- 本 ・本
- / ISBN・EAN: 9784480688071
感想・レビュー・書評
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時間をかけて精読するか。あまり時間をかけずに速読し、多読するか。
これは読書家にとって、読書に向き合う永遠のテーマかもしれない。そんなものは、本によると言われればそれ次第だが、やはり、どの本の場合にどちらを選択するか、その比率の大小も含めて、「精読か多読か」というスタイルは各々にあるものではないか。
で、私はどちらかというと多読派。最近では、同じ本を二度読むことの味わい深さをようやく分かるようになった程の青二才だが、それまでは「二度漬け禁止」みたいに「二度読みしない」という事にこだわりがあった。一度読んで頭に残らない事は、本能的に必要のない事であるとか、二度読んでいたら新しい本を読み切れないとか。あるいは、次々と読むことで、複数の著者から異なる視点での意見に触れる事ができるし、そこで繰り返し出会う言説や物語から共通項として得るものの方が貴重な気がしていたからだ。ただ、前述のように、意図的に強化したいテーマがある場合には、やはり二度読むことが良いと気づいて考えを改めた。中途半端な「自称多読派」、という所である。
そして、その多読術を松岡正剛が語ってくれるのだから面白くないわけがない、という事でウキウキした気分で読み始める。
― それはたとえば、植物をスケッチするとか、昆虫を採集しておもしろがるということにも通じることで、おもしろいからですよ(笑)。植物であれば、世の中にはキリなく植物があって、年々歳々、多年草も一年草も出てくる、大街のようになって百年の大木としてそこにありつづける掛木もあるし、昔のような地を通う植物だってある。でも、それらをちょっとずつスケッチをしたり、観察をしたり、写真を撮っていれば、そこに大小無数の微妙なちがいがいっぱい感じられます。本にも、植物と接するのと同様の多彩多様な世界があって、いったんそういうものに触れると、やめられない。むろんそこには「変な本」もまじってくる。新種も出てくる。これを続けていくと、植物との仲もうんとよくなってくるんですね。そうすると集中もするけれど、特装することのほうが気分転換にもなるんです。読書だって同じことです。
あーよくわかる。読書家はコレクターなのだ。本棚はカードブックや切手帳みたいなもので、ブクログはさしずめ昆虫標本箱。ポケモンゲット!みたいな感覚。
― そこが出発点です。気負っていても本はカラダになじんでくれない。世の中にいろんな食べものがあるように、本は食べてみないとわからない。毎日毎日、すごい数の本が街の書店に並び、図書館にもすごい数の本があるけれど、世界中の食材と料理の数を見て、その数に驚いて食べるのをやめる人がいないように、本と接するというのは、とてもフィジカルなことなんです。
更に、グルメ家の領域まで。これも良くわかる。食わず嫌いをしないことが大事。とまあ、感覚的に面白いし、共感性が高くて嬉しいなと思ったことを抜粋したが、次の引用は、もっと本質的な話。この感覚がまさに読書の神髄だという気がした。この感覚が分かると、読書の質感が更に変わっていく。言語化してくれた事の有難さというか、同じようなことを考えているという事の安心感というか、とにかく、読書の本質への出会いを感じた文章である。本書を読んで良かった。
― 読書は、誰かが書いた文章を読むことです。それはそのとおりです。けれども、自分の感情や意識を無にして読めるかといえば、そんなことは不可能である。読書って、誰もが体験しているように、読んでいるハナからいろいろのことを感じたり、考えてしまうものなんです。だからこそ、ときにイライラもしてくるし、うんうんと頷くこともある。つまり読書というのは、書いてあることと自分が感じることとが「まざる」ということなんです。これは分離できません。
