錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった

著者 :
  • 筑摩書房
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本棚登録 : 84
レビュー : 11
  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480842756

作品紹介・あらすじ

「意識のクオリア」も五感も、すべては錯覚だった。「心は脳が作り上げた幻想である」ことを述べた著者が、自己意識や五感が錯覚であることに的を絞って説明。

感想・レビュー・書評

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  • うーん、あまり理解がおいつかなかった。脳の機能的な本かと思い読んだが、最後の方では瞑想やら悟りといった話しになっており、すべてはイリュージョンとのこと。
    もう少し、脳のところを分かりやすく説明して欲しいか。

  • 1890円購入2011-01-25

  • 受動意識仮説の著者の次の著作。全てはillusion。脳が作り上げた幻想。五蘊、色受想行識、五蘊非我。意識(我)というものは無い。諸法無我。たまたまこの世に生を受けた見っけ物の命ならそれをそれを大切にしていこう。

  • 五感とそのクオリアが、すべてイリュージョンである。具体的で納得できる。前著とともに、人間とは何かを、次に考えたくなる。後半、著者の哲学もどきを書くのだが、単純すぎないか?との感じを持つ。

  • ”受動意識仮説”を提唱するロボット工学者、慶応大学教授、前野先生の著作。"受動意識仮説”は他の著作
    脳の中の私はなぜみつからないのか?で読んでいたのであまり目新しい内容はありませんでしたが、そこにはなかった”五感というイリュージョン”という章は印象的でした。五感というのは脳が作り出しているイリュージョンである、として、具体例として著者は”会話相手の話し声が相手の口元から聞こえる”という事実にある日気がついて愕然としたそうです。単に空気の振動を受けているだけなのに、脳が相手の口元に音声のクオリアを生じさせている。確かに考えてみると不思議な現象です。また視覚に関しても、本来目が電磁波を受けているだけなのに、脳は様々な目前の物体のクオリアが、あたかもそれぞれの場所でその色と陰影を持っているかのように、鮮やかに作り出されている。確かにこれも不思議です。

    音声に関しては私は本書を読むまで気がつきませんでしたが、視覚に関しては私も以前から不思議なもんだなと思っていました。視覚の元は目の網膜という平面的なものが電磁波を受けているだけである。つまり、遠くの建物も、目の前のパソコンも、同じく電磁波が網膜に届いている現象です。それに対して人間は両眼視差などの情報を元に距離を計算し距離感というものを生み出し、あたかも三次元の世界が存在するかのごとく脳内に世界像を生み出している。そしていかにも奥行きがあるかのようなクオリアを生み出している。不思議です。これは著者の言うように、脳内のイリュージョンなのでしょう。

    著者は第三章、”主観体験というイリュージョン”で、主観に関して以下のような悟りに達しています。

    P.224 意識は自然の自立分散的活動のモニターにすぎない。たまたま、一つの個体に一つの我があるように感じられるに過ぎないのだ。のっぺらぼうの自然の一部が、どういうわけか、ただ一瞬、「我」になったという奇跡を堪能し、堪能した後は、また、のっぺらぼうの自然に戻るだけだ。それでいいではないか。

    確かに、私という主観、これも様々な情報が脳のクオリアを生み出す能力により生み出されたイリュージョンなのかもしれません。脳はただの情報を実際に存在するがごとくクオリアを生み出す能力がある。この能力により生み出されたイリュージョンが”私”なのかもしれません。著者の主張は、アドヴァイタのグルたちが繰り返し主張する”私は存在しない”ということに通じる気がします。

  • (途中)
    本書の文脈にならって最初に立場の表明をしたい。
    僕は心的一元論者だと思う。

    この本は物的一元論の本だが、
    心的一元論で世界を解釈する事と、
    物的一元論で世界を解釈する事は等価だと思う。
    つまり、心的一元論は自分という"人"の立場で、
    世界を解釈しようとし、
    物的一元論は絶対的客観という"神"の立場で、
    世界を解釈しようとするものだと僕は解釈する。
    この二つは矛盾しないと考える。

