- Amazon.co.jp ・本 (536ページ)
- / ISBN・EAN: 9784488010515
作品紹介・あらすじ
知の巨人、ウンベルト・エーコ待望の最新刊。ナチスのホロコーストを招いたと言われている、現在では「偽書」とされる『シオン賢者の議定書』。この文書をめぐる、文書偽造家にして稀代の美食家シモーネ・シモニーニの回想録の形をとった本作は、彼以外の登場人物のはほとんどが実在の人物という、19世紀ヨーロッパを舞台に繰り広げられる見事な悪漢小説(ピカレスクロマン)。祖父ゆずりのシモニーニの“ユダヤ人嫌い”が、彼自身の偽書作りの技によって具現化され、世界の歴史をつくりあげてゆく、そのおぞましいほど緊迫感溢れる物語は、現代の差別、レイシズムの発現の構造を映し出す鏡とも言えよう。
感想・レビュー・書評
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『シオン賢者の議定書』を小説のプロットに組み込み、歴史的事実と創作を織り交ぜて展開する、歴史小説。更に、主人公が二重人格という設定で、正直言うと、あまり楽しめなかった。ウンバルトエーコの小説は難解で、時代背景への基礎知識が必要だそうで、それが足りなかったという事。反省しなければならない。
例えば、プラハの墓地というタイトル。300年以上もの間、プラハでユダヤ人が死者を埋葬できる唯一の場所であり、15世紀半ばにプラハのユダヤ人地区であるヨゼフォフに設立され、長い年月をかけて約10万人が埋葬されたらしい。そしてプラハのユダヤ人墓地は、歴史上最も有名な反ユダヤ主義的陰謀の一つである「シオンの議定書」が生まれた場所でもあるのだ。
タルムード経典に記載された、選民のユダヤ人が非ユダヤ人(動物)を世界支配するという実現化への方針の道筋の陰謀論。
現代でもこうした陰謀論、プロパガンダやフェイクニュースがインターネット上に蔓延している。本書により、差別のメカニズム、作為に絡め取られる人間の性質を学べたら良かったのだが。虚実、人格の入れ子構造についていけず。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
冒頭であまりにもユダヤ人やフランス人についての反感が述べられていたり、フリーメーソンについての話が出てきたので、いったんお手上げになり、解説を読んだ。
解説によれば、舞台は十九世紀のパリ。偽書として名高い「シオン賢者の議定書(プロトコル)」の成立が物語の中心にあるとのこと。
贋造と判断するための基準、複製とオリジナルの関係性についての長年の作者自身による考察が反映されているといえるようだ。
主人公は十九世紀にすでに老境にある反ユダヤ主義者で、その人物の内面から当時のパリを透かし見るような趣の作品世界である、ということをまず押さえてから、もう一度読書に挑戦ということにしたいと思う。
うーん、難しい。 -
つい先ごろ亡くなったウンベルト・エーコの最新長篇小説。その素材となっているのは、反ユダヤ主義のために書かれた偽書として悪名の高い『シオン賢者の議定書』である。その成立過程が明らかにされてからもユダヤ陰謀説を裏付けるものとして、反ユダヤ主義を広めたい者たちによって何度も利用されている史上最悪の偽書だが、そんなものがどうして世に出ることになったのか。そしてまた、イエズス会、フリーメイソン、ユダヤ人、と時代や場所によって誹謗する対象を変えながらも、何度も息を吹き返しては現れる、この偽書が民衆に対して持つ意味とは。
記号学の大家としても知られるエーコ先生だが、こ難しい理論を開陳しようというのではない。たしかに、偽書の成り立ちについてくわしく語ってくれてはいるが、そこはあのドストエフスキーにも影響を与えたといわれるウージェーヌ・シューばりの大衆小説的技法によって、モデル的読者ではない初歩的読者でも飽かずに読ませる工夫がなされている。しかも、読み様によっては、ウンベルト・エーコの小説理論をそのまま具体化した見本としても読めるように書かれているから楽しみだ。
