日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480814968

作品紹介・あらすじ

「西洋の衝撃」を全身に浴び、豊かな近代文学を生み出した日本語が、いま「英語の世紀」の中で「亡びる」とはどういうことか?日本語と英語をめぐる認識を深く揺り動かし、はるかな時空の眺望のもとに鍛えなおそうとする書き下ろし問題作が出現した。

感想・レビュー・書評

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  • 普遍語として英語が機能していく未来は避けられない。私達日本人はそれはデメリットしか見えないかもしれない。
    だけど、普遍語ではない言葉を母語にしているからこそ、普遍語では思考しにくい事を思考できる可能性も秘めている。日本語を母語としているからこそ出来る何かを考えて模索していく事が重要なのかな。
    全ての書き言葉をローマ字にする案が過去に出ていたようで、それを止めてくれた先人に感謝。

  • 寡作な作者ですが、書く本が全て何らかの賞を受賞しています。本書も小林秀雄賞を受賞。
    日本文学への憂い、かつ問題提議で、読者にも程よい緊張感を与えてくれます。

    世界で一番権威があるとされる百科事典「ブルタニカ」の「日本文学」の項目では以下のように記述されているそうです。
    『その質と量において、日本文学は世界のもっとも主要な文学の一つである・・・・(略)・・・歴史の長さ、豊かさ、量の多さにおいては、英文学に匹敵する。現存する作品は、七世紀から現在までに至る文学の伝統によって成り立ち・・・(略)』と16000語近くの大ボリュームを占めている。
    筆者はドナルド・キーン。

    そもそも日本近代文学の存在が世界に知られたのは、日本が真珠湾を攻撃し、慌てたアメリカ軍が敵国を知るため、日本語が出来る人材を短期間で養成する必要にかられたのが一番大きな要因であり、アメリカ情報局に雇われた中でも頭脳優秀な人たちが選ばれて徹底的に日本語を学ばされ、彼らがのちに日本文学の研究者となった。サイデンステッカーやドナルド・キーン等がいる。ただ、確かなのは彼らが訳してみたくなる近代文学が日本にはあったということである。

    そのような日本語や日本文学を、我々は空気や水と同じようにごく自然に書き、しゃべり、読んでいるが、過去を振り返ると、漢字文化へ同化されなかった事や、明治の開国時に一気に「国語」が成立したことや、上記の事情で世界に知られるようになったことなど、世界的・歴史的に見ると大変な僥倖であることが、本書を読んでわかった。

    ただ、英語が普遍語となった現在、英語で論文を書くのは必須となっており、文学も英語で書くのが当然という傾向が今後ますます強まり、英語でない現地語(非英語)は、翻訳もされず、見向きもされなくなる時代が遠からず来るだろうと著者は言う。
    また、翻訳されたとしても「書き言葉」の象徴である文学は、単なる文章と違って、辞書や通訳を通じて意味がわかればよい、という類のものではないゆえに、日本文学が英語に翻訳されることによって、亡んでいく(ローカル化)末を憂慮している。

    副題にもあるように「英語の世紀の中で」日本文学が日本語としてその命脈を保つことができるのかという危機感を深い洞察力で抉り出している。

    日本語、日本文学、日本文化を愛する者へ、この問題を真摯に考えさせてくれる本だと思います。

  •  いま、この本を読んでおいて本当によかった。日本語話者は必読の書である。「日本語が亡びる」なんていっても、何をいっているのだそんなことあるわけないだろうと歯牙にもかけないのが普通の人の反応だろう。しかし、このままでは間違いなく亡びるだろうということがわかる。

     現代は、英語の世紀である。それは数十年単位の話ではなく、これから先、100年、200年と続いていくであろうことは厳然たる事実なのである。英語は世界で<普遍語>となったのだ。普遍語になるとはどういうことか。それは、「英語圏をのぞいたすべての言語圏において、<母語>と英語という、二つの言葉を必要とする人が増えていくこと」を意味するのである。英語の重要性が増すほどに、自国の言葉は影響を受ける。そのとき、自分たちの言葉が「亡びる」ということが起こる。ここで著者のいう、「亡びる」というのは、当然その言葉の最後の話者が消えてしまうという意味ではない。そうではなくて、かつて高みにあったようなひとつの豊かな<書き言葉>が忘却され低いレベルへ下降してしまうことである。そして、そのような<自分たちの言葉>が亡びるとき、<国民文学>も亡びることになる。

