脳はなぜ「心」を作ったのか: 「私」の謎を解く受動意識仮説

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (235ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480842657

作品紹介・あらすじ

意識とは何か。意識はなぜあるのか。死んだら「心」はどうなるのか。動物は心を持つのか。ロボットの心を作ることはできるのか…「心とは何か」という疑問の答えに挑んだ野心的な書。

感想・レビュー・書評

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  • なぜ私たちに意識があるかの回答として、「エピソード記憶を強化するためにある」というのは個人的に新鮮で興味を持った。膨大な記憶を可能とするエピソード記憶が人間の特殊性の一旦を担っているというのはいかにもそれらしい話だし、逆に言えばエピソード記憶が見られない動物に関しては意識の程度も低いというのもとりあえずは納得ができる。

    惜しいと思うのは、本書の後半あたりである。
    この辺りは前半を受けての随筆なのだが、全体的に議論が浅い。また、人間の意識というものに神秘性がないことを大げさに表現しすぎている。
    特に「特別性がないがゆえに死ぬことを恐れる必要はどこにもない」といったような記述は噴飯ものといってもよいレベルで、小説の中のキャラクターに言わせるにせよやや陳腐な感じがあるのは否めない。また、このような科学の成果を持って宗教の役割がなくなる、というのも宗教というものを矮小化しすぎているのだが、このあたりをまともに突っ込み始めると終わらないのでここでは控えておこう。

    本書で参考になるとしたら前半部分と、あとはメカニズムをわかりやすい言葉で解説してくれている補稿だけであり、著者の思想が垂れ流されている後半を読むときには十分な注意が必要だ。もっとも、意識の受動性を強調している前半部分も、この本の出版年度(2003)を考えればそこまで突飛な考えでもない気もするのだが、一般向けに書いたというところが評価されているのだろうか。

  • ロボット工学の研究者が至った「人間の心の真理」について書かれた本。

    ・自分とは、外部環境と連続している存在 →わかる
    ・「意識」は主体的な存在ではなく、脳の中で無意識に行われた自律分散演算の結果を、受動的に受け入れている存在 →わかる
    ・その「意識」はエピソード記憶のためにある →わかる
    ・さらにその「意識」の中にある〈私〉の正体は無個性なクオリアの錯覚 →わかる

    ・〈私〉は脳の錯覚現象。こんなの地球上に星の数ほどもあるから自分の一つがなくなってもなんでもないし、死んでも大丈夫。死は怖くない。 →わからない…

    私にとって、死ぬのが怖いというのは、苦しむのが怖いというのと同義なので、これを読んで死ぬのが怖くなくなるかというと全くそんなことはない。ちょっと飛躍している気がする。
    でも、受動意識仮説は興味深かったし、文系の人間でもわかるように書かれていておもしろかった。自己に対する新しい視点を持つことができ有益だったと思う。

  • さぁー来た来た来た、・・・やばいぞ!

    ひとに薦められ、タイトルに惹かれて開いてみたこの本、「脳はなぜ「心」を作ったのか」のプロローグを読んで真っ先に思ったのはそのことでした。
    正確にはプロローグだけじゃなくて、何だろうこの人、と思って開いた奥付のプロフィール欄。慶応大学の教授で、ロボット工学者である。

    ロボットの先生が脳と心について考えている! やばいぞ! というわけです。

    プロローグには、「私は、生物の脳が、なぜ、なんのために心を造ったのか、そして、心はどんなふうに運営されているのか、という心の原理を理解した」と思い切り書いてあります。

    いったいこの人は天才か。ユーモアリストか。はたまたパンドラの匣を無理に開こうとするマッドサイエンティスト(エンジニア)か・・・その話題のゆくえに興味惹かれるとともに、「ロボットに心は可能か」なんていう恐るべきテーマにどのような解を与えるつもりなのか、とにかく急かされるような気持ちで読みました。

    *
    ネタバレってこともあるので、その答えはここでは書きませんが、なるほど、以前書いた「ロボットは心を持つのか?」(PLUTOの項)という疑念には、一定の解答を与えてくれました。でももうひとつの「理解不能な恐ろしいものに違いない」という思い込みを解いてくれるものではありませんでした。

    そういう意味では、この人マッド・サイエンティスト(エンジニア)までは言わないまでも、いささか楽天的過ぎるのではなかろーか? やっぱやばいぞ。というのが読後の率直なところです。

  • 心や自我の謎に工学の面から迫るという、斬新なアプローチ。そして、恐らくそれが最も近道であろう。 この本で述べられている仮説は、私の感じていた心のありように非常に近くて、とても腑に落ちるものだった。 この仮説が正しいかどうかは今後の検証を待たねばならないが、今のところ私にとってはこれが真実の最有力候補だ。 以下、内容のまとめ。[more] 今までの「まず心ありき」のアプローチでは全く思いつくことのできないであろう仮説にも、生物が進化の過程で脳を獲得しそれが発達した、という「まず体ありき」で考えれば意外と容易く到達できる。 その仮説とは「自我というものは錯覚である。もしくは自我は単なる観客である。」というもの。 主観的には「私」が考えて、決定し、行動を起こしているように感じているはず。 しかし脳の活性を調べると、まず行動が起こり、その後で「考えて決定した」と認識しているのだ。 「私」は起こった結果を認識した後で、「私がこの結果を起こしたのだ」と錯覚、もしくは思い込んでいるに過ぎない。 そんな「私」は何のために生み出されたのか? 筆者は「経験した出来事をエピソードとして記憶するために、主人公が必要だったから」と推測している。 主人公の一人称としてストーリーを構成することで、一本の時系列と、生き生きとした情景描写(クオリア)を記憶にとどめることができるようになった。 この能力により、人類は時間軸に沿って過去を想起したり、未来を予測することができるようになった。

