脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

  • 東京創元社
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  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784488006884

感想・レビュー・書評

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  • 脱学校とは、学校が不要ということではない。

    今日の、学校が何でも叶えてくれるサービスセンターと思われている側面を思い浮かべると、分かりやすいと思う。

    学校は平等性を謳いながら、そうなりきれない。
    画一的なカリキュラムは、平等に教えることを目的にしながら、けれど子ども達の個々の願いを取り上げることには限りがあるし、それぞれに応じた能力を伸長することも難しい。

    けれど、学校にこれをしてくれ、あれをしてくれと求められるのは、知識の享受は学校でしか行えないという価値観から成り立っているのだろうし、その価値観の元で教育産業なるものは栄えている。

    視点をずらせば社会も同じである。
    本来は「これが出来る」人に対して価値が伴う。
    けれど教育はそこに、年齢と学校種に価値を持たせることを付加した。
    高校を出ること、大学を出ることそのものが価値となり、それは社会的にもステイタスとして認められた。

    けれど、高校への進学、大学への進学は技能や知識で選抜されるだけではない。
    結局、学校というシステムに沿った人物であり、かつ経済的にそれが可能な一定の人々が選抜される仕組みになっている。

    イリッチはそうした社会とサービスの関係、そのことによって個人が何も出来ず、サービスに頼るしか出来なくさせられていることを指摘する。

    脱学校化とは、学校ひいては社会が、自分で何が出来るかを基準に再構築していかなくては、機能不全に陥るのは当然だということを言いたいのだ、、、と思う。

    個人的には、現状、学校という場への問題提起があらゆる方面から向けられている中で、平等な教育とは何かを考えてみても良い時期に来ていると思う。
    単に、学校不要論ではなく、ではどんな機会、どんなアプローチがあれば、今の学校では限界とされている部分をクリア出来るのか。
    それを広げて社会と接続した時に、果たして可能であるのか。
    そして、そのような視点で見た時に、社会構造にはどんな限界を抱えていると言えるのか。

    提起ばっかりで申し訳ないけど、こういう切り込みは大切だと思う。

  • これまで自分が受けて来た教育と言う制度他国に比べて素晴らしい制度だと思って来た、しかし人生後半になってこの本を読んではたしてそうかと思わざる負えない、むしろ今の環境では自発的に学ぼうとする人間の精神的欲求を阻害しているのではないかとさえ思えてくる、多様性の時代と言いながら画一的な教育で、どうも教育も変革する時代に来ているようだ

  • 「脱学校」とは、必ずしも学校を廃止することを意味しない、という感想がかなり多いので補足しておきたい。

    たしかに、解説部分でも脱学校とはすべての学校を廃止することではないと書いてはいるものの、続けて「技能交換所」について触れており、これも学校と呼ぶことができると指摘しているに過ぎない。

    つまり、イリッチは依然として(彼にとっての)学校は廃止しなければならないと考えているし、実際「学校の廃止を効果的にする」p.30のような表現も至るところで使っている。

    p.33の後半からp.41を是非読み直して欲しい。ここでイリッチは、英語でskill drillという表現を使って「技能センター」はあった方が望ましいと指摘している。解説者は、これも一般的には学校と呼ばれるだろうと言っているに過ぎず、これを「イリッチはすべての学校を廃止しろとは言ってはいない」と解説してしまうことは、読者に誤解を与えかねない失敗だったように思う(あるいは、単に多くの読者の読解が不十分なだけのようにも感じられる)。

    今井の『教育思想史』でも指摘されている通り、「イリッチは「学校が子どもの生活全般に手を伸ばすのを止め、技能訓練へと機能を縮小させることこそ、推奨されるべき」と主張していると解釈する方が正しいと思われる。

    結局イリッチは学校の廃止を主張していない、かのような感想ばかりで悲しかったので書かせていただいた。

    彼はたしかにすべての「学校」の廃止を主張している。ただし、彼の言う「学校」に限ってという話であって、『脱学校の社会』においては技能センターは学校の定義に当てはまらない。

  • 「生徒は教授されることと学習されることとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる」
     上記のような現象を「学校化」とし、それを批判する書。特に、経済格差によってそれがはなはだしくなると筆者は指摘する。
    その対策として、資料の自由利用や学習仲間のコミュニティの提案をする。
     訳者のいうようにこれは現実的でないかもしれない。しかし、原点に帰って「学校制度を通じてわれわれは何をしているのか」と、日本の教育を考える上でも大切なことだと思う。
     実際今日、国際教養大をはじめ、受験生から人気を集めている新学部形態はこういったもので、的を射ているかもしれない。

  • 文面から火花が散るような読書だった。初っ端から最後まで、とにかくアクセル全開。時代も文化的背景も違うので、確かに「本当か?」と思わせる主張もある。でも消費社会への考察とか環境問題への関心に関しては、現在でも十分に応用できるものだし、大部分において賛同できた。そういう社会の中での教育制度の捉え方に関しても、「今の時代に作者がいたら何を言っていたか」と想像を膨らませるような内容で面白かった。筆者が理想とする体制の下地はより整っているが、彼の問題意識が本質的に置かれている部分は変わっていないのが現状だと思う。

