夏目漱石を読む (ちくま文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
3.71
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本棚登録 : 175
レビュー : 18
  • Amazon.co.jp ・本 (287ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480426420

作品紹介・あらすじ

深刻なテーマを追い求める「暗い」漱石と長年、多くの読者から愛される「国民的作家」漱石のあいだには何が横たわっているのか。その二つはどこでつながっているのか。「吾輩は猫である」「夢十夜」「それから」「坊っちゃん」「虞美人草」「三四郎」「門」「彼岸過迄」「行人」「こころ」「道草」「明暗」…主要十二作品を解明し、漱石が繰り返し語ろうとしている主題を明らかにし、漱石自身の資質とのかかわりを平明に語りつくす、卓抜な漱石講義。小林秀雄賞受賞。

感想・レビュー・書評

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  • 「吾輩は猫である」から「明暗」までの12の作品についての解説で、講演ということもあるが、吉本流の解釈を非常に分かり易い語り口で述べている。

    「吾輩は猫である」の作品は、漱石が英国から日本へ帰ってきて、何らかの形でその重荷を吐き出して、捨ててしまいたいという背景の下に書かれたという分析から始まって、「明暗」に至って、ある意味では漱石にとって初めての小説らしい小説を書いた。つまり初めて、自分を外側に置いた登場人物を描き、相対的な目で眺めるひとつの視点を獲得したと結んでいる。
    そして個々の作品のいたるところで、漱石の過酷な幼児体験が影響していることを指摘している。

    また、「(漱石ほど)典型的に、宿命が自分を吸い寄せていく力の大きさと強さを、とてもよく理解していて、なおかつそれに逆らうということが生きていくことだというところで、力戦奮闘している作家は明治以後に近代文学の中でありません」と漱石を絶賛している。

    この本を読むと漱石の作品を全て読んだような気にさせてくれるほど丁寧な解説と批評で、私のように漱石の作品を若い頃に読んで忘れている人は、この本を是非お勧めします。

    「あとがき」で著者は「わたしは漱石の作品に執着が強く、十代の半ばすぎから幾度か作品を繰り返し読んできた。隅々までぬかりなく読んだので、一冊の本にその学恩ではなく、文芸恩を返礼するのが、わたしの慣例なのだが、江藤淳さんの優れた漱石論があるので、これで充分いいやと考えてそれをしていない」
    かつて昭和という激動する政治の時代に、保守と革新という立場であった論敵への配慮というかオマージュの言葉に思わず涙した。(2002年にこの作品を書いているが、その3年前に江藤淳は自殺している)

  • 夏目漱石さんの、主に後期の小説…「それから」以降くらいっていうのは、名作とかブンガクとか言う以前に、実にドロドロした人間関係エンターテイメントだなあ、と長年思っていました。
    感覚的には「高校教師」とかそういう野島ドラマのような(見てないですが)。ラーメンで言うと、とんこつ。というより天下一品の味わいなんですよね。個人的には。
    「行人」とか「彼岸過迄」の終盤とか。もう読んでて赤面するくらいどろどろのぐっちゃぐちゃ。過剰な自意識と片想いと邪推と劣等感を、煮込んで煮込んでぐずぐずになった…美味。
    ドストエフスキーさんの「地下室の手記」とか、初期ウディ・アレンのラブコメ映画とか…。
    (脱線しますが、ウディ・アレンさんも作家としてはとてもドストエフスキーだなあと思います)

    晩年の吉本隆明さんが、講演として夏目漱石を論じた話し言葉をベースに作られた本のようですね。
    夏目漱石さんの小説はほとんど大好きなので、実に面白く読みました。
    吉本隆明さんというと、「無駄に難解なのではないか」という先入観を持つ人もいると思います。僕もそうです。(先入観と言うより事実という気もしますが)
    でもこの本は読み易いです。ベースが話し言葉ですから。

    もう読み終えて数日、内容を忘れつつあるんですが…。

    ●「吾輩は猫である」が小説として、娯楽として、面白くない。という断言を筆頭に、「このあたりは面白いよね。いまいちだよね」という感覚が、ものすごくドンピシャでした。