というのも、この本のストーリーの母体となった『シオン賢者の議定書』の成立過程を論じたものが、『小説の森の散策』(岩波文庫)の第6章「虚構の議定書(プロトコル)」にほぼそっくりそのまま載っている。もともとハーバード大学ノートン詩学講義(1992-93)として行なわれた講義を文章に起こしたもので、小説『前日島』を執筆していた当時のエーコの頭の中には、すでに『プラハの墓地』のストーリー(物語)が、あらかた完成していたといえる。
あとは、カピタン・シモニーニという主人公の人物像をふくらませ、縦横無尽に活躍できるよう、『シオン賢者の議定書』成立に関与する人物たちを、いつどこでシモニーニに出会わせるか、という鉄道のダイヤグラムにも似た精密な図式を仕上げればいい。ご丁寧なことに、そのプロット(筋)とストーリーを表に現したものが巻末に付されている。博覧強記を誇るエーコらしい、と思われるかもしれないが、そうではない。
エーコは、前述の『小説の森散策』の第1章「森に分け入る」の中で、ただただ、ストーリーを追っかけて、次に何が起こるか、最後はどうなるのかと読み続ける一般読者(経験的観客)と、遊びのルールを心得た上で遊びの同伴者になれるモデル読者を区別している。一般読者として物語を楽しむことはいっこうに構わない。ただ、エーコ自身は物語テクストの経験的作者としての存在には意味を感じていない、という。つまり、この扇情的な通俗小説を模した『プラハの墓地』というテクストもまた、モデル読者を想定して書かれているというわけだ。
パリの場末のいかがわしい界隈にある部屋の克明な情景描写に始まるこの小説は、いうまでもなくシューの『パリの秘密』や『さまよえるユダヤ人』などの連載小説(フィユトン)を意識したものだが、テクストはそう簡単なものではない。まずは主人公シモニーニの手記がある。それに、謎の人物でありながら、主人公の部屋に出入りするダッラ・ピッコラという名の神父が書き残すメモがある。さらに、それらの手記を人物の肩越しに覗き込み、読者に分かりやすく語りなおす<語り手>の存在がある。三種のテクストはフォントの異なる活字で明確に区別されている。経験的読者はそんなこと、はなから無視して読める。モデル読者は、三者の視点から読み分け、その異同の趣向を味わうことができる。
実際は複数の人物による度重なる捏造、複製、引用加筆の果てに成立した偽書を、シモニーニという典型的な文書偽造者に託したことにより、主人公はシチリアでガリバルディのイタリア統一運動に参加してみたり、パリでドレフュス事件に関与したり、と自在にいろんな場所、いろんな時代を往き来することになる。それらを無理なくこなすために、語り手はフラッシュバックやフラッシュフォワードという語りのテクニックを駆使する。また同様に、到底一人ではこなせないだろう仕事を可能にするため、「分身」のモチーフを採用して主人公に第二の人格を与えるという奇手まで使ってみせる。
小説家エーコの卓越した技量によって描かれる、社会の裏で暗躍する謀略、諜報合戦。それに従事する各国情報機関、あるいはイエズス会やフリーメイソンのような秘密結社、黒ミサの儀式を執り行う破戒僧、死体を隠した地下水路、といかにも大衆小説向けのキッチュな要素が入り乱れ、絡み合って物語は進行してゆく。その隙間を埋めるように点綴されるのが、デュマやバルザックからプルーストに至る同時代の錚々たる作家、芸術家の噂話。それと、文書偽造の手腕を認められてスパイ活動に携わる以外、これといって何をするでもない主人公の唯一の道楽である美食についての情報。『バベットの晩餐会』にも出てくる19世紀パリを代表するレストラン、カフェ・アングレの献立をはじめとするフランス料理の列挙、と楽しみどころはいろいろ用意されている。
経験的読者として読んでも期待は裏切られないが、モデル読者として読むのなら、先にあげた『小説の森散策』などの文学評論を手元において読まれると作家の手の内を読むことができ、よりいっそう愉しみが増すにちがいない。こういう作品に効用を求めるのも無粋だが、読んでいてはたと膝を打ったところがいくつもあった。その一部を引いておきたい。
「人々はすでに知っていることだけを信じる。これこそが<陰謀の普遍的形式>の素晴らしい点なのだ」
「おわかりでしょう。普通選挙によって独裁体制が実現できる! あの悪党は無知な民衆に訴えかけて強権的クーデターを成し遂げた! 」
