生まれ変わる心: カウンセリングの現場で起こること

著者 :
  • 筑摩書房
4.80
  • (13)
  • (1)
  • (1)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 54
感想 : 6
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480842626

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ☆5(付箋26枚/P232→割合11.21%)

    「心を知る技術」の続編。前著はカウンセリングとはどのように進むか、クライエントとカウンセリングを扱っていた。「生まれ変わる心」では、カウンセラーとスーパーバイザーの間で起こる考えと感情について扱う。より構造とか心構えについて述べていたように思う。
    自分の感情や人間関係の両面を思うようになる。怒りと期待の裏表とか、情けないと思う気持ちとそこに思いやりがあったこととか。

    ***以下抜き書き**

    ・なぜ担当を分けるかといえば(親子が一緒に相談に来た場合)、「A」⇔「反A」(「B」)という対立関係を少しでも柔らかに進めていくためである。親子の対立は、
    A:母親―早く学校に復帰して、「しっかりして」<いい子に戻って>
    B:息子―行きたくない、「うるせえなー」<悪い子を演じる>
    というふうになりがちである。
    つまり、「A」⇔「反A」(「B」)という対立関係が「A:母親」⇔「反A:息子」という対立関係に固定しがちなのだ。すると、息子はいつまでも「悪い子」を演じ続け、母親はいつまでも「いい子」に戻そうとする。二人の対立は激しさを増し、親子間の「家庭内暴力」が固定する。先に述べたように、解決は「A 」と「反A」の統合であり、それは息子の心の成長として、彼の心の中でこそ行わなければならないのだが、こうして親子の人間関係に固定してしまうとその作業が遅れるのである。
    さて、息子は息子でカウンセラーについて自分の心の統合を目指す。カウンセラーの前で母親の悪口を言えれば、その作業は進んでいくであろう。
    一方、母親はやはりカウンセリングを受けながら息子の成長を理解しなければならない。

    ・治療がうまくいっていないと、カウンセラーは苦しみ悩む。
    引きこもりの子供を助けてあげられないと、母親は苦しみ悩む。
    いつまでも学校に行けないでいると、子どもは苦しみ悩む。
    三つの苦しみは連鎖している。
    苦しみには共通の構造がある。苦しみというのは「ある自 分」を維持しようとして始まることである。自分を壊すまい、と必死に頑張ることが苦しみとなる。

    ・カウンセラーに課せられた問題は“彩花さんがちゃんと食べられるようになって、会社に復帰すること”、“そのためにはどうするか”であるように見える。多くの場合、そう理解して精神科・心療内科の治療や心理カウンセリングが始まる。
    しかし、これは受容という観点からみると明らかに間違いである。
    とうのは彩花さんは本当は「食べられない」のではなく、「食べたくない」のだ。拒食症の気持ちについては後ほど詳しく触れるが、本人は「食べられない」と思っていても、実際は「食べたくない」「食べるべきではない」が正直な気持ちである。その意志に反して食べさせようとするのは「 受容」ではなく、「説得」である。

    ・拒食症の娘さんたちの母親はみんな頑張り屋さんである。必死になって子育てをしてきたり、頑張って仕事と家事を続けてきた。その頑張りを娘さんは一緒に生きてきた。子供は親の生き方を肌身で感じて「学ぶ」のだ。しかし、子供にとってみれば頑張ってきた結果が痩身と拒食症である。もともと頑張り屋さんの母親は休むことを知らないから、頑張って拒食症も克服しようと言う。娘はもう疲れてしまって「もう休みたいよ」と言っている。

    ・カウンセラーの側から見ると、両方の気持ちを受容するとは近づき過ぎず、離れ過ぎずになる。「A」と「反A」の両方の気持ちがわかると、ある意味でカウンセラーは動けなくなる。頑張れとも言えず、もう頑張らなく てもいいとも言えないからだ。その動けなくなった場所が一番よい距離である。そこにカウンセラーはとどまり、ただ一緒にいて、受容する。
    心は全部を受け止めてもらうと軽くなる、楽になる。すると、それまで「死んでしまいたい」と思うほどの重く苦しい悩みであったものが、「辛いけど、まあ、今はいいや」と思えるくらいの悩みに変わるのである。

