「聴く」ことの力―臨床哲学試論

著者 :
  • 阪急コミュニケーションズ
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  • Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784484992037

作品紹介・あらすじ

聴く、届く、遇う、迎え入れる、触わる、享ける、応える…哲学を社会につなげる新しい試み。「聴く」こととしての『臨床哲学』の可能性を追求する、注目の論考。

感想・レビュー・書評

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  • 2016.10.15
    んー難しかった。現象学的な視点だなぁと思ってたらメルロポンティの名前が出てきたのでやはりというか。私はやっぱり現象学に興味があるというか、好きなんだなぁとかも思ったり。
    今ここで、かけがえのない私と、かけがえのないあなたが対話する、その個別性を個別性のまま哲学するというのが臨床哲学であるように受け取った。もともとこの本を読もうと思ったきっかけは、日々の人間関係の中で、仲のいい友達との関係において、関係の深さといううう方ができると思うが、その親密度、深さ、私とあなたの間にあるものはなんだろう、そしてそれを豊かに育むには、という問いがあったことによる。
    そのような関係性を育むという点で、身体性ということが外せないのではないだろうか。ただ言葉を意味として、論理としてかわすだけでなく、その言葉の表情や手触りまで受け取っていく。本の中に引用されていた、呼ばれていると感じるための距離や心持ちの実験はとても興味深かった。我々は、外化された視点から見た、声がこちらからあちらに届くとか、空気振動が鼓膜を揺らすとか、そういうイメージ以上の、対話というものがある。心に届く言葉というものは数値に還元できない。
    心に届く言葉を与えること、相手の言葉を心で受け止めること、語り得ないものに目を向けること、それは全て、私がいて対象があるという主客分離のイメージによってなされるのではなく、もっと主客が一致した状態でなされることではないだろうか。そもそも主客を分離させているのは意識としての私である。意識とは必ず何者かに対しての意識、志向性であり、ゆえに主客が一致している状態というのは、意識がなくなっているような状態である。ただ感じるという状態、それは私のイメージでは、集中している時のあの、ゾーンの体験に近いものがあるような気がした。そしてそれはただ集中すればいいというものではなく、そこには相手の心への関心がある。強い関心や注意、祈りと呼ばれるような欲望がある。これを他者に向けられるかどうか。自分を開きつつ、守ろうとせず、むき出しの状態で、裸の状態で、相手に心を向けること、これができるかどうかである。
    そのためには、自分というものに対する執着というものを外さなければならない。自分の価値観、条件、ルールに相手を押し込めることは歓待ではない。相手を無条件で受け入れるためには、私がその条件を相手に押し付けないことが必要である。しかしこれはなかなかに難しい、なぜなら私の条件や私の世界でのルールであり、そのルールとは自分が生きやすくなるために作り出した世界や人生、自己に対するある種の物語、解釈だからだ。アイデンティティというものが強ければ強いほど、そこにしがみつけばしがみつくほど、私は私の作ったルールの世界から抜けられない。世界の内側から相手を観察するにとどまる。そこでは相手は、私の国の入国検査をパスしないと、私は相手を受け入れることができない、ということになるだろう。
    我々が自分ルールを形作るのは、このカオスとしての世界で生きていくためであり、もしくは過去の受難の経験に意味を与えることでその苦しみを逃れるためである。つまりその動機は、生きることの苦しみ、恐怖、不安から逃れるためである。人と面と向かって話すときに、このルールを全て取っ払う、これはいかにして可能なのだろうか。少なくとも、取っ払おうとして取っ払える物ではない。それは結果としてなくなるようなものだろう。では何の結果としてか、それは、あなたを理解したい、あなたに関心があるというその欲望によってではないだろうか。役職としてのあなたではなく、名を持つかけがえないあなたとして、あなたを知りたいというその心性ではないだろうか。
    しかしその心性を持って、相手を無条件に肯定することができるだろうか。それもまた、こちらの心を開くことでなされることだろう。無条件での肯定とはもはや、意味のレベルにはない。何の理由もなく肯定するというのは、意味がわからないものである。それはおそらく意味の問題ではない。それは人間の中にある、ただ苦しみを共有出来るあなたとして、あなたを肯定したいという、もしくはそれで何になるわけでもないがあなたを知りたいという、私の感覚でいえば、ただ友達になりたいという、そういう望みから生まれるものではないだろうか。
    ここに書かれている内容を実践するための、根本的な心の姿勢とは何だろうかと、考えながら読み、これでいいのかはわからないが、とりあえず出てきた言葉が、「友達になりたい」これである。そこには条件もなく、排除もなく、ただ理解したい、ただ肯定するという心持ちが、現れているように思えるし、かけがえのないあなたという視点で関われるようなところもあるように思える。友達とは、求めれば際限なくその関係性を深くし合えるような存在ではないだろうか。ここからが友達、という線引きはどこかあるが、友達としての関係性の深さにもグラデーションがある。なので、友達になりたいという、ある一つの関係性の種類としての友人関係を求めつつ、またさらにより深い友達になりたいという気持ちを忘れないように、人と付き合っていこうかなと思った。まずはそこからな気がする。難しい内容だったが、まさに私の問題関心に触れたテーマだったので、とても参考になった。

