純粋理性批判 (上) (単行本)

  • 筑摩書房
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  • / ISBN・EAN: 9784480847416

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  • デカルト観念論(合理論)、ヒューム-ロック経験論、ライプニッツ論理学などをアクロバティックに統合し、新たな形而上学を打ち立てるべく、それまでの研究を批判的に乗り越えようとした、哲学史において極めて重要な著作である。書名にある「批判」の精神は、観想的演繹から批評的知性へと観点を転換した意味でもラディカルな意義がある。その後の哲学においても影響は大きく、ハイデガーへ影響を与えた図式論の時間規定・現(実)存在、ヘーゲルに関わる弁証論・アンチノミー、フーコーの経験的=先験的二重体、フッサールに直に接続する現象学など、この書物が不可避の前提知識となっている。本書が難解かつ長大であるのは、この批判に対する批判を前提としているためである。言わんとしていることは意外にもシンプルで、あえて暴力的に単純化すれば、「現象を図式的に観念化する感性的経験なしに知性的概念は成立しないが、理性はそれを度外視して判断し、経験に対し超越的な魂、宇宙、神などの概念の原理を構成しようとする。その思弁的な誤謬性をわきまえた上で、体系統一に有用な理性を実践的に使用する必要がある。それが世界の最高善を目的とする道徳だ。」ということである。合理-経験の二項対立を越えた解を論理的に導き出す手続きはさながら脱構築で、「批判」にはポストモダン的なおもしろさもあるといえる。
    ちなみに本論に出てくる以下の注が、今なお効いてくる爽快な言い回しなので全文引用しておく。
    "判断力の欠如はもともと馬鹿と呼ばれるものであり、このような欠陥はまったく解消のしようがない。頭の鈍さあるいは頭の狭さは、知性のしかるべき程度と知性固有の概念を欠いていることにほかならず、習得によって立派に磨きをかけることができる。それどころか、博識にまでいたることができる。しかし、その場合でも概して判断力という才能(ペテロの第二書簡)が欠けているのが常である。そのため、非常に学識のある人々でも、彼らの学問を実際に使用する段で、あの改善しようのない欠陥をしばしば露呈することがあるが、それはなんら不思議ではない。"(『純粋理性批判(上)』筑摩書房p221)
    ・第一版序文
    純粋理性批判とは、経験によらない純粋な理性による独断論を防ぐため、理性能力の限界を定める批判。そのために知性(=旧訳悟性)の規則と限界を画定する純粋知性概念の演繹が最も重要である。
    ・第二版序文
    論理学は客体を捨象することによって、形式的規則を証明することが可能となった。知性(=旧訳の悟性)の形式。
    数学・物理学は概念に直観が使える(理性による原理を、図形あるいは自然に対して実験証明できる)が、形而上学は概念のみで経験的直観によらないため、未だ手探りの段階にある。そこで、認識が対象に従わなければならないのではなく、対象が認識に従わなければならないと想定する。コペルニクス的転回。つまり、対象あるいはその経験が、概念に従う。その結果、理性認識は現象に及ぶだけだということになる。自然法則と自由の矛盾を解消するために感性と知性に分け、同時に両者が成り立つと解する。道徳は自由を前提にしなければ不可能である。また、神、自由、魂の不死は、理性の暴走を止めなければ想定できない。ソクラテス的に理性の無知を明らかにする。
    思弁的理性はどれ一つとっても全てのためにある器官である。第二版はとりわけ時間の概念、純粋知性概念の演繹の改訂を行った。論争に応じるには時間がなく、自然・道徳の形而上学を書き上げなければならない。
    ・序言
    経験から独立した認識をアプリオリな認識、それに対置されるのは経験を通してなされるアポステリオリな認識。アプリオリ=必然性・普遍性。経験的なものは、数学のようにある原則に基づいている。そうでなければその都度偶然であり、確実性などないからである。
