純粋理性批判 (下) (単行本)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (576ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480847423

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  • 理性の誤った使い方、すなわち心理学、宇宙論、神学を批判することによって、形而上学の本来目的である魂の不死、自由、神の思考の限界と人間理性の本性を明らかにする。その上で、ポジティブな意味で理性を使用すること、すなわち道徳の実践理性への展望を示唆する。あたかも神の存在と魂の不死=来世が約束されているかのように道徳的なふるまいをすることで、世界に幸福と最高善をもたらす。これは理性の超越論的な機能を志向するという意味で、プラグマティズムにつながる。道徳の体系的統一が客観的妥当性をもって自他へ拘束力をもつことは、法はもちろん(批判自体、法廷がモデルになっていて喩えも多い)、ルソー全体意志と通ずる部分がある。
    ・超越論的弁証論
    緒言
    誤謬は知性に対する感性の影響により引き起こされる。それは超越論的仮象である。経験を超える純粋知性の拡張を超越的原則と呼ぶ。経験の範囲内であれば内在的原則である。超越的原則は、カテゴリーの超越論的使用ではなく、新たな基盤を作ってしまうような原則。
    理性は原理の能力。原理とは普遍的なものによって認識する総合的認識。他方、知性の原則は経験から獲得された概念について判断するため総合的認識ではない。知性は現象を統一し、理性は知性規則を統一する。理性は概念と判断をその規則の中に包摂し、無条件的なものまで前提を遡り、意味づけを行う。超越的概念、弁証的な理性推理を1,2で扱う。
    1純粋理性の概念について
    知性概念は理解すること、理性概念は把握することに役立つ。純粋理性の概念を、超越論的理念と呼ぶ。プラトンのイデア=理念においては、真の原型が頭の中にあり、自己模範を評価する。国家は理念によって樹立され、法は自由を理念とする。雑駁な経験的概念が障害になるとはいえ。自然因果はイデアによってのみ可能である。道徳、立法、宗教においては、イデアが善の経験を初めて可能にする。経験は自然に規則を与えたが、道徳には仮象を生んだ。観念一般(類)→観念→感覚→知覚→認識→直観か概念(経験的概念か純粋概念=知的観念→理念=理性概念)。
    理性推理は、大前提(外延)の下に包摂した後で、対象へと制限する。大前提の外延の完全な量を普遍性といい、直観の総合(カテゴリー)に対応するのが総体性(条件の全体性)。超越論的理性概念は、条件の全体性で、それを可能にする根拠は無条件的なものである。カテゴリーの関係に応じて、1主語が定言的な無条件的なもの、2系列が仮言的な無条件的なもの、3体系の部分が選言的な無条件的なものとなり、全てが無条件的なものへと前進する。理性概念は知性概念の使用における絶対的全体性のみを、自分のために保持する。しかし、経験は無条件的なものではないので、理性統一は経験を超える。理性は知性使用に方向を指定する。ゆえに客観的使用は常に超越的であるが、使用は内在的でなければならない。理念は経験を超えるので対象と一致しない。
    観念の関係は、主体、現象における客体の多様、物一般の3つ。それぞれ心理学、宇宙論、神学の対象。これらは純粋理性の産物。
    注:形而上学は神、自由、不死だけを本来目的とし、自然(科学)を超え出ていく。前者二つの神学と道徳の必然的帰結として宗教に通じる。その分析のためには、経験的なものから逆順に、霊魂論、宇宙論、神の認識と進む必要がある。
    2純粋理性の弁証的推理について
    3つの弁証的推理として、主体は誤謬推理(理性推理)、現象の客体はアンチノミー(詭弁的推理)、物一般は理想(詭弁的理性推理)。
    2-1純粋理性の誤謬推理について
    誤謬推理、「私は考える」という魂の絶対的実体を前提とする合理的心理学。カテゴリーで言えば1実体2単純3単一性4可能的。
    [第一版]
    しかし、超越論的心理学においては、「私」は、単なる意識としての統覚以外のものではない。デカルトのコギトは単に意識の統一を示すだけであり、主体の単純性を証明するものではない。考える私を内的に単純だとすると、合成された物質としての存在者である私と区別することになり、経験的に確認が取れず整合性がとれない。他人から見た私は、私自身が時間の中で感じる私とは異なり、単一性を保てない。「考える私」を前提とする超越論的観念論者は、外的観念を信じうる経験的実在論者であるため、二元論者である。反対に感覚なしでも外的実在性を認める超越論的実在論者は、感覚を不確かなものとする経験的観念論者になりうる。現象を知覚し、それが空間を前提するという意味では、経験的実在論は疑いえない。無論、物自体の証明ではない。唯物論、精神論、二元論いずれも物自体について誤解にとらわれる。