     <国民文学>は無論<国民国家>の存在を前提とする。そして、国民国家は<国語>を必要とする。<国語>というのは決して、自然発生的なものではない。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』にあるように、「出版語」が<国民国家>の言葉として固定されていくうちに、国語というものが成立することになるのだ。「出版語」とは、より高い叡智にアクセスできる上位の普遍語を<現地語>の書き言葉に翻訳することで、生まれたものなのだ。日本近代文学の礎を築いた文豪たちのほとんどが、同時に優れた二重言語者であるという事実を思い出してほしい。

    「くり返すが、<国語>とは、もとは<現地語>でしかなかった言葉が、<普遍語>からの翻訳を通じて、<普遍語>と同じレベルで、美的にだけでなく、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す重荷を負うようになった言葉である」(頁148)

    のみならず、国語は普遍語と同じように機能しながら、母語の持つ特性を最大限活かした固有のものなのだ。社会で国語が流通すればするほど、話し言葉そのものも書き言葉としての規範に変化させていく。このようにして、国語はその起源が忘却され、あたかも自分のうちから自然と出てくるような言葉として認識されるようになる。結果、国語は必然的に自己表出の言葉になる。その国語こそが、近代文学を生んだのだ。

     「日本に近代文学があるのを可能にした条件は日本に<国語>があったことであり、日本に国語があるのを可能にした条件は日本に大学があったことであり、日本に大学があるのを可能にした条件は、まさに日本が西洋列強の植民地になる運命を免れたことにあった。」(頁201)のだ。

     翻訳という行為から生まれた国語。そして国語から生まれた文学がいま、終わりを迎えようとしている。その主たる原因はなにか
    1)科学の進歩
    2)文化商品の多様化
    3)大衆消費社会の実現
    である。
     現在、日本の文学の相対的な地位は、かつてあった高みから限りなく落ちぶれてしまっていることは、書店にいけば多少本を読む人間なら誰でもわかることである。<読まれるべき書物>は読まれず、みんなが読むような本を読む人が増えると資本の論理によって、必然的に低いレベルのものが市場に溢れることになる。自然状態では水は低きに流れるのが世の必定だからだ。そして、インターネットの登場というダメ押しによって英語の世紀は決定的になっている。英語の世紀になるとどういうことになるか、叡智を求める人、つまりエリートや、創作者は日本語を読まなくなり、しかも、英語で発表するようになるということである。そうした人たちが、国語を読まず、国語で発表することがなくなるということは、国語が現地語に成り果てる可能性がでてきたということだ。国民文学が現地語文学に成り果てる可能性がでてきたということだ。そうした日本語を守るためにはどうすればよいか?、著者は学校教育の改革を提言する。日本の国語教育はなによりももず、日本近代文学を読み継がせることに主眼を置くべきだという。規範となった国語を生み出した近代文学を多くの人に読まれることこそ、話し言葉としての日本語も外部の変化に耐えることができるからだ。英語は少数の選ばれた人が優れたバイリンガルになればいいのである。エリートでなくとも、特別な思い入れがあれば、英語を学ぶことは学校以外でいくらでもできる。だからこそ、いまこそ日本語教育こそを徹底させる必要があるのだ。

  • 最近出版される文学本がなんだかつまらない。どうしても近代文学(明治大正昭和時代の)が好みに合ってしまうのは「さてはわたしが古い人間だからしょうがないか」とも思っていたのだが。

     この本、水村美苗著『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』を読んで少し疑問の糸口が見えた気がする。言葉とは奥が深い。

     平安のころ、文章といえば漢文だけが「書き言葉」で、『源氏物語』や日記などが「話し言葉」のやまと言葉をひらがなで書いたものだった。そんなことは習っていたのに忘れていた。

     つまり「書き言葉」は「話し言葉」と分かれていた。

     文明開化で外国語と外国の文化を取り込んだときの「言文一致」は優れていたが、戦後の国語教育ないし方針が「話し言葉=書き言葉」になって今に至っている現状は文学にとって悲惨な結果になったのではないか、というのが水村氏の説。(もう少し専門語でこの本には説明してあるが、だいたいそんなこと)

     現代文学と近代文学は、単に言葉の表現方法だけに違いがあるのではないが、このまったき「言文一致」の弊害の指摘に目からウロコの思いがした。

     それからもう一つこの本を読んでちょっと溜飲が下がった思いがあった。

     作家水村美苗さんは英語が苦手(嫌い)なのだけれども、英語がわからないのではない。12歳から20年アメリカに住んで教育も十分受けた(大学院までいってしまった)、羨ましい人だ。

     この羨ましいという日本人の大部分が感じることが、ことをややこしくしているという。英語教育を長々とやっているのに相変わらず日本人は英語が下手で損をしているという事実。

     だけど英語はいまや世界の「普遍語」になっている。事実化学や科学医学の分野ではもうそうなっている。英語で発信しないと世界に向かっては何も言わないのと同じになってしまう。

