先生はえらい (ちくまプリマー新書)

著者 :
  • 筑摩書房
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レビュー : 211
  • Amazon.co.jp ・本 (175ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480687029

感想・レビュー・書評

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  • もっと日教組的な先生をイメージして読んだら全く違ってた。流石に内田樹である。コミュニケーション論と言えばってばあってるのかなぁ?印象に強く残ったのは、子どもが「ことば」を学び使うというゲームの喩え。ナルホドと唸ったね。でも、やっぱし内田樹の本はどこか難解で誤魔化されてる気がするのは、私だけ?

  • 日本辺境論でもでてきた学ぶことに対する考えがかかれております。
    内田センセの本は関係ないようで関係ある話をポンポンだして、最後に糸をとおすような作りなのかな。楽しいですね。
    うまく言葉に落とし込めないようなものをそのようなものとして語ってくれる少ないひとではないでしょうか。(わかるような、わからないような。)
    本文に寄れば、誤読の余地のある語りですかね。
    教育について、コミュニケーションについて、それまで知らなかったものを知る過程とその方法についての本と読みました。
    先生はえらい、そこから私たちは勝手に学んでく。

  •  本書は、非常に深い内容を扱っている半面、非常に誤解されやすい内容だと思います。

     本書のテーマは「学びのメカニズム、そして、学ぶものとしてあるべき姿勢」です。やや乱暴に要約すると、学びというのは師から弟子へ教えられるものではなく、弟子が師に対して学ぶべきものを発見し勝手に学ぶものである、というものだと言えます。
     少し変な理屈にも聞こえますが、著者の本でよく展開される思考パターンがこの「逆説」です。まず社会通念と真逆な命題を提示し、「でもね、一度因果関係をひっくり返して考えてみてもらえます? ほら、こっちの方が本質を突いた物の見方でしょ?」という説得パターンは著者の議論のあちこちで見られます。これを押さえておくだけでも著者の本はかなり理解しやすくなります。

     本書に対する一番の批判は、「師の人間性がどんなに腐っていても、そこから学べないのは弟子側の責任? それ、ちょっとおかしくない?」というものではないでしょうか。
     実は私自身、ずっとこれに引っかかっていました。実際、師に近い位置にいたボスが本書の命題を引き「(どんな理不尽であっても)そこから学ぶかどうかは君次第。俺の理不尽に反発していると学べないよ」とトンデモなことを言っていたのです。言われた当時から「それは絶対間違ってる!」とは思っていましたが(ブラック企業の論理そのものですからね)、その直観をうまく説明できないでいました。
     このことはボスの下を離れてからもしばらく考え続けていたのですが、やっと自分なりの答えを出すことができました。

     まず、師と弟子の関係を以下に図式化します。

     師 →(1)→ 弟
       ←(2)←  
     匠 ←(3)→ 子

     我々が一般的に「学び」として考えるのは(1)です。師から弟子に教えられるモデルです。
     しかし、本書で論じているのは(2)です。そして、著者は学びの本質は(1)ではなく(2)である、ということを本書では言っているのです。
     弟子は、師匠の中に見た「自分の学ぶべきこと」を学ぶのです。それは勘違いだったり、師匠自身が考えてもいないことだったり、あるいは「反面教師」にすることだったりもします。が、とにかく「弟子の誤解や勘違いからでも学びは発生する」のです。
     そして、弟子は自分の学びたいことを勝手に学んでいくのが「学び」だとすると、学びの成果というのは予測不能になります。
     極端な例になりますが、例えば、あまり授業の上手くない中学校の数学の先生が、指導要領や教科書に則って何の工夫もなく因数分解のやり方を教えたとします。でも、その先生のことを尊敬し、数学にはその背後に叡智が潜んでいると思い込んで授業を受けている生徒が、「あ、そうか!因数分解って共通項をまとめるということか。この考え方を応用すればプリントの整理や部屋の片付けが上手く行くかもしれない」と掃除の極意を掴んじゃったりすることもあるわけです。
     この話を裏返して言えば、同じ授業をしていても人によって理解の躓きになるポイントが違ったり、ある人に通じた例えが他の人には通じないことが往々にして発生する一因として、「学ぶ側が学びたいように学ぶ」という要素は無視できないと思います。
     結局、学びというのは完全に学ぶ側にイニシアティブがある営為なのだ、というのが本書の重要な指摘の一つです。
     そして、弟子は師から学ぶべきことを学んだら勝手に離れていきます。

