レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480427083

作品紹介・あらすじ

議論で打ち負かされるのは本当に嫌なもの。自らに非がないにもかかわらず、いつの間にか相手の術中に嵌って二者択一を迫られたり、説明責任を負わされたりして、ディレンマに陥って沈黙せざるを得なかった経験が誰にでもあるはず。相手がしかけた罠を見破り撥ね返すにはどうすればよいのか。社会人として、自分の身を守るために必要なテクニックを伝授する。

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    本書『レトリックと詭弁』は、弁論術の指南書である。ただし、ディベートのような対話形式のゲームが上手になる、といった類のものではなく、むしろ、現実での言い争いやネット上でのレスバトルで、いかに相手にやり込められないかという「狡猾さ」を身につけるための護身術である。ビジネスにしろプライベートにしろ、返答に窮する質問に言葉を失くした経験はあるはずだ。そうした意地の悪い口撃から身を守りつつ、逆に相手を切り返す。そうしたテクニックを身につけることは、(悪用さえしなければ)多大なメリットもたらしてくれるはずだ。

    本書では、「議論を制するのは問いの技術」と述べており、弁論術における「質問を投げかける強さ」を繰り返し強調している。それはなぜかというと、問いに対して沈黙するということは、問われたにもかかわらず答えられなかったということになり、敗北を意味するからだ。議論は、ある者が他者の意見に対し、異論・反論を唱えることによって始まる。反論の応酬が続く限り議論は継続し、どちらか一方が反論できなくなれば、暫定的な勝者と敗者が確定する。そのため、相手をやりこめるには、こちらから問いかけるシチュエーションを作り、「相手に答えさせる=相手に説明責任を負わせる」のが常套手段となる。
    加えて、問いを構成する言葉を恣意的に選び、自分にとっては有利に、あるいは答える側にとっては不利に傾くよう質問を誘導してしまえば、相手に勝つ確率がぐっと上がる。

    その具体例を示してみよう。問いの操作方法の一つ――問いの内容を、自分に有利な二者択一にすり替える、というパターンだ。
    夏目漱石の「坊っちゃん」の中で、坊っちゃんは教頭(赤シャツ)にまつわる横恋慕の噂話を、赤シャツ本人に問い詰めるシーンがある。そこで赤シャツは次のように言う。
    「(坊っちゃんが下宿屋から聞いた噂話について)それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたの仰ゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云う様に聞えるが、そう云う意味に解釈して差支えないでしょうか」
    赤シャツの問いは、原型としては、「下宿の婆さん」と「教頭」の「云う事」のどちらを信じるかという二者択一の問いになっている。生徒である坊っちゃんの立場からすれば、当然「教頭の云う事」を信じるべきということになる。しかし、実際には「教頭の云うこと」だから信じ、「下宿屋の婆さんの云うこと」だから信じないわけではない。坊っちゃんは、「利害関係のない第三者(下宿屋)の云うこと」だから信じ、「利害関係者(赤シャツ)の云うこと」だから信じないのである。赤シャツは、二者択一にすべき要素を、自分に都合のいい物にすり替えているのだ。
    さらに、赤シャツは、本来ならありえない選択を先回りして非難・難詰している。「あなたは下宿屋の婆さんの云う事を教頭の云う事よりも信じるのですか」というわけだ。これによって問いの強度は強まる。
    さらにさらに表現を工夫し、「下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云う様に聞こえるが、そう云う意味に解釈して差支ないでしょうか」と問い詰める。つまり、「下宿屋の婆さんの云う事」を「教頭の云う事」より信じるではなく、「下宿屋の婆さんの云う事は信ずる」が「教頭の云う事は信じない」という、対立した強い組み合わせにしているのだ。

