先生はえらい (ちくまプリマー新書)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (175ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480687029

感想・レビュー・書評

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  • 奥トレで交換してもらった1冊。えらい先生は出てこず、学びについて書かれていた本で参考になるポイントもいくつかありました。特に「技術には無限の段階がある」という点は、エンジニアがはまる部分だと思います。「そうそう」と言いたかったことが伝わった喜びのようなものがありました。知っている誰かに渡してみたい本ですね。

  • 高校生向けに書かれている。先生というものへの幻想。「自分の知らないことを知っていて,それを対価と引替に伝えてくれる存在」として先生を捉えては先生からの学びはない。自らの学びは自らの問いに応じたものであり,先生との交流によって何らかの応え(学び)を見いだしたなら,それは先生から学べたといえるかもしれない。それは意図した伝達,これを教えようとして教えた結果ではないことがほとんどだろう。その意味で謎の存在であることが先生の条件か。
    若い頃(大人も)は実利を追う(テストの点数が上がる,大学に合格する,就職できる,出世する,他者から認められる(蔑まれない)等)ことにとらわれることが多いので,どうしても実利的で役に立つ教師を求める。いいおっさんになって分かったけど,生きる指針としての師の存在が必要だ。知らないことを教えてくれる教師は替えが掃いて捨てるほどいる。金さえ払えば,お願いすれば教えてくれる。それに対して尊敬し感謝はすれど,人格的成長は期待できない。沢山知っていれば,できれば人生に満足できるかといえばそうではない気がする。人格的成長がなければ結局守銭奴や欲望の奴隷となってしまう気がする。先生を得ることは本当に難しいことなのかも知れない。しかし,この本では自分次第であることを説いている。自分が何を欲しているか,自分との対峙が避けられない。
    武道を通して人格的成長が得られるか。考えたい。

  • 「人間はコミュニケーションを志向する」という基本的な立場に立って、教育の根幹にあるものについて論じた本です。

    著者は、ラカンの「人間は前未来形で過去を回想する」という言葉を引用しています。他者に向かって自分の過去のことを話すとき、私たちは「あらかじめ話そうと用意していたこと」ではなく、「この人はこんな話を聴きたがっているのではないかと思ったこと」によって創作されたことを話すはずだと著者は言います。そして、そういう話をするとき、私たちは「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」という気分になると著者は言います。

    ここには、最初に伝えるべきメッセージを抱え込んでいる自分がいて、それが言葉を通じて他者に伝えられるというような常識的な対話のモデルとは、まったく異なる真理が示されています。他者に向けて話をする中で、自分の語るべき内容が定まってくるというのが、本書の示す対話のモデルです。

    さらに著者は、「沈黙交易」の例をあげて、他者から何かを贈与されてしまったという思い込みが、人をコミュニケーションへと駆り立てることを説明しています。

    本書の最後で紹介されている能楽の『張良』が、非常に印象に残ります。

  • そこに自分が居る意味を感じさせる。
    それは時に即興的であり、新鮮さとなって現れる。
    つまり、あなたを認めること。

  • 中高生向けに書いた新書で、型破りの教育論?~誤解がなければコミュニケーションは成立しない。夏目漱石のこころと三四郎に出てくる先生はその典型だし、もっと端的には能楽の張良・・・勝手に解釈して新しい気付きを得られれば良い~よくわからないものを交換するのが無言交易で、交換することに意義がある。言葉の交換もそうだし・・・貨幣がもっとも価値の解らないもの。自分が何を考えているかを、自分が語り終えたそのことばをつうじて知る・私たちが語っているとき、その語りを導くのは、聞き手の欲望(と私たちがみなしているもの)だ。誤読する自由。コミュニケーションはつねに誤解の余地を確保するように構造化されている。自分の馬鹿さ加減が解っているだけで先生の資格あり。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っている。(ラカン)

  • 面白かった。先生を先生たらしめるのは,「先生が何を伝えたいのかを考える」学ぶ側の主体性というのは,納得。

  • 自動車教習所の先生はどうして「恩師」になりにくいのか。

    内容はぜひ読んで欲しいので、ちょっとコラム風に…
    以前マナー研修を受けにいったとき、派手な格好をした、マナーには決して則ってないと思われる中年女性講師が出てきて、名刺の渡し方はこれが正しいのであって、一般的なやり方は邪道である! といった断定的な語り口で研修を進めていた。
    いわゆるマナー講師の講義も受けたことあるけど、自分でも不思議なことに、私のなかで「マナーの先生」として記憶に残っているのは、派手なおばちゃんの方なのである。
    それは何故だろうかと考えるに、人を不快にさせない、というマナーの(消極的な)意義を突き抜けて、見た目で、あるいは話し方で、強い印象を残す、というビジネス上での価値ある体験を提供してくれたからではないか、というように思う。
    この本で、その道のプロが示すのはその道の果てしなさ、という話が出てくる。私がおばちゃんから感じたのは、のけぞるような格好をしていても個人事業主として働いている人の自負や、ビジネス社会というものの奥深さ、だったように思う。
    (さわ)

  • 登録番号10855 分類番号370

    某大学平成26度入学生への課題図書(生徒より)

  • ある意味で自信がついた☆

  •  内田パワーが炸裂しています。
     「先生はえらい」といっても,世の中には,もともと「えらい先生がいっぱいいる」ということを言いたいわけではありません。ましてや「先生はみんなえらい」といっているわけでもありません。
     著者は,「先生はえらい」と言える先生を見付けたアナタガエライと言っているんです。そして,そんな巷の先生と呼ばれる人たちが,そんな先生になれる可能性は,「反面教師」と言われる者も含めて,みんな持っているんです。
     というか,自分に身近な人たちは,自分の人生にとって,たぶん,みんな「えらい先生」みたいなものなのです。自分の人生に影響を与えていない人たちは,ほとんど忘れてしまっていますからね。
     自分の事を考えてみても,仲のよかった友だちからは,とても多くの刺激をもらっていたし,人生の方向を大きく変えてくれた人もいるような気がします。
     先生もその中の一人になる可能性が高いんですね。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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