錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫 ま 41-2)
- 筑摩書房 (2011年9月7日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480428578
感想・レビュー・書評
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『脳はなぜ「心」を作ったのか』に続く前野先生の心の哲学第二弾。本書では、意識からさらに昇華し、五感にフォーカスを当てている。ベースメントとなる脳科学的なエッセンスは前著を踏襲している感じである。
五感は皆、環境認識のための道具ではなく、環境を理解するために脳が作り出した創造物だというのは、確かに衝撃的だ。世界の見方が変わる。通例、気づくこと、考えることは、幸福の妨げになるように思われがちだが、このような、新たな視点を以って諦観を幸福に結びつける試みは、多くのinrovertに勇気を与えてくれる。
イリュージョンである欲求のばかばかしさに気づき、生かされている刹那に「満足」している人生を歩みたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
前書である「脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説」に比べて驚愕の仮説ではなかったが、よりエッセイという風合いが強くとても楽しんで読むことができた。
特に感覚遮断装置を実体験した話については、筆者の研究者のフットワークの軽さを研究という面での視座の深さと広さを感じて感動した。こういった研究者に憧れる。 -
慶應義塾大学教授であり、ロボットーヒューマンインタラクションなどを研究する著者が人の意識について語る。
ある講演会で著者の話を聴いて、ロボット研究と人間の意識の話が、妙に仏教的な思想をベースにしていることを感じ、面白い人だなぁと思った。本書を読んでやはりそうかと、納得。
心の質感(クオリア)について、それはイリュージョンだという。
感覚遮断実験では、自分より生徒のほうが、優れた感性で体験結果を報告できた事に対し、悔しいと素直に認め、そんな自らの煩悩も何とかロジックで正当化するコミカルな内容。
折角人間として生まれたのだからイリュージョンを楽しめることに感謝しよう・・・なのだそうだ。 -
心(意識)は所詮、幻想・錯覚でイリュージョンであり受動的であるという受動意識仮説を、脳神経科学の知見をもとに分かりやすく展開している。
見えている、聞こえている、認識している世界は感覚器で感じられる世界であり、その世界を作り出している。現実の世界は、認識している世界とは全く異なる様相をしていると考えると、何だかとても不思議な感覚。
進化の過程により獲得できた、五感、イリュージョン、クオリアによってこの世界を認識、感じられる幸せを改めて感じる。 -
世界観を変える本。この主張はホモデウスでも扱われてる。今の科学の主流。
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前著である『脳はなぜ「心」を作ったのか』で主張した、私たちの「意識は」何ら意思決定を行っているわけではなく、無意識的に決定された結果に追従し、疑似体験し、その結果をエピソート記憶に流し込むための装置に過ぎないとする「受動意識仮説」を視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を一つ一つを例示して分かり易く説明する。大脳皮質の中でもその感覚の入力部と高次処理部の一方通行ではない相互伝達の関係が、ジェフ・ホーキンスが「考える脳考えるコンピュータ」で主張するところのそれとよく似ていてとても興味深く読めた。
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<目次>
プロローグ
第1章 意識はイリュージョンである
第2章 五感というイリュージョン
第3章 主観体験というイリュージョン
エピローグ
<内容>
種本は2007年刊。文庫化は2011年。慶応大学工学部の前野教授の本。ロボットの感覚(特に視覚)研究が本職だが、そこからいつのまにか「幸福学」を追求するようになり、この本も最後は宗教書のようになっている。が、いわゆる宗教書のように説得力がない訳でなく、科学的に説明がされているので、納得の出来るものである。特に人間の「意識」は自分の「意思」で行われているのではなく、脳内のニューラルネットワークが勝手に動き始め、それを脳が後付けで「意思」と思わせている。諸感覚ともそうなので、著者は「イリュージョン」と呼び、そう考えると、人生は前向きに生きた方がよい、という結論(これが「幸福学」)となるという。私もここまで生きて来ると、著者の言わんとすることが何となくわかる。自分の「意思」もなく、経験はあるが、脳の勝手な動きの中で「生かされている」のだから、物事にこだわらず、楽しく考えた(ポジティブ・シンキング)方が、ずいぶん楽に生きられるということだろう。 -
ゾンビと人間の違いの考察にはじまり、五感に基づくクオリアがいかにイリュージョンであるかの解説を行っている。
後半は、釈迦のエピソードに触れながら無我や悟りの概念と、受動意識仮説との対比を行う。
様々な概念が、イリュージョンであるという論理を構築しながら話は進むが、新たな気づきはすくなかった。