「愛国主義者は卑怯者の最後の隠れ家だと誰かが言いました。道義心のない人ほどたいてい旗印を身にまとい、混血児はきまって自分の血統は純粋だと主張します。貧しい人々に残された最後のよりどころが国民意識なのです。そして国民のひとりであるという意識は、憎しみの上に、つまり自分と同じでない人間に対する憎しみの上に成り立ちます。」
19世紀フランスの話だというのに、昨今の世情を見るにつけ、何かと引き比べて考えてしまう文章がやたら目につく。最後に、「虚構の議定書」の中から次の文章を引用して結びとしたい。「こうして読者と物語、虚構と現実との複雑な関係を考察することは、怪物を産み出してしまうような理性の眠りに対する治療の一形式となるのです」。エーコ亡き後も、我々は決して理性を眠らせてはなるまい。 -
ウンベルト・エーコの遺作となってしまった小説だけに、今年ラストの55冊目として読ませてもらった。感想は、、、最高!『フーコーの振り子』と、『前日島』と、『バウドリーノ』を足して、3で割って、10掛けたように刺激的な時間だった!まさにエーコの集大成。こんな小説を読めるなんて、おれは幸せ者だ。来年はエーコの評論も読んでみよう。あぁ、いい一年だった。皆さん、良いお年を。
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19世紀初頭から末にかけて偽造文書作りをなりわいとした者を通じて描かれる、憎悪と歴史。
記憶を取り戻すため、日記を書くことにしたという体裁でスタートするが、どうも様子がおかしい。ときおり倒れるようにして眠ると、別の人間が自分の日記の続きを書いている。「語り手」はその2人の記述を補うように「物語」を書き足す。
エーコらしい、メタフィクションだといってしまえばそれで終りなのだが、エーコらしく、隅々に歴史や美術、当時の風俗に関する描写がちりばめられていて楽しめる。
語り手によるフィクションでありながら、実在する登場人物たちを華麗に操作しながら語られる、ある種の歴史であり、その意味で、虚構と事実と”語られたもの”との交錯がテーマ、ともいえるかもしれない。19世紀においては、それらはほとんど区別できなかったようだし(意図的に区別せず利用した場合もあったようだし)、その点は、実は現代でも同じだ(トランプ氏をみよ)。
社会が動くとき、そこには”作り出された”現実とともに、リアルな憎悪といった感情が必ず伴い、だからこそ、私たちは理性と言うものを発明せざるを得なかった。何もかもを放り出して理性を忘れた動物となるとき、人は想像もできないほど感動的に、残酷になれる。だからこそ、私たちは理性的な語りをし続けなくてはならないのだ。 -
史実の中に巧みに虚構を立ち上がらせるのは、ウンベルト・エーコの得意とするところ。しかしそれを単純に虚構だと割り切って読むことが出来ないのもまたこの作家ならではのこと。そのことを肝に銘じて読まねばならないと自戒しつつ読み進める。
「薔薇の名前」を初めて読んだのはもう四半世紀以上前のこと。歴史の中の「もしも」を推理小説風に描いた作品は単純にエンターテイメントとして面白く、ショーン・コネリー主演の映画も素晴らしかった。しかし時を経て読み返すと、輻輳し縦横に入り組んだ話の全体像、あるいは、小さなエピソードが意味する暗喩を一つ一つ受け止めるには文字を追う必要があると、思い直した。映像はともすれば勧善懲悪の物語を解り易く描きがちだから、自分の頭で考えようとする意思を眠らせてしまう。しかし複雑な話は複雑なままに受け止める必要がある。世の中が混迷するにつれその思いは強くなる一方だ。例えば「永遠のファシズム」、「歴史が後ずさりするとき」で語られるようにエーコは何か一つのことに狂信的に集団を纏めようとする意思、力、組織に極めて懐疑的だ。そのことは世の中が不透明になる時にこそより意識しなければならないことでもある。本書でも何を置いてもそのことを思い浮かべながら読まなければならないだろう。