    私は、直観でも対象概念でもない、単に意識の形式、統覚にすぎない。心理学の存在意義は、唯物論から考える自己を守るためである。魂についての考察は単なる幻影である。物自体は、外的感覚の結果として内的感覚の現象を通してしか経験できないため、客観的に証明できない。
    反論は、命題に対する独断的、証明に対する批判的、命題・反命題に対する懐疑的に分けられる。一般的な客観的実在性の体系は、物理的影響、必然的調和、超自然的援助。物理的影響に対する批判的反論として、物一般が観念にすぎないということにより撲滅される。
    仮象とは、主観的条件が客観的認識とみなされること。内的な単なる意識の統一としての私=統覚に、客観的であるかのような実体、つまり外的経験として扱ってしまうところに、具象化された意識の仮象がある。
    [第二版]
    統覚の統一としての内的直観の意識のみが、単なる機能として、規定されうる自己として客体化されるだけで、考える私として客体化されるわけではない。1直感できる客体ではないので実体として見なされない2直観できないので私の物質の構成要素を確認できず単純とは言えない3主体の同一性は人格の同一性を表すものではない4外的なものがなくても私が可能的現実存在かはわからない。
    メンデルスゾーン魂恒常不変性に対する論駁
    通常は、魂が分割できないということで恒常不変性を論証するが、消滅を否定できない。メンデルスゾーンは魂の単純性を前提として、減少しないことから消滅と恒常不変性を論じた。しかし、実在性があれば内包量もつことは否定できないことからこの論証も不十分である。空間には単純な実体つまり極限としての点などない。
    2-2純粋理性のアンチノミー
    理性を客観的総合に使うと、絶対的統一という原理の仮象となる。条件の全総体、絶対的に無条件なものまで上昇する。遡及的総合。空間は多様の並列が同時にあるので、系列を遡及できるのは時間である。
    宇宙論的理念のカテゴリー
    1合成2分割3成立4現存の依存性、四つの現象の絶対的完全性。無条件的なものは、系列が無限、あるいは始めがあるかのいずれかである。後者は、時間においては世界の始め、空間においては世界の限界、全体の極限的部分においては単純なもの、原因においては自己活動性(自由)、現実存在においては自然必然性と呼ばれる。世界は現象の数学的全体性、自然は現実存在の力学的統一。生起の条件は原因、原因の絶対的因果性は自由と呼ばれる。
    アンチノミー(背反論)とは、見かけ上の独断論的認識の対立である。理性を経験の限界の彼方に拡張することで詭弁的定理が生じる。それらの定理はそれ自体で矛盾を含んでおらず、必然性のための条件と合致しており、自然で避けようもない仮象を伴っている。そのためその解決には、懐疑的方法により双方を結びつけ、誤解点を炙り出す必要がある。
    超越論的理念の争い(アンチノミー)
    1.世界は始まりと限界をもつ⇔世界は無限
    始まりの前、限界の外するのは不可能。始まりがなければ継起は不可能、無限を同時に数え上げるのは限界がある。
    2.世界は単純な部分からなる⇔単純な部分は存在しない
    合成物が分解されなければ、単純な部分はないから実体はないことになる。単純なものは空間を占めることができない。
    単純なものはそれ自体で存立するライプニッツのモナスではなく、原子というべきである。
    3.自由⇔自然法則
    自由がなければ最初の原因は生じない。自由があれば因果関係は成立しない。
    4.必然的な存在者が存在する⇔しない
    現象と時間の始まりがなければ変化も時間も存在しない。原因なしの無条件的なものは力学に反し、系列に属すものは無条件になりえない。
    宇宙論的理性原理は、系列条件の中で、つまり現象の原因である時間において遡及しなければならない。そのため必然的存在者は世界に属するのか世界そのものかは未決のままにしなければならない。ひとは、変化から経験的偶然性(継起的な状態の対立)を推理し、その原因としての必然的存在者の現実存在を、可想的偶然性(同一の時間における状態の対立)と結びつけた。変化・時間は可想的偶然性とは関係がなく、必然的存在者の現存を証明するには至らない。
    必然的存在者を認める立場は、絶対的全体性を、認めない立場は時間系列の偶然性を考慮に入れ、反対の結論に陥る。