    では、このような意地の悪い問いにはどう対応すればいいのか。本書では、《retort》、つまり「言い返し」が有効である、と紹介している。質問にはまともに答えず、別の切り口で反論を仕掛ける方法だ。そもそも話が「はい/いいえ」の2択になっているのは、そうなるよう相手が勝手に状況を設定しているだけだ。そのため、真正面から2択に応じる必要はなく、逆に「そうおっしゃるのなら、下宿屋の婆さんのどこが信頼できないのですか?」「噂話の当事者の云うことを信じろ、というほうがおかしいのでは?」などと言い返していく。
    議論においては、何かを主張した側にそれを立証する責任がある。相手よりも先に、こちらがその主張の非なることを論証する義務はない。相手に理不尽な問いを突き付けられたならば、その問いの虚偽を突くことで、相手にターンを渡せばよいのである。
    ――――――――――――――――――――――――――――
    本書は、自分が普段意識することがない「弁論」についての書だ。タイトルからは「弁論に強くなろう」といった攻撃的な内容を想像してしまが、実際は真逆で、「理不尽な論法から身を守ろう」という守備的なものであり、自己防衛のノウハウがたっぷり詰まっている。詭弁の具体的なサンプルも多く、読んでいて「こういう意地の悪い質問、受けたことあるなぁ」と思い当たるフシが多かった。そうした詭弁の例を読みつつ「どうすれば上手く返せるだろうか」と考えれば、一種の思考トレーニングにもなる。非常にためになり、濃い一冊。是非オススメである。

    ――無知・無能は、狡猾以上の悪徳です。この場に限らず、私は、詭弁によって人を騙すことよりも、騙されることの方が悪いと考えています。詭弁で人を騙すような性根は、おそらく死ぬまでなおらないでしょう。が、騙されることは、勉強し、訓練すれば防げるからです。そして、そのような勉強・訓練によって相手の詭弁が見抜けるようになれば、自分自身は詭弁を使わなくなります。
    ――レトリック研究者の立場から言えば、倫理的判断によって、自ら詭弁を使うのを慎む人は、議論人としてはまだ二流・三流です。一流とは、議論技術があまりにも向上し、相手の虚偽を完璧に分析できるようになったため、自らも詭弁を使うことが(あるいは虚偽を犯すことすら)不可能になった人のことです。相手よりも先に、自分で自分の論に反論できてしまうのです。われわれは、詭弁を使わないのではなく、使えなくなるほどに、議論技術、論理的思考力を向上させなければなりません。
    ――――――――――――――――――――――――――――

    【まとめ】
    1 問いという最強の武器
    ドイツの研究者シュターデルヴィーザーによれば、問いは「議論(対話)を、ある方向に向け」「相手を、こちらが狙いとするところにより近づけることができる」という。
    問いは議論を制す。問いは作ったほうが優位に立てる。「問いを自分で作ることができる」とは、「問いを構成する言葉を自分で選ぶことができる」ことを意味し、自分にとっては有利に、あるいは答える側にとっては不利に傾くような言葉を利用して、かつ相手にそれに答えることを強いる。
    例えば、「あなたの行為は、道理に適っていない」と発言したとき、それが道理に適っていないことを論証する責任はこちら側にある。だが、これを「あなたの行為は、道理に適っていると言えますか」と相手に問いかけたなら、相手がその問いを肯定した場合、その行為が道理に適っていることを論証する責任は、形式上は相手側に移行する。
    責任の転嫁は、問いという形式が議論法として働くときの、最も重要な作用の一つである。

    これに対し、問われた側はいかにしてその問いに答えずに済ますか、という技術がある。
    言語学者のラス・マナーは、《question》に対応するものとして、《answer》以外に、《retort》(言い返し)という用語を立てている。例えば「はい」か「いいえ」を要求する問いに対して「はい」か「いいえ」で答えるのが《answer》であるならば、《retort》はそのような問いの妥当性を、あるいはそれを問うという行為の是非を問題とする。

    例えば、カンニングを押さえられた学生が、「他にもやっている人がいる。要領よくやっているのが得をして、たまたま見つかったものが損をするのですか」と開き直ったとしよう。このとき、われわれは「はい」とも「いいえ」とも答えることができない。学生は「カンニングをして見つからなかった者」を「要領よくやっている者」と表現することで、自分を「要領よくやっている者」の類から外し、カンニングという行為に伴う「狡さ」のイメージを、少なくとも自分についてだけは消し去ろうとしている。かつ、カンニングを発見されたものが、学則に従って処罰されるのは当然の報いであって、別に損をするわけではない。
    学生の問いに対する《retort》としては、「カンニングの要領の良し悪しで処罰しているのではなく、カンニングの有無で処罰しているのだ」など、相手の虚偽を指摘すればよい。


