- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480429537
作品紹介・あらすじ
旅人・つげ義春が見た温泉の風景とは?1960年代末から70年代にかけて、日本列島の片すみにあった温泉宿を探して、青森、秋田、福島など、東北や九州を旅した、つげ義春。農村の湯治場に集う人々の表情や、絶望的に静かな雰囲気を見事に写し撮った作品は、忘れられた貴重な記録であるとともに、強烈なつげワールドである。2003年刊のカタログハウス版を大幅に再編集した。
感想・レビュー・書評
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「写真を中心とした、日本各地の温泉への旅行記」なのだけれども、そのような紹介文からイメージするであろうものとは、中身は随分と異なる。
まず、訪問した時期がとても古い。昭和40年代が中心。昭和40年は1965年であり、いまから55年ほど昔のこと。
次に、つげ義春が訪問した場所。華やかさとか、賑やかさとは無縁の、温泉街というよりは、湯治場と呼ぶ方が相応しい場所が多い。鄙びている、というよりも、寂れていると言う方が良さそうな場所ばかり。半世紀前のそんな場所だから、その寂れている感も半端ない。
また、写真が暗いものばかり。モノクロの写真なので、仕方がないところもあるが、それにしても、いかにも寂れた風景や、いかにも暗い人達や、明るさを感じさせる写真がほとんどない。
つげ義春は、このような場所が好きなのである。
本書の最後の丹沢への旅行記は、下記のように、締め括られている。
【引用】
一般の行楽客にとっては、暗い谷間とちっぽけな滝、中津川の川原は殺風景で、これほどつまらぬ所はないだろうが、私はここが、とくに滝やお堂がすっかり気に入った。鉱泉業のことはともかくとして、こんな絶望的な場所があるのを発見したのは、なんだか救われるような気がした。
【引用終わり】
絶望的な場所を発見して救われる、というのは、随分と倒錯的な感じもするが、それが、つげ義春ワールドのベースなのだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
個人的なことなのですけれど、この本に登場する福島県の金山町と天栄村のどちらも住んでいたことがあって、玉梨温泉、大塩温泉、湯本温泉、二岐温泉どれも実感を持って思い出すことができて懐かしい気持ちになりました。湯本温泉の湯口屋には宿泊したり宴会したりでいろいろお世話になったのも覚えています。もう20年以上前になりますけれども。
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2/3が写真で1/3がエッセイ。
漫画はなし。資料としてはいいのかもしれないけどちょっときたいはずれ。 -
私はひなびた温泉宿が好きと自負していますが、本書に登場する温泉宿は、ひなびたという単語の田舎の良さの様なものすら持ち合わせない、本当に救いのないものの様に描かれています。著者の撮影した写真と、活力の欠片も感じさせない文章がさらに救いの無さを引き立たせており、むしろその非日常的な世界が、不思議と落ち着く読後感に繋がっていると思います。
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前半、著者の撮った昭和の湯治場風景を収めた貴重な写真群、後半エッセイの二部構成に、著者の挿絵が盛り込まれた、鄙びた温泉場好き向けの一冊。
中学生の頃、図書館から借りた漫画批評本では必ず名前の出てくるつげ義春の「ねじ式」を買って読み、あまりの衝撃に本屋へ返しに行った過去があるのですが(親切な本屋で、返品は無理だけど他の本と交換ならと言ってくれました)、いたいけな子供が作品を読んで震え上がっていた頃、著者がどんな心持・体調でどんな温泉場に居たのかが今更にわかりました。 -
古き湯治宿は、姥捨を想像させる。
だが、その侘びしさがまた癒しを感じさせるのである。(あとがきより) -
『つげ義春日記』で生まれたばかりの子どもを置いていくのが心配で、不安で少しも楽しめないと愚痴を言っていた旅行記も含めた温泉に関するエッセイ。
寂れて暗くて貧乏臭い温泉や鉱泉の居心地の良さ。思い切り裸の人が写ってる昔の温泉の風景写真多数。こんなとこ出かけてみたいな。Gotoキャンペーンから除外された東京の4連休。 -
賽の河原のような生と死の境界のような雰囲気を
醸し出す温泉ばかりに足が向く。
古い湯治場を好む理由は、
現実から逃げたい思いが無意識にあり、
その不安の癒しを求めて、と著者は自己分析している。
貧乏臭く老朽化している所、
老人は「姥捨て」を連想させる。
機能しなくなった役立たずの捨て場、
社会との関係から外れた境遇は
関係に規定されている「自己」から解放され
意味も根拠もなくなる。
その存在は「存在しながら存在しない」非存在、
それに深い安らぎを覚える著者。 -
いま、ここにでてくるひなびた温泉がどのぐらい残っているのだろう…
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昭和の寂れた温泉街の写真が良い。
突き放したような書き方だが、それでも鄙びた温泉が好きで心が落ち着くというところでしょうか。
温泉行きたい。