生きていく絵 ――アートが人を〈癒す〉とき (ちくま文庫 あ-66-1)
- 筑摩書房 (2023年1月12日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480438560
作品紹介・あらすじ
心を病んだ人が、絵を描くことで生きのび、描かれた絵に生かされる──。生きにくさの根源を照らし、〈癒し〉の可能性をさぐる希望の書。解説 堀江敏幸
感想・レビュー・書評
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東京都の精神科病院「平川病院」にある「造形教室」には、主に同病院に入院・通院する人たちが参加し、アートを通じた自己表現によって自らを「癒し」、自らを支えるという活動が営まれている。この教室を主宰する安彦講平さんと、教室に通う4人の作家の作品や人生を通して、私たちが生きている現代社会の「生きにくさ」について考える。
実際に病んでいるのはその人を取り巻く人間関係そのものであるのに、たまたま弱い立場におかれた人やケア労働を負わされた人の身体を通じて症状が現れているのが心の病なのではないか、という指摘は重要だと思う。社会の「生きづらさ」という根本的な病巣をなくさなければ、その白羽の矢はいつ私たち自身に降り立っても不思議ではないのだ。
コラージュ作品を作る江中さんの章で、「喜怒哀楽」のうち、「喜・楽」といったポジティブな部分は主に自然現象で、「怒・哀」といったネガティブな部分は主に人間の図像で表現されているという指摘が面白い。また、この世界には、まるで「質量保存の法則」のように一定量の「哀しみ・憎しみ」が存在していて、人々はそれを分け合ったり、押しつけ合ったりしながら生きている、という視点も興味深いと思った。
「造形教室」のような試みが長年続けられていて、またそれが『破片のきらめき』というドキュメンタリー映画で扱われていることはまったく知らなかった。機会があれば、ぜひ観てみたい。そして「造形教室」を主宰する安彦氏のように「もう少しだけ明るい場所」を探して歩き続ける「小さなカリスマ」が、日本には意外と多いという著者の肌感覚に、私は希望を感じた。 -
アウトサイダーアートという作品としての見方ではなく、アートセラピーという治療としての見方でもない。
ある精神病院で長く続く「造形教室」という絵を描く活動の場所について、
その場で生きている一人一人の話を丁寧に描いている本。 -
(以下、読みながら綴った感想)
2023/07/09 最初-p.20
本木健『風呂場を確認する男』
どうしてお風呂場を見ているのですか?
最初、「人がいるのに見ているの?」と考えてしまって、ゾッとしました。もしかしたら、お湯が溜まっているかの確認かもしれないですよね。決めつけは良くないです。
p.9
“はじまりの章”
どうして「はじまり」ってことばは、わくわくするのでしょう? 始まって良いことも悪いこともあるのに。実はわたしは、未来に希望を抱いているのでしょうか?
p.11
“嬉しい出来事に出会って笑顔がこぼれるのは身体による自己表現ですし、その日に経験したつらい思いを家族や友達に聞いてもらうのは言葉による自己表現です。人は常に、自分の心の様子を表現して誰かに伝えながら生きています。”
ことばの表現ならすぐ理解できたのですけれど、笑顔も表現なのですね。まぁ、写真撮る時に無表情よりは笑顔のほうが良いだろうと笑顔を作るので、それが表現と言われたら理解できます。
驚いたのは、意図的な表現に限らず、この方は“自己表現”とおっしゃるのだなぁ……ということ。面白いです。
p.12
“
人は自己表現しなければ生きていけない。
人は自己表現することによって生きていくことができる。
”
「人」を「わたし」に置き換えたら、同意できます。
p.12
“〈生〉とは、単純に生命活動を営んでいる状態ではなく、「生きていたい」という意思をもって自分の人生を歩んでいる状態のことを意味しています。”
それはなかなかハードルが高いです。生きても生きなくてもどちらでも良い場合は、当てはまらないような気がしてしまいました。