    述語が主語に含まれる判断を分析的=解明、述語が主語の外にあるが結合する判断を総合的=拡張という。経験判断はすべて総合的である。
    数学的判断はすべて総合的である。自然科学はアプリオリな総合判断を含んでいる。形而上学はアプリオリな総合判断を含んでいなければならない。
    対象を認識する仕方についてのアプリオリな認識を超越論的と呼ぶ。全認識の体系は超越論的哲学ということになるが、純粋理性批判はその形成に関わる構想である。超越論的哲学は、純粋な思弁的理性についての学であるので、経験的概念を持ち込む実践的な道徳原則や根本概念は含まれない。
    ・超越論的感性論
    対象に触発され観念を得る(感覚)能力=感性によって経験的直観が与えられ、現象として対象が与えられる。知性によって概念が生じる。現象において、感覚に対応するアポステリオリなものを質料、多様を関係づけるアプリオリなものを形式と呼ぶ。感覚を除いたものを純粋と呼ぶ。形式における直観を純粋直観と呼ぶ。
    1空間について
    外的感覚は空間、内的感覚は時間、それぞれの形式において直観可能となる。"外的現象としてのすべての物は空間の中で並びあっている"。空間は、現象による経験的実在性もあり、考察による超越論的観念性もある。対象は空間内の現象における感性の観念であり、物それ自体は経験されることはない。
    2時間について
    現象から時間を取り去ることはできない。変化や運動は継起的にのみ見られうる。時間は物には付着せず主観的で、内的感覚の形式である。"すべての現象一般、すなわち感覚のすべての対象は時間の中にあり、必然的に時間の諸関係の中に立つ"。時間は、対象についての内的感覚による経験的実在性があり、主観を除けば時間が無に等しいという超越論的観念性がある。時間は、それ自体あるものでもなければ、対象それ自体の内部にも存在しない。時間の観念と規定は主観的経験的実在性としてあり、絶対的実在性はない。
    時間と空間は、客観的妥当性があるので単に経験的にすぎないのでもなければ、現実的なものを超えたものを想定しない絶対的観念的でもない。
    形式はアプリオリな純粋直観。内容はアポステリオリな経験的直観。
    外的感覚は場所の関係、内的感覚は時間的前後・同時の関係を直観する。現象は、自己や対象の全てが実在しないということではないので、単なる仮象ではない。
    アプリオリな総合的判断において前提となるアプリオリな純粋直観は、時間と空間である。そのため、アプリオリな判断は、感覚の範囲内、経験可能な対象にしか通用しえない。
    ・超越論的論理学
    序言 超越論的論理学の構想
    純粋概念は、対象一般を考える形式。観念の受容が感性であるのに対し、認識の自発性は知性。一般論理学は、純粋論理学と応用論理学に分けられ、前者は内容を捨象した知性・理性使用の形式であり、後者は心理学のような誤謬・躊躇いなど主観的経験的な知性使用である。
    アプリオリに対象に関係する概念、純粋知性とアプリオリに対象を考える理性認識についての学問を超越論的論理学と呼ぶ。「真理とは何か」という問いは、認識と対象の一致とされるが、多様な内容に関わることなので、全てに当てはまる普遍的基準を見出すことは不可能。真理の消極的な条件としての論理的基準、すなわち形式に関わることは論理学に可能であるので、それは分析論と呼ばれうる。単に対象を判定するカノン=基準に過ぎない一般の論理学が、対象を生み出すオルガノン=道具のように思い込まれたものを一般に弁証論という。しかしこれは、与えられていない対象を普遍的に判断する独断的な弁証的仮象であるため、第二部で行うそれに対する批判を弁証論と呼ぶ。
    ・超越論的分析論
    1概念の分析論
    1-1すべての純粋知性概念を発見する導きの糸について
    感性における直観は触発に基づいており、知性における概念は一つの共通の観念の下で秩序づけ統一する「機能」に基づいている。知性が概念によって判断を下す。知性は判断の能力である。思考とは概念による認識である。
    「判断における知性の論理機能」
