- 本 ・本
- / ISBN・EAN: 9784480431721
感想・レビュー・書評
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江戸時代、薩摩藩と人吉藩の真宗禁制の中で人々が隠れて信仰していた『隠れ念仏』と盛岡藩、八戸藩、仙台藩でやはり隠れて真宗が信仰されていた『隠し念仏』について書かれています。
同じ著者の『親鸞』を読んで真宗の民衆への影響力の強さは感じていたのですが弾圧までされていたとは知りませんでした。
南と北でひっそりと信仰され続けた真宗は本山との連絡の有無等の違いはありますが人々の心の拠り所として機能していた様子が分かりました。この本が刊行された当時、既に核家族化でこれらの信仰の先細りが書かれていましたが現在はどうなっているのでしょうか。
『宮沢賢治の宗教心』は彼の信仰と内面が著者の解釈で書かれていましたが納得する箇所が沢山ありました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
初めて小説「風の王国」を読んで以来、五木氏の関心のある事項はほとんど知的好奇心を刺激する。
江戸時代、列島最端の九州と東北に、権力から秘して在家で真宗が熱烈な信仰のもと広まっていたとは、しらなんだ。
カヤカベとか、隠し念仏とか、地域ごとに習合して、独自に変化していく宗教は様々な儀式や習俗を生み出す。そんな見事な多様性は今の日本でのぞむべくもないなあ。
・宮崎に伝わっていた残酷な童歌
「なんとこの子が女の子なら こもにつつんで3つとこ締めて 締めた上をば文殊と書いて 池に棄つれば文殊の池に 道に棄つれば文殊の道に やぶに棄つれば文殊のやぶに 人が通れば踏み踏み通る 親が通れば泣く泣く通る」
・「こうした内向的で思弁的な信仰というのは、同じ東北でも、秋田や東北のように、人々の気質がもっと楽天的だったり享楽的な面がある地域では、岩手ほどは広まらなかったのではないかと思う」
・「西の稲作文化の人たちとは違って、東北の人たちは定住と非定住、あるいは定住と漂泊ということを日常的に両方やっていた。その2つを区別して、定住している人間の方がはるかに上であるかのごとき幻想は、東北には存在しなかった」 -
個人的メモ。
少し前に読んだ「島田清次郎」に出てきていた暁烏敏がこの本では宮沢賢治に関係してほんのわずかだが書かれていた。 -
「隠された日本」シリーズ第2弾。
九州の地で一向宗弾圧の中密かに受け継がれていた隠れ念仏と、東北の地に根差した結果一向宗の本流からも異端視され、その存在を隠し続けた隠し念仏について取り上げている。
現代日本での宗教というとほぼ習俗と化したものか、胡散臭いカルト的なものがイメージとして浮かんでしまう。弾圧にさらされながらもその信仰を守り続け、受け継ぎ続けるというのはどんな気持ちなのか想像もつかない。私自身には明確な宗教心というものは無いが、古くから土地と生活に根差し、名もなき人々の精神的な支柱であり続ける信仰には厳粛な気持ちになるなにかを感じる。
著者プロフィール
五木寛之の作品