    2 二者択一の罠
    われわれは、自分の意見を選択肢の一つに偽装することにより、それを主張する責任を免れながら、それを主張するのと同様の効果をあげることができる。よくあるのがアンケートの誘導質問だ。質問文の前置きに質問者の「考え」を記述することで、回答者が無意識に「質問者の考え」の方向の選択肢を選んでしまう。
    自分の意見を選択肢の一つに偽装し、はい/いいえの二者択一の問いの中に紛れ込ませる。こうしておけば、少なくとも形式上は、その発言の責任をとらされる気づかいはない。こちらは選択肢の一つを示しただけであり、どちらを選択するかは相手に任せているからだ。だが、相手に選ばせておきながら、直接にそれを主張するのと同様の効果を持つ。


    3 なぜ問いは効果的なのか
    そもそも、議論において、なぜ問いという形式が好まれ、それが強力な攻撃手段として働くのか。
    それは、議論における問いの形が修辞疑問を取るからだ。修辞疑問とは、問いのかたちをとるが、それは疑念を表したり返答を引き出すためではなく、反対にこちらの強固な確信を示し、話し相手に、否定できまい、返答することさえできまいと申し渡すためのものである。
    要は、相手の立場からすれば明白な答えを選択できず、こちらの立場からすれば問うふりをして沈黙を強いるのである。

    修辞疑問は「わかりきったこと」を相手に尋ねることで、自分の状況を自分の言葉で確認させ、その言質を取る。これを悪用すれば、自分の聞きたい答えを、相手の口から言わせることができるし、逆に相手に「答えさせずに沈黙させる」ことも可能となる。

    フランシス・ベーコンの「ノヴム・オルガヌム』に次のような一節がある。
    ……そういうわけで、難破の危険を免れて、祈願を成就した人びとの絵が寺院にかけられているのをみせられて、ある人が、それでも神々の力を認めないのかと問いつめられたとき、「しかし、願いをかけたのに死んだ人びとの絵はどこにあるのか」と問いかえしたのはもっともである。

    ここでは、次のようにも言えたはずだ。
    「あなたは神々に願いをかけて命が助かった人だけをとりあげているが、願いをかけたにもかかわらず遭難して死んだ人だっていたはずである。自分に都合のいい例だけを使ったのでは証明にはならない」。
    こちらの方が反論としては直接的で、しかも十分に攻撃的である。しかし、反論が同じ沈黙を引き出したとしても、それが平叙文によってなされた場合と、問いという形式によってなされた場合とでは、その沈黙が意味する敗北の認定の度合いがまるで異なってくる。なぜなら、問いに対して沈黙した人は、問われたにもかかわらず答えられなかったということになり、その沈黙を敗北の証拠として言質に取られてしまうからだ。

    カイム・ペレルマンとオルブレクツ=テュテカは次のように書いている。
    「沈黙することは、何の異論も反論も見出せないか、あるいは問題が議論の余地がないことの証拠とみなされる。……沈黙が同意と解釈されることの危険性ゆえに、多くの場合、人は、たとえその場しのぎで持ち出した異論が脆弱であったとしても、何かしらの反論をすることを選ぶのである」
    議論は、ある者が他者の意見に対し、異論・反論を唱えることによって始まる。反論の応酬が続く限り議論は継続し、どちらか一方が反論できなくなれば、すなわち沈黙してしまえば、そこで議論は一応終結し、暫定的な勝者と敗者が確定する。問いは、その沈黙が、最も明らかなかたちで敗北の証拠となるような状況を設定することができるのだ。


    4 多聞の虚偽
    「君は、もう奥さんを殴ってはいないのか?」
    この例文は形式上、「はい」か「いいえ」という答えを要求する。もし「はい」と答えたら、かつては殴っていたが、今はやめたことになる。「いいえ」と答えたら、今でも殴っていることになる。伝統的虚偽論では、これを、外形的には一つに見える問いの中に、実際には「君は奥さんを殴ったことがあるか?」と「今ではもう殴ってはいないのか?」という2つの問いが含まれていると解釈し、「多問の虚偽」「複問の虚偽」と命名した。

    繰り返すが、このような2択の問いを迫られたときには《retort》することが有効である。つまり、答えを述べずに、その問いの妥当性を追求する。
    議論においては、何かを主張した側に、それを論証する責任がまず課せられる。それが立証責任である。議論において絶対にやってはならないミスは、相手側に立証責任があるときに、勘違いしてこちらがそれを引き受けてしまうことだ。それは議論の最も強力な武器を放棄し、無防備なまま相手側の攻撃にさらされることを意味するからだ。


