- Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480429902
作品紹介・あらすじ
ひとは服なしでは生きられない。流行に巻き込まれずに生きることもできない。流行(モード)という社会の時間と身体の感覚とがせめぎあうその場所で、"わたし"という存在が整形されてゆくのだ。ファッションやモードを素材として、アイデンティティや自分らしさの問題を現象学的視線から分析する。独自の哲学的なモード批評を切り拓いた著者による、ファッション学のスタンダードテキスト。
感想・レビュー・書評
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「服」をテーマに様々な切り口でその有り様を論じている。本当に色々な話をしているので本書の主題は何かを読了後のイマイチ掴むことが出来なかったが、「服」一つとっても、現象学、社会学、身体論など様々な視点で、興味深い話が展開される様は非常にエキサイティングだったと感じた。
日を置いてもう一度再読して、次は本書を理解出来るようになりたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
モードは、
モードから抜け出そうと脱モードしても
それ自身がトレンドとなりモードに取り込まれる。
そんな地獄。
服とは皮膚 -
毎度ながらいいかんじ!
モードの地獄(「反モード」を装ってもそれも流行となりモードの範疇に収まる) -
クローゼットは閉まらないのに今日も着たい服がない!服は諦めて、何年も積読になってた本をやっと手に取る。刺激を受けて長い感想になった。
「ひとはなぜ服を着るのか」タイトルに対する答えについて頭を抱える。複数のテーマからいくつもの回答が浮かび上がってくる気がする。
テーマ毎にすっと理解できる箇所もあれば、難解すぎてたぶん5回読み返しても、私の頭では理解できない箇所もある。
私では「ひとはなぜ服を着るのか」に対して、明確な答えは出せない。この本が難しいからではなく、ファッションは服に留まらないから、だと言いたい。
その服を選んだ過程、例えば好きな音楽や映画や、何かしらの影響があると思う。今や、ファッションは、食器や植物、食べ物、あのタピオカだって、ファッションを形成するひとつだと私は捉える。
内容に戻ると、まず文章がとても美しい。自然な比喩表現。寺山修司や金子光晴、初めて知ったフランスやアメリカの精神学者など、多彩な顔ぶれからの引用もぴたりとはまる。
文学的な人だと思ってたら、本職は哲学者とのこと。本職がファッション関連じゃないからこそ、流行を純粋に楽しむ気持ちと、流行り廃りの虚しさを冷静に分析している。
前者については最後に書きたいので、先に後者のネガティブな面を感じた部分から一部引用。
『アンチモードですらモードの一風景。モードの地獄から脱出しようとするモードもたちまちモードの一つとしてモードに呑み込まれる』
過去から現在、果ては未来まで流行は何度も変わる。形をとどめることもない。何がモードで何がモードじゃないのか、もはや分からなくなる。ファッションを意識し過ぎるとダサい人と思われる風潮もある。流行は儚い。流行は明日にも消える。
そういった事象を著者は、みずからの尾にかみつく蛇に例えている。
こちら1997年にテレビ放送された内容をテキスト化したものであり、ファストファッションが席巻し始めた頃の話だそう。いま私が読んでいる年は2022年。25年間の時差があるけど、少しも古くさくない。
一方、著者が、UNIQLOやZARA、無印良品などをどう分析するのか興味津々です。
今ではファストファッションが主流になったとはいえ、都心では流行の移り変わりが目まぐるしい。
あえてボロボロの古着に身を包む若者もいれば、ギラギラ系の全身ブランドのカップルもいる。
ハイファッションだと認識されてたものが、数週間後には流行遅れになる。安価だったはずのレギュラー古着が流行り出したとたん、何万円もの高値がつく。
スナイデルを着ていたセクシーな女性たちは、最近はマメを着ている。劇場をテーマにしてたシアターも今や他のブランドと似たデザインになっている。90年代ブランドが復活し始めた。
ハイブランドに比べたら全然手に入りやすい価格帯の日本のブランドで、何とも似てないオリジナルのデザインを打ち出しているところはまだあるのだろうか。飲み込まれてしまったのではないか。
渋谷のSwatchには朝早くから並んでいる人たちがいる。彼らは数年前にはAPEに並んでいた人たちと同一人物じゃないのかなと錯覚する。
最後に、私が感じたファッションのポジティブな面についても一部引用。
コムデギャルソンの川久保玲の章から。
『アイロンがかかってなくていい、サイズが合っていなくていい、しわくちゃでもいい、男らしくなくていい、胸を張って生きなくてもいい、もっとふてくされても、もっと跳ねてもいい』
どこまでも自分らしくいられそうな力強いメッセージだと受け止める。私の生活ではギャルソンは手が出せないけど、とても勇気が湧いてくる。来世はギャルソンでクローゼットを埋め尽くそう!