2023/07/17 p.20-52
p.26
“(この言葉に対する私の理解は必ずしも発案者の意図に沿うものではないかもしれないが、しかし感動すること自体は私の勝手だろう)”
この考え方、すてきです。たまに、「作者の言うことは絶対!」と考えてらっしゃる方がいますけれど……あなたが感じたこと、考えたことは、あなただけのものですよ、と思ってしまいます。
自由に、作品と向き合ってほしいです。作者の手から離れた瞬間から、その作品はどんどん姿を変えていく生きものとなるのですから。
p.28
“もし会場で良い知れぬ感覚をおぼえる絵に出会ったら、是非とも、しばし足を止めてもらいたい。その絵にこめられた作者の思いに、観る人が自由に想像をめぐらせること。”
映画『君たちはどう生きるか』を観たばかりなのですけれど、やはりあの映画はアートなのだなぁ……と感じました。
このタイミングで、このことばに出会えて、うれしいです。
p.33
“「表現」というのは、「表現者」の意図を超えた力を持つことがあります。”
(中略)
“「アーティスト」というのは「自分の思いを正確に表現できる技術を持った人」のことではなく、むしろ「自分の表現に自分自身が驚くことができる感性を持った人」のことなのかもしれません。”
小説を書いていて、登場人物たちが勝手に動き出すことがあります。これはとても楽しい現象です。書く者なら、ほとんどの人が経験しているのではないかと思います。もちろん、プロの方もこのことについて語っていることがあります。
わたしは引用した文章にひとつ、付け足したいです。言わずもがなではあるかもしれませんが、アーティストとは、驚きつつも「受け入れる」人びとなのかなぁと思います。世に出る前なら、どんなに作品が好き勝手に動いたとしても、なかったことにできてしまいます。受け入れて世に出す人びとだからこそ、多くの素晴らしい作品が生まれたのでしょうね。
2023/09/06 p.52-58
p.53
“対して〈癒す〉とは、何らかの受苦・受難の渦に巻きこまれた人が、自らの混沌とした内面と向き合い、自己表現を通じて外部に放出することで、直面している困難を耐え忍び、生きる支えと拠り所を見出していく能動的な営みのことを意味しています。”
先日観たアニメ『ゾンビランドサガ』を思い出しました。ゾンビィたちは、人間としての人生は終わってしまっているのですけれど、アイドル活動という表現によってそれぞれの心が癒やされていた気がします。彼女たちが暮らす洋館が、ステージが、彼女たちの居場所となっていました。
2023/09/07 p.58-64
p.63
“むしろ、表現衝動を受け止めてくれる周囲の人々との関係性の構築という要素が、結果的に表現者を回復へと導いていくことが多いように思われます。”
人を傷つけるのも癒やすのも、人なのですよねえ……。
わたしも多くの人に救ってもらいました。自分が誰かを探して救えたのかは謎です。
自分にとって悪いと思う部分が、他人にとっては気にならないことだったり。自分にとってたいしたことがないと思っている部分が、他人にとってはとても良いと感じることだったり。
自分と他人は別の人間だからこそ、良い影響があります。その逆ももちろんありますけれど。でも、嫌なことばかりではないって、希望だと感じます。
2023/09/08 p.64-68
p.67-68
“薬などの効果によって精神の変調が抑えられ、際立った症状がでなくなったとします。でも当人の周りで、それまで通りの息苦しい環境や人間関係が相変わらず続いている場合、それは「治った」と言いきれるのでしょうか。「人間関係自体が病んでいる」ような場合、「個人の心の病が治る」というのは、どのような事態を意味しているのか、”
仮に「治った」としても、環境が変わらないなら、いずれ同じ結果が出てしまうのでは……と思ってしまいます。ストレスの原因から、しっかり距離を取ることが大事です。
2023/09/09 p.68-115
p.70