    5 議論を有利にするテクニック
    ・おまえも同じではないか論法:君も同じ(悪いこと)をしたではないか、と言い、自分のことを棚に上げて相手を批判する。外交上では超重要。
    ・後出し有利:過程はどうあれ、最後に喋った者が有利である。
    ・あえて言わないふりをする:ある内容を省略したり曖昧にしたりして、かえって印象付ける。
    ・例証:何かを説明するときの「具体例」について、自分に都合のよいものを題材として選ぶ。

  •  論点のすり替え、無理矢理どちらかを選ばせる二者択一の力、相手に沈黙を強いるための問い、ディレンマの応用、などなど、議論にしばしば仕掛けられる「罠」から身を護るための種明かし本。芥川とか漱石とかの小説から例をとってるのでわかりやすい。

     詭弁を暴いていく著者の皮肉めいたコメントが読んでて気持ちいい。でも逆に言うと、知らず知らずのうちに僕もこういう詭弁使ってるかもしれないなぁ。

     そういえば、以前「あなたは頑固ですか?」って訊かれて困ったことがあった。その質問に「はい」って答えても「いいえ」って答えても頑固ということにされてしまうから。これがディレンマの応用? それとも多問の虚偽かな?

  • 仕事柄、無茶な議論に巻き込まれることは多い。「筋を通せ」と筋の通らないことを要求され、自分が不利になると論点をずらして要求を通そうとする人ももちらほら。

    言葉や議論を職業にしている人は、一度読んでおいたほうがいい。詭弁を見抜くことができれば、詭弁に悩まされることは無くなり、相手の土俵で戦わずにすむから。

  • 問う側には無限の攻め手があるが,答える側は問いに制約されるので,問う側が答える側に比べて本質的に有利という指摘はまさにその通りである.

  •  長らく絶版になっていた、香西秀信先生の『「論理戦」に勝つ技術』(PHP)が、ちくま文庫に入って復刊されました!

     香西秀信先生は、宇都宮大学教授で、修辞学(レトリック)と国語科教育学をご専門とされていらっしゃり、主に前者についての著作を上梓されています。と同時に、僕の私淑する「議論とレトリックの師匠」であり、著作をコンプリートしているんですが、その中でも一番面白いのがコレです。

     ゴチャゴチャ言うより、内容をかいつまんで見て頂きましょう。

    ■第一章 議論を制する「問いの技術」
     第一話 赤シャツの冷笑……問いの効果
     「あなたの仰ゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云う様に聞えるが、そう云う意味に解釈して差支えないでしょうか」

     夏目漱石の『坊っちゃん』で、赤シャツとあだ名される教頭が坊っちゃんをやり込めたセリフです。
    これのどこがおかしいかを論理的に説明しながら、議論において問いを設定することがどれだけ議論において優位に立てるかを説明していくのです。

     こんな感じで、古今東西の本から面白いレトリックを引き出し、それの構造やはたらきを解説しています。
    そして、それと関連して、議論に大切なテクニックや考え方を色々解説されています。
     何と言いますか、ものすごく頭の良い野球の解説を聞いてるようなところがあるんですが、野球の解説と違うのは、凡百の「論理的思考本」なんかとは比較にならないくらい面白く、かつ役に立つところです。
     議論について、本質的で骨太な少数のツールを実例の形で使っているから、読むだけで自然とそういう考え方が身についてくるんだと思います。

     以下、好きな章を思いつくまま挙げます。

     第二話 カンニング学生の開き直り……「問い」の打ち破り方
     「他にもやっている人がある。要領よくやっているのが得をして、たまたま見つかったものが損をするのですか」

     これを読んだ”理屈っぽい方々”は、多分反論したくてウズウズしているはず!
     香西先生はこの学生を思いっきり論破すると共に、この理屈に「一理ある」と思ったバカ教師にも、返す刀で一閃をくれています(笑)。

     第三話 北山修の後知恵……論点の摩り替えその①
     「ホットドッグ一つで寝ることがいけないのなら、数百万もするダイアモンドの結婚指輪をもらって寝ることはイイことなのか」

     もう、こういう理屈、大好きです!(笑)

     第四話 西行の選択肢……二者択一の力
     「そも、保元の御謀反は天の神の教へ給ふことわりにも違はじとおぼし立たせ給ふか。又みづからの人慾より計策り給ふか」

     『雨月物語』の白峰から。
     崇徳上皇の怨霊に説教をかます西行萌え。

    ■第二章 なぜ「問い」は効果的なのか?
     第五話 村上春樹の啖呵……相手の答えを封じる問い
     「ふん、長ズボンはかなくちゃ食えないような立派な料理なのかよ」