     では、逆に(1)とは何か、師の条件について考えてみます。
     本書では触れられていませんが、著者は別のところで師の条件について、ただ一つ「師自身が常に学び、成長し続けること」と言っています。
     これは確かにそうなんですが、やや条件として少なすぎます。そうなったのはおそらく著者の師匠の一人である合気会師範・多田宏九段が技量・人格共に素晴らしすぎるためではないか、と私は考えています。
     師の側で弟子に「学び」を発生させようとする場合、最低条件になるのは、弟子の持っていない知識や技術・能力を有していること、少なくとも弟子にそう錯覚させること、です。これがあれば「学び」を誘発させられる可能性はかなり高まります。
     そういう意味では、先に挙げたボスのように「俺を盲信しないと俺から何も学べないよ」と言ってしまうのは、師としては口が裂けても言っちゃいけない最低のセリフということになります。マンガ『巨人の星』で、誰も捕れなかった自分の球を初めて捕ってくれた伴忠太に主人公・星飛雄馬は「俺は今、モーレツに感動している…!」と心中でつぶやくのに対し、「それを絵で表現しろよ!」とツッコミが入るようなものです。弟子に学びを発生させられてない時点で、師としてありたいなら反省すべきことであり、どうやったら学びを誘発させられるかに頭を使えよ!という話になります。

     話が逸れました。
     師の条件として「自身が学び続けること」というのは、わかりやすいく言えば「ネタ切れ」の防止でしょう。
     が、もっと本質的には、この話の根底にある構造主義の「贈与」の話に基づいています。贈与というのは、送り手側の贈与行為によって発生するのもではありません。受け取った側が「贈り物を受け取った」と(誤解でも)思うことでスタートするものである、という考え方が本書の中で説明されています。
     だから、著者は「何かを欲しかったら、まずあなたが人に何かを与えなさい」と言います。別のところで著者はサッカーについて「パスを出す人の所にボールが集まる」と贈与との構造的類似性を指摘していました。要するに、欲しければまず与えろ、パスが欲しければパッサーになれ、という逆説で考えれば、「人に何かを伝えたかったら、まず自分が何かを受け取れ」ということになります。

     ここまで見てきて「え? 師の人間性については?」という声が聞こえてきそうです。
     実は、今まで想定していた(1)や(2)というのは、どちらかというと短期的なもの、私法取引で言えば売買のような単発的なものを想定していました。
     が、師や弟子の人間性というのは、師弟関係の継続性(3)にかかるものだ、というのが私の考えです。
     著者は多田先生という高潔な人格の人を師に持てたため、この継続性の要件を意識せずに済んだのだと思います。これに対し、私は幸か不幸か人間性の最悪なボスの下で働いた経験から、この(3)を強く意識することができました(泣)。師弟関係も一つの人間関係ですから、それを継続できるかは当事者の人間性による部分が大きいと思います。
     弟子側の人間性ももちろん関係はしてくるでしょうが、この話は構造的に弟子が勝手に師匠と学ぶべき事を見出して勝手に学ぶものです。とすると、弟子が何かを学び取った後、そこに恩義を感じるかどうかは師匠の人間性も影響してきます。弟子は社交儀礼や体面から「師匠にはお世話になりました」ということはあるでしょうが、弟子にそう言わせるかどうかは師匠の人格・人間性によるところが大きいように思います。その意味で「○○はワシが育てた」的な発言というのは非常にみっともないことですし、去って行った弟子に対して「アイツは恩知らずだ!」と言うのは自分の人格その者に対してダメ出ししているのと同じことでもあります。

     ここで細かい点を付言しておくと、(1)の学び誘発の阻害要因として、師の人間性というものは多少影響します。わざわざ人間の腐った人から学ぼうとは思いません。しかし、人間性が腐っていたとしても、持っている知識や技術が学ぶ側に魅力的であれば、それでも学ぶ人は現れます。
     また、(2)の学ぶ意識が強ければ強いほど、(3)の人間性の悪さに対する許容量は広くなります。その最大級が「盲信」ではないかと。