    チャーマーズの心身二元論には僕も違和感を感じる。
    世界観を客観性に立脚しながら、
    主観的問題がハードプロブレムだという。
    客観的なモノ的世界に立脚するなら、
    主観的問題も客観で出来ていると考えるのが、
    スマートだと思う。
    逆に主観的なコト的世界に立脚するなら、
    客観的事象は全て主観で出来ていると考えるのが、
    スマートでこれが心的一元論だ。
    僕は人間は神ではないから、
    客観的なモノ的世界解釈を全て知る事は出来ないと思う。
    だから客観的に解釈する事は可能だが、
    それには限界がある。それはすでに科学が解明している。
    不完全性定理であり、カオス理論であり、
    不確定性原理であり、論理立証主義の結論である。




    科学は客観的事実のみで論理組み立てを行うが、
    人間は本質的に客観であることは不可能だ。
    人間は主観でしか生きられず、
    自分という"主"に対して"客"を想定することで、
    客観というものが成り立つ。
    これは主観という世界を"客"として、
    世界の外から観測する存在があるという絶対神的信仰だ。
    我々は主観を寄せ集めることで神の目を得ようとする。
    それがキリスト教世界を土台に成立した今の科学だと考える。
    しかし、ここ100年でそれが不可能なことが明らかになった。

    誰が見ても同じと確認出来る事象のみを事実とすることで、
    科学はその確からしさを担保しようとした。
    それは、クオリアを排除することに他ならない。
    なぜなら主観から個人のクオリアを抜き互いに持ち寄る事で、
    客観性という神の視点を目指したからだ。
    その前提を見ようとせずクオリアは科学では解明出来ない、
    意識というハードプロブレムだ、など大きな勘違い。
    初めに含めないで考えようとした決めたモノを後から、
    説明できない謎として持ち出すのだからナンセンス極まる。

  • 意識は脳の働き(生存への合目的的に)で世界を秩序だって整理し
    意識を作る(あるように錯覚させる)

    最終的には釈迦との共通性に帰着。
    また、著者としては確かに(やっぱり)無価値だが、もともと無いものが、あると感じられることを楽しもうというのが提言。

    だいぶ違うけど、雲の流れに図形を投影してさらには、変化に物語を作るイメージを思い出した。人間意識と世界の関係とは、事物の流れ/動きに都合のよい意味を付けた。
    それが相変化を起こして意識となった。(といってもよい?)
    →相変化というなら、新しい価値・意味を探したくなる。しかし、この相変化について、宇宙レベルでは、ただのカオス/しいて言って散逸構造?、に対して、なにか違いを言えるかもしれないが(システム論的な枠組みの中?)。しかし、”自分”という視点・枠組みではやはり意味や価値を見つけることはできないだろう

    あらてめて、意識は錯覚(あたかもそこにあるように見えるだけ。逃げ水みたいなもの)という主張。納得感が高い。

    また、心身2元論等との関係を最初に整理しているのが分かりやすかった。
    結論:直観、信念なので、分からないことは分からない。心身一元論をぜ亭としたときの理路を示す。

    そのうえで、五感の研究を引き合いに出して、錯覚と考えられる根拠を提示(納得感が高い)

    感覚遮断機の例で、内観?による意識についても説明
    →夢なんじゃないの?という結論。なんとなくは分かるが、納得感は薄いと感じた。

  • 現実が、感じる事の全てが、そして宇宙が、クオリアというイリュージョンであるのなら、考え方によっては、生きるのが非常に楽になるだろう。
    辛い事も、苦しい事も、脳が錯覚しているだけで、小びとさん達の仕業なのであれば楽しいではないか。
    また、エピソード記憶とクオリアの関係も面白い。

  • 【脳はなぜ「心」を作ったのか】の著者が送る第二作目。一冊目の内容を包括しており、この本だけでも前作の大まかな流れは理解できる。
    コネクショニストによる大胆な発想の展開(全ては錯覚である理論)が、とても興味深く、面白い。

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著者プロフィール

慶應義塾大学大学院教授

「2020年 『7日間で「幸せになる」授業』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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