- 本 ・本
- / ISBN・EAN: 9784480838056
感想・レビュー・書評
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絵画などの美術鑑賞は好きですか? なかにはフェルメール展があると聞けば、全国どこでも追いかけていく熱烈ファンもいるようです。でも私はまったく凡庸な鑑賞者で、絵をみる眼も能力もありません。それでも楽しく出かけます。作品と対峙していると、ときには静寂なアトリエで画家が動かすささやかな絵筆の音が聞こえてきそうな作品もあって、吐息がもれるほど惚れぼれします。いい本に触れているときのような特別な空間、余韻……。
先日久しぶりにギュスターヴ・モロー展を鑑賞してみると、そんな華やぐ気分にくわえて、フランスの作家マルセル・プルースト(1871~1922)とちょっぴり繋がったような気分になれてとても幸せでした。こういう他愛のない勘違いや妄想が、人生には大事なのです(笑)。
なんといっても、プルーストの『失われた時を求めて』という作品は美術解説本か? と言いたくなるくらい、霊感をうけた実在の画家の作品がたくさん登場します。モネ、ルノワール、ジョット、マネ、フェルメール、カルパッチョ、レンブラント、ラスキン、ギュスターブ・モロー、やれやれきりがないな……。
***目次***
<コンブレーの睡蓮とモネ>
<ジョットの寓意像と天使>
<フェルメールの「黄色い小さな壁面」>
<エル・グレコのオリジナルと図版>
<カルパッチョのなかの恋人と母親>
<ギュスターヴ・モローと芸術家の使命>
プルースト作の優れた翻訳者でもある吉川一義氏が魅惑的なタイトルをほどよくならべています。
たとえばモネの「睡蓮」は有名な作品ですが、なんと48作もあることは知りませんでした。季節、天気、時間によってくるくるとその表情を変えていくみなもの睡蓮の情景を、モネはいたく愛し、生涯にわたって描き続けています。そんなモネの魂に共鳴したプルーストが寄せる想いは、これまたすこぶる愛らしくて、私まで睡蓮を見ているような静寂な心地がしてきます。
「ときには――午後の夕立がやんで、からりと晴れあがった夕方に、私たちが散歩から帰ってくるときなど――私にはそれが、まるで七宝かと見まがうほど。日本風の、派手に目をひくライトブルーになっているのを見かけたことがある……この水面が、そこに咲きみだれる花に提供していたのは、花それ自体の色よりもずっと貴重で感動をそそる地色で、それは、たえず移り変わりつつ、刻一刻のなかに潜むいちばんの秘奥といつも合致して、睡蓮の下が、午後、穏やかな光にきらめくときもあり、どんより曇っているときもあり、バラ色となって夕べの夢想に満たされたときもあり、といった具合で、まるで天空の高みに睡蓮を咲かせたように見えるのだった」
的確で美しい描写、文字でここまで時空間を表現できるのはすごい。これを読んでいるうちに、よく似た審美眼の方がふっと思い浮かびます。
無限の広がり……わずか31音。
「さくら花(ばな)ちるぬる風のなごりには水なきそらに波ぞ立ちける」
紀貫之『古今集』
――桜が風に吹かれて散っていく、その風が尾を引く余波(なごり)となって漂う波打ちぎわに、思いがけず白波(花びら)が立ったではないか、空には水などないのに――
真・善・美というものが人類普遍のものであるとするなら、その表現の方法はいろいろあれども、古今東西にそれらを見出す感性豊かな人々がいても、なんら不思議ではないわけです。ですが……あらためて想いを遊ばせてみると、やっぱりこの世界は不思議なワンダーランドですね。
ギュスターブ・モローの作品をとおしながら、プルーストは芸術を思索し、真善美を追求しつづけます。芸術家の使命と作品、人間(存在)の不可思議、そして真善美と表裏一体の虚・悪・醜を妖艶に綯交ぜながら、なお一層奥行きをましていく長大な人間探索の旅路『失われた時を求めて』。
筆者の吉川さんは、プルーストがとりあげた作品を自ら見てまわり、微に入り細を穿つような調査研究を積み重ねています。プルーストの魂に創造の種をまいた画家たちの芸術作と、彼の心に萌した繊細な心象を見事に絡めながら、楽しく軽快に読み解いていきます。
至高の芸術とは、それが絵画であろうと彫刻であろうと、文学や詩歌であろうと、もはやジャンルの垣根は消えてしまうのかもしれません(^^♪詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
プルースト『失われた時を求めて』に登場する絵画作品についての論考。小説のほうは『スワン家のほうへ』しか読んでいないため、続きを読みたくなった。
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『失われた時を求めて』に登場する絵画について考察した作品。非常に長いかつ難解な小説のため、ある絵画や画家がライトモチーフとして扱われていたり、作品を軸に展開するエピソードに気づきにくい(少なくとも私には)。ネタバレ云々は問題にならないので、小説に挑戦する前に読んでもいいかも。プルーストの、風景を描写する信じられないような比喩の巧みさ、繊細かつ力強さは多くの絵画との出会いを通して培われてきたものであることがありありと伝わってきた。
彼の芸術観、特に「芸術家の思想は、生きている間その人に貸し与えられているのであり、生きている間の伴侶にすぎない。死ぬと、その思想は人類の手に戻り、人類を教え導くのである。」という部分は私にはまだピンと来なかったけれど、いつかわかる日がくるだろうか。。 -