    ・イマジネーションの基礎は“心の働きは万人に共通である”ということだ。その強弱に違いはあるが、誰でも同じ心の動きを持っている。引きこもりの気持ちも、拒食症の気持ちも、うつ病でも、強迫神経症でも、パニック障害でも、どんな心の病気、悩みであっても、それと同じ気持ちを誰でも、どこかで味わったことがあるはずだ。それが心の 動きは共通であるという意味である。
    深く悩んでいる人とそうでない人との違いは、悩みが深くなると、心のある動きだけが強調されて、それに縛られてしまうことだ。例えば、不安だけが強調されて数カ月続けば、不安神経症という病名がつく。しかし、「不安」そのものは万人共通の感情である。

    ・さまざまな涙があるが、カウンセリングで受容された時に流れる涙は、人を「かわいそうだ」と思った時の涙と同じものである。
    身近な人を「かわいそう」と思って涙を流したことがあるであろう。新聞記事を読んで見知らぬ他人の出来ごとに「かわいそう」と涙を流したことがあるかも知れない。そんな時に私たちは独りぼっちで頑張っている他人の姿に、あるいは一生懸命生きている他人の姿に自分 を重ね合わせて泣く。
    カウンセリングでは、他人にではなく、独りぼっちで生きてきた自分自身に「かわいそうだ」と涙を流す。その涙の意味は共通である。
    クライエントがカウンセラーに自分の辛い気持を語り、分かってもらえた時に、クライエントは辛かった自分を初めて自分の外に見ることができる。

    ・うつ病のピークはもう過ぎている。正確に言うともう「うつ病」ではない。食欲と睡眠の回復がその証拠である。しかし、まだ気持ちは回復していない。あえて今の病名を付ければ「抑うつ状態」、あるいは「抑うつ神経症」である。
    分かりやすく言うと自信を失ってしまって元気が出せない、若い人の「引きこもり」と似た状態である。だから抗うつ剤を処方してもこれ以上はあまり効かな いだろう。そう私が説明すると、彼はがっかりというより、逆にひどく納得した表情を見せた。

    ・彼は小さいころを思い出した。東北の寂しい農村で育った。引っ込み思案で読書が好きな利発な子であった。父親は厳しく、自分勝手なところがある人だった。小学五年生のある日、彼は約束を守らないと父親に叩かれた。彼の言い分を父親は聞いてくれなかった。悔しくて屋根裏部屋に閉じこもった。夜中に自分の使っている小さな座り机を(小学生の彼には重かった)引きずるようにしてそこに持ち込んだ。
    「一人で机を上げました。今思えばそこですぐ勉強するわけじゃないのですが、自分にとっては大切なものだったのですね…しばらくの間、夜になるとそこに閉じこもっていました…」と言って後藤 さんはうつむいた。声が出なかった。目には微かに涙を浮かべていた。
    あの時からずっと今まで、「もうだめだ、疲れたよ」と誰にも言えなかった。頑張りきれなくなって初めて、彼は長い間我慢してきた自分の気持ちに気づく。その自分を「かわいそうだ」と思えて涙を流す。自分で自分を受容して泣く涙である。
    その彼の頑張りが、今の彼の幸せな家庭と人生を築き上げてきたのだ。しかし、腰痛をきっかけに頑張りがきかなくなってしまった。そして今、会社を休んでいる。小さいころから続けてきた彼の生き方を初めて振り返る。

    ・自覚がないと周りがいくら騒いでもうまくいかない。というのは周りが心配すればするほど本人は、心配されているという安心感をもってしまって事態の深刻さに向 かい合おうとしないからだ。彼ら、彼女らは周りの人たち(家族であることがほとんどだが)に甘えていつまでもギャンブルを続けたり、お酒を飲み続けたりする心の傾向を持っているからだ。それは人に対する依存であるが、精神的依存という病態と密接につながっている。
    本人に自覚を促す方法は、例えば、こうである。決してお金を貸さない、本人の生活に口出ししない、心配は伝えるが手は出さない、責めない、非難しない、そして、関心を示しながらも少し離れて静かに見守る、という態度をとることである。

    ・暴力に耐えなければならない理由も自分で見つけてきた。例えば、自分が妻としてもっとしっかりできれば、夫も穏やかになるかも知れない。子供がもう少し大きくなれば夫も優しくな るだろう。あるいは、夫の仕事がもう少し落ち着いてくれば暴力もおさまるだろう。二人目が生まれれば家も賑やかになるから…などである。そう自分に言い聞かせ、自分を抑えて生きてきたことこそが辛かったはずである。そこで急に「ご主人は病気だから治しましょう」と言われても、どう答えていいかわからない。
    一方、カウンセラーは先を急いでいる。彼らは大変な問題を知ってしまって何とかしてやりたい、助けたいと思っている。何もしないでは自分たちが落ち着かないからでもある。カウンセラーが焦っては見えなくなるものがある。それが田上さんが長い間暴力を我慢してきた大切な気持ちである。
    …暴力や虐待からクライエントを救い出す時に、いつも頭に留めておく必要がある。耐えてき たクライエントの気持ちを受容することである。