     …逆ギレですよね、これ(笑)。

    ■第四章 「論証」を極める
     第十三話 芥川龍之介の「魔術」……相手をはめる
     「そこで僕が思うには、この金貨を元手にして、君が僕たちと骨牌をするのだ」
    芥川龍之介の『魔術』という短編から。

     本当に議論の上手い奴というのは、なんかどうにも腑に落ちないと相手に思わせているにもかかわらず、理屈の力で納得させてしまうところにその上手さがある、という好例です。
     理屈に自信のある方は、香西先生の「答え」を読む前に、青空文庫なりで芥川の『魔術』をお読みになり、一度自分で考えてみられることをオススメします。

    ■第五章 議論を有利にするテクニック
     第十七章 イワン・カラマーゾフの辞退
     「僕はなにも神を認めないというんじゃないよ、いいかい、アリョーシャ、ただその入場券を神様に謹んでお返しするだけの話さ」

     このセリフにしびれました!
     これを知って以降、僕は神の実存についての議論自体が幼稚に見えてしまいます。


     大学教授の書いた本だから、硬い本なんじゃ?と思った方。そんな方は是非この本の前書きをお読み下さい。
     「うわ…ムチャクチャ言ってる、この人www」
     と度肝を抜かれること請け合いです。

     正直、復刊は嬉しいのですが、人に教えたくないくらいという思いがあります(絶版を機に内容を独り占めしたかったんです)。
     僕の人生において、文句なくベスト3に入る名著です。人生で一番読み返して楽しんでいる本かもしれません。

     とにかく、騙されたと思って読んでみて下さい!


    http://tomiya-sangendo.blogspot.com/2011/11/crossreview10020118.html

  • 大筋は問いが議論における攻撃であり、形をいくらでも変えて相手を誘導することが出来る、とても強いものであるという話。
    そのため、相手から問われたときにそれを馬鹿正直に答えたりせず、相手が前提としている論理を指摘したり、逆に問い返して(retort)、その誘導を避ける必要がある。
    その一例に、論文を揶揄して【「理論の文章」、「論文」として書いたのですか?それとも「ユーモア」「ジョーク」「パロディ」あるいは「ことば遊び」として書いたのですか?】と問われたとき
    「論文」として書いたと答えてしまうと「なにをもって論文としているのですか?」と問われ、しどろもどろにとってつけた説明をする羽目になってしまい最後に「今お聞きした情報ですとユーモアとなんら変わりないように思えますが…」などと言われてしまう。
    そのためこの問いに対しては「先生はユーモア、ジョーク、パロディ、ことば遊び、理論の文章、論文をどう定義づけているのですか? なんの説明もなく単語を羅列し、私の方はそれを整理する後始末をおおせつかる、これはひとにおんぶして楽をしながら、隙きがあれば首に噛みつこうとする「おんぶおばけ」の「おたずね」です」中略「私はユーモア〜ことば遊びをそれぞれ次のような基準で区別する。、この4つの概念とあなたの言う理論の文章は次のように違うと私は思う。…この区別の仕方をあなたは認めるか?次に、私はあなたの文章を右の基準によって分析する、ユーモア〜ことば遊びに当てはまる箇所は、それぞれ次の通りである、理由は次のとおりである、あなたはさきの基準のこのような適用を認めるか?」「これは問いかけの基本ルールです。先生も、もし研究者のはしくれであったなら、せめてこれくらいの問はしてください。せめてこれくらいの論理構造は作った上で私の理論を批判してみてください」
    この返しは痛烈だった。
    相手に回答が不可能な問をかけ、沈黙させて議論に勝つ
    ジレンマを生む二分法に乗っからず度合いが変化するだけ、もしくは必ずしもそうなるとは限らないと心得る(結婚するとしたら美人かブサイクだが、美人と結婚すると嫉妬心が生まれ、ブサイクと結婚すると耐えられない、よって結婚するべきではない)
    最後の結論を別のものとすり替えて、承認を得る(豚のスクィーラーの弁論術)
    相手に立証責任を押し付けられずに、相手に立証責任を負わせる(詭弁を見破る)(くだらない論文〜のくだり)
    人はなぜ殺してはいけないのかなどの、自明であることは論証不可(すべての理由の発端は人の主観によるものであり、なぜ人を愛するのか?と同一の問い)