『失われた時を求めて』には画家や絵画が多数頻出し、この本のタイトルのように、まさしく書物にプルーストの作った美術館があるかのごとくである。
『失われた時を求めて』では、ヴェルデュラン家のサロンで、ビッシュと呼ばれていた画家が出世し、エルスチールという名前で再登場し、重要な役割を果たすが、このエルスチールが誰がモデルであるかはわからない。
本書は、『失われた時を求めて』に出てくるモネ、ジョット、フェルメール、エル・グレコ、カルパッチョ、モローなどを深く掘り下げる内容になっており、非常に興味深い。
いくつか、私が印象に残った画家たちの作品をとりあげてみる。
ボッティチェルリが描いたシスティーナ礼拝堂の壁画
<モーセの生涯>のエテロの娘チッポラ(モーセの妻)は、
第一篇「スワン家のほうへ」のなかで、意表を突く形で出現する。
第二部の「スワンの恋」で、スワンはオデットという高級娼婦に出会う。
彼女は美しい女性ではあったが、横顔がとがりすぎ、肌が弱弱しく、顔立ちはやつれすぎていた。目は大きく、それ自身の重さでたわんでおり、スワンは彼女の美貌が自分の好きになれるような種類の美貌でないことを残念に思うのだった。
しかし、彼女と接するうち、オデットが、システィーナ礼拝堂の壁画のチッポラに似ていると思い込み、その考えは、彼女の顔やからだのなかに壁画の一断面があらわれてくるような芸術的視点で愛でるようになり、好みではない女を愛する理由になっていくのだった。
彼は仕事机の上にチッポラの複製を、まるでオデットの写真のように置き、その女を占有したい欲望に打ち震えるスワンは、すっかり恋の盲目者になっている。
たとえば、私たちは、時に、好きなタイプの異性を俳優や歌手に喩えたり、誰それに似てると言ったりする。
しかし、システィーナ礼拝堂に描かれたモーセの妻に似ているとは、あまりに神聖すぎて恐れ入る(笑)
けれど、この場面は、非常に印象的でボッティチェルリのチッポラが、読者にはオデットの容貌と強く重なるのだ。
これと同じような比喩を何度かプルーストは『失われた時を求めて』の中で繰り返し、読者はチッポラと同じようにイメージの喚起を行うことなる。
第一篇「スワン家のほうへ」第一部の「コンブレー」にモネの描いたジヴェルニーの睡蓮池を思わせるような美しい描写がある。
筆者の吉川氏はプルーストがモネの画業に心酔し、モネのヴジョンが『失われた時を求めて』に大きな影響を与えたかを述べ、モネの睡蓮の連作がどのような状況で小説の描写に書き込まれていったかをモネの作品と小説を照らし合わせて検証している。
プルーストは評論集『サント・ブーヴに反論する』のなかで、
---今日なら、同一の主題を何度でも、そのときどきに異なった照明を当てながら扱いたいという想念にとりつかれ、自分が何か底深く、緻密で、力強く、圧倒的、独創的な、強烈きわまるものを作っているのだと考える、そういう文学者を想像してみればいいでしょう。モネの50点にものぼる大聖堂連作や、40点にものぼる睡蓮の連作を考えてみてください---
と述べるプルーストは、吉川氏の指摘どおり、モネのクリエイティブな姿勢に大きな影響を受けているようだ。
モネが、ジヴェルニーの池に睡蓮を育て、太鼓橋をかけ、世紀末に流行したジャポニズムを、プルーストも『失われた時を求めて』の文中に数多く配している。
<デルフトの眺望> フェルメール
もう一枚、『失われた時を求めて』の作中で強いインパクトを残す絵がある。
第五篇「囚われの女」のなかで、ベルゴット(語り手が憧れていた作家でアナトール・フランスをモデルにしているともいわれる)の死が詳細に語られるが、
彼は、フェルメール展を見に行き、<デルフトの眺望>の黄色の小さな壁面を見ながら倒れ死ぬのだ。
この絵に描かれている空でもなく、雲でもなく、水でもなく、人物でもなく、黄色い土の岸でもなく、尖塔でもなく、屋根でもなく、黄色の小さな壁面を見て、ベルゴットは、自分はこのように書くべきだったと呟きながら倒れる。
黄色の小さな壁面とは一体どこなのか?
この絵を改めて見てみたけれど、判然としない。そして、どうして小さな壁面にプルーストは注目したのだろうか。
吉川氏は、この場面をヴォードワイエの展覧会評を下敷きに書かれていると述べている。
亡くなる前年、プルーストが、フェルメール展に同行を頼んだのはほかでもないヴォードワイエである。
黄色の小さな壁面は、ロッテルダム門の横あたりの壁だという説、画面の一番右端に輝いている壁だという説などがあり、絵画と小説は、定まらないが確実に描かれているその小さな壁によって結ばれている。
尚、プルーストの美意識とフェルメール芸術のあり方とが、きわめて深い類縁関係でむすばれているのを感じずにいられないという吉川氏の意見に強く同調する。
本書は、『失われた時を求めて』の読後に読むとたまらなく小説に懐かしさを感じ、プルーストの愛した画家や絵画たちを益々彩りあざやかにしてくれる気がする。
大作を読むというのは、こういうことなのかと改めて思う。
多角的側面から読後も楽しみ学ぶことができるのが、『失われた時を求めて』という芸術と時を閉じ込めて芸術となった大作の恩寵なのだ。
著者プロフィール
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