“心というのは、誰の心であっても、どんな心であっても、条件さえそろえば確実に壊れます。”
「鬱は甘え」とか「心が弱い」とか馬鹿にしてくる輩にお渡ししたいことばです。
p.76
“「自分や家族が入院したくなるような病院」を目指して丘の上病院を開設しました。当時としては珍しい「完全開放性」で、それまでの精神科病院には常識であった塀・檻・鍵もなく、玄関は常に開放され、病室は個室か少人数の部屋が中心でした。”
すてき。
一方で、「自分がされて嫌なことは他人にしてはいけない」と教わらなかったのでしょうか? 当時の精神科病院の方々は。
p.79
“社会福祉史や精神科医療史を専門に学ぶ人たちの間にも、残念ながら「丘の上病院」という名前はそれほど知られてはいません。”
残念……。現代にも通じる素晴らしい取り組みだと思います。
お金の問題に関しては……切なくなりますねえ。国からの支援や個人の支援者がたくさんいたら良かったのでしょうか……。
p.84
“「わかる」というのは正確ではないかもしれません。より慎重を期した言い方をすれば、「思い当たる節がある」という気がしたのです。”
安易に「わかる」と言いたくなってしまう時があります。けれど、自分が想像しているものと、お相手が感じたこと・考えたことが完全に一致しているわけがないのです。それでも、「わかる」と言いたくなってしまいます。
そのような時の言い換えとして、「思い当たる節がある」は良いと思いました。「似たようなこと(気持ち)を体験したことがある」のような表現なら、より言いやすい気がします。今後気をつけます。
p.88
“本木さんは「父は気が短くて、何かを「話しきる」ことも一遍もなく、会話が成立しなくて、いつもビクビクしていた」と言っています。”
対話をするつもりのない人間と話す必要なんてないです。距離を置くべきです。
p.95
“本木さんは、自分自身でさえ見たくなかった症状を描けるようになった理由について、「長い長い時間をかけて、自分で自分のことを少しずつ許せるようになった」ことが大きいと言っています。それまで自分の症状を隠し通し、疲れ果てた後に、「もう何も隠さなくていいのではないか」と思いはじめたのです。”
自分で自分を受け入れるしかないのだろうなぁ……と思います。自分で自分を否定している間、ずっと、苦しかったです。
どんな自分も、自分の一部です。それを受け入れます。
p.100
“「芸術とは、治ってはいけない病気なのだ」という表現が秀逸です。精神を病むことが表現への衝動を喚起し、終わりのない自己の「解放」と「開拓」へとつながっていく”
荒井さんも引用していますけれど、素晴らしいことばですね。「芸術とは、治ってはいけない病気なのだ」。
病んでいるからこそ生まれるパワーもあるのは、体験しています。
p.104
“「生きる」とは、言外に、肯定的で上昇的な意味合いを含んだ言葉ではないでしょうか。たとえその上昇角度が零度に近くとも、少なくとも上昇を希求した言葉であるように思います。対して、ここで本木さんが使う「在る」「存在」するという言葉は、生にも負にも揺れ動く「症状」に葛藤し、その痛みを耐え忍びながら生存し続けていくといった意味でしょう”
生より死に近かった頃、「生きる」という表現ができませんでした。代わりに「暮らす」と表記していました。
「生きる」ということばはパワーがありすぎるのです。それがしんどいと感じる人もいます。
p.105
“悩みや苦しみなどはない方がよく、もしもそれらに直面した場合は早々に忘れてしまうか、あるいは「なかったこと」にしてやり過ごすことが賢明な生き方だと信じてきました。”
死が選択肢に入ってくるほどの悩みや苦しみは体験しないほうがしあわせなのでは……とは思います。ただ、生命を揺さぶるほどのことって、無視できないのですよねえ……残念ながら。
いったん考えないようにして進んでも、あとから思いがけない力強さで、ガツン、と殴られます。自分なりに納得するしか、方法がない気がします。
他人からどんなにしあわせそうに見えても、本人が苦しいならそれは、不幸なのです。
p.108