    1量(全・特・単称)2 質(肯・否・無限) 3関係(定・仮・選言)4様相(蓋・実・確然)
    多様なものの総合が一個の認識をもたらす。これは構想力の作用である。純粋知性概念は、総合を一般的に表したもの。感性における純粋直観の多様が、構想力において総合され、知性において統一されて概念となる。概念の下に分析的に観念をおくのが一般論理学であるのに対し、観念が純粋に総合され概念化するのが超越論的論理学である。→同じ判断を、感性側から見たものが論理学の判断表、知性側から見たものが純粋知性概念
    アリストテレスに基づき純粋知性概念をカテゴリーと呼ぶ。
    「純粋知性概念=カテゴリー表」
    1量(単一・多数・全体)2 質(実在・否定・制限) 3関係(偶有・因果・相互)4様相(可能・現実存在・必然)
    直観的な前者二つを数学的カテゴリー、相関的な後者二つを力学的カテゴリーと呼ぶ。四つの分類の中のそれぞれ第3番目のカテゴリーは1,2のカテゴリーを結びつき現れる。全体は単一な多数、制限は実在の否定、偶有する実体の因果関係が相互性、可能な現実存在が必然性。
    1-2純粋知性概念の演繹について
    法学において、係争の問題を権利と事実に分ける。前者の証明を演繹という。経験は事実しか得られないため、超越論的知性は演繹によらねばならない。
    概念(純粋知性概念=カテゴリー)を前提にしなければ、何も経験の対象として可能とならないから、観念が対象を可能にする。ロックもヒュームもそのことに気がつかず、経験に求めた。そのことが純粋数学と一般的自然科学と相容れない理由である。カテゴリーによって対象が規定されることから、経験的直観はつねに主語としてのみみなされなければならない。
    1-2-2純粋知性概念の超越論的演繹[第一版]
    経験的現象を捨象してもなお、経験の可能性を左右するアプリオリな条件を追求する。それは、霊や神など経験を超えた概念を考え出すことができる。総合は、直観の感覚知、構想力の再現、概念の再認識の三つ。
    観念は、内的感覚の時間に属する。感覚知の総合とは、多様なものを多様なまま把握すること。再現の総合とは、観念と観念が連続的に起こることを把握する能力。再認識の総合は観念の同一性を把握する能力。これらの総合から統一を行う条件が、自己の意識、超越論的統覚である。観念の対象ではあるが、観念はあくまで現象内であることから、対象それ自体ではない超越論的対象=Xと呼ぶ。カテゴリーは全ての可能的経験の思考の条件である。
    連想の根拠を親和性、一般的条件を規則、同じ地方で設定される必然性を法則という。自然すなわち現象の総体は、統覚を根拠とする。
    感覚は経験を必要とすることから、アプリオリでありうるのは構想力の生産的総合(超越論的機能)のみである。構想力の総合に関わる統覚の統一は知性であり、そのうち超越論的総合に関係するものは純粋知性である。現象に関して構想力におけるアプリオリな純粋認識は、カテゴリーすなわち純粋知性概念である。現象から得られる知覚を、構想力において感覚知となり形象を生み出す。構想力の観念と観念の結合を連想といい、客観的根拠すなわち経験的法則を親和性と呼ぶ。それらは全て統覚の統一に基づく。構想力の総合における統一はカテゴリーに基づく。感性は形式を与え、知性は規則を与える。規則が客観的であれば法則と呼ばれる。
    →ディープラーニングはビッグデータ、経験的対象のみで、統合する知性がない。
    1-2-2純粋知性概念の超越論的演繹[第二版]
    「私は考える」「私はある」という純粋統覚あるいは根源的統覚は、全ての観念に付随する。自己意識は超越論的統一。観念の総合は、統覚に根拠がある。
    判断とは、与えられた認識を統覚の客観的統一にもたらす仕方。
    純粋知性概念とは、単なる思考の形式で、経験的直観に適用されて初めて物を認識できる。知性は、感性的直観(純粋直観+経験的直観)に関する統覚の総合的統一によって客観的実在性を規定できる。感性的直観の総合を形象的総合、直観一般のカテゴリーによる総合を知的結合と呼ぶ。形象的総合のカテゴリーにおける総合を構想力の超越論的総合と呼ぶ。構想力は感性に属する。構想力がカテゴリーにそくして感性を規定するすなわち自発性を持つときは生産的構想力と呼び、単に対象を思い浮かべる心理学的な再現的構想力と区別する。
