であるならば、現にその人間によって生み出される空想が、単に、形が無いからと言って、なんで「現実」でないことがる。実物を摑(つか)まなければ承知出来ないと言うのか。摑むことが出来ないから空想が空想として、これほども現実的であるというのだ。大体人間というものは、空想と実際との食い違いの中に気息奄々として(拙者などは白熱的に熱狂して――)暮すところの儚い生物にすぎないものだ。この大いなる矛盾のおかげで、この箆棒(べらぼう)な儚さのおかげで、ともかくも豚でなく、蟻でなく、幸いにして人である、と言うようなものである、人間というものは。(「FRANCEに就いて」p.55~56)


     この隣人は気違いだった。相当の資産があり、わざわざ路地のどん底を選んで家を建てたのも気違いの心づかいで、泥棒ないし無用の者の侵入を極度に嫌った結果だろうと思われる。なぜなら、路地のどん底に辿りつきこの家の門をくぐって見廻すけれども戸口というものがないからで、見渡す限り格子のはまった窓ばかり、この家の玄関は門と正反対の裏側にあって、要するにいっぺんグルリと建物を廻った上でないと辿りつくことができない。無用の侵入者は匙を投げて引下る仕組であり、ないしは玄関を探してうろつくうちに何者かの侵入を見破って警戒管制に入るという仕組でもあって、隣人は浮世の俗物どもを好んでいないのだ。この家は相当間数のある二階建であったが、内部の仕掛については物知りの仕立屋も多く知らなかった。(「白痴」p.249~250)

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著者プロフィール

1906年、新潟生まれ。評論家、小説家。おもな著作に『風博士』『堕落論』『白痴』など。1955年没。

「2019年 『復員殺人事件』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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