  • 訳書だからか、読みにくさはあるものの、"学校化"を批判し、学習の場というものはどうあるべきなのかを考えるためのヒントが得られる図書でした。英文を読んでみたい。
    題材及び教材へのアクセスをより開けたものにすること、共同で学べる仲間との繋がりを構築できる環境にすること等が改善案として書かれてた印象だけど、そこへのアクセスの前段階での救済処置も必要で、そこが1番大変なところなような気がしてならない。

  • 目から鱗!話がダイナミック。ツッコミどころは満載だけど面白い

  • 読みにくいが、読み終わったあとの達成感はすごい。“脱学校”と聴くと、学校廃止のようなニュアンスでとらえてしまうが、決してそうではなく“学校化された社会”から脱するコトを指摘している。一度は読むべき。

  • 学校化された現代社会・現代文化への痛烈な批判。的を得ているように感じる。

    「学校教育の自己目的化」という状況は起こっていると思う。学校に行くことが義務であり、学習は教えられないと出来ないと感じる学生のどれだけ多いことか。

    一方で、具体例には欠けているように思った。学習者同士のネットワークづくりを補助するシステムをつくれば、学習者が自発的に学習するようになると主張しているようだったが、本当に人々は自発的に学習するものなのだろうか?余暇が与えられたところで、時間の潰し方は他にいくらでもある。

    また、解説で述べられている通り、「脱学校化」は学校をまったく無くすことを指しているのではなく、学校制度に毒された社会から脱却することを指す、ということを忘れてはいけない。

    本書の原著が出版されたのは1971年と古く、当時のアメリカはスプートニク・ショック、キューバ危機から約10年、ベトナム戦争終結から約5年と、厳しい時代にある。日本と比べた場合の相違点はあまりにも多く、適用できるかと言われると、それは違うのではないの、という論説もところどころあった。

    脱学校論を読むのはこれがはじめてだったので、他の本にも当たってみたい。

    非常に刺激的な本だった。

  •  先日、某有名哲学者・内〇樹氏のブログで気になった記事を見つけた。「大学統廃合について(久しぶりに)」と題された記事で、おおよそ次のような主張だ。

     今、財界・政界からは「大学が増えすぎたせいで学生の質が低下している」という声が上がっている。国の予算配分にメリハリをつけて大学の統廃合を進めよ、と。だが大学の数が減って得をするのは誰か。他でもない、低学歴労働力を安価に雇用できる財界ではないか。たしかに大学の数が増えて学生の質が落ちたのは事実だ。しかし、それは「大学が増えすぎて日本の若者の知的な質が下がった」ということとは違う。大学が増えたことによって、日本の若者たちの高等教育を受けるチャンスは明らかに増え、全体の学力は(わずかなりとはいえ)底上げされたのだ、と。

     この人はよく根拠があやふやなまま議論を進めるところがあるが、今回も然りで「大学が増えて若者全体の学力は向上した」という主張の根拠は示されていない。おそらく根拠なんてないんだろうし、仮に大学入学後に若者の「学力」がいかに向上したかなんて統計があったとしても、「知性」(これは「学力」とイコールではない)そのものが本来数値化できる代物ではないんだから、どこまでも眉唾ものだ。

     このように無邪気に学校の効用を語ってしまう〇田樹氏とは反対に、本書は学校なる装置がむしろ生徒の知力育成を「阻害」しているということを、執拗に主張している。そもそも、本当に知識や技能を得たいと思う人は、学校がパッケージ(カリキュラム)にして供給する教育商品には頼らずに、自分なりの学びの仕方で身につけていくものだ。たとえば外国語ひとつをとっても、学校の語学授業で習得できたと自信満々に言える人は果たしてどれだけいることか。外国語を身につけるには、家庭環境、あるいは留学先の友人や恋人との触れ合いなど、学校外での経験を通じた方がはるかに効率的なのは、多分誰も否定しないだろう。

     しかし学校は、こうした学校外の経験を知力の形成要件として認めない。というより、あくまで学校自身が提供する教育商品を経由したものでなければ、これらの経験を生徒の知力として承認しない(できない)。卒業証書とはいわば、当該生徒がこうした学校のカリキュラムを通過したことで望ましい技能・知識を身につけていると保証する免状だが、こうした「教育の学校化」によって「教えられること」が「学ぶこと」と混同され、免状を得ることが能力を得ることと混同される。その結果、より長く学校に通っている者に対して人はあらぬ劣等感を抱かざるをえない。私たちが身につける知識・技能の大半は、学校の外で習得されるというのに。これが、著者のいう「想像力の学校化」という事態である。

     してみれば、内田〇氏の「大学は若者の学力向上に貢献している」という主張は根拠がないどころか、「学校化された想像力」の賜物であるようだ。そこにはどうも、学歴が高ければ高いほど人の知力・技能は高まるのだ、という発想が見え隠れする。ただ、それも理解できないわけではない。大学が潰れて真っ先に阿鼻叫喚が起こるのは、若者ではなく大学関係者なのだから、その(元)一員たる氏の立場からすれば、多かれ少なかれこんな主張になってしまうんだろうな。

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