    外的な直観の対象でない内的感覚の時間は、直線のイメージという触発でしか思い浮かべることができない。よって主体は、主体として触発される現象としてのみ認識する。統覚は、ただ「私がある」ということを思考することであり、それによって内的直観の形式にそくして「私」を現象として認識する。
    現象がカテゴリーにより結合され、法則も持つということから、現象としての自然もまた──物自体とは無関係に──カテゴリーにより法則性を規定される。
    2原則の分析論
    形式論理学は、概念、判断、推理。超越論的論理学は、知性、判断力、理性。理性を形式としてのみ扱う形式論理学と異なり、超越論的理性は経験的可能世界を超えようとするため、仮象を検討する弁証論が必要となる。そのため分析可能な原則は知性、判断力にある。知性概念の原則を判断力によって現象に適用する。判断の教理と呼ぶ。
    判断力は、規則の下に包摂する能力、従うかどうかを見分ける能力。形式だけでは辿り着けず、教育では身に付かず、訓練されるべき特殊な才能である。歩行練習補助車となるのは、具体的な実例である。
    "判断力の欠如はもともと馬鹿と呼ばれるものであり、このような欠陥はまったく解消のしようがない。…非常に学識のある人々でも、彼らの学問を実際に使用する段で、あの改善しようのない欠陥をしばしば露呈することがあるが、それはなんら不思議ではない。"
    "哲学は批判としては、われわれのもっているわずかな純粋知性概念の使用における判断力の過ちを防止するためには、かえって必要に思われる。"
    1純粋知性概念の図式機能について
    知的かつ感性的なカテゴリーと現象の媒介的観念が、超越論的図式。図式は、対象に関する感性を変容させて、知性概念を成立させる構想力の産物である。形象→図式→概念。
    1量(数える=時間系列)2 質(度=時間内容) 3関係(偶有=常時・因果=継起・相互=同時)時間秩序4様相(可能=いつか・現実存在=特定の時間・必然=常に)時間総体
    図式は時間規定。図式は現象するままに示すが、カテゴリーは物一般にあてはめてしまう。そして概念は拡大される。
    2純粋知性のすべての原則の体系
    矛盾律「矛盾する述語はつけられない」を利用し、判断によって消極的に真理を認識する。
    時間によって「Bは非B」でありうる。若者、年寄り。同時に、という条件。「無教養でない人間は教養がある」否定的命題は同時条件が不要。分析判断においては肯定否定で判断可能だが、総合判断は新しく概念を付け加えるため、不可能。そこで必要になるのが時間である。時間にかかる観念の総合、すなわち構想力、統覚、総合判断。経験⇔対象、相互に条件でありそのことが客観的妥当性をもつ。
    「純粋知性の原則の表」
    1公理=外延量2先取的認識(旧訳:予料)3類推4要請
    前者2つは数学的な直観的確実性、後者2つは力学的な論証的確実性。
    1公理は、唯一不変の指定されるような「数量」ではなく、感覚的な外延量。
    2先取的認識は、感覚内容への度合い、内包量。客体に対する主観的な感覚内容。時間と空間は連続量、流れる量。重さなど、外延量は同じでも、内包量は無から実在性の度に無限の段階がある。度をもつ性質はアプリオリであるという意味で予測的、先取的。
    3類推は、時間内の必然的結合。時間は常時性、継起性、同時存在。数学的な構成的原理ではなく、現実存在相互の関係における統制的原理。つまり量ではなく質。類推は超越論的ではなく、経験的な知性使用の原則。図式の下。
    常時性は、時間に対する基体である、偶有的な実体としての恒常不変性。