  • 哲学書は難しい。特に翻訳物は読みにくい。始めの10数ページを読むと放り出したくなる。でも、見栄をはって本棚には並べておきたい。しかし、哲学のイメージも少しずつ変化してきている。哲学書がベストセラーに並んだりする。本書の著者は哲学の前に、臨床ということばをつけてみた。臨床、すなわちベッドサイド。医学に、心理学に、教育学にも冠される。このことば、哲学には似つかわしくない。なぜなら哲学は語るものだから。誰かに寄り添って、話を聞くのは哲学とは呼ばれなかったから。しかし、著者はそこに変更を求める。哲学を、直接人のためになるもの、社会と結びつくものに変えようとする。ただ傍らに座って、相手の話を聴く。そしてそれを受け入れる。説教をするとか、アドバイスするとかいうのでなく、単に受け入れる。それ以上でも、それ以下でもなく。それが途方もなく今にも崩れ落ちそうな相手のこころを和ませる。しかし、著者の思惑とははずれて、本書にもやはり哲学書の難解な文章がちりばめられている。しかし、本書で言いたいのはただ一つ。相手の話を聴くこと。ただ一生懸命に聴くこと。それ以上でも以下でもなく。ただそれだけ、と私は受けとめている。そういう意味で、深くこころに残る本となった。しかし、「しかし」が多い文章になってしまった。ああ、また「しかし」が2つ(3つ?)増えた。

  • 臨床哲学の第一人者鷲田清一氏による臨床哲学の入門書にふさわしい一冊。
    他人の話を「聴く」行為はまさに「他人を受け入れる」ことだと冒頭では述べられている。
    当然の行為である「聴く」ことを哲学的行為と定義し
    聴く側の自己を創成する上で大きな意味を持っていると本書では指摘する。


    ことばを受け止めることこそが、他者の理解に繋がっていく。
    「聴く」行為の主体者になるよう語りかけてくる。
    鷲田の論考を読み解く際に、掲載されている植田正治のモノクロ写真は本文の雰囲気を一層醸し出す。  

    哲学的視点から「聴く」ことの意味を明瞭にし、
    一人一人の読者が他者とのより関係を構築する際のヒントを提示する。
    哲学という学問の可能性を、また一つ広げたに違いない。
    ネットが発達し、コミュニケーションが重視される世の中で、疎かにしやすい「聴く」行為。
    本書を読み終えた時には、聴くことの重要性に気付かされることだろう。