    問題は、理性の自然で避けることのできない四つのみで、それ以上でもそれ以下でもありえない。数学は理性使用の中でアンチノミーを生み出す。どちらにつくかは関心の問題だけである。純粋理性の独断的テーゼの側には、実践的関心(道徳と宗教)、思弁的関心(無条件的なものの把握)、ポピュラリティー(第一のものの心地よさ、導きの定点)※常識は普段の上昇よりも帰結に向かう。経験論的アンチテーゼは、道徳と宗教よりも思弁的関心を重視する。しかしそれによって経験論者は「何も知らない」ということを認識するだけで、主張・要求をほどほどにというモットーに甘んじることになる。独断論と経験論の対立は、プラトン主義とエピクロス主義の対立である。常識は合理性を求めるはずなのに、経験論はポピュラリティーに反している。それは常識が何も知らない理念に対して饒舌になり、自然科学に関しては無知を告白しなければならないからである。常識は慣れ親しんだことを知ったこととみなす。経験論の思弁的関心は常識から失せる。
    →ハイデガーの世人の空談に通ずる。
    理性は、建築術的である。経験論的アンチテーゼは、土台を容認しない。理性はテーゼを推奨する。
    魂、神は対象が超越論的であるため、知らないものであるが、不可能でもない。宇宙論的理念は対象が経験的であるため、総合を前提できるが、絶対的全体性は経験的ではない。この対象は物自体ではなく、可能的経験の対象であるから、理念の中にのみ解答が求められなければならない。純粋な理性学問は、超越論的哲学、純粋数学、純粋道徳である。これらには、解決不可能を含めて、不確実なものはない。対して、自然科学は対象は外にあるが解決は内にあり不確実である。これによってアンチノミー(二律背反)が起こる。
    それは知性概念(可能的経験)、すなわち理念の目的にとって大きすぎるか小さすぎるかいずれかになり、空虚で無意味である。1世界に始めがない、空間が無限、2世界が無限に多くの部分からなる、3自然法則(無限の原因)、4絶対的必然的存在者はいずれも大きすぎる。その反対は小さすぎるのである。
    アンチノミーは、超越論的観念論が解決しうる。
    系列の遡及は課せられている。条件への遡及(経験的総合)は課せられている。宇宙論の錯覚は、純粋知性の超越論的意味(物自体)を大前提とし、現象の経験的意味を小前提とすることから起こる。AとBが対立する(矛盾的対立=分析的対立)とき、「Aでない」はB以外のものも含む。宇宙が物自体でなかった場合の有限か無限かの議論のように、AとBが前提上どちらも偽である場合がある(弁証的対立)。
    理性は現象の条件の系列において無条件的なものまでの背進を命じる。理性の統制的原理。対して物自体とみなすことは宇宙論的構成的原理。数学者は無限への前進、哲学者は無限定への前進という俗的区別があるが、後者は「好きなだけ〜できる」という意味で無限である。系列全体が経験的に与えられていれば無限に「遡る」ことが可能であるが、一項から経験的背進によって初めて全体が与えられるのであれば無限に「進む」ことができるとしか言えない。
    以上からアンチノミーの仮象は廃棄されたため、背進の理性原理の妥当性を示されれば、弁証的原則が教義的原則に変貌する。この原則は公理のように対象それ自体をアプリオリに規定する。
    1.世界が無限であると言うことは経験的に不可能。また、時間空間の無い限界の外を知覚することは不可能であり、有限ではない。このことから無限定への背進が課されている。
    2.物質に分割の全系列は含まれていないので、無限な量を示す全体ではない。また、空間を満たすものは無限に分割可能である。量をどこまでで規定するかによって無限定への背進が課されている。
    1,2は数学的総合でありアンチノミーの前提から棄却されたのと異なり、以下3,4は共存できるような異種を含む力学的総合である。
    3.選択意志は触発される意味で感性的であり、感性的刺激の強制から独立することで、動物的意志から自由な意志へ移行できる。現象が物自体ではなく経験的観念だけの可想的原因で繋がるのであれば自由は確保され、結果は現象するため自然の必然性と見なされうる。物それ自体の行為の可想的なものの作用原因、可想的性格として自由であって、現象結果の感覚的なものの作用原因、経験的性格が自然法則に従う。
    現象の原因の中には、系列を絶対的に自ら開始するものはなく、出来事あるいは事件である。人間自身は現象であるが、その能力・行為は可想的対象の知性及び理性である。理性の因果性からの可能的行為「〜べし」、知性の認識「こうである、であった、であろう」、現象は自然条件の下の決定と結果。理性が現象に因果性を持つとすれば、理性(思考)の可想的特性(原因)→条件(系列の外)→行為→結果(現象の経験的特性)。例として、虚言で混乱を招いた人について、教育や社会の経験的特性を度外視しても、条件の系列から選択した行為の可想的特性を原因とし、責任を負わせる。可想的特性が経験的特性を与える。つまり理性と感性は別に規定され、自然法則とは別に行為が自由でありうる。★