     なにも国民みなが英語のバイリンガルにならなくてよろしい(そうしない国もあるが インドとかフィリピン、でも元植民地などの深い理由がある。それもラッキーだったのか?国語のゆくえがどうなるのか?)。英語は易しくない、一部エリートが成し遂げれば十分ではないか。はい、おまかせします。

  • 世界中の作家たちが集められたアイオワの国際創作プログラムに参加した著者の述懐からこの本は始まる。色々な言語で書くこと、色々な環境で書くこと、色々な背景を背負って書くことを考え、そこから現在普遍語となっている英語と日本語についての考察が仔細に語られてゆく。
    日本語はかつて二度、亡びの危機に瀕した。一度目は明治維新において欧米諸国と対等にやっていけるようするため国語は英語にすべきと初代文部大臣森有礼が提案した時、二度目は太平洋戦争の反省のため国語をフランス語にしようと志賀直哉が発言した時。
    それらの危機の時代を乗り越え、今日本語は普遍語としての地位を獲得した英語のため三度亡びの危機にあるという。
    叡智を求める人は、その時代において最も叡智が多く集まる言語に接近する。その証拠に、特に自然科学分野では自分の論文に価値があると思えば思うほど、極東の一地方で話されている日本語ではなく、世界の普遍語である英語で発表を試みようとする。
    そこには1933年、ケインズの『一般理論』にある原理と同様のものを発見しながら、当時力を持っていたフランス語、ドイツ語、英語のどれでもなく、母国のポーランド語で発表してしまったために誰の目にも止まらず、知的所有権を主張する論文すらも無視されたカレツキの悲劇の二の舞になってはいけないとの教訓もある。

    では、日本語が亡びないようにするためには何ができるのかを考えた時、まず必要なのは世界に向けて英語で意味のある発言ができる人材を十分な数揃えることだと提言する。日本語以前に日本国家を守れる人材が必要だとの考えからだ。
    今の「外国人に道を訊かれて英語で答えられる」程度の教育を学生全員に施すのではなく、少数の選ばれた、かつ優れたバイリンガル人材を能力の格差の広まりなど恐れずに養成することが必要だとする。
    そうすることで、「日本の置かれた立場や日本がなした選択を、世界が納得できる形で説明」できるようになり、憂国の念は多少なりとも晴れることになる。
    その上で日本語を亡びの運命から逃れさせるには、バイリンガル人材に許された能力の格差を認めず、「学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべき」だとする。
    そのためには読まれるべき言葉をこれからも読みついでいくことが必須だという。

    文中には福沢諭吉が病気になるまで枕がないことに気付かなかったとのエピソードが紹介される。
    というのも、西洋語とその叡智が日本に入ってきた時、彼はその魅力に取りつかれ、文字通り寝る間も惜しんで書物に向かったため、普段の睡眠は机に突っ伏してか床に直に寝るかで、枕の乗った布団の上で寝ることがなかったからだという。
    それほどに未知の知識は魅力があり、だからこそ今現在、そして未来において未知なる叡智が発表され続けるであろう普遍語の英語は人々の間で比重を増していき、相対的に非英語圏の国語の地位は後退せざるを得ない。
    そこまでを考えていた著者が自身の作品として英語を織り交ぜた『私小説』を書いたのは、バイリンガル形式をとることで英語にだけは絶対に翻訳できなくするためもあったという。
    その目論見により、「日本語が英語と違うこと」どころか、「日本語がほかのすべての世界の言葉とちがうことを、読者に直接訴えたかった」のだとする。
    そう聞いて、漫然と読んでしまったその作品をもう一度読みたくなったし、同時に著者が「読まれるべき言葉」の作品である『三四郎』、本作の大部分でテキストとして使われた『想像の共同体』は読まなければいけないと思わされた。

  • 今まで意識してこなかった「国語」という意味を考えさせられた。
    7章の英語教育については、激しく同意。

    ことばは絶えず変化するもので、たとえばこの著者の視点が平安時代や江戸時代の真っ只中だったら、どういう意見になるのかなと思った。

  • 日本人として生まれ、学校で何年もかけて国語という教科を学んできても、日本語という言語そのものに関して深く考えるという機会を今まで持てていなかったという事に、この本を読んで気づいた。人間が物事を理解したり、自分の気持ちを伝えるという事に、日本語がどの様な役割を持っているのか。世界共通言語に近い英語と対比し、これから日本語はどの様な道を辿っていくのか。明治や大正文学の美しい日本語に触れ、その巧みな表現に、会話と表現における言葉の選択の違いはどこにあるのかに興味があったので、読んでいて凄く勉強になった。これは定期的に読み返すと思う。

