坂口安吾 [ちくま日本文学009]

著者 :
  • 筑摩書房
3.72
  • (22)
  • (36)
  • (42)
  • (3)
  • (1)
本棚登録 : 331
レビュー : 43
  • Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480425096

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • これが初めての安吾。いつまでも7歳の心を大事にしていた人なんだなと思った。そのときそのときの自分の心の揺らぎを見なかったことにできないというのはなかなかハードなことだろうけれど(身近な人を振り回さざるを得ないだろうしね)、こういう人がある程度いないと世界が息苦しい。いてくれてよかった。以下よかったもの。

    「風博士」、「村のひと騒ぎ」。可笑しいんだけど、読み終わってみるとお祭りの後のようになにか物悲しい。「まあお話なんですけれど、本当にこういうのがあったらうれしいような気がしませんか」、って言われている気がする。

    自伝的な「石の思い」、「風と光と二十の私と」。子供時代のかなしみと潔癖。出来が悪くて教室にいたくなくて、自分の部屋で固まっていたころを思い出した。どうしてあんなに身の置き所がなかったかって、子供って自分のことをまだ引き受けられないんだよね。保護される身って辛い。ただ息をしているしかなくて。

    「桜の森の満開の下」。破滅的な美に魅入られる山賊の話。満開の桜を見上げたときの圧倒される感じ、リミッターを超えてしまいそうな感覚は、お花見をしたことがある人ならだれでも知っているわけだけれど、それをこういう風に魅力的な忌まわしさと絡めて描くなんて、やられたー、という気持ち。最後山賊は消滅してしまうわけだけれど、そういう後戻りできない禍々しい磁力にやれらて落ちるって、実際自分が吸い取られてしまうような体験なんだろう。

  • 本書に収められている作品の中では、「桜の森の満開の下」が一番好きな話でした。幻想的かつ幽玄的な世界観、雰囲気に惹き込まれます。独特なリズムを持つ文体も魅力的です。

  • 「白痴」だけ読んだ。
    現実逃避のために女を匿ったのかなと思った。
    あの後、バットエンドにしかならないと思ったけど、主人公はそれを求めていたのかもしれない。

  • 安吾の代表作をほぼ網羅した編纂本。小説もエッセイも初読の作品が並ぶけど、その作品が作家の体をなした徹底的に現実的な社会史観の語り部としての部分特に面白く読めた。
    「続堕落論」の「文学は常に制度の、また、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によって政治に協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。」。
    日本文化史観の「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺を取り壊して停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して滅びはしないのである。(中略)必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこに真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似に恥じることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。」。
    市井の善良な体をとる思考停止に対する冷徹な安吾の声。自分はきちんと思考しているか?いま改めて日本人としてしっかと彼の姿勢を受け止めたい。

  • 引用

    頁五五
    「一体、人々は、『空想』という文字を、『現実』に対立させて考えるのが間違いの元である。私達人間は、人生五十年として、そのうちの五年分くらいは空想に費やしているものだ。人間自身の存在が『現実』であるならば、現にその人間によって生み出される空想が、単に、形が無いからと言って、なんで『現実』でないことがある。実物を掴まえなければ承知出来ないと言うのか。掴むことが出来ないから空想が空想として、これほども現実的であるというのだ。大体人間というものは、空想と実際との食い違いの中に気息奄々として(拙者などは白熱的に熱狂してーー)暮すところの儚い生物にすぎないものだ。この大いなる矛盾のおかげで、この篦棒な儚さのおかげで、ともかくも豚でなく、蟻でなく、幸いにして人である、と言うようなものである、人間というものは。
     単に『形が無い』というだけで、現実と非現実とが区別せられて堪まろうものではないのだ。『感じる』ということ、感じられる世界の実在すること、そして、感じられる世界が私達にとってこれほども強い現実であること、ここに実感を持つことの出来ない人々は、芸術のスペシアリテの中へ大胆な足を踏み入れてはならない」

    頁三〇〇
    「しかし富子はうちの宿六はたしかに本当に偉いんじゃないかと思うことがあった。それはつまり、守銭奴で大酒飲みで大助平で怠け者で精神的なんてものは何一つないというのはつまり人間が根はそれだけのくせに誰もそれだけだということを知らないだけなんだ、といううちの宿六の説が本当にそういうものかしらと思われる時があるからである」