    4.現実存在が経験的に条件づけられたものである以上、数学的系列でいえば、無条件的な必然的存在者が現実存在することはあり得ない。しかし、力学的総合であればアンチノミーが共に真でありうる。つまり、可想的存在者であればありうる。現象は物自体ではないので、超越論的な可想体を根拠にできる。
    "超越論的客体は単なる思考物なのである。"しかし、理性はその探究を強いる。
    3純粋理性の理想
    理想とは、個別的な単一な物としての理念。プラトンの神的知性の理念。実践的統制的原理の力、行為の根底、規則の原型としての賢者。道徳などの理念と違い、人間の似姿であるため自分と比較し、改善のきっかけとなる。理想は客観的に伝達不可能なモノグラムである。
    全ての可能的述語一般の総体で、そのうち併存できない述語や単なる否定を排斥した、存在に属する述語の単一の対象が、純粋理性の理想。選言的理性推理に基づき、実在性の総体を自らの中に包含する、全ての物の原型。全ては不完全な模造であり、述語の否定により実在性を制限し、多様を生む。根源的、最高、永遠の存在者、超越論的神学の対象である神の概念。全ての物は、根源的存在者の分割ではなく派生である。経験からしか概念は与えられないので、われわれはこの総体を物一般に適用できると見なし、経験全体の集合的統一とすることで単独の物という概念が起こる。実在化され、客体化され、具象化され、人格化される。無条件なものへ遡る過程で、安らぎを求める。
    理性は、知性概念の根底にある何かを前提するために、普通の経験を根底に置くが、絶対的必然的と呼べない空っぽの空間があり、宙吊りになる。理性は、原因としての必然的なものを決定済みのものとみなす。そして、現実存在を認識する。一切の実在性を含むものとして統一し、最高の存在者を推理する。特に、決心の際に、これに1票を投じざるをえない。原因を求める欲求は、完全性により容易に成立する。"愚かしい多神論からも一神論のいくばくかの火花がほのかに光る"。
    神の証明は、経験的因果性、現実存在、概念の三つの道がある。自然神学、宇宙論、存在論である。超越論的証明を含めても証明は不可能。
    存在論…絶対的必然的存在者の最高の実在性から現実存在する必然性を推理する。「ある」「存在する」は何も付加しない述語であり、思考と対象の関係を表すだけである。絶対的必然的存在者の概念を前提としているが、概念は経験的認識がなければ、実在性を確認することはできない。
    宇宙論…現実存在から因果関係によって絶対的必然的存在者を推理する。そのためには、絶対的必然的存在者の要件を確定しなければならないが、それはしかし、存在論と同じように、最高の実在性を持った存在者から現実存在の絶対的必然性を前提とすることである。★
    必然性と偶然性を両立させようとすると、必然性を世界の外におくことで絶対的必然的存在者を想定することになる。偶然性は現象にあり、必然性は思考の中のみにある。最高存在者の理想は、世界をあたかも必然的かのように見なす理性の統制的原理であるにもかかわらず、自然の体系的統一を得るために構成的原理へすり替えてしまう。
    自然神学…世界秩序のしるしが示されているように偉大な知恵が多様性の全体をなし、合目的的に、自由な原因によって、世界が統一される。これらは自然物と人間技術の類比から推理される。自然に合目的的な必然性を求め、説明しきれない部分は宇宙論的な偶然性に戻り、それを包含する必然性を存在論的に思考する。純粋理性概念による存在論的証明のみが、唯一可能な証明である。
    根源的存在者の認識は、合理的神学(超越論的神学(宇宙神論・存在神論)=世界原因とする理神論者、自然神学=世界創造者とする有神論者、道徳神学)、啓示神学。理論的認識「何があるか」、実践的認識「何があるべきか」=道徳。理論的認識(思弁的現実存在そのものの原因推理)⇔自然認識(経験的偶然的結果の状態)。思弁的神学は可能的経験ではなく無効だが、自然現象因果の中にもない。したがって、超越論的問題は超越論的答えしか許されない。超越論的神学は、理性の検閲官である。理想の欠陥を補うのが道徳神学である。
    超越論的弁証論への付録
    可能的経験を超える推理は妄想的無根拠であるが、しかし同時に、人間理性の本性的性癖である。理念の誤用である超越的ではない、内在的使用法。すり替えの誤謬は判断力不足による。理念の優れた用法は、知性の体系化による方向づけである。比較による同一性を発見し、同一化の力、根源力という理念を前提とする。そのような自然法則の統一を理性は必然的に求める。種>類>属への統一(同種性)。特殊は普遍の下にあるから推理できる。特殊化は、理性の予測に基づき、より下位の差異性へ進んでいく(特殊化)。種から種への移行を親和性によって結ぶ(連続性)。
    →フーコー分類学、エコロジー。