  • 感情を訴える心というものは、体の中のどこにあるのだろうか?
    実は、感情をつかさどる部分、思考する部分がニューラルネットワークという組織で、そのニューラルネットワークを無意識の小人達に例えているのが面白い。
    小人達の仕事は、情の情報処理、外部の状態の知覚、記憶の連想などである。
    記憶の中の、エピソード記憶の大切さもわかった。

  • ロボット工学の人による意識に関する本。受動意識仮説という自説について展開しているが、ものすごく分かりやすいのはちょっと感動するぐらい。<私>というのは、単なる意識のみならず、エピソード記憶を含めたモデルだというのが中心。著者はAIの人なので、こういう捉え方で、今後のロボット開発などに実装してゆくのだろう。内容的にはLibetの説と特に変わったところはない。我々の認知は錯覚にすぎず、「赤いリンゴ」が見えてるのではなく、「赤い」と「リンゴ」を脳が勝手に合成しているだけ。バインディング問題なんか不要。自由意思も実は単なる後付けの理屈にすぎず、よく言われるように「悲しいから泣くんじゃない、泣くから悲しいのだ」という機械論的な立場をとっている。クオリアの問題も、実はクオリアを感じる私、という機能があるだけで、そこに特別なものを想定する必要はないという。川人先生の、「脳内では多数の並列的な処理がされているが、意識に上る時点では簡単な直列処理として認識される」という(おそらく正しい)説をベースに開発を続けているようで、これは「心を持っているように見える」ロボットを作るためには正しいアプローチなんだろう。でも、実際は「川下にいる<私>」として、認知を統合し、感情という形でエピソード記憶を強める何者かが必要になってくる。意識を説明する、という点では昔のホムンクルス問題から一歩も進んではいない。

  • クオリアとは、五感から得た情報と、心の内部から湧き出てきた情報を、ありありと感じる質感。

    膨大な脳神経の活動の中から特徴的なものに注目して、それを個人としての体験に変換したものが意識であると、著者は言う。意識はエピソード記憶をするために生じたもので、それによって高度な認知活動ができるようになった。意味記憶よりも後に獲得されたものである。

    すべての脊椎動物は、中枢神経系を持ち、大脳新皮質もあるので、知情意、学習と記憶を行っていると思われる。哺乳類のほか、鳥類も、いつ何が起こったかを記憶しているので、意識を持っていると言える。

    行動には3つの方法がある。1つ目は、フィードバックに基づく、脊髄反射のような場当たり的な行動。2つ目は、フィードバック誤差学習による逆モデルで表される試行錯誤的な行動。3つ目は、頭の中で行動のシミュレーションをする順モデルを用いたイメージトレーニングとして表される行動。

  • プロローグを読んでいる限りはかなり大風呂敷を広げて断言してしまっているように思う。大丈夫なのか?
    もしかしてトンデモに手を出してしまってはいないか?
    読み進めていくと決してトンデモではなく意識と身体、さらに自意識のシステムが語られる。ニューラルネットワークをあたかもそれ自体が人格や意思を持つごとく小人たちと名付けてみたりとアイデンティティーを揺さぶるような扇情的な記述が並ぶが「利己的な遺伝子」やダーウィン、フロイトなどの一種パラダイムシフトにはなっておらず、ミスリーディングに思えてしまう疑義が生まれてしまった。
    実際の最終章である第4章が、それまでのクール、もっと言うと冷淡な挙述から一転し、やたら熱くなる。結局これがやりたかったのだとわかる。宗教をこちらがびびるほど否定、人権意識を拡大し、アジテートしてくる。その論調が少しかわいいのだ。

  • 「私」は、すべてを知って制御しているのではない。「私」は受動的に無意識の選択を受け入れているので、自分が主動的に決定しているというのは錯覚である。という主張だ。

  • 受動意識仮説は今までになく新鮮に感じた。
    自分の意識は単なる客観的な観察者なのか。興味は尽きない。
    次は中田力先生の本を読もう。

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著者プロフィール

慶應義塾大学SDM研究科教授・ウェルビーイングリサーチセンター長、一般社団法人ウェルビーイングデザイン代表理事。1962年山口県生まれ東京工業大学理工学研究科機械工学専攻修士課程修了、キヤノン入社。カリフォルニア大学バークレー校Visiting Industrial Fellow、慶應義塾大学理工学部専任講師、同助教授、同教授を経て2008年より現職。『幸せのメカニズム―実践・幸福学入門』(講談社現代新書)、『幸せな職場の経営学』(小学館)、『ウェルビーイング』(前野マドカ氏との共著・日経文庫)など書著多数。

「2023年 『実践!ウェルビーイング診断』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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