    唯一カンニングのくだりで、他の人もカンニングしているにも関わらず、バレてしまった私だけが処罰を受けるのは要領の良いものが得をして要領の悪いものが損をするということか、という問いに対して
    「あなたは要領よくやって、たまたま失敗したのだ。またカンニングという不正行為に対して処罰するのは学校として正当だ」とかえすと良いとされているが
    「要領が良いものは自ら勉学の計画を練り、知識を蓄え自力で試験に臨むもののことをいい、要領が悪いものは日々の勉学を怠り不正行為を前提として試験に臨むもののことを言う、不正行為は露見すれば処罰の対象になるのは自明であり、カンニングに運良く成功している者たちを要領が良いものとする認識が誤っている」と返したほうが納得感があるような気がした

  • さくさく読めて、その上、実践も出来そうな良書
    文学作品からの引用を例に取って説明されるため、現実の場で役に立つか甚だ疑問であったが杞憂に終わった。
    あとがきで、議論の舞台裏の装置を暴露するということは、それを使えなくなることとあったが、大半の人間は勉強しないので、一部の相手を除き、ガンガン使えてしまう。
    知っているのと知らないのとでは圧倒的な差が生まれる。

  • Q1)大工4人が3カ月で建てる家を、大工6人なら何カ月で建てるか?→2か月。
    Q2)では12人なら?→1カ月。 Q3)3100万人なら?→1秒。
    Q1)が論理的にまかり通るなら、Q3)も論理的に正しいことになります。
    しかし実際は経験上、あり得ないし、誤りだと認識できますね。
    これが経験上判断できないケースの場合、論理に囚われた者は、同様の誤ちに陥りながら、
    論理の導くところは誤りなしと信じてしまいます。
    もしくは、同様の詭弁を弄するものに、信じ込まされてしまいます。

    議論で負かされるのはいい気分のしないものです。
    自らに非がなくとも、二者択一を迫られたり、説明責任を負わされたり…。
    この本では、弁論術の事例を説明、種明かしをし、ロジックと反論事例を紹介します。
    「議論を制す問いの技術」「後出しじゃんけん」「論点の摩り替え」「言質をとる問」…

    “ディベートは黙りこくったら敗北”という前提で話が進みます。
    確かにそうかも知れませんが、「沈黙」、「判らないことは判らないとする」という
    開き直りというか腹の括り方もありではないかと、口下手の私などは思ってしまいます。
    愚鈍だ、鈍いだと相手がどう思おうが関係ありません、じっくり判断すれば良いのです。
    重要なのは、「(話の)本質を見極める」この一点ではないかと思います。

    と言いながら、ディベートが得意でない私としては、弁論のテクニックを説明され、
    「朝まで生テレビ」出演者達を思い出しながら、なるほどと感心させられました。

  • 再再読、くらい。

    何度読んでも面白いし、多分著者の本ってどれも内容は大同小異なんだろうけど、それでも面白い。
    面白いのは、僕がその内容を体得できていないため、毎回「ああそうだったそうだった」と新鮮さを感じるからなのだろう。

    そう。そういうもんだと僕は思うんだよね。

    著者がよく言うように、レトリックの技法を開示することにより、レトリック(によるトリック)が使いづらくなる、なんてことはまあ考えなくていいと思う。
    だって、読むことと体得することとには千里の径庭があるんだもの。
    読んで例題を提示されて、「問題として解く」のはそれほど難しくない。でも実戦で使うってのは至難の業。
    僕を含め、読者の99%が、なんら議論は強くなっていないはずだ。

    てことで、まだまだ著者には新作を期待したい。

  • 護心術としての議論術という論考で、議論の様々なテクニックが著されています。哲学、文学、エッセイ等の書物からの例示が理解を促します。ふと垣間見える著者の”毒”に、にやりとさせられたりします。折々、再読し、自己の議論術を点検してみたいですね。

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著者プロフィール

1958年香川県生まれ、筑波大学第一学群人文学類卒業。同大学院博士課程教育学研究科単位修了、琉球大学助手を経て、現在、宇都宮大学教育学部教授。専攻は修辞学(レトリック)と国語科教育学。著書に『反論の技術』『議論の技を学ぶ論法集』『修辞的思考』『論争と「詭弁」』『議論術速成法』『論より詭弁』『論理病をなおす! 』など。

「2010年 『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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