    経験使用としては、多様性→類縁性→統一性。直観の数学的構成的原理と異なる力学的統制的原理は、経験においては概念をアプリオリに可能にする意味で構成的。理性の根本指針として、多様性や統一性への主義が関心によって現れる。あくまで主観的であって客観的妥当性から判断できるものではない。
    根本指針が、思弁的理性の全ての理念の超越論的演繹であり、経験的認識一般の多様性に体系的統一をもたらす統制的原理である。心理学はあたかも心的能力が実体であるかのように、宇宙論はあたかも現象の条件が無限であるかのように、神学はあたかも可能的経験が絶対的統一をなし、しかし同時に現象の総体の根拠がその外にあるかのように、理性を経験的に使用する。これらの理念は体系的統一のために、図式を与える。この図式は、統一の統制的原理としては有効であるが、可能的経験を拡張するものではなく、体系的統一によって拡張するだけである。思弁的理性が神の唯一の確定的概念は、理神論的であり、世界(現象)との相対的仮定として理念を与え統一を基礎づける。しかし、経験的制約からそのままでは概念把握できないため、あたかも最高の理性秩序の源泉であるかのように、自立的理性として存在者を考えるようになる。われわれの理性はその理性のコピーである。
    理念は、合目的統一として利用でき、目的論的に繋がる、単に機械的物理的だとしても普遍的法則自身には影響しない。しかし、構成的な理性使用において、間違いが起こる。それは原因の探求において楽になるということ。その間違いは、目的を全体的に普遍化することで防ぐことができる。また、倒錯的な理性使用、つまり最高の英知を根底に置いて擬人化し、自然に力ずくで目的を押し付けること。
    →ハイデガー『技術への問い』ゲシュテル
    あくまで体系統一の目的、物理的な探求でなければ、自然神学が統一を破棄する。法則根拠は超越論的に疑いえないが、その実在性を問うことにはまったく意味がない。ただし、類比的に自然の経験的対象と体系的統一の基体として擬人化も許される。「それ自体何であるか」ではなく、「どのように用いるべきか」が考えられるべきだったのである。
    われわれは、世界創造者を体系的統一の類比として前提にしなければならない。
    "われわれは、ありとあらゆる多様性があるにもかかわらず、あたかもいたるところに無限に体系的で合目的な統一が見出されるかのように、自然を研究すべきだ"。
    統制的原理を構成的原理ととれば輝かしく見えるものの、しかし妄想的な仮象や過信あるいは思い上がった知識によって、果てしない矛盾と抗争を引き起こすのである。
    認識…直観→概念→理念。可能的経験は出られない。思弁的理性使用は、目的の統一原理に従い、自然を調べるためであって限界の彼方に飛んでいくためではない。限界の外は空虚である。
    "弁証的仮象は、単に判決から見て欺瞞的なだけでなく、人がここでその判決に寄せる関心から見ても誘惑的で、つねにごく自然で、将来もずっとそうありつづけるだろう。それだけに、いわばこの訴訟の記録を詳細にまとめ、その記録を人間理性の記録保管所に保管することは、将来同じような類の間違いを防ぐためには、至当なことだったのである。"
    ・超越論的方法論
    バベルの塔の比喩…理性を建築構想とすれば、超越論的原理論は建物の強度であり、天までの塔には及ばす、一軒分の資材、経験のレベルを把握するに至った。言語の混乱による仲違いが失敗を呼び起こし、あらゆる世界へ四散し、個別に建築を行うこととなった。超越論的方法論は、訓育、カノン(規律)、建築術、純粋理性の歴史。
    1純粋理性の訓育
    否定判断はひたすら間違いを防ぐ。それは規則を逸脱する性癖を制限し撲滅する強制、訓育。訓練は技能を授ける積極的なものだが、訓育は消極的である。概念による理性の超越論的な使用において訓育が必要となる。
    哲学は概念による理性認識であり、数学は概念の構成による理性認識。哲学は特殊なものを普遍的なものにおいてのみ考察し、数学は普遍的なもの(構成=アプリオリな直観)を特殊なもの(構想力による純粋直観)・個別的なもの(図示などの経験的直観)において考察する。
    現象の質料は知覚、アポステリオリにしか示されえない。アプリオリに示す唯一の概念が物一般であるが、経験的でないことから直観は与えず、単なる規則以外は供給しない。概念への判断は分析にとどまり、総合的判断のためには概念の外に出なければならない。質料を考察するのが哲学、時間と空間を考察するのが数学。幾何学と哲学は全く違うものだということを明らかにする。
    →文系理系の差につながる。
    数学は、定義、公理、証明。
    哲学で行うなら、定義は言葉の規定を経験的に説明するのみで、実体や正義などのアプリオリな概念も曖昧で定義できない。実例の推測にすぎない。定義というよりむしろ解明。単に自分の構想の宣言。哲学において定義は仕事の終わりでなければならない。定義はよりよき存在のために必要。