    頁三七六
    「人間のよろこびは俗なもので、苦楽相半ばするところにあるものだ。置くというものがなくなれば、おのずから善もない。(中略)人間は本来善悪の混血児であり、悪に対するブレーキと同時に、憧憬をも持っているのだ」

  • 自伝半分。小説半分。


    現代小説と交互に読んでたせいだと思うけど、やはり読みやすさで言えば現代小説のほうが読みやすいなと思った。

    「日本文化私観」に生活の便利に則してれば着物を捨て歪曲した足でズボン履いてようが日本文化じゃん?みたいな言説に、なんとなく永井荷風を感じるというか、これは永井荷風も読み直さないと行けない案件だけどちょっと思った。何を読んだ時にそう感じたんだったかな…

    筋金入りの偏屈だけど、先生やってる時の話(風と光と二十の私と)読んでると教え子を愛してるし、教え子じゃなくても子供はかわいい。悪童のほうがかわいいみたいな感じで意外といい人なのかもしれないと思った。いろんな所業をきいたあとだからそう思うのかもしれないけど。

    「金銭無情」に織田作之助を感じる

    成増図書館 ちくま文庫集めてるところ918

  • ・風博士
    ・村のひと騒ぎ
    ・FARCEに就て
    ・石の思い
    ・風と光と二十の私と
    ・勉強記
    ・日本文化私観
    ・堕落論
    ・続堕落論
    ・白痴
    ・金銭無情
    ・湯の町エレジー
    ・高千穂に冬雨ふれり
    ・桜の森の満開の下

  • おばあちゃんは坂口安吾と同時代を生きてきたんだなとなんとなく思って、そう思ったら文学がとても身近に感じた。たった50年60年前の日本なのに全然ちがう生活。あ〜でも人間がお金のことと色恋のことだけ考えて生きてるってのは今もそんな変わってないか。これから50年後どうなってるんだろうか。それを知るためにも生活を続けていくのも面白いかもしれないな。

  • 人生の中で衝撃を受ける本は数少ないが、この1冊はその中に入る。坂口安吾のストレートに物を申す迫力ある言葉と華美に羅列される言葉に魅了されてしまう。

  • 風博士/村のひと騒ぎ/FARCEに就て/石の思い/風と光と二十の私と/勉強記/日本文化私観/堕落論/続堕落論/白痴/金銭無情/湯の町エレジー/高千穂に冬雨ふれり/桜の森の満開の下

  • 日本の荒れた山賊の話はなぜこんなに魅惑的

    桜が咲く前に「桜の森の満開の下」が読みたいな、と思ったのに、読めたのは5月も中ごろという。

    「桜の森の満開の下」に「堕落論」「白痴」が入っているものを、となるとこの本になりました。
    昔谷崎潤一郎を読んだ記憶があるちくま日本文学です。

    堕落論と白痴は学生時代に読んだのですが、当時よりも味わい深く、楽しく読み終えることができました。
    読むのには若すぎたのか。最近戦争関係の本を多少は読んだので、心得が違ったのか。

    小説と随筆が混ざるなか、「石の思い」「風と光と二十の私と」での学生時代・代用教員の思い出話に沿って出てくる、白痴への思い、堕落への背景。それが戦中、戦後の「日本文化私観」「堕落論」「白痴」に結実するのでしょう。

    「桜の森の満開の下」は初めて読んだのですが、芥川といい、日本の荒れた山賊の話はなぜこんなに魅惑的なのでしょう。桜の下に大勢の人が集まるのは、無人になった時の桜の力を怖れるかのようですね。

    この作品を読む前と読んでからでは、桜への対応方法が変わってくると思います。来年の春は、一人で桜の下に行けないのでは。

    ああ、思い出した。カレカノで出てくる話だ。
    (彼氏彼女の事情)
    この漫画を読んだ当時に読みたいなと思っていたのに、実際読むのには15年ほど間が空いてしまいました。

  • 角川文庫版の『堕落論』・新潮文庫版の『白痴』に入っているもののみ再読。
    何度読んでも<堕落論><続堕落論>は良い…。

    <FARCEに就て><石の思い>には泣いた。
    矛盾に満ちた愚かな存在たる人間を嫌なほど理解した上で、こんなにももがき続けられる人がいるなんて。
    坂口安吾。一人ひとりの事情を肯定したり甘やかしたりは絶対しない、だけどそれぞれに人生七転八倒している姿が人間なんだ…と背中を押してくれるような存在だなぁ。
    愛情と憎悪というのは「その感情を抱いた対象に行動を支配されてしまう」という点に関しては全く一緒であって、なので愛情と憎悪は私にとって全く一緒のこと。甘い私は「だから両方いらないんじゃないかしら。」と思いがち。もちろんそんなあり方を望むのは、人間として本当は違うとわかっている。逃げだと知っている。
    矛盾や、愛情や憎悪も自分のものと受け入れて、七転八倒してみせろよ!と私に力をくれるのが坂口安吾…、なのかもしれない。