“文学によって「大変な社会」を変えることはできないが、「大変な社会」を生きのびることはできるかもしれない。”
はい、わたしは、生き延びた者です。本を読み、現実を忘れることができたので、なんとか生きてきました。
p.113
“ちょうど、この本の原型の一部となった論文を書いていたとき、”
論文っぽい雰囲気の文章だなぁ……と思っていました。スタートはそこだったのですね。
2023/09/10 p.115-122
p.122
“「許される」とは、心の底に深い闇を抱えた自分のことを受け止めてもらえること。”
自分のことを話し、否定されなかった時、強い驚きとともに強い安堵感がありました。
受け止めてもらえることは、受け止める側が想像する以上に、かなり、うれしいことです。ホッとします。
2023/09/12 p.123-177
p.131
“過干渉な母親への「憎悪」という否定的な感情と、世界にたった一人しかいない大切な母親への「愛着」という肯定的な感情が、激しくせめぎ合っているような状態です。”
愛憎ともに自分の心の中に在る状態について、心当たりがあります。純粋に、片方だけの感情だったら、まだ、楽だっただろうなぁ……と感じます。憎んでいるのに愛してしまうのも、愛しているのに憎んでしまうのも、苦しいです。
p.137
“「心病む人」と向き合う医療者のなかには、”
(中略)
“(たとえその医療者が特定の信仰を有していなくても)「魂」や「神」といった概念を想定しなければ理解できない事態が生じることがある、というのです。”
自分が信じる神様は確定していないのですけれど、神様を信じる友人のことを信じることはできました。
試練を前にした友人のことを、神様に守ってもらえるよう、何度も祈りました。わたしが書いたことばに答えを差し出すかのように、物事が変化していきました。
人生で最も心が軽くなった時、人生で最も神様を感じました。
p.141
この、自分を抱きしめている絵に惹かれて、この本を手に取りました。この本の表紙の絵。
自分で自分を抱きしめてあげないと、進むことはできないのだと思います。自分で自分に嘘をついたり、無視したりしていると、いつまで経っても苦しいままですから。
p.146
“「心が〈健全〉〈健康〉であること」とは、すなわち「心に〈闇〉がないこと」と考えてしまいがちである。しかし考えてみれば、心に一片の〈闇〉も持たない人間などまずいない。”
p.146-147
“人の心には程度の差こそあれ陰鬱な思念や暴力的な発想は存在するし、直面する状況次第で誰の心にも必ず芽生える。”
わたしは心がどん底に沈んだことがあります。けれど基本的には傷つけてくるのは家族のみ、怒りを向けるのは家族のみ、としていました。(できていないところはあったでしょうけれど)
一方で友人は病んだことがなく、その場その場で自分の判断基準に合わないと感じた相手に怒ります。悪口を話す時は生き生きとしています。
闇=病んでいる状態だけではないなぁ、とこの文章を読み、友人のことを思い出し、実感しました。
2023/09/17 p.177-221
p.220
“ときおり、「トラウマは自分のなかで物語化されたときに解放(治癒)がはじまる」という言われ方をされますが、それはもしかしたら、「自分は被害者なのだ」という「物語」を紡ぎあげていくことなのかもしれません。”
言語化すると、心が落ち着きます。それは、物語化していたってことなのかもしれませんね。
p.220-221
“両親が死んだら悲しいと思うのだろうか、やっと解放されたと精神が安定するかもしれない。”
わたしも……そう感じるかもしれません。もう、何もされなくて済むという安心感……。
2023/09/24 p.221-231
2024/01/28 p.235
p.235
“「こんなに社会が大変なときに、アートって何かの役に立つのですか」”
これを読んでいる年に震災があり、確かに大変なときだと感じました。けれどこれが書かれたのはもっと前。
日本って、世界って、常に何かしらが起こっているのだなぁ……と感じます。何事もなく、平和な一年ってないのでしょうか……?