― 生きたコミュニケーションって、知識がつくりあげた既存の情報構造にあてはめてするものじゃないんですよ。それはたんなる〇×テストです。マッチングです。そうではなくて、本来のコミュニケーションは、その場に生じている先行的な編集構造が先にあって、そこに自分なりの、また、その場なりの相互の「抜き型」をつくっていくことなんです。読書というのは、まさにこの行為です。著者が「書くモデル」をつくったところへ、読者は自分のもちあわせているエディティング・モデルを投げ縄のように投げ入れて、そこに「読むモデル」を括って、自分のほうに引き上げ、何かを発見していくことなんです。そして、これを拡張していけば、一冊の本に出会って読書をするということは、大きな歴史が続行してきてくれた「意味の市場」でそのような体験を再現し、再生し、また創造していくということなんですね。本はそのためのパッケージ・メディアです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読み始めて、止まって、を繰り返しているうちに、著者の松岡正剛さんは亡くなってしまった。いつか会えたらと思っていたのに。書評はあまりにも膨大なので、すべて追いかけるのは無理だと諦め、この本を読んだ。まぁ書いてある事の半分くらいは飲み込めたかなぁ。私には難しかった。哲学の本とか少しずつしか読めないし。本に書き込むのも私には無理と思う。今後の参考にはしたい。だいぶ前の本だけど、全然気にならないし、何回も見たくなる本だった。
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「読書をする人だけがたどり着ける場所」を読み終えたところ、タイムリーにRafmonさんが「多読術」を紹介してくれていました。少し前に近所の書店で松岡正剛さん追悼の帯を見た記憶が蘇り、駆け込み購入です。
どうやって本と付き合うのか、多くの本を読む方法に止まらず、最後はデジタルVS読書についても触れられています。
その中でも「読書することは編集すること」の章は全く新しい視点だった。書き手と読み手の双方向的な相互コミュニケーションの中で「意味の交換」を成立させている。一冊の本に出会って読書をするということは、大きな歴史が続行してきてくれた「意味の市場」や「理解のコミュニティ」でそのような体験を再現し、再生し、また想像していくということ。
読書=著者が「書くモデル」を作ったところへ読者は自分の持ち合わせているエディティングモデルを投げ縄のように投げ入れて、そこに「読むモデル」を括って自分の方へ引き上げ、何かを発見していくこと。
自分に合った読書スタイルの章
読書というのは平均的なことをするわけでは無い。自分の読中感覚をできるだけ多様にイメージする。「感読」「耽読」(読み耽る)「惜読」「愛読」「敢読」(あえて進んで読む)「氾読」「食読」「録読」「味読」「雑読」「狭読」「乱読」「吟読」「攻読」「系読」「引読」「広読」「精読」「閑読」「蛮読」「散読」「粗読」「筋読」「熟読」「逆読」
読書の未来の章は少し難しくなってきましたが、肩肘はらずにカジュアルに気分に合わせて様々な本を読む事がやがて多読につながると信じてこれからも読書ライフを楽しみます。
そうそう、カラマーゾフの兄弟は読みこなせていない自信が確信に変わりました笑
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新年早々ヤマザキマリラジオに出演されていたのをたまたま聞いてすごく心を動かされたので、読んでみました。
NHKのサブカルチャー史にも出演されていました。
何冊も同時に読むことを自分も最近始めたので、達人にコツを聞いてみたいと思ったのだが、やはり、この人は並のお方ではない。
ジュリア・クリステヴァのいう「インターテクスチュアリティ」(間テキスト性)についての紹介
「本来、書物や知は人類が書物をつくったときから、ずっとつなかっている。書物やテキストは別々に書かれているけれど、それらはさまざまな連結と関係性をもって、つながっている。つまりテキストは完全には自立していないんじゃないか、それらの光景をうんと上から見れば、網目のようにいろんなテキストが互いに入り交じって網目や模様をつくっているんじゃないか」
「どんなテキストも自立的に思想的にかまえたものではあっても、何かと関連しあっているし、ちょっと緩めにソフトアイで本やテキストを見れば、その本やテキストは、その大きなインターテクチュアルな網目の一部として、いままさにここに突起してきたんだというふうに感じられるんです。」