    ●一方で、例えば「虞美人草」。は、文章に凝りすぎてるし、人物造形や語り口が、まあ言ってみれば尾崎紅葉みたいで面白くない。と、言いつつも。「虞美人草」の終盤では、小説として奇跡的なまでに面白い、興奮熱狂な部分もある。という評価。コレ、「虞美人草」を読んだのは恐らく20年以上前なんですが、「そうそう!そうだった!」とこれまた感動的に激しく同意。

    ●漱石の個人史と参照しながら「作者の気持ち」を想像しつつ、行きすぎてスキャンダル検証みたいには堕ちない。

    ●漱石の後半の小説を、「つまり男ふたりと女ひとりの三角関係」という貫かれた題材を指摘しつつ、「男ふたりが激しく近い距離にいる、友人的な関係である」という指摘。これもなるほど。

    ●「明暗」について、則天去私みたいなよくわからないお題目とは関係なく、小説の技法として、男性ひとりの視点に頼らずに等間隔で、俯瞰で人物たちを描けていることを指摘。これも、実に「ああ、そうだなあ、だから面白いんだよなあ」と納得。

    ●一方で、「近代の自我」「欧米と対峙する後進国としての文明的焦燥感」などなど、のお題目について。吉本さんはバッサリと、「漱石は自覚してなかったと思うけど、そんなお題目ではなくて、漱石の乳幼児から幼少期の愛情に飢えた育ちから生まれている屈折や憂鬱が大きな存在だ」という風な論旨。これはこれで、確かに。漱石を読んで、そこに背景としての明治日本と当時の列強の存在を文明論みたいな感じで読みとることはできますが、あくまで「背景」だと思います。やっぱり何で面白いかって、人間のどろどろのオモシロサだと思うんですよね。
    (ただそれが、吉本さんが述べている理由が絶対正しいのかというと、それほどまでのこともなかったと思いますが…)

    まあ確かに、年表的事実関係だけで言っても。
    夏目漱石さんというのは、赤ちゃんで養子に出され、養父母が不仲で実家に戻され、実子扱いされず成長したんですね。
    簡単に言うとけっこう、不幸です。
    そんな子が、とにかく勉強が出来て、天才的に漢籍の才能があって、それどころか英語も出来て。
    簡単に言えば、話しが合う人がほとんど居ないレベルの漢籍の教養を持っているのに、ロンドン留学をして。
    これまた誰も話し合えないくらいに英語と英文学と文学論を極めて。…という人なんですね。
    その生真面目さ、潔癖さ。まだ「武士」という響きを残す世代の堅苦しさ。そして東西の教養が切ってはち切れんばかりの中で。
    親しい人間関係の摩擦、「ま、普通はこういう流れで生きるよね」という宿命と、「こう生きたい」という意思や欲望を、天下一品のスープのようにどろどろと描けるんですね。
    その小説家的技術というのは凄いなあ、と思います。
    そういう見方を促してくれるような本だったと思います。

    さすがちくま文庫。パチパチ。

  • 吉本隆明をちゃんと読むのは初めて。

    私も「門」が好きだー。ただ、平凡さと言うより、門を前にした時のやりきれなさみたいなものが、好きなんだけど。

    夏目漱石とトルストイの三角関係を挙げるのだが、『アンナ•カレーニナ』は体制や体裁への反発からの悲劇と読めたけれど、『それから』にしても『こころ』にしても漱石は漱石自身に向かい、迷い込んでゆく。
    武者小路の『友情』もそれはそれで好きなんだけど、やっぱり違う。

    外ではなく、内へ向かい、なのに有ではなく、無に向かうのは日本人の心性なのだろう。
    この辺りは一つ前に読んだ佐伯啓思が私の中でパンチを効かせていて、科学の進歩が不安を与えるとか、自分の外に絶対的なものを置くことが出来ない辛さなんかは、よく分かる。

