増補 日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で (ちくま文庫)

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  • 筑摩書房
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レビュー : 31
  • Amazon.co.jp ・本 (460ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480432667

感想・レビュー・書評

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  • センセーショナルなタイトルだが、本書を読むと、現実のものとして日本語が亡びる日が来てしまうようにも思えてくる。
    日本語だけでなく、言語についての考察はとても素晴らしかった。
    国語と現地語。今まで考えてもみなかった。
    そしてまた、現在の普遍語である英語を母語とする人々の自らのアドバンテージへの無自覚さ。
    英語で書くことの重要性。英語の図書館に出入りするのは、アカデミックの世界だけの話ではない。
    私自身、編物をするようになって英語でパターンを書くことの重要性を痛感している。
    過去に英語公用語論や、漢字を廃してアルファベット表記にする案など、日本語が危機に瀕していたことは驚きだった。
    そのような状況下にありながら、今現在、漢字仮名交じり文や世界唯一の表意文字である漢字を使用していることは、それらが理にかなった素晴らしい言語だということを証明しているのではないだろうか。

    本書のタイトルは、漱石の「三四郎」の中の台詞から取っただけで、人を驚かせようと思って付けたわけでないそうだ。

  • 面白いけど読むのに時間がかかる本でした。
    日本語について示唆に富む内容の本で、様々な視点を与えてくれました。

    図書館で働いていると、「夏目漱石の『こころ』の現代語訳ないですか?」とか「中島敦の『山月記』の現代語訳ないですか?」は一年に必ず一度は聞かれる質問で。そのたびに「現代語訳に訳したら世界観変わるやん!なに考えてんねん」と心の中で思っていたのですが。第7章「英語教育と日本語教育」を読んで、なぜ自分がそう思うのかが分かりました。アルファベットだけで表せる英語と違って、カタカナ・漢字・平仮名・ローマ字などを持つ日本語においては「どう表すか」も大事な点なんだなと。そしてなぜ「読みにくいから現代語訳で読みたい」と思うのかも。(日本の国語教育は「日本近代文学を読み継ぐこと」を大事にしていないからだと思われる)

  • 帯表
    広範な議論を呼んだ話題作大幅増補して、ついに文庫化

  • 単行本が出た当時、かなり話題になっていた1冊。
    かなり限定された読者層を思い描いていたそうで、ここまで話題になるとは著者も思っていなかったとか。それを念頭にパラパラと読み返してみると、当初考えられていた読者層の片鱗は随所に見られる。

  • 単行本(2008年)が話題になったときにめずらしく買って読んだが、このたびの文庫化に際してその後の文章もずいぶん追加で入ったらしいので改めて購入。
    刊行当時「日本語が亡びるとき」というタイトルがこうもセンセーショナルに話題になるとは著者も思いもよらないことだったらしい。

  • 第七章 英語教育と日本語教育 より
    p364

    思えば、日本人は日本語を実に粗末に扱ってきた。
    日本に日本語があるのは、今まで日本に水があるのがあたりまえであったように、あたりまえのことだとしか思ってこなかった。
    (中略)
    「西洋の衝撃」を受けるとは、西洋人こそが人間の規範に見え、それと連動し、西洋語こそが人間が使う言葉の規範に見えるということにほかならない。
    (中略)
    ISETANやらKeioやらSEIBU。西洋語のカタカナ表記の氾濫は、ああ、もしもこの日本語が西洋語であったら……という、西洋語への変身願望の表れでしかない。
    そもそも政府からして、翻訳語を考え出すこともせず、西洋語のカタカナ表記を公文書に使って平気である。
    恥ずべきコンプライアンス(=屈従)。
    (中略)
    (日本語が漢字、ひらがな、カタカナの三種類の文字を使い分けることに言及し)表記法を使い分けることによって生まれる意味の違いとは、(中略)明朝体が使われていようと、ゴシック体が使われていようと、そのような視覚的な差とはまったく関係のないところから生まれる、意味の違いである。

    ふらんすへ行きたしと思へども
    ふらんすはあまりに遠し
    せめては新しき背広をきて
    きままなる旅にいでてみん。

    という例の萩原朔太郎の詩も、最初の二行を

    仏蘭西へ行きたしと思へども
    仏蘭西はあまりに遠し

    に変えてしまうと、朔太郎の詩のなよなよと頼りなげな詩情が消えてしまう。

    フランス行きたしと思へども
    フランスはあまりに遠し

    となると、あたりまえの心情をあたりまえに訴えているだけになってしまう。
    だが右のような差は、日本語を知らない人にはわかりえない。


    ▼「日本語とはどういう言語か」
    (石川九楊、講談社学術文庫)p22、204
    漢字とひらがなとカタカナという三種類の文字をもつという点において、日本語は世界に特異な言語である。この特異性と比較すれば、日本語の文法的な特徴なるものは微々たる差でしかない。

  • 正直、〝日本語が亡びる〟とまでは思わないが、英語中心の世界に一石投じたものとして興味深く読んだ。単行本が発表された当時、良くも悪くも話題になった。今回増補版として当時の反応に対する〝返答〟もあるので読んでみることにした。

  • JMOOC OpenLearning, Japan「グローバルマネジメント(入門)」Week3参考文献。

  • 寡作ながら日本近代文学の系統を唯一現代において引き継いでいると言っても過言ではない作家、水村美苗による言語論。

    言語を巡る歴史を紐解きながら<普遍語>・<現地語>・<国語>という3つのカテゴリの関係性を明示した後、インターネットの台頭などの社会変化により、英語が<普遍語>として一極化する現代において、日本語という世界でも稀有な文法性質を持ち、世界に名高い近代文学の系譜を持つ言語が消失しようとすることへの警鐘を鳴らす。決してここで述べられているのは、回顧主義的な議論ではないし、英語の世紀においてはむしろ自国語を適切に操れるようになること、そしてそのために国語教育を強化すべきという議論の流れは納得度が高い。

    専攻研究としては、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」や柄谷行人の「日本近代文学の起源」などに依っており、国民国家と文学の関係性を現代風にアップデートとした議論としても読むことができると思う。

  • 【簡易目次】
    1章 アイオワの青い空の下で"自分たちの言葉"で書く人々
    2章 パリでの話
    3章 地球のあちこちで"外の言葉"で書いていた人々
    4章 日本語という"国語"の誕生
    5章 日本近代文学の奇跡
    6章 インターネット時代の英語と"国語"
    7章 英語教育と日本語教育

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