     整理しますと、
    ・(2):学びは学ぶ側の(誤解を含めた)意思によって発生する。
    ・(1):師は学びを誘発することしかできない。そのためには弟子がほしがる知識・能力なりを備えるか、備えていると誤解させる必要がある。
    ・(1)(2):自分自身が学び続けないと、弟子は学び終わって去って行く。
    ・(3):師弟関係の継続は、当事者(特に師)の人間性による。

     これを前提とした上で、(2)についての議論を展開しているのが本書である、というのが私の理解です。

  • 教育論かと思って読むと、もう少し幅の広いコミュニケーション論だった.
    受け手が色々と考える余地のある情報、解釈する幅のある情報を発することがよい発信者、教育者である.
    情報を発する者、受ける者が心がける姿勢をわかりやすい文章で書いてある.
    先生は「えらくない」ところにこそ先生の「えらさ」があるという逆説的な論旨の展開(学ぶ側の感受性がとても大事ということ)が面白い.
    今まで読んだ内田本では一番平易な文章だった.

  • ぽろぽろと、ページがめくられていく本です。
    かるーくよめます。
    これは、学校教育課程の人用に書かれた、先生がどんだけえらいかって話ではない。
    いかにして、自分の「先生」を見つけられるかというお話。
    人は、対モノでも、対ヒトでも、「完全にはわかんないもの」に興味を持つようです。
    それが、勉強意欲でも人付き合い意欲でも購買意欲でも、引き起こす原動力のようです。
    この本でもやっぱり、思ったのは、ことは、絶対的じゃなくて相対的なんだなぁってことかな。
    おなじコトバをきいても、受け方は十人十色。

  • これを読んでから、コミュニケーションに対する考え方が変わった。

    出会って良かった1冊。

  • 先生がえらいという話ではなくて、どんなときにえらいと思うのかというえらいの現象学のお話。
    いろいろな解釈に余裕があっていいと思えば生きやすい。
    コミュニケーションにも幅があるべきなんだって。納得。相手に幅がない言葉だけを投げかけるのは酷なんですね。

  • タイトルから、読む気がしなかったけど、面白かった。
    テーマに対して、少々回り道をして説明をしているけど、それもこの本のテーマの狙い?先生とはそういう存在なのかもしれない。いい先生、悪い先生、それってどういうこと?と先生について考える本。

    大学生の頃、先生の授業を分からない・つまらない・だるい・・・と、文句しか言わない学生を見て違和感を感じていたことを思い出した。

    それって受け取り手の問題もあるというか、学ぶ人の意志によるのではないかと、どんなことにも学べることは見つけられるのではないか?と、コトバにはできないけど、もやもやしていた。

    商品を買って、得られる価値がはっきりしているものと学ぶことは違うということです。

     授業に対して、つまらない・面白いと判断してしまう、常に、何かを与えられる立場でいては、学べるものも学べなくて、スタンスを変えないといけない。
    (教育に対する全ての批判とか、モンスターペアレンツの学校への要求は、商品、サービスとして学校、教育を捉えてるのではないかと思う・・。)
    伝える側の工夫・努力は必要だけど、それで受け取れないものがあったとしても、それは受け取る側如何。
    キャリア教育の中で、地域社会の大人の授業の企画をするときに、同じことを思うんだな。

  • 内田樹さんの教育論を中学生にもわかるように書かれた内容。しかし、そこは内田さんならでは、中学生が読んでも簡単には分からない内容に仕上がっている。

  • 中高生向きの本だが大人が読んでも十分おもしろい。
    結局、学びというものは学ぶ者の主体性から生まれてくるものであって、学び取れる知見は学ぶ者の数だけ存在する。
    先生論というよりもコミュニケーション論について書かれている本です。

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著者プロフィール

うちだ・たつる 1950年東京生まれ。武道家(合気道7段)。道場兼能舞台兼私塾「凱風館」館長。神戸女学院大学名誉教授。翻訳家。専門はフランス現代思想史。東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。ブログ『内田樹の研究室』。



「2019年 『そのうちなんとかなるだろう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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