    ・カウンセリングがうまくなっていくための方法をまとめる。
    ①まず、受容できている心地よさを何度も繰り返し体験する。
    自分の「得意分野」で「相性のいい」クライエントと、落ち着いた静かなカウンセリングを続ける。クライエントが変わっていくその時の手ごたえ、感謝された時の満足感が大切である。
    ②受容ができている感覚を十分に味わえると、初めて受容できなくなっている不全感に気づくようになる。そこが受容限界点、受容範囲の境界である。
    ③どこで受容できなくなったかを振り返る。
    「拒絶」という怒りの感情はどこで生じたか。「応援」しようという焦りはどこで感じたか。

    ・見えてくるとは、自分が悩みから離れ 始めていることである。悩みと自分が分離して両方が客観的に見えてくる。受け容れるとは、離れることである。

    ・その日のカウンセリングでは渡辺さんは二週間の出来事をうつむいたまま、断片的に語った。ただ、事実だけを語り、彼自身のコメントはなかった。気持ちはもう語りつくした。だからもう言い訳も、強がりも、弁解も、弱音も、説明もない。感情を押し殺した語り口であった。
    沈黙の中で私が言葉を発する。
    「(カウンセリング終了の)時間になっちゃいましたね…」
    「ええ…」
    「…。また来てください」
    彼ははっきりとうなずいた。
    …何の解決もないのに、どうしてクライエントはカウンセリングに通い続けるのであろうか?
    何を言ってもカウンセラーは答えてくれない (答えられない)。自分ももう言うこともない(言い尽した)。それが分かっているのに通い続けるのは、気持が受容されているからである。分かってもらえている、という感覚だけが残っている。何も解決がなく、何も変わらないことを分かってもらえている。誰の責任でもなく。誰が悪いのでもなく。ただこうなっていて辛い。その気持ちを共有している、そういう純粋な受容だけが残っているカウンセリングである。
    …それから一ヶ月後、渡辺さんは「試しに」と言って勤務に復帰した。もちろん会社に戻れば、以前の緊張や恐怖感がよみがえったり、気が重くなることも何度もあった。その時は再びうまくやれない自分を責めた。しかし、それはもう何度もやり尽くしたことなので自責の念は「長くても数 分くらいで」過ぎ去っていった。

    ・「お母さん、容子さんが分かって欲しいというのは、多分ね、僕の想像ですけどね、今、自分が言っていることを聞いて欲しいということではなくて、彼女が小さいころからお母さんのことをどれほど思ってきたかを分かって欲しいんですよ。例えばね、容子さんが小さいころにね、お母さんの顔色を見ながら『こうしてあげたらいいんじゃないか』と思っていろいろしてきたことがあったと思うんですけど、それを分かって欲しいんですよ。…
    お母さん、あなたも多分、子育ては大変だったんでしょう。まだ何も聞いていないけれど、容子さんが小さいころにあなたにも多分必死に頑張っていたところがあったでしょう。子供というのはその必死さを敏感に感じて何とか 助けようとするんですよ」

    ・絶対矛盾のただ中ではどちらも選べないのであるから、決められない。待つしかない。だから、待てる時はいつまでも豊かに待てばよい。
    しかし、一方で待てない時もある。日常生活のあちこちでは常に何かを決めなければならない小さな期限、大きな期限が迫ってくる。そんな時はどうしたらいいのであろうか?…
    ぐるぐる回る苦しみを味わっている中に見えてくるもの、それは今は悩むしかない、ということだけである。こんな時期に未来を決めるための基本方針はこうである。
    期限がぎりぎりになるまでは、何も決められないでただ時間を過ごしている。もし、期限がきてしまったらその場でどちらかを選ぶ。どちらも選べないということは、どちらを選んでもいい ということと同じである。

    ・絶対矛盾の中から動き出すものがある。動かなくなったものはまた動き出す。気持ちはひとところにとどまらない。どんな辛い気持ちでも受容すれば、動き出す。怒りは否定しなければおさまっていく。恐怖心は見つめていれば小さくなる。悲しみはそれを感じていれば澄んでくる。
    あらゆるものは止まらない。

    ・彼は会社の帰りにその不安発作を起こす。発作を起こした日は決まって会社で気になる出来事があり、不全感が残ったまま帰路についた時であった。そう気づいたのは、カウンセリングを受けてしばらくたってからである。