その複線的で複合的な読みのネットワークの中で、「キーブック」というものが必ずあるという。確かに!と膝を打つ感じだった。その「キーブック」たちが結節点になって、柔らかい系統樹を示すという。
セイゴオさんの「キーブック」
宮本常一「忘れられた日本人」
ヘルマン・ヘッセ「デミアン」
フーコー「知の考古学」
モンテーニュ「エセー」
洋の東西を問わず、古典の方が断然きわどいものが多いという。まさに古典はリベラルアーツ。
さらに「千夜千冊」の巻立に従って「フランケンシュタイン」「嵐が丘」「地球幼年期の終わり」「時の声」「生物から見た世界」「パンダの親指」「幻想の中世」「アレゴリーとシンボル」「世界劇場」「パッサージュ」「かたち誕生」「アンナ・カレーニナ」
読まずに死ねるかという本が続々と…。
セイゴオさんの哲学は
読書は、第一に現状の混乱している思考や表現の流れを整えてくれるものであり、第二に、そもそも思考や表現の本質は「アナロジー」であり「連想」であるということ、第三に元気が出てくる源泉は「曖昧な部分」「きわどい領域」「余分なところ」であると確信しているということだと言う。
「暇と退屈の倫理学」で紹介されていたドゥルーズが語ったという「攫われたい」というフレーズ、ここでもセイゴオ先生が「本に攫われたい」と語っている。さすが達人は同じ境地に達するというわけだ、と納得。
その時代に悪書とされたものはのちの名作であるらしい。
その例としてマキャベリ「君主論」、「アラビアンナイト」「デカメロン」、スタンダール「赤と黒」、フロベール「ボヴァリー夫人」、マルクスとエンゲルスの「共産党宣言」、ディケンズ「オリバー・ツイスト」、ストウ夫人「アンクル・トムの小屋」スタインベック「怒りの葡萄」、フォークナー「サンクチュアリ」、ヘンリーミラー「北回帰線」パステルナーク「ドクトル・ジバゴ」、ジョージ・オーウェル「動物農場」バロウズ「裸のランチ」ナボコフ「ロリータ」を挙げている。
…何冊よめるか?
いい本に出会う打率は最高でも三割五分、普通は二割五分くらい。その打率を上げるために「駄本」を捨てるのではなく、むしろ三振したり見送ったのがあるという思いが重要だという。どんどん空振りして相手を褒めるつもりになった方がいいと。
セイゴオ先生は今癌の闘病中とラジオで話しておられた。まだまだ活躍してもらいたいと心から思う。
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本をたくさん読むということの理由を問うことはむなしい。読むことが読む人をどう変えるのか考えても仕方がない。
しかし、「世界」は読むことで変わっていくとを読んだ人は知っているはずだ。そういう頼りない期待を励ます本。
励まされて、読み始めれば、次の本、次の本、次の本・・・が待っている無間地獄かもしれない。
まあ、しかし、それは、それで、面白いじゃないか。この世にいて出会う無間地獄などたかが知れているに違いない。 -
松岡正剛氏がインタビュー形式で読書の魅力や方法などを語った本。口語調で約200Pなので軽く読めるが、受ける印象は遥かに豊かで充実したものだったと読了後に気づくであろう。
この本で得た一番の発見は、読書中の自身の認知活動がどうなっているかを知ることができたことである。例えば、
「人が何を読んでいるか分かっても、人がどのように読んでいるかはわからない」
「自分の感情や意識を無にして読めるかといえば、そんなことは不可能である。読んでいるハナからいろんなことを感じたり、考えてしまうものなんです。」
など、読書しているときの内面の動きを表した文章があり、興味深い。
また、難しい本を読むときは、それを理解している人あるいはその解説書を読むことで、その人の起伏感や強弱感を受け取って読みやすくなるなどの話も、読書中に行われている思考の動きを教えてくれる。
そのためこの本は、本を読むという行為が、今までよりもぐっと広くとらえることができるので、これからの読書がもっとワクワクするようになれる「パンドラの箱」を開けるような本である。 -