    公理は概念同士のアプリオリな総合的原則である。哲学には可能的経験が必要であるため不可能。概念による原則は、論証的な演繹による弁明にとどまる。
    証明、具体的な論証は、直観的で反証不可能でなければならないが、経験は反証を除くことはできない。普遍的なものを具体的な個々の直観によって考察できず、抽象的に概念によって言葉で述べる論述的証明によるしかない。
    ドグマは概念による直接総合的な命題、マテマは概念の構成による命題。概念による判断のみがドグマ。分析的判断は教授上の宣言。可能的経験が前提の原則は、確実で反証不可能であるが定理ではない。
    理性の独裁に対して自由な市民の拒否権として批判がある。独断的理性は、裁判官的理性の前に出頭しなければならない。市民仲間との争いにおいては越権はされない。
    世界の初め(自由)は現象として、世界の無限(自然法則)は物自体として両立しうる。最高存在者、恒常不変な魂は、知性が物それ自体と関係しており、証明根拠は批判されるが、理性の関心が現れている。アンチノミーは理性の本性に基づき現れ、事柄ではなく論調、知識ではなく信仰による論争を起こす。最高存在者を否定するヒューム経験論などに対しては、公共の最善にとってどちらが有益有害かではなく、批判という安全な席から争いを見物する。人間の本性は、自分を隠し、都合のいい外見を見せびらかす性癖。これによって文明化し、道徳化した。しかしそれは暫定的である。外見の善事が悪巧みと和合することがある。純粋理性批判は真の法廷とみなすことができる。これがなければ自然状態、戦争によって主張と要求を有効にすることになる。基本法に基づく訴訟によって合法的に平和を樹立する判決。誰もが普遍的理性について発言権をもつ。可能的対象の総体は、見かけの地平線をもった平面で、知覚不可能な絶対的全体の理性概念。それでも純粋理性は地平の外を目指す。
    →ドゥルーズ内在平面
    懐疑論者ヒュームは問題を地平の外へ追放した。因果性原則の真理性は、経験における主観的必然性、習慣であると述べ、それ以外は無効とした。
    純粋理性の第一歩は独断的、第二歩は懐疑的、第三歩は批判。批判は、普遍的な根本指針を基にした判断力により、理性に制限だけでなく、限界と無知を原理から証明する。理性は平面ではなく、球体に比せられなければならない。ヒュームは総合について、知性(経験の客体)と理性(存在しない対象の性質)の区別を行わなかったために、全て想像されたもので不可能とした。そして因果原則から、経験なしにアプリオリな判断はできないとした。しかし、超越論的論理学においては、可能的経験との関係でアプリオリに法則を認識できる。
    理性は、対象そのものの可能性について、仮説の領域を開く。しかし、可能的経験を超えた超越論的仮説は許されない。他方で、理念の実在性を主張も反証もできないことから、理性の実践的使用については何の根拠がなくとも仮定しうる。所有はやはり実在性を主張する側にある。仮説は超越論的越権との対立において妥当性をもつ。
    超越論的証明の規則は、第一に、体系的経験使用の統制的原理として使うこと。第二に、一つの概念ゆえ唯一の証明のみであること。第三に、矛盾が曖昧になる帰謬的ではなく明示的証明であること。
    2純粋理性のカノン(規範)
    哲学は、拡張ではなく限界を画定し、真理発見ではなく間違い防止という消極的なものである。超越論的分析論(カテゴリー)は純粋知性のカノン、超越論的論理学(分析論・弁証論)は訓育、純粋理性のカノンはこれら思弁的ではなく実践的理性使用に関わる。
    理性の思弁的使用は、意志の自由、魂の不死、神の存在にかかわる。これらは可能的経験(内在的)を超えていて(超越的)証明不可能。
    →ドゥルーズ超越と内在
    実践的、自由によって可能となる全てのことに使用されることが必要。純粋な実践的法則の目的は、絶対的に命じる道徳的法則。これのみがカノンを可能にする。自由で神がいて来世があれば、何がなされるべきかという目的。感性的刺激に反応する動物的選択能力とは独立に、自由な選択意志が実践的である。何が起こるべきか、自由の客観的法則。自由を包括する自然法則は問題ではなく、理性が指図するかが問題。
    何を知ることができるか、なすべきか、望んでよいかが理性の関心。順に思弁的、道徳的、実践的かつ理論的。何か(目的)があるのは起こるべきだから(実践的)であり、何か(原因)があるのは起こるから(理論的)である。
    "幸福とは、われわれのすべての傾向性を満足させることである。"