全箇所に線を引きたいくらい勉強になった一冊だった。ファッションが心底好きだとわかる著者のエピローグは、別人が書いた?サンリオのキャラ?と思うくらいチャーミングな文体だった。私もおしゃれな街に住みたいな。 -
人は服なしでは生きられない。でも、服ってなんなのかを深く洞察することはあまりない。単なる防寒対策でも日差しを防ぐだけのものでもないし、自分の主張するものとしては、流行に左右されすぎるし、いわゆるモードの呪縛から逃れられない、など、面白い論点がたくさん。下着は、秘部を守る最後の砦であると同時に、誘惑の飾り窓である。今や没個性の象徴として嫌われているリクルートスーツも、元々は誰でも着られる身分にとらわれない服装だった、など。当たり前のことを、人はなぜ〇〇するのかというテーマで深ぼることって、とても良い訓練になる気がする。
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久々の鷲田清一、その難解さを読み解くのに前提知識が足りず、消化不良気味である…
タイトルの通り、人が纏う「服」や「化粧」について何故?を問うた本。
「ランウェイで笑って」を読んで、服について知りたくなったので手に取った。
人は最も重要な顔を含め、かなり広範囲で自分が見えない。自分で見えないものの上に、着飾るのはどのような意味があるのかを掘り下げていく。
多方面からの分析が続くので総括しにくいのだけど、自分で着る服を選んだり、ピアスを開けたりする事で、これまでのアイデンティティを脱ぎ捨て、在らなければいけなかった今日は区間からの脱却。人が服を選ぶのではなく、着た服に人がフィットする。とかの話は納得感が大きかった。
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著者がさまざまな機会に発表したファッションについてのエッセイを収録している本です。
ファッションは、個人性と社会性が交差する場所だと著者はいいます。われわれは、イメージとしての自分自身を他者に発信するために服装や化粧に工夫を凝らし、また他者が私に対していだくイメージを受け入れながらセルフ・イメージをかたちづくっていきます。記号論は、こうした観点からファッションを論じるために適した装置を提供しているということができるでしょう。
著者もまた、記号論的な分析を手法の一つとして取り入れてはいます。しかしそれ以上に、皮膚感覚のようなもっともプリミティヴな場面に密着しながら、そこにたたみ込まれている個人性と社会性との交錯をひろいあげていくような記述のしかたが、本書の特徴になっています。良くも悪くも、著者のこうした叙述はほとんど名人芸のようなものだという気がします。
また本書では、世界を舞台に活躍した日本人デザイナーについての批評も含まれています。三宅一生の「一枚の布」というコンセプトには、他者に対する遮蔽膜だった衣服を他者への開口部へと変換するという意味があると著者は主張しています。また川久保玲のラディカリズムには、時代の感受性と自己意識を構成している「物語」を次々と脱ぎ捨てていく永久革命の意味が認められることになります。さらに山本耀司の作品に対する態度に、服を着るひとが他者に向けて「顔」を差し出したり他者の「顔」を迎え入れる行為を支える、いわば「衣服のホスピタリティ」と呼べるような仕事のありかたが見いだされています。 -
この本を読む上で一番大事なのは1998年に出版された本だということ。現代の価値観で読むといろいろと認識のズレを感じてしまうような気がした。
面白かったのは三宅一生は「着る」とはどういうことかという探求から服をつくっているという話。ファッションに関する思想についてこれまで何も触れてこなかったけど、普段着てる服が実はだいぶ深いところから生まれているのかもしれないなと思うと、服に袖を通す気持ちも随分変わるような気がしました。 -
穴=感覚器官を被うもの
自分とは何かを考える鷲田哲学を 服の分野に応用したものだと感じた。 自分の姿を自分で見ることはできない。 名付けられるファッション 下着=インナー 化粧=メイクアップ デザインされる肉体= 現代のダイエットのことか
マネキンの項は読み応えあり -
第一部 ひとはなぜ服を着るのか
気になる身体
衣服という皮膚
<わたし>の社会的な輪郭
モード化する社会
コスメティック――変身の技法
ハイブリッドという現象
一枚の布――三宅一生の仕事
モードの永久革命
からだが変わる
テクスチュア感覚
ファッション、メディア、アート
衣服のホスピタリティ
第二部 <衣>の現象学――服と顔と膚と
顔の渇き
もっと時間を、もっと虚構を。
見えないファッション
身体と匂いと記憶と
からだは孔が空いている
下着という装置
マネキンという現象
デザインされる肉体
<モード>、モダンともう一つの形象
スタイルの力
モードのお勉強