  • 演説、賛成、討論・・・等々の言葉は、実はあの福沢諭吉さんが創った言葉だそうだ。

    江戸時代から明治にかけて、福沢さんは日本が植民地になっては大変だと思ってめちゃくちゃに勉強して英語をマスターしていった。当時は辞書など当然無いので、外人が居ると聞けば横浜まで何日もかけて歩いて見に行ったり、偉い人が外国の本を手に入れたと聞いたら借してもらって徹夜で仲間と書き写したり。そこで出てくる問題が「この英語は日本語で何て表現するのか」ということ。そこで新たな言葉の創造が成されてきた。

    危機感も背景にあるが福沢さんの様な人は知識欲がすごく高い「叡智を求める人」であると著者。
    近代文学の代表格として度々紹介される夏目漱石さん。この方も叡智を求める人だったらしい。

    日本という島国地形と江戸時代からのある寺子屋などの教育の仕組み、印刷技術などの背景があって、結構多くの国民が言葉を読めていた。更に先輩に福沢さんなどの叡智を求める人が居ることで言葉が多く創られ、世界が考えていることと同時進行で日本語で考え日本語で書くことが出来てきた時期が明治あたりだそうだ。この頃に近代の「日本文学」が国語と共に成熟していったとか。

    今は昔。現在では英語が人類最初で最後かもしれない世界語となりつつある。そして日本人はややもすると皆英語で話さないとまずいとさえ考えはじめている。深層心理には日本文化と日本語は大丈夫と高をくくっているから。

    ここに著者は警笛を鳴らす。
    いまこそ、読まれるべき言葉としての日本語を大事にすべきだ。つまり、夏目漱石さんなどの日本近代文学と呼ばれるものを大いに読むべきであり教育の場で大いに読ませる機会を持つべきだと。
    英語を否定しているのではない。かつて国語として成長した日本語を滅亡させない為にも、これからの叡智を求める人に一流の日本語を学んでもらい、これからの世界語との橋渡しを期待している。

    既に日本語が崩れてきている。フランス語もかつての世界語の位置から陥落したらしい。
    言葉について執拗なまでに拘ってきた著者の熱意が感じられる本でした。

    そんな視点を持つ著者は日本の街並みについても嘆いています。

    安全基準以外の法律がなく、容積率と建蔽率の最大化を求める市場の流れに身を任せ、てんでばらばらな高さ・形・色の建物郡や空を覆う電線・・・こんな日本文化が大丈夫なはずは無いでしょ、と。

    何れにせよ、言葉に関して「思考を強いられた人」が新たなものを生み出してきた。
    この、空間や街並みに関して如何に思考をめぐらせるべきなのか。

    期限等のプレッシャーの中で、自分の内側からの叡智を求める声を力にする、それこそクリエイティブな所作。そんな視点で建築家の伊東豊雄さんは本書を読まれているのかもしれない、ともう一つの気づきがありました。。

  • インターネットの普及により英語の影響力がかつてなく強まり、いくつもの地域言語が消滅の危機を迎えている中、日本語が生き残れるのかどうか、という問題を延々と述べている本。問題意識はよく分かるけど、文章があまりにも冗長で読みにくかった印象が強い。

  • ここまで真正面から「日本語」への愛着と危機感を顕にした著作を、寡聞にして僕は知らない。
    そしてその愛着と危機感は、著者が日本語と英語のバイリンガルでありつつ、日本語で小説をものすという、これまでの日本の「文学」界においては特殊な事情に起因している。

    筆者の日本語への愛着はとても深い。
    だからこそ、副題にもあるように「英語の世紀の中で」日本語が日本語としてその命脈を保つことができるのかという危機感も切実だ。

    河合隼雄氏や坂口安吾でさえ「日本語や日本文化は亡びない」と信じているのだから、とうぜん僕自身も日本語や日本文化が今後も輝き続けることを信じている。
    しかし、それが極めて楽観的な盲信でしかないことを、著者は非常に丁寧に、そして論理的に解き明かしてくれる。

    日本語を愛し、日本文化を愛する一員として、
    そして国語教育に携わるものとして、
    「言葉」の問題を真摯に考えたい。

    そう思わせてくる本だった。

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著者プロフィール

水村美苗(みずむら・みなえ)
東京生まれ。12歳で渡米。イェール大学卒、仏文専攻。同大学院修了後、帰国。のち、プリンストン大学などで日本近代文学を教える。1990年『續明暗』を刊行し芸術選奨新人賞、95年に『私小説from left to right』で野間文芸新人賞、2002年『本格小説』で読売文学賞、08年『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』で小林秀雄賞、12年『母の遺産―新聞小説』で大佛次郎賞を受賞。

「2022年 『日本語で書くということ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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