松岡正則氏による読書論・多読論。読書遍歴や日頃の読書の仕方について、インタビュアーの方との対話形式で進行していく。後半にはメディア論も少々。
自分に合わないと感じた本は「合わない」という気持ちで済ませてしまっていた。何故自分に合わないと思うかを一層掘り下げて考える癖を付けてみようと思う。また、読書に多様性を持たせつつ、同様分野の本を横断的に読むというバランスが今後の課題になりそう。
読書に関して色々な考えに触れられて興味深かった。
~memo~
・好みを一辺倒とせず、読書に多様性を持たせる
・「分かったつもり」で本を読み始めない
・読書はリスク(背信、裏切り、負担など)も伴う。つまり薬にも毒にもなる
・本は3R(リスク、リスペクト、リコメンデーション)
・横断的に同様分野の本を読み進めることで見えてくる“キーブック”の存在
・読書する仕組みをリズム化する。その時の調子や好みに応じて本を選ぶ。するとそのうち何を読めば調子が戻るか分かってくる
・良書or悪書の2択で分けることはできない
・合わないと感じた本のなかからも気付きを見つける -
ウェブ上の「千夜千冊」でも知られる読書の達人・セイゴオが、読書の悦楽とセイゴオ流読書術を語った本。
ちくまプリマー新書は基本的に中高生対象だが、本書は中高生にはちとムズカシイのではないか。担当編集者がセイゴオにインタビューする形でまとめられたものなので語り口は平明だが、中身はかなりハイブラウな、ある程度の読書遍歴を経た人でなければわかりにくい読書論になっているのだ。
『多読術』というタイトルは誤解を招きやすいと思う。このタイトルだと、巷にあふれる速読術の本のように、「いかに効率よく読書をするか?」を説いたビジネス書だと思われかねない。セイゴオがそんな本を書くはずがないのであって、本書はむしろ、ビジネス書的な「効率重視の読書論」の対極にある内容となっている。
たとえば、セイゴオは次のように言う。
《ぼくはときどき読書シンポジウムのようなところへ引っ張りだされたり、「ビジネスマンに役立つ読書特集」といった雑誌企画につきあわされるんですが、これにはいつも困るだけです。「役に立つ読書」について聞かれるのがつまらない。それって、「役に立つ人生って何か」と聞くようなものですよ。そんなこと、人それぞれですよ。
むしろ「読書は毒でもある」ということを認めていったほうが、かえって読書は面白くなると思います。これはとても大事なことで、本はウィルスでもあるし、劇薬でもあるんです。その一方で漢方薬でも抗生物質でもあるけれど、だからといってすべての読書において対症療法のように本を読もうとするのは、いささかおかしい。そんなことはムリです。そのことも勘定に入れておいたほうがいいですね。
読書とはそもそもリスクを伴うものなんです。それが読書です。ですから、本を読めばその本が自分を応援してくれると思いすぎないことです。背信もする。裏切りもする。負担を負わせもする。それが読書です。だから、おもしろい。》
「何かの役に立てるための読書」ではなく、読書という行為そのものの愉しさと深みを、書物の大海原に漕ぎ出してさまざまな本と出合うスリルを、セイゴウはさまざまな角度から語る。
読書好きなら「あー、わかるなあ、その感じ」とうなずきたくなる一節が随所にある、含蓄深い読書論。 -
松岡正剛の訃報に接する。ウェブ上で「千夜千冊」をたまに読んだりはしていたが意外と手元には蔵書がなかったので、追悼読書用に本屋で目に入ったちくまプリマー新書を一冊手に入れてきた。
編集者によるインタビュー形式で中高生向きに自身の読書体験を振り返りながら読書のしかたや意味を語っているので比較的読みやすかった。
今「文學界」で連載している酒井泰斗+吉川浩満の<哲学入門>読書会「読むためのトゥルーイズム」で言っていることやこの間読んだ河合隼雄「こころの読書教室」の話と重なる部分も少なくなく、世間から見れば多読なほうだと思われる自分の読書スタイルを振り返ってみてもうなづけることばかりで、なかなかいいところをついた内容だと思えた。「編集工学」にはとっつきにくいイメージがあったが、いろいろ並行して読んだり読んだ本から芋づる式に次の本を探したりしているのも、ブクログにこうして感想やフレーズを登録したりして別の本を読むときにそれを参照しているの編集のうちなのだな…
