増補 日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で (ちくま文庫)

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  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (460ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480432667

感想・レビュー・書評

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  • 英語という<普遍語>が台頭する中で日本語教育はどうあるべきかということを述べた評論です。第1章は小説ですが、そこから論理的な話に入っていきます。途中難しい箇所もありましたが、日本近代文学を読むという、自分たちが今すべきことは分かりました。「伝統的かなづかい」の文章は読みにくいという理由で敬遠していたのですが、これを機に読んでいこうと思いました。<叡智を求める人>の一人として。

  •  英語は普遍語だと言うことに、異を唱える人はいないだろう。
     日本である一定以上の知識を得ようとしたら、必ず、英語に関わることとなる。(日本固有の事柄なら異なるのかもしれないが、古いものになると中国語が出てくる気がする)
     例えば、理系などでは最先端の論文を英語を読み、おのれの研究成果を英語で書く。
     英語で書かれた小説は日本語で翻訳されるが、同じ数だけ日本語で書かれた小説が英語に翻訳されることはない。

     日本語は亡びるだろう。
     私は、近代文学もラノベも実用書も読むし、もちろん翻訳小説も読む。
     けれども、国語教育のおかげではなく、国語の教科書に載る作品は初めの頃に読み終え、物足りないと辞書を片手に他の本へ手を伸ばした野生の活字中毒だ。
     
     私のように好きに学ばせるのではなく、国策にて、教養としての日本語の読解能力を高めない限り、日本語で書かれた本を読むという行為のハードルが下がらない。そして、読み手が縮小すれば書き手も縮小してゆく。
     うすらぼんやりと「そうだろうなぁ」と思っていた事柄が、これでもか!と熱を持った論調で展開される。

     普遍語である英語を学ぶにも、基礎となる日本語の読解能力が無ければ、なかなかに厳しいのではなかろうかとは思う。
     日本語で考え、あらわす力というのは果てのない道のりで、活字中毒の私ですら、仕事の書類やメール等の錬られていない10行以上の日本語を読む前にはためらいを覚える位だ。
     なんというか、私はそれらに対し、対処療法的な文章構造を考えるように伝えてきたけれど、それは、間違っていたのかもしれない。

     さて、私は亡びゆく日本語に対して、どのようにしたら良いのだろうか。

     近代文学も面白いよと薦めてみる?
     私が当たり前のように思っている読書の楽しみを伝える?
     パブリックコメントを求めている時にだす?
     何かしたい、という気持ちになる。

     簡単で誰でも読みやすい本が優れているのではなく、意味が分からずともついつい読めてしまう、美しい文章に触れる機会を増やしたい。
     青空文庫から、美文のスクリーンセイバーやスマホの待ち受け画面など作ったら楽しそうだなぁ。

  • この本を読んで「『三四郎』読みなおそう」と思った読者なので、たいへん興味深く、かつ共感しながら読んだ。
    実際のところ、私自身が「自分よりも下の世代に近代文学を読んでもらいたい」と思っているタイプの人間なのだ。だからこそ、日本語にこだわるし、その存在にありがたみも感じている。
    好きだから、その価値をわかってほしいという気持ちがある。

    <普遍語>としての英語の時代は、すでにもう来ているし、それは他人事ではないのだなぁ、と自覚しなければならない。しかし、実感が湧かないというのが正直なところで、それは現代においてもどれだけ日本人が英語を話せないかを見ても一目瞭然なのではないだろうか。
    つまり、「英語を話せなくても生きていける」というのが現状で、その現状維持だけでやってきた私たちにとって、それはリアリティがないのだ。

    だからこそ、「日本語の危機」にも実感がない。なんだかんだ言って、漱石も鴎外も芥川もまだまだ本屋に「ある」ものだから、それがなくなることを想像したことがない。
    私自身、ま、それで充分だよねとどこかで思っていた。いや、そのことについて、どこかで諦めていた……「漱石がどれだけすばらしく、どれだけ面白いか」について語るのは、昨日見たアニメについて語ることよりも恥ずかしい、というおかしな負い目があった。

    しかしこれこそ、英語が<普遍語>であるという理由だけで<普遍語>たりえるのと同じではないか? そうい気持ちこそが、著者の言う「日本語」を<亡ぼして>しまう原因なのではないだろうか?

    大多数と共有し得るという理由で、英語という言語を選択する、というのはまっとうなことだ。英語を選ぶ意味は、これからますます増えていくことだろうと、私も思う。
    しかし、その選択を取ることで<私たち>はどうなるのか、ということに、この本で初めて気づかされたように思う。<英語を選ぶ>のでもなく、<日本語を選ぶ>のでもない。<英語を選ぶなら日本語はどうなるのか>ということ。
    もし「日本語」が亡びるのなら、それはそういう意識の欠如なのではないか、と私は本書を読んでそう思った。

  • センセーショナルなタイトルだが、本書を読むと、現実のものとして日本語が亡びる日が来てしまうようにも思えてくる。
    日本語だけでなく、言語についての考察はとても素晴らしかった。
    国語と現地語。今まで考えてもみなかった。
    そしてまた、現在の普遍語である英語を母語とする人々の自らのアドバンテージへの無自覚さ。
    英語で書くことの重要性。英語の図書館に出入りするのは、アカデミックの世界だけの話ではない。
    私自身、編物をするようになって英語でパターンを書くことの重要性を痛感している。
    過去に英語公用語論や、漢字を廃してアルファベット表記にする案など、日本語が危機に瀕していたことは驚きだった。
    そのような状況下にありながら、今現在、漢字仮名交じり文や世界唯一の表意文字である漢字を使用していることは、それらが理にかなった素晴らしい言語だということを証明しているのではないだろうか。

    本書のタイトルは、漱石の「三四郎」の中の台詞から取っただけで、人を驚かせようと思って付けたわけでないそうだ。

  • 正直、〝日本語が亡びる〟とまでは思わないが、英語中心の世界に一石投じたものとして興味深く読んだ。単行本が発表された当時、良くも悪くも話題になった。今回増補版として当時の反応に対する〝返答〟もあるので読んでみることにした。

  • 寡作ながら日本近代文学の系統を唯一現代において引き継いでいると言っても過言ではない作家、水村美苗による言語論。

    言語を巡る歴史を紐解きながら<普遍語>・<現地語>・<国語>という3つのカテゴリの関係性を明示した後、インターネットの台頭などの社会変化により、英語が<普遍語>として一極化する現代において、日本語という世界でも稀有な文法性質を持ち、世界に名高い近代文学の系譜を持つ言語が消失しようとすることへの警鐘を鳴らす。決してここで述べられているのは、回顧主義的な議論ではないし、英語の世紀においてはむしろ自国語を適切に操れるようになること、そしてそのために国語教育を強化すべきという議論の流れは納得度が高い。

    専攻研究としては、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」や柄谷行人の「日本近代文学の起源」などに依っており、国民国家と文学の関係性を現代風にアップデートとした議論としても読むことができると思う。

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