  • 「臨床哲学」ということば自体つい最近知ったが、そういえば中村雄二郎も「臨床」を使っていた。能動知に対する受動知という意味あいであった。
    哲学とはとにかく個人的な思惟を語ることであった。もちろん時代との交渉はあったにせよ、その語りのほとんどは古代ギリシャ以来の伝統の文脈に沿ったものであった。それがどんどん世間とかけ離れたものになっていった。
    「臨床」とは社会というベッドサイドのことを指す。それはある特定の当事者に寄り添うことであり、当事者の声を聴くことによって物事の本質を見出す作業とされる。自分というものを中心におかない。
    カール・ロジャーズの心理カウンセリング理論がすぐに思い浮かぶが、著者はメルロ=ポンティの現象学やR.D.レインからむしろこの着想を得ているようだ。
    レインとロジャーズは親交があった。ふたりの思想の低音は明らかに共通していた。
    やや形を変えてでも、今の時代にこの考え方と実践が生きるとしたら、これは喜ばしいことである。
    しかし、心理療法の現場ではロジャーズ理論はいささか分が悪いように見える。当事者本人による自己変容が起こるのを支援するというスタイルでは不確実で時間がかかりすぎるというのだ。従って、あたかもビジネス・プロジェクトのような計画表や思考法や行動の規約を作ったりする指示的な解決策に流れがちである。要するに待つことができなくなっているのだ。ロジャーズ理論の弱みでなく、そのような現代社会のひずみこそ問題とされるべきではないかと思う。著者はこれについては別のところで考察しているようだ。
    植田正治のECMのアルバム・ジャケットのような写真がページの中にちりばめられている。この人のこともはじめて知った。

    • すりむさん
      有紀さん、コメントありがとうございます。先日「先端科学技術と社会」というパネル・ディスカッションで鷲田さんの話を聞いてきました。周りは科学者...
      有紀さん、コメントありがとうございます。先日「先端科学技術と社会」というパネル・ディスカッションで鷲田さんの話を聞いてきました。周りは科学者ばかりで、鷲田さんは異質でしたが、想像通りの暖かくユーモアあふれるお人柄で改めてファンになりました。これからいろいろ読んでみたいと思います。
      2011/10/27
  • 他者の他者として初めて自覚させられる「自分」。〈聴く〉ことがそのまま哲学の実践である。考えさせられる論述が続く。メルロ=ポンティ、レヴィナス、フランクルの言葉がつながり、示唆的である。

    ・反方法。エッセイ。
    ・客は今の時代、侵入になってしまう。家父長制の時代はそうではなかった。
    ・苦しみに苦しむ自分。苦しみに目を背けることはできても、苦しみであることは認識せざるをえない人間という存在の不思議。
    ・存在の世話
    ・「どっちつかず」と仲介性

  • 登録番号:13

  • 哲学が臨床の現場で、どのように関わっていくかについて語られていて、言葉がやさしい本だった。植田正治の写真と、鷲田清一の文章の組み合わせは少し繊細過ぎる印象もあるけど、語られている状況はとても身近に感じた。

  • 哲学という学問を、「上空飛翔的な非関与的な思考としてではなく、じぶんが変えられるという出来事として」、「臨床哲学」というものを、「他者」をキーワードにして試みようとする。
    哲学という学問分野における「エッセイ」が果たす枠割というものも、たいへんに興味深いものがあった。

  • 非常に読むのに時間がかかった本。話の半分も理解していないが、そもそも理解すること以外にも文章のリズムを楽しむ本ではないかと感じた。聴くことによって、他者を感じているのではなく、自分自身を鑑みているということを学んだ。何回も読むしかない。

  • 聴き方テクニックのような本と勝手に思い込んで読んだところ、聴くということの大事さを臨床哲学の観点から紐解くという、かなり難解な内容で、読み進めるのに難儀しました。あとがきの内容が一番分かりやすかったような気がします。

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著者プロフィール

鷲田清一(わしだ・きよかず) 1949年生まれ。哲学者。

「2020年 『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鷲田清一の作品

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