    他には、「風博士」「勉強記」「湯の町エレジー」「桜の森の満開の下」が特に好きだった。

  • 安吾は日本観が独特でいいなあと思う。飾らない、うつくしくない日本を愛していたんだなというのは、小説を読んでいても伝わる。

  • 「桜の森の満開の下」「白痴」「風博士」「風と光と二十の私と」「村のひと騒ぎ」

  • 僕の乏しい読書履歴。
    小学生の頃はふつうにスニーカー文庫とか読んでました。
    (今で言う「ラノベ」とは当時はちょっとニュアンスが違ったと思う)
    でも思春期から20代まで、読書を全然しない人間になってしまって。
    中学生の頃はホームズ全集を読んだだけ。
    高校生の頃は安野光雅の本を図書館で一冊借りただけ。
    『旅の絵本』が好きだったので。

    若い子は知らないと思うけど、昔『知ってるつもり?!』って番組があって、
    僕が高校生の頃、坂口安吾の回がありました。('96年の6月)
    TVの内容は全然覚えてないんだけど
    それがたぶん、めちゃくちゃ面白かったんでしょうね。
    次の週の現国の授業、小論文の課題かなにかに
    安吾のことをびっちりと書いた記憶があります。
    安吾を読んだこともないのに!!!(笑)

    今考えたらまったく意味不明で、
    「当時の俺はいったい何を考えてたんだろう・・・」と不思議になります。
    思春期ってほんと、変なことをやらかしてる。
    頭おかしかったんだろうか・・・。


    この、ちくま日本文学全集の坂口安吾のやつは
    読書をまったくしなくなった僕が、大学生の頃に唯一買った本。
    大学の生協でふら~っと、表紙に惹かれて。ジャケ買いですわな。
    なんかこれ、かわいいんですよ・・・。

    あとは
    『安吾なんて知らないよって あの娘は言った
    自分の事をボクと呼ぶ女の娘が増えている』
    の影響だったんじゃないかなあ。
    『夕暮れ模様の俺の部屋
    ニューヨークの音楽が鳴り響くときもある』
    ですね。

    最近になって、この表紙と装丁が安野光雅さんだと知ってびっくり。
    やっぱり安野さん良いなあ。

    それで、これさっき知ったんですけど
    ちくま文庫の松田哲夫さんってトマソンをやってた人なんですね。
    そりゃ好きになるわ・・・。
    安野光雅→松田哲夫→トマソン→赤瀬川原平→ネオダダ→磯崎新
    ってね。
    赤瀬川原平も磯崎新も、僕のGMTにゆかりがある方なので。

    磯崎建築は使いにくいって話もありますけど(笑)、
    県立図書館、旧県立図書館(現アートプラザ、展覧会したりするとこ)
    それから北九州に居た頃は市立図書館等々
    僕が通ってきた図書館は全部磯崎さんの設計したやつですので
    だいぶお世話にはなってるなあ。

    そんなわけで、ちくま文庫がより大好きになってきました。
    (本文と本の内容は関係ありません)

  • 「堕落論」に期待して手に取ったものの、結局どの作品も肌に合わなかった。
    文章のそこかしこから無責任臭が漂ってきて、それが苦手。
    自分の思っていることを素直にズバッと書いているのはすごいと思うけど…。

  • 作品より随筆?論文?の方がいい作家ですね。
    日本文化私観、堕落論、続堕落論が面白かった。
    とりあえず桜の森の満開の下読みたかったので読めて良かったです。
    しかし、この人、小学校の教員時代に数名の生徒を挙げて娼婦になったらなんて妄想書いてるけどなんなの‥‥男に子に対しては悪ガキでも子供ってのは可愛いもんだってすごくいいこと書いてくれてるのにこれにはドン引きしました。時代ですか? それにしてもひどいわ。