2024/02/19 p.235
2024/03/18 p.235-238
p.235
“「アート」の部分を「文学」に入れ替えた同種の質問もよくされます。”
(中略)
p.236
“心を病み、苦しむ人に、アートは何ができるか。”
「アート」を「文学」として考えた時、かつて苦しんでいたわたしは「命を救われました」と答えることができます。現実世界だけ見つめて、考えていたら、きっと耐えられませんでした。
p.236
“不思議なもので、人は一度どん底まで沈むと、見えるものが変わるようです。”
それはわたしも感じました。自分の人生のどん底だと感じるところを経て、「無理をしないほうが良い」を心から思うようになりました。
2024/03/21 p.238-240
p.239
“何らかの病気を抱えていたり、障害を持っていたりして、就学や就職の機会から疎外されている人たちがいます。”
(中略)
“そのような人たちほど、その言動の隅々にまで「目的」や「意味」が求められているように感じるときが少なくありません。”
(中略)
p.240
“障害者が明確な目的もなく表現活動に没頭すること、あるいは表現すること自体を目的として何かを表現することというのは、想像以上に理解を得られず、また受け入れられにくいというのも事実だと思います。”
ただ、好きだからやる。それだけだっていいはずなのに。
比較的元気な人たちはやることなすこといちいち意味なんて考えないのではないでしょうか。やりたいからやるのではないでしょうか。趣味なら特に。
どうして、同じ人間なのに、少しの違いによって見方が変わってしまうのでしょう。それこそが障害になってしまっている部分もあるんじゃないかって、思っちゃいます。
じゃあ、わたし自身一切偏見なく考えられるのかというと、きっと無理なのでしょうけれど。気がつかないところで誰かを傷つけてしまっているのでしょうけれど……。
人間ってむつかしいですね。
2024/03/25 p.240
2024/03/28 p.240-244
p.241
“しかしながら、そのような表現が「生きていく」ために必要な場合もあり、事実、ある人たちの「生きていく」ことをつなぎとめているという側面があるのです。”
わたしはことばを吐き出さないと生きていけません。ひたすら黙って、何も書かず、この人生を進んでいくことはできません。
表現しなければ生きられない人は一定数いる気がします。その人たちは、たとえお金がたくさんあったとしても、表現を封印されたら心がしんでしまいます……。
p.243
“あたり前のことですが、心を病む人たちは決して自分で勝手に苦しんでいるわけではなく、心を病むに至るほど苦しめられている状況があるわけです。”
自分自身に言い聞かせたいですし、心を病んでいる・病んだことがある友人知人にも伝えたいです。苦しさの原因は必ずあります。それは時に──もしくは、多くの場合は──、自分ではどうしようもないことです。
逃げていいのです。距離を取るべきです。物理的距離がどれほどの安心感を与えてくれるのか……それは人によって違うのでしょうけれど、少なくともわたしは、かなり心が軽くなりました。ホッとしました。
あなたはあなたのままで良い。病んでいても良い。
それでも、少しでも心が落ち着く環境に行ってほしいです。
2024/03/29 p.244-247
2024/03/30 p.247-267
p.247-248
“「世間から認められようが認められまいが、絵を描くことが俺の仕事なんだ」が座右の銘であり、声を立てず、顔をしわだらけにして笑った顔が素敵な、樫の古木のような雰囲気のお爺さんでした。”
すてきなことば。
絵を描かねば生きられないタイプだったのかもしれませんね。わたしは綴らねば生きられないタイプです。
p.253-254
“書き慣れた学術論文の文体ではなく、使い慣れない「です・ます体」で文章を書くのは、私にとって衝撃的な異文化体験でした。お読みいただいた方に、過度の読みにくさを押しつけていないことを願っています。”
論文を読み慣れていない身からすると、想像以上に論文寄りで、びっくりしました。この本を見て、勝手に想像していた内容とは違いました。それぞれ、描いた方にインタビューするかのような文章かと思っていたのです。
けれど、“過度の読みにくさ”はありませんでした。
p.256
“ことさらに「支援」「援助」「サポート」などと言わなくても、さりげなく、やわらかな気持ちで「共にいる」ことが、これほどに人を励まし、支えることができるというのは、私にとっては大きな驚きでした。”
お節介を働いてしまう(動き過ぎてしまう)ので、それは意識しなければならないことです。出しゃばらずに、ただ、そばにいること。ただ、耳を傾けること。そのほうが負担にならずに力になれる場合も多々あります、きっと。