    継起性は、原因と結果。現象の全ての移り変わり(継起)は変化に過ぎない。感性では2つの状態を構想力で結合させるのみで、どちらが先かは知性のカテゴリーにおいて決まる。現象の多様は心的能力においてつねに継起的に生み出される。知覚そのものはあくまで主観的であり、単に帰納法に基づくことを普遍的必然的な原因概念が知覚できるとして解釈してはならない。知覚における時間の経過ではなく、一定の時間に秩序づける因果関係が客観的妥当性を持つ。そしてそれによって客体が示され、客観的意味を持たせる。現象でのみ時間の連続性を認識できる。因果性→作用→力→実体と概念が繋がる。
    同時存在は、同時に知覚する相互存在の関係性。ゲマインシャフトGemeinschaft、共存、相互作用。内属、結果、合成。このことは統覚と自然の同時存在、すなわち時間規定のアプリオリな条件を見出す。
    4経験的思考一般の要請
    形式を満たすものは可能的、感覚内容に関係するものは現実的、実在が経験の普遍的条件を満たすものは必然的。様相の原則は、カテゴリーを経験的使用に制限する原則からの要請である。
    観念論を論駁する
    観念論は、「われわれ」の外にある現実存在を、証明不可能(デカルト蓋然的観念論)あるい不可能(バークレー独断的観念論)とする。前者は「私はある」のみを経験的に主張し、後者は物を幻想とする。
    時間規定は外にある恒常不変なものの知覚により可能であるから、外にある物の現実存在と同時に、時間の意識である私自身の意識がある。
    原則の体系への一般的な注
    客観的実在性を説明するには外的な直感が必要である。内的直感でさえ、時間を1本の線で形象化しなければならない。
    ・すべての対象一般を現象体と可想体に区別する理由について
    純粋知性の原則は経験のみに用いられるのであって、物一般ではない。存在論は単に純粋知性の分析論である。
    感覚が捉える対象を現象体Phänomena、知性が思い描く対象を可想体Noumena。可想体は直観しえない蓋然的概念であり、存在者へは達しない。しかし、知性は物それ自体を可想体と呼び、可想体は感性を制限する限界概念である。
    付録 経験的・超越論的知性使用の混同による反省概念の二義性
    観念同士の比較(反省)が知性によるのか感性によるのかを見分ける(超越論的反省)。形式のみの論理的反省とは異なる。心的能力における関係は、同一性(全称)と差異性(特称)、一致(肯定)と対立(否定)、内的なものと外的なもの、規定されるものと規定(質料と形式)。
    1同質でも数的に違うことが空間的に把握できるのは感性である。2対義語が共存する可想的実在性と異なり、力の方向など対立によって相殺する現象はある。3現象には空間や対象内外の作用・関係があるのに対し、可想体はライプニッツ単子のように独立した物質の構成要素に思考的なものを認めることになってしまう。4ライプニッツは物(質料)を先に想定し、時間空間をその関係に位置づけ、内的に観念能力(形式)を想定した。しかし、現象が感性的直観のみであれば形式が質料に先立つ。
    概念の場所に関する議論を超越論的場所論。ライプニッツは現象を物自体と考え、現象を知性化した。ロックが、知性概念を感覚化し、経験的反省概念しか認めない概念的発生論としたのと対称関係にある。
    対象一般に関する無のカテゴリー表
    1理性だけに基づく物(対象がない、可想体)2欠如的無(実在がない、影や寒さ)3空想物(時間空間)4否定的無(矛盾する概念)

  • 時間はもちろん、何か現実的なものなのである。すなわち、内的直観の現実的形式なのである。それゆえ、時間は内的経験に関して主観的実在性をもつ。

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著者プロフィール

1724-1804年。ドイツの哲学者。主な著書に、本書(1795年)のほか、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)ほか。

「2022年 『永遠の平和のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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