    ・いつしかクライエントもカウンセラーも不安発作のことは忘れてしまって、起こったのか、起こらなくなったのかは話題にならな い。カルテの最初のページを読み直してみて初めて、そういえばこの人はパニック障害で通い始めたんだったな、と思い出す。
    そのころ何を話しているかといえば、クライエントがもっている「人に対する恐怖心」についてである。長い間いだいてきた「人生の不安」に向かい合う作業がさらに進んでいるのだ。

    ・「娘を何とかしなくてはならない。育て方が悪かった。自分の責任だ」。そう思って母親は娘の治療に必死だった。その必死さは実は、治療だけではなく、母親の生き方そのもので、もう30年近く続いていた必死さだった。でも、必死なのは母親だけではなかった。子供の方も実は「何とかしよう」と思って必死だった。お互いに「何とかしよう」と思って一緒に生きてきたのである。

    ・絶 対矛盾の源をたどっていくと、人生の初期のころに出会った恐怖にぶつかる。多くは親子関係に生まれた恐怖である。

    ・「その二つの母親の気持ちが、最初に提案された二つのアドバイスに反映されています。つまり何とか息子さんとの会話を取り戻そうというのと、甘えさせないでもっと厳しくしたらいいという二種類のアドバイスです。どちらかをアドバイスしようとした瞬間にもう一方は切り捨てられますから、受容ができなくなりますね。アドバイスというのは具体的な方針を示す事ですから、当然一つを選ぶことになります。アドバイスと悩みの受容というのは裏表なんですね」

    ・忘れていればそれでいいのだ。今さらどうと言うこともない。でも、悔しさがどこかにひっかかっていて思い出し てしまう。

    ・「先生、僕はやっぱり父親が怖いんですね…」急に声を詰まらせた。
    「自分のことを言ったりすると、逆襲されて潰されそうだったんです。ひどくやられて何も言えなくなったことが何度もありました。だから黙ってきました。その方がいいんです。僕は自分を主張しないほうがいいんです。そうして生きてきたんです…」と言って言葉が出なくなった。手が震えていた。
    「何で…」と彼は押しこそした声で泣いた。こぶしを握りしめていた。

    ・絶望の中で悩みがふっ切れると、絶対矛盾が崩壊する。その時は実は「生きる=A」を止めた時である。生きようとしていない。ただ「存在」している。「A」を選んだ人生は死んだのだ。静止の中で人が変わる時、私たちは「精神的な死」を体 験する。
    だから、人が変わるとは一度死んで、生まれ変わることでもある。

    ・人は孤独であるのか。
    人は孤独かも知れないが、そうでないかも知れない。これはどちらとも決められない。
    決めると何かを失うような気もする。
    もし孤独でないとすれば、もう一度人を求めて一生懸命に生きなくてはいけないような気がする。もし、孤独なのであれば今までの心の旅は無駄であったような気もする。
    孤独とは人と途切れた「死」の要素を含んでいる。
    同時に、孤独とは何ものにも縛られていない自由な「生」の豊かさを持っている。

  • カウンセリングの現場で、行われる「受容」について書かれていました。
    生き辛さを感じた時のヒントになりそうです。

  • とても面白かった。例えば、拒食症で食べることに抵抗があること、学校にいかないことなどに対して、食べなさい・行きなさいということを言えばクライエントにとってカウンセラーは「敵」となってしまうし当に本人とっても行き詰っていることであるために言えず、逆に、食べなくてもいい・行かなくていいと言えば本人の身体のの生命や社会的な生命を破壊することからそれもいいよとも言えない。この絶対的な矛盾にたいしてのカウンセラーの「沈黙」という回答は、どちらも選べない状況のなかにあって、カウンセラーとクライエントがおかれた状況に対して完璧な答えとなりうるというのは面白いと思った。カウンセリングの沈黙のなかに、沈黙にこそできうる交流のすすみと理解と受容があって、「沈黙」について実に興味深い考察をしている本だと思った。

  • 受容に始まり受容に終わる。難しいけどすごく勉強になった。図書館本なので返す前に二回読み返した。

  • 何かに悩んでいる時に、手にとって読んでみるのが一番いいと思う。悩んでいる時の心の動きがよくわかる。臨床心理を学んでられる方々にもいいと思います。

  • 肉体は限られた成長と変化を繰り返し、精神は永遠に成長を続ける…全ての悩みが”生”と”死”と”存在すること”に集約していくものなんだなぁと思いました。

全6件中 1 - 6件を表示

高橋和巳の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×