終盤で指摘していた日本で「ブッククラブ」や本を贈り合う文化が日本に発達していないという話も興味深かった。
これは15年前の話なので、その後急速に進んだ電書化や雑誌・街の本屋の衰退などについて何を思っていたのか聞いてみたかったと読後に思うが、そのうちどこかで出あえるだろうか。
ただ「多読術」というタイトルはちょっと損しているような・・・(かといってもっといいタイトルもすぐには浮かばないけれどせめて「読書術」ぐらいだったら…)。このレーベルは常にチェックしてて読んでる本も多いのに出たときに買わなかったのはたぶんこのタイトルにまったくひかれなかったせいだと思うので。ともあれ、期待したよりもずっとおもしろい本だった。改めて、R.I.P. -
読書術の類の本はいくつも読んできたが、これはその中でもダントツで面白かった。
松岡正剛氏(以降セイゴオ)の人となりも好ましく感じられる。言葉選びや思考から伝わってきて、この一冊で一気に好きになってしまった。
多読する上でのコツだとか考え方だとかを対談の形で解説してくれる。
この質問している人が誰であるかが明かされていないが、質問者の方との掛け合いも楽しい。例えば「この話題に関しては本筋から離れてしまうからこの辺にしておこう」とセイゴオが言っても「いや、詳しく話してください」のように否定したり突っ込んで尋ねたりするからだ。
途中で一度、「われわれ編集者は」と言っているので、編集者ということだが、編集者は基本的に黒子というのが持ち分であるから特定しないのだろうと思う。
本書から学んだ核心、とりわけ面白かったのは編集工学にまつわる部分だった。
これを読むまで、編集工学というキーワードを見聞きしていたものの然程興味をそそられなかったのだが、読書とは自己編集であり相互編集でもあると言い出したところでむむ、興味深いぞ、と思い、その心において編集工学が関わっていた。
読書は、著者と読者との間で行うコミュニケーションだ。その通りだと思う。
そしてコミュニケーションは、単に情報というオブジェクトを伝達しているだけではなく、その情報を介してお互いの編集モデルを相互作用するものである。この概念は全然自分になかったので目から鱗だった。
落合陽一氏が『脱近代宣言』において話していた「自分と自分以外のフィードバックループ」と共通する。
養老孟子氏は『バカの壁』において、インプットした情報(x)に対するアウトプット(y)を「y = ax」と表現した。これでいえば自らの編集モデルこそが個々人が持つaであり、私が持つaと著者の持つa’は異なるが、同じ文化、同じコミュニティにおけるなんらかの共通基盤がa≒a’と相互認識させているのだろう。
この共通基盤を、本書では「理解のコミュニティ」や「意味の市場」という言葉で言い表されている。
この「理解のコミュニティ」においては、相互にa≒a'と思える。コミュニケーションにおいてある程度意味が通じて会話が成り立っていると相互に実感できるが故に、例えば私の思う「赤」と他者が持つ「赤」の認識は同じものを指す、と暗黙的に定義づけられているのだろう。
セイゴオは、コミュニケーションにおいては情報交換というプロセスの中で編集構造の断片になりそうなものを交換していると言う。
その編集構造の断片、即ちaはダイナミックに変容していく。
記憶というのは非常に曖昧なものなので、y=axと聞くとなんだかaは定数のように感じられるが、動的に変化するaはとても定数とは言えない。
その意味でも、aが、xによって日々刻々と変化していく編集構造であると考えるのは納得しやすい。
流石、膨大な読書による膨大な情報を集約・凝縮した末に導き出されたものであるから話の密度が高い。
具体に対する共感は私も同様の作品を読んでいなければしにくいのだが、抽象部分から感じる説得力がとても魅力的で、セイゴオに対する憧れを喚起する。
とはいえ私は読書をそのまま活かせる仕事に就いていないし眠る時間を削ることもできないので真似するのは好手にあらず、あくまで参考として受け取るのがベストなのだと思う。
著者プロフィール
松岡正剛の作品