    傾向性の多様性…範囲(外延的)、度合(内包的)、持続。幸福の経験的な実践的法則「何がなされなければならないか」を実用的(賢さの規則)、幸福に値する運動因のみの実践的法則「どのようにふるまうべきか」を道徳的(道徳法則)。道徳法則に従う可想的な世界、すなわち道徳的世界の理念。各理性的存在者がこの理念の体系的統一をもつことで、感覚界に神秘的集合体の形成がもたらされる。道徳法則に動かされ制限される自由は幸福の原因となり、自他の永続的福祉となる。自然の因果性とは無関係に、行為を自らの内の最高の意志に由来させ、自然の原因として最高の理性を置く。この意志は世界の幸福の原因であり、この理念は最高善の理想である。幸福への望みと、幸福に値しようとする努力を結びつける根拠は、純粋理性の最高の根源的な善の理想である。感覚界に反映されない道徳的世界は、来世として仮定される。神と来世は、純粋理性が課す義務と同一の原理であり不可分である。道徳性の判定は理念、法則に従うことは根本指針による。完全な善には、幸福に値すること(道徳的なふるまい)の道徳性だけでなく、道徳的でなかった者が幸福を望むことも許容される。★
    この道徳神学は、神と来世の概念に通ずるだけでなく、行為の結果が約束されている点で自然法則をも包摂する。道徳法則を基礎に置き体系的統一をなすことで神の意志とみなすことができ、最高善に尽くすことでこの世におけるわれわれの使命を全うする。それこそが目的の体系に適合することである。
    真理は、客観的妥当性があれば確信、主観的であれば過信。他者と分かち合えるかが区別となるため、自分だけでは判断できない。主観的に客観的妥当性を検討する場合、主客不十分は憶測、主観のみは信、主客十分なら知といえる。主観的十分さを確信、客観的十分さを確実性という。実践的な信は、偶然的目的のための技術性(実用的信)か、絶対的必然的目的のための道徳性(道徳的信仰)に分かれる。目的達成の条件は、自分が知らない場合は相対的に十分であり、誰も知りえない場合は必然的に十分である。自然神学は教理的信仰で、思弁において困難をもたらす。道徳的信仰は、必然的な法則の命令と、その根本指針が必須とする神と来世の条件により、世界の最高善の目的に向かう。
    →ルソー市民宗教
    気がかりな点は、この理性信仰は、道徳的心情に基づくということ。しかしこの信仰を理性によって反証することは不可能である。
    "最高の哲学といえども、人間の本性の本質的な目的に関しては、自然が常識にも授けてくれた手引き以上のものをもたらすことはできない"(p477)。
    3純粋理性の建築術
    建築術とは、体系の技術。学問性の理論。一個の理念の下での様々な認識の統一体。動物の身体のように、範囲と部分同士の位置はアプリオリに規定される。経験的図式は偶然的目的による手工的統一であるが、理念による図式は建築術的統一である。建築術的統一は、同類性をもとに全体を可能にする唯一最高で内的な目的から導出される。全体の略図と部分への区分が図式に含まれる。認識は、与えられたものに基づく歴史的認識か、原理に基づく理性的認識に分かれる。与えられたものの模倣は生産的でない。理性認識は、概念による哲学的認識か、概念構成による数学的認識かに分かれる。数学的認識は真の原理以外ありえないアプリオリな純粋直観であるため理性的認識であるが、哲学的認識は歴史的に学ぶ以外にはけっして学ぶことはできない。せいぜい哲学することのみを学ぶことができる。哲学的認識の体系を原型と解すれば、主体的な哲学を判定することに役立つ。現存の試みを手がかりにして、理性原理に従い、理性の本領を鍛えることができる。哲学は認識の体系的統一としての論理的完全性を目的とする限り学校概念であるが、人間理性の目的論として、理性の立法者たる哲学者の理想とするならそれは世界概念である。数学者、自然科学研究者、論理学者は理性の職人技術者であり、それらを統御し理性に活用する理想に、哲学者はいる。人間の全使命に関する哲学を道徳という。自然と自由、自然法則と道徳法則、経験的原理による経験的哲学と純粋理性による純粋哲学。純粋哲学は、第一に、理性のアプリオリな純粋認識についての学問であり、予備学、批判。第二に、純粋理性の体系、全認識であり、形而上学。形而上学は、万物の理論的認識に関わる思弁的な自然形而上学と、「なす・なさない」の必然的原理に関わる実践的な道徳形而上学に分かれる。知性と理性を考察する超越論的哲学=存在論、自然を考察する純粋理性の自然論[超越的(内的な超越論的世界認識=理性的宇宙論、外的な超越論的神認識=理性的神学)、内在的理性的自然論(内的感覚の心理学・外的感覚の理性的物理学)]
    →存在論ハイデガー、道徳と神学ルター、数学的論理学ウィトゲンシュタイン、道徳ニーチェ、心理学フロイト、生物学ドゥルーズベルクソンとの関連
    純粋理性の哲学における留意点は、第一に、外・内的感覚の客体、すなわち物質と私という概念を経験から得て、形而上学的アプリオリな認識と理性的自然論に達するが、概念を超えて経験を付加しないこと。