    そうした中で己の立ち位置を観ざるを得なかった時代性が伺えた。

    この一冊から、作品に寄り添う手がかりがあって、こうやって誰かの手から見通してみることも面白かった。

  • 吉本隆明が、晩年、漱石の小説について、「猫」から「明暗」まで、すべての作品を俎上にあげて語った講演を本にしたのが「夏目漱石を読む」。

    「渦巻ける漱石」、「青春物語の漱石」、「不安な漱石」、「資質をめぐる漱石」と題した四回の講演を一冊にまとめた本だが、それぞれの題目に「吾輩は猫である」「夢十夜」「それから」、「坊ちゃん」「虞美人草」「三四郎」、「門」「彼岸過迄」「行人」、「こころ」「道草」「明暗」が振り分けられていて、漱石の一つ一つの作品について、当時、80歳にならんとする吉本隆明が、その眼目と考えるところ、一流の文学とは何かを訥々と語っている。

     その説得力は一人の批評家が一生かけてたどり着いたものだという実感なしには読めない。
    https://www.freeml.com/bl/12798349/1004981/

  • 理想型の漱石講義。
    よく、本棚を見ればその人がなんて言うけど、ちゃんと言えば、どう読んだか拝聴すれば。なんじゃなかろうか。
    吉本隆明の読み方は、漱石の小説で言ったら、「門」の冒頭場面のような、主人公の宗助が縁側に出て胡座をかいてて、やがてゴロリと寝転び空を見上げて、妻のお米は、縁側の障子の向こう側で縫い物をして会話が交わされる、穏やかな生活のような、ひっそりとした、そんな。
    鋭いこと厳しいこと吉本にしか気づけないだろう視点などエッジの効いた理論も混じってるのだけど、バックグラウンドが「門」の縁側の陽だまりの穏やかさにあって、とても、すんなりとふわりと拉致されてた。
    漱石は資質によって書かされ、そこには理由や意味や過去の体験は、さほど関係が無いという仮説。それに引き寄せられるのも資質のような。
    人は、せざるを得ないでおられないことしか出来ないと思うし、そういうことだけして、生きてる。
    考える時は、「こういうもんやから」を、一旦全て取り去れるような境地にいたい。

  • 漱石作品についての講演録のような体裁でまとめられており、平易でわかりやすい。衒学的なところやひねくれた見立てもあまりなく、読書好きの普通のエッセイとして読めた。

  • 2002年刊。ハードカヴァーで買ってます。積読本でした。

    漱石の作品を執筆順に四つの年代に分けて十二篇とりあげています。
    渦巻ける漱石
    『吾輩は猫である』『夢十夜』『それから』
    青春物語の漱石
    『坊ちゃん』『虞美人草』『三四郎』
    不安な漱石
    『門』『彼岸過迄』『行人』
    資質をめぐる漱石
    『こころ』『道草』『明暗』

    明治以降、ただ一人の作家をといわれれば漱石を挙げる以外ないそうです。

    この本のいうところの研究で最もはずせないところは、
    「一人の女性をめぐって二人の男が愛の葛藤を演ずるみたいにいうと、近代小説の概念で姦通小説とか、とか不倫小説というところになる。たとえばフローベールの『マダム・ボヴァリー』とかトルストイの『アンナ・カレーニナ』。
    しかし、漱石の作品のモチーフのそれと違うところは、一人の女性をめぐる二人の男性がかならず親しい間柄にあるということである。それが一貫したテーマになっている」というところであると思います。

    「国民的作家漱石もおもしろいし、また狂気じみた作家漱石もおもしろいし、さまざまな意味で漱石は興味深い作家だと思います。漱石は人間の宿命ということ、宿命は反復を強いるということをたいへんよくかんがえた作家です」と最後に著者は述べられています。

    この本を読んでわかったことは、漱石は何の予備知識ももたずに読んでもわからないのが、ごくあたりまえの作品をかいた作家だということでした。
    逆に言えば、知識をもってして読めば大変面白く読めるということでありますね。

  • 吉本隆明による漱石論。漱石の小説を 混沌、宿命、青春、偶然論、妄想(パラノイア)、破滅的三角関係、心理小説をキーワードに 区分、書評した本。

    とても わかりやすい




  • 雑感。

    家庭は子どもに安らぎを与えるはずの場という前提が、一般的には信じられている。
    この本の中で、基本的に漱石は病的な思い込みをやる人間で、その妄想の特異性が彼の作品に普遍的な価値を与えているとしている。