  • 前から堕落論を読みたいと思っていました。日本文化私観もそうですが力強くて逆説的な主張が小気味良いです。

  • 『村のひと騒ぎ』『堕落論』『続堕落論』『桜の森の満開の下』が良かった。
    坂口安吾って、難しい人なんだなぁと思った…

  • 「風博士」「FRANCEに就いて」「石の思い」「白痴」が良かった。「桜の森満開の下」は傑作。

    以下引用。

    「TATATATATAH!」
     すでにその瞬間、僕は鋭い叫び声をきいたのみで、偉大なる博士の姿は蹴飛ばされた扉の向う側に見失っていた。僕はびっくりして追跡したのである。そして奇蹟の起ったのはすなわちちょうどこの瞬間であった。偉大なる博士の姿は突然消え失せたのである。
     諸君、開いた形跡のない戸口から、人間は絶対に出入しがたいものである。したがって偉大なる博士は外へ出なかったに相違ないのである。そして偉大なる博士は邸宅の内部にも居なかったのである。僕は階段の途中に凝縮して、まだ響き残っているその慌しい跫音を耳にしながら、ただ一陣の突風が階段の下に舞い狂うのを見たのみであった。
     諸君、偉大なる博士は風となったのである。果して風となったか? しかり、風となったのである。何となればその姿が消え失せたではないか。姿見えざるはこれすなわち風である乎? しかり、これすなわち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。風である。然り風である風である風である。諸氏はなお、この明白なる事実を疑るのであろうか。それは大変残念である。それでは僕は、さらに動かすべからざる科学的根拠を付け加えよう。この日、かの憎むべき蛸博士は、あたかもこの同じ瞬間において、インフルエンザに犯されたのである。(「風博士」p.19~20)


     一般に、私達の日常においては、言葉は専ら「代用」の具に供されている。例えば、私達が風景について会話を交す、と、本来は話題の風景を事実に当って相手のお目に掛けるのが最も分りいいのだが、その便利が無いために、私達は言葉を藉(か)りて説明する。この場合、言葉を代用して説明するよりは、一葉の写真を示すにしかず、写真に頼るよりは目のあたり実景を示すに越したことはない。
     かように、代用の具としての言葉、すなわち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称し難い。なぜなら、写実よりは実物のほうが本物だからである。単なる写実の前では意味を成さない。単なる写実、単なる説明を文学と呼ぶならば、文学は、よろしく音を説明するためには言葉を省いて音符を挿(はさ)み、蓄音機を挿み、風景の説明にはまた言葉を省いて写真を挿み(超現実主義者、アンドレ・ブルトンの“Nadja”には後生大事に十数葉の写真を挿み込んでいる)、そしてよろしく文学は、トーキーの出現と共に消えてなくなれ。単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。
     言葉には言葉の、音には音の、そしてまた色には色の、おのおの代用とは別な、もっと純粋な、絶対的な領域が有るはずである。(「FRANCEに就いて」p.50~51)


     一体、人々は、「空想」という文字を、「現実」に対立させて考えるのが間違いの元である。私達人間は、人生五十年として、そのうちの五年分くらいは空想に費やしているものだ。人間自身の存在が「現実」であるならば、現にその人間によって生み出される空想が、単に、形が無いからと言って、なんで「現実」でないことがる。実物を摑(つか)まなければ承知出来ないと言うのか。摑むことが出来ないから空想が空想として、これほども現実的であるというのだ。大体人間というものは、空想と実際との食い違いの中に気息奄々として(拙者などは白熱的に熱狂して――)暮すところの儚い生物にすぎないものだ。この大いなる矛盾のおかげで、この箆棒(べらぼう)な儚さのおかげで、ともかくも豚でなく、蟻でなく、幸いにして人である、と言うようなものである、人間というものは。(「FRANCEに就いて」p.55~56)


     この隣人は気違いだった。相当の資産があり、わざわざ路地のどん底を選んで家を建てたのも気違いの心づかいで、泥棒ないし無用の者の侵入を極度に嫌った結果だろうと思われる。なぜなら、路地のどん底に辿りつきこの家の門をくぐって見廻すけれども戸口というものがないからで、見渡す限り格子のはまった窓ばかり、この家の玄関は門と正反対の裏側にあって、要するにいっぺんグルリと建物を廻った上でないと辿りつくことができない。無用の侵入者は匙を投げて引下る仕組であり、ないしは玄関を探してうろつくうちに何者かの侵入を見破って警戒管制に入るという仕組でもあって、隣人は浮世の俗物どもを好んでいないのだ。この家は相当間数のある二階建であったが、内部の仕掛については物知りの仕立屋も多く知らなかった。(「白痴」p.249~250)

