- Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480425201
感想・レビュー・書評
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読んでいると目の前で体験してるかのように やりきれない思いになってしまうのでした… 現代の庶民にはちとツラい…
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円地文子は1905年生まれ。
『風琴と魚の町』
1903-1951に林芙美子は生きていた。
その時代の本は、女中を雇って暮らしているような金銭的余裕のある家の話を多く読み、この時代であっても大学まで出たような人が書いた本を読んできたので、言葉遣いが整っていた。
貧しい暮らしが描かれた部分が出てきても、それは裕福なものから見た貧しい人々や、裕福に生まれ教育されたものが落ちぶれてそれを描いたものであったので、やはり言葉遣いは整ったものであった。
しかし林芙美子の本は、登場人物の言葉遣いが、ちゃんと教育されたものではない。
貧しい暮らしが、そのものの手で描かれている。
本が出せるのは、裕福な家庭で、たくさんの本を読み、たくさんの表現を知り、自らの表現を探っていく事ができる環境にいた人の書いたものが後世に残っているのだな。
それは、悔しいなと思う。
もっといろんな環境に生きた人がいるのに、そういう人は自ら書き記し残さない限り、誰かの視点から語られるだけになってしまう。
有名人がホームレスに対する差別発言をしたとき、それを批判したのはホームレスではなかった。
ホームレスはスマホが無くて、ひどく言われてることも知らない、語る言葉を持って表現して残すというのは大事だな。
小説というか、日記のようだ。
富裕層ではない生まれの人が書いた小説には、その人にしか見えない視点とそのリアリティがあって貴重だが、そういう細部を知ることができるという以外の小説としての内容や主題が浮かび上がってこないから、日記のようだ。
『泣虫小僧』
これは前の二つに比べて、日記を離れて、作り込まれた作品のようだ。
『魚介』
何故こんなにも詳しく樹木の種類を並べ上げるのかな?という部分が3箇所あった。
男の相手をする3人の女、若く肌が美しい女、肌に痘痕がある女、こういう生き方になった人は、もう職を変えて生きていくことは難しいのかな?もうやり直せない歳ってあるのかな?必死に勉強しても?
こういう仕事に加わってくる新たな若い女と、年齢を重ねてきた女、男の気を引く女が必要な仕事だからどうしても、若さ、肌艶、器量で若いものに敵わず、1人寂しそうにしても男に構われない歳になったとか、歳と、歳に合わせた振る舞い、歳にもう合わない振る舞いについての話が、私をヒリヒリさせた。
『牡蠣』
周吉の電車に乗るストレスとか、仕事が遅々として進まない技術的というより熱心さの不足とか、その無気力な状態は、何が原因で、どうなったら良くなるのか?
医院に行っても原因は分からず、紛らわしのような薬の中毒になっているという精神病の様子。
どうしたらいいのだろう。
生々しい生活を描く西村賢太のよう、ロマンとか思想が出てくるような小説ではない。
私は、どうして小説を読んでいるのだろう。
こんな貧しい生活と精神病と体の病と吐血の小説を。
どうにも良くなる希望のない小説を。
才子も佳人も出てこない美は描かれていない小説を。
私はこういう小説の方が好きなのかもしれない。
美人と魅力的な男の出てくる小説が多いけど、そこには幻想が美しい夢があるけれど、そんなもののない小説が私にはリアルで好きだった。
美しくロマンのあるものが好きでないことは、つまらないことだなぁ。
劇的な衝撃的な悲劇や困難に立ち向かうことが無いのだから。
私はつまらないなぁ。
娼婦のもとを訪れる余裕のある男の側から描いた娼婦小説が吉行淳之介、貧しさから娼婦となった女の側から描いた娼婦小説というより貧しい生活の小説が林芙美子。 -
蒼い海風も
黄いろなる黍畑の風も
黒い土の吐息も
二十五の女心を濡らすかな
(P10 「自序」)
うわあ。
これは、むせてしまいそうなぐらい濃密な詩だな。
若い頃にこんな詩を読んだら眠れないな。
前卷の梅崎春生は福岡市中央区の生まれだが、林芙美子は福岡県門司市の生まれ。
あっちが福岡市なら、こっちは北九州市というわけだ。
作中に出てくる方言がいい。
これは小倉弁なのかな。(福岡の人に言わせると、博多弁、久留米弁、小倉弁はそれぞれ違うそうだが、長年福岡に住んでいてもよくわかりません)
「いやしかのう、この子は……腹がばりさけても知らんぞ」
「章魚の足が食いたかなア」
「何云いなはると! お父さんやおッ母さんが、こぎゃん貧乏しよるとが判らんとな!」
(p23「風琴と魚の町」)
どれも魅力的な作品集。
代表作「放浪記」「浮雲」はぜひ読んでみたいな。 -
結構すき