    その上で、歳がいってからできた恥ずかしい存在の子として里子に出され、出された先では軒先でカゴに入れられて晒し者にされた挙句に連れ戻され、さらに不要な存在として新たな養父母に預けられ、養父の女性関係で日常は不穏なものになる。
    そういう日常の中で刻々存在してきた漱石の生い立ちに対して、悲劇性、宿命という言葉が使われている。
    そこに従うか、抗うかという態度が作品にどう反映しているか、実際の漱石は抗っていたわけだけれども、執筆されているその時々、どのような本音があったのかを推測している。

    問題は二つある。
    一つはその病的な思い込みの体系が漱石によってどのように認識され、意識的に作中の人物のふるまいとしてアウトプットされていたかということ。
    もう一つはその要因となる悲劇的な乳幼児期の詳細と克服へのアプローチが内的にどのようになされていたのか、ということだ。

    まずその認識について、吉本は一箇所を除いて巧妙に避けて語っているように見える。
    実際に漱石ほどの人物であればそれが限定的であれ自覚はあったはずだが、ほとんど無意識であるがゆえのままならなさ、解明がそれほど行き届いていない半分の無意識として、その性質を資質としてしまっている。
    人は問題の核心を見ずに、苦悶の中でその問題を追い詰めて行くこともできてしまう。
    しかも吉本曰く、漱石はパラノイアだ。
    さらに、自分の問題を何とかするために禅に関心をもったり、座禅(原文ママ)をやってみたりしたと言う。
    ここで僕は僕自身のパラノイア的気質に対する疑いと、禅以外のアプローチがあるのではないかという淡い期待が浮遊してしまった。
    つまり、漱石を通して隠蔽され潜伏している自分を知りたかった気分が、放置されてしまったような感じがした。
    ただわかったのは、乳幼児期に問題があるとそういったパラノイア的妄想が発生する閾値が低くなるということだけだ。

    実際、幼児期から青年期にかけて、もっと言えば胎内にある時から自己という存在がどのように否定されたかということが内的に今の自分にどのように作用しているかは、自覚しきれない。
    その時に指針となるのは、相対的に用意された別個の人格で、これをどのようなところに持ってくるかということもまた、病的な自己によって恣意的に選ばれている。公平性など皆無の閉じられた世界では、どのように振る舞うかという客観性は成立し得ず、むしろ探求は内へ向かうしかない。

    仕事や人間関係の煩わしさといった、実生活上の問題をなんとなく解決してしまう偶発性についても語られている。
    例えば、今ある穏やかさを安易なものとして捉えようとする気質、克服すべき問題があって、ウンウン唸っていないと怠惰なように思えてしまう資質が自分にはある。
    それはつまるところ、構造上、安易な穏やかさは偶発的に外からしかやってこない、という宿命でもある。
    この本の中に森忍の夏目漱石論が引用されていて、それは『行人』の中でお直が10分か15分くらい一郎のところへ行って、出てきたと思うと一郎の態度がほがらかそうにけろりと変わる、それはふたりが性行為に及んだんだという解釈なのだが、日々口にするような穏やかさなど所詮そんなものとも言える。

    また、漱石は大きな関心として、動機について語っているとしている。
    ある程度、自己矛盾の問題が片付いてくると、今度は一度取り払った自我、自己をどのように分別のフィルターを通さずに使うのか、発揮するのか、という問題に至ってくる。
    自然に振る舞いたいという願いについても、吉本は言及している。
    ではその自然な振る舞いには、どのような動機がはたらいているのか。
    活発発地などといい気になって、ただ無意識に、傍若無人にふるまっているだけではないのか。

    則天去私とは実際のところどのような振る舞いなのか、少し漱石を追ってみたくなった。

  • 吉本隆明さんの漱石論。読み応えあり。あとがきの最後の「またこの本の読者に幸あれ」という吉本さんからのメッセージに(勝手に、自分に言われたと思って)じーんときました。
    関川夏央さんの解説も読ませる!

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著者プロフィール

1924年、東京・月島生まれ。詩人、文芸批評家、思想家。東京工業大学工学部電気化学科卒業後、工場に勤務しながら詩作や評論活動をつづける。日本の戦後思想に大きな影響を与え「戦後思想界の巨人」と呼ばれる。2012年3月16日逝去。

「2019年 『吉本隆明全集20 1983-1986』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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