  • 昔、堕落論に挑戦して挫折したものの…笑、時を経てリベンジ!
    堕落論のみならず、他の作品も魅力的で、ぐいぐいと読んでしまった。

    先に安吾の奥さんの自伝を読んでいただけに、どんなに乱暴な世界を描く人なんだろうと思っていたが、はちゃめちゃな私生活とは裏腹に、文章はどれも端正で簡潔で一本筋が通っており、冷静ささえ感じた。

    世間の動向を気にすることなく、自分の考えを確実に提示する姿勢が小気味良い。
    一見、孤独を好むようで、人と関われずにはいられないところもなんとなく愛嬌を感じる。(それでも、薬物中毒になって荒れまくるような一面も持っていたのだろうが…)

    「風と光と二十の私と」は、個人的に胸に響く言葉が多く、一番好き。
    「金銭無情」も面白かった。「白痴」はストーリーもさることながら、戦時の東京の描写に息を呑んだ。

  • 「高千穂に冬雨ふれり」を読みたかったので、それのみ読んだ。
    が、他のも読めばよかった。
    2011/11/1

  • なんとなく「堕落論」が読んでみたいなーと思ったので、図書館で借りる。

    「勉強記」だけはどうも合わずに読めなかったのですが、他はさくさくと読めました。時折現れる戦争の描写が、書きすぎず、何とも言えない上手さを感じます。個人的には「白痴」が思った以上によかった。

    「堕落論」「続堕落論」ははまる人がはまったらとことんのめり込みそうな感じです。「ナンセンス!」とか無闇に使ってしまいそう。
    既読であったものの、「桜の森の満開の下」は何度読み返してもよいなあ、と思います。

  • 『桜の花の下には死体が埋まっている』とよく言われる一説が坂口安吾の小説から来ている、と言う事だけは知っていたのですが今まで一度もこの方の本を読んだことが無かったので読んでみるか、と思い購入しました。

    続堕落論が面白かったです。きちんと文章を見直してレビューを書きたいので一旦保存します。又書き直します。

  • 一読しました。
    随筆も小説も点々と読み詰まる部分があったけれど、
    著者に見下ろされているような圧迫感をあまり受けませんでした。
    解らなさもむしろよかったです。
    少し緩んだ言葉遣いもあり、気疲れは無用かと思います。要再読。これから段々と好きになれそうです。

    創造における「精神」論が書かれた『FARCEに就いて』面白く。

  • 人生ってなんだろうと柄にもなく考えながら読む。人間は苦しまなければ、といった主旨の言葉が突き刺さった。

  • 傷を抱えているとき、「痛くないよ」とごまかされ続けるよりも、むしろ抉ってくれる方が楽になる。
    特に、自分も同じ傷を持つと言っている場合は。
    (もしかするとあまり一般的ではない意味で、)やさしいなあ、と読みながら思う。

  • 坂口安吾、好きだなぁ
    言葉の選び方が、好き
    私は断然、小説が好き

  • 有名であるが読んだことが無かった。
    自分の好きな作家が複数引用していたこともあり
    読んでみようと思ったのだが
    確かに面白みを感じる部分はあったものの
    あまり共感出来るところがなく
    引用されていた作品や他の方のレビューから感じるような
    圧倒されるような鮮烈な印象を
    私は受けることが出来なかった。

    盲妹や他のいくつかの点で
    時代や書いている趣旨を鑑みたとしても
    えげつなさやエゴなどを感じ、やや不愉快にすらなった。

    『桜の森の満開の下』を特に読みたくて手に取ったのだが
    期待していたような美しく切ない世界というよりは
    私には血みどろで人のえげつなさが際立った。

    どうも、自分には合わないようで残念である。

  • 「桜の森の満開の下」のお話を読むために借りたのですが、その他にも良い作品がたくさんありました。
    教科書に出ていた文章を見て何だこれは、と思ったのが記憶にあります。
    けれども、ここにある作品を読んでそれが少し理解出来たような気がします。この人の根底にある考えが少し、見えたように思えました。

全43件中 1 - 30件を表示

著者プロフィール

1906年、新潟生まれ。評論家、小説家。おもな著作に『風博士』『堕落論』『白痴』など。1955年没。

「2019年 『復員殺人事件』 で使われていた紹介文から引用しています。」

坂口安吾の作品

坂口安吾 [ちくま日本文学009]を本棚に登録しているひと

ツイートする