    第二に、経験的心理学は、形而上学にはその居場所はなく、応用哲学へ。やがて人間学となる。形而上学は宗教の砦であり続けなければならない。理性を統御する学問は人間本性上欠かせない。人は常に形而上学へ戻る。偶然的目的の手段としての学問も、最後には人類の必然的で本質的な目的のためにある。形而上学は理性の開化を完成させることである。
    4純粋理性の歴史
    哲学は宗教の終わりから始まっているが、神学と道徳は理性研究の原動力である。形而上学の革命の変革は三点ある。
    1.理性認識の対象。エピクロス的感覚による感覚的対象、プラトン 的知性の直観による可想的対象それぞれの主張。
    2.理性認識の起源。アリストテレス-ロック経験論の神・魂の証明、プラトン-ライプニッツ理性主義。
    3.方法。学問を嫌う常識のデモクリトス的自然主義的方法、ヴォルフ的独断的あるいはヒューム的懐疑的な学問的体系の科学的方法。なお開かれているのは批判。
    ・訳者あとがき
    『純粋理性批判』のきっかけは両者が真として証明されてしまうアンチノミーの仮象にあり、その衝撃は見開きに同時進行するテーゼ、アンチテーゼの対位法のような哲学書としては異例のスタイルで現れている。ヘルツ宛ての書簡では「純粋理性批判」は当初、「現象学」の名で構想されている。その意味は仮象を扱う理論で、実際には超越論的弁証論となり、換言すれば純粋理性の現象学といえる。批判はアンチノミーに当てられていて、冒頭に置くことも想定されていた。主要部はアンチノミーである。
    大学卒業論文『活力論』で、デカルトとライプニッツの力学論の調停を試行し、対立の中間に真理を見出す鉄則を打ち出した。学問そのものを法廷であるべきとしている。アンチノミー論においても、理想的な裁判官としての理性が行う批判を同様の視座においている。
    教授資格論文『形而上学的原理の新解明』で、理由の原理の批判、理由はドイツ語で理性とも訳され、すでに理性批判がなされている。ただ、カントは他方を分析すれば根拠がわかるとする理由・決定根拠の原理、すなわち分析判断論者だった。しかしヒュームが因果法則を必然的ではなく単なる時間継起であるとすると、影響を受け、総合判断を提唱するに至る。アリストテレスにちなんで、現象学は弁証論、分析論、論理学が形成された。
    『純粋理性批判』出版後は、神と不死を伝統的形而上学で証明していたメンデルスゾーンらは冷ややかな反応だった。フェーダー、ガルヴェ『ゲッチンゲン書評』では、観念論と誤解されバークレーと同一視された。『プロレゴーメナ』で応戦している。しかし、文中に頻出するドイツ語vorstellungはラテン語ideaで観念を意味しており、純粋理性批判の立場を「ある種の観念論」としていることから紛らわしいのも事実である。
    形而上学はカントの時代からさらに事態が悪化している。しかし、形而上学的なものは、完全、絶対、究極、至高、最大、最強、最善という言葉に残っている。人間理性の戯れとして、人間本性が求めることに変わりはない。墓をなぜ気にかけるのか、祈りは誰にするのか、運命はあるか。身近に形而上学はあり、各自管理を行う道徳形而上学は必要となる。カルト宗教、反社会組織、狂信的運動、政治的扇動・熱狂。素質としての形而上学の自覚や保全をせず、深層心理化している。
    ベルリンアカデミー懸賞論文『自然神学と道徳の原則の判明性』では、アトム的な「分解不可能な根本概念」と、主述が不可分に結びついた公理である「証明不可能な根本命題」が論じられる。それぞれ、アリストテレスにちなみカテゴリー、アプリオリな総合判断として分析論に現れる。
    思弁的理性の理念の統制的使用、知性の技術を体系的統一の目的に向かわせる。しかし、カントの本来意図は、実践的使用において、神と魂を復活させること。そのために、選択意志を理性の法則、命令としての道徳に結びつける。『道徳形而上学への基礎づけ』方法論建築術から、自由が自律、道徳は無条件な命令となる。『実践理性批判』方法論における道徳と幸福のアンチノミーの解決。『判断力批判』弁証論末尾・方法論における目的の原理。『純粋理性批判』は仮象理念ではない真の理念、道徳のための設計図である。

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著者プロフィール

1724-1804年。ドイツの哲学者。主な著書に、本書(1795年)のほか、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)ほか。

「2022年 『永遠の平和のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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