本書ではシオニズム、イエズス会、フリーメイソンなどややもするとオカルト的に扱われ、いつまでも都市伝説のように語られる世界的な陰謀説が、如何に虚構から生まれ出てくるかという物語となっている。「フーコの振り子」、「前日島」、「バウドリーノ」とエーコが繰り返し取り上げるモチーフでもあるが、欧州人でない身としてはもつれあった複数の糸の色の違いを今ひとつ実感できないもどかしさはあるとは言え、驚くべきは(エーコに限って言えば本当は驚くべきではなく、当たり前のことだが)ほとんどが史実から成り立っているという事実であるだろう。人は本当に騙され易い。そのことを歴史は証明する。少しくらい可笑しなところがあっても信じたいことだけを信じてしまう癖が人間にはある。それが大儀や正義という仮面を被っていれば尚更のこと。そのことをエーコは痛烈に批判する。
物語の構造は如何にもエーコの作品らしく、とある手記を第三者が語るという形で始まる。しかし「薔薇の名前」のように手記の中の物語として作品全体が進むのではなく、複数の視点が常に入れ替わり、入れ替わる視点の持ち主である登場人物もまた彼らの過去の物語と手記の記された時点での現在とを交互に語るという手の混んだ作りとなっている。読むものは、答えの出ている過去と、答えの未だ出ていない過去を行き来する手記の作者の物語を聞きつつ、それら全てが過去である現代人としての視点も持ちながら(例えばナチズムによる最終解決のことを思い浮かべながら)物語を読むことになる。つまり自然と幾つもの似たような過去の構図を現代人の視点で重ね合わせて見詰め、狂信的な出来事が決して過去の野蛮な未開の人々によってだけではなく啓かれた筈の現代でも容易に起こり得る(起こりつつある)ことなのだということに思い至る構図となっている。ここに9.11以降のエーコの主題が鮮明となる。
とても示唆的だと思うのだか、世界史で習うような主義主張という分かり易く単純化した世界の裏側で、様々な思惑が絡み合い、時に原理原則を曲げても体制の保全に走ろうとする人々ばかりが描かれる。これに対して手記の作者である登場人物は、結果として祖父の意思を受け継ぐという高尚な意図の下、数々の偽装書を手掛けるが、その実、祖父の考え方を受け継いでいる訳ではなく自身の欲にのみ忠実であるということ。そのことが、美食に対する欲望として特に強調され、長々と書き連ねられる料理の名前を聞くだけでいつの間にか辟易とした気分が醸成される。料理の名前の列挙は象徴的に使われ、手記の作者の心の揺れと共に長さが伸び縮みし、最後にはほとんど語られなくなる。それと伴に手記の作者は祖父の考えに取り憑かれ、義務と声高に語り、正装(正義)を求める。そこに欲望のみに忠実であった手記の作者ですら何か主義のようなものに絡め取られていく様が描かれている、とも読める。
最後に語られる時限爆弾の仕掛けの説明に込められた巧妙な復讐の意図を、金で人の心すら操れると思った手記の作者は、見抜けなかった。最後にその首尾を記せなかったのは、騙すことと騙されることを巧みに利用してきた手記の作者の自業自得でもあるだろう。しかし、そんな風に単に悪を懲らしめる物語をエーコが書く筈もなく、「博学ぶった無用な説明」で明かされるように、この人物を歴史から取り除いてもまた別の人物が似たようなことをしたに違いなく、人間の業とも言える狂暴さこそが強調されていることなのだ。
『しかしよく考えてみれば、シモーネ・シモニーニも、異なる何人かの人間が現実に行ったことをまとめている以上、コラージュの産物としてではあるが、ある意味で存在したと言える。むしろ、実際には、今でも私たちのあいだに存在している』―『博学ぶった無用な説明』
2016年、この混迷の時代にウンベルト・エーコを失ったことは途轍もない損失だったと思う。 -
先頃亡くなったウンベルト・エーコの遺作である。
テーマは、ナチスのホロコーストの根拠とされたという、世紀の偽書「シオン賢者の議定書」。
稀代の碩学は、この議定書や他の歴史的な事件の背後に、一人の偽文書作成者、シモーネ・シモニーニを配する。彼が狂言回しとなり、数々の「陰謀」が如何に計画され、実行されてきたか、その裏側を明かしていく。
語り手はシモニーニだけでなく、ダッラ・ピッコラと称する神父がおり、さらに神の視点のような「解説者」が加わる。シモニーニは記憶に問題を抱える。自らが誰で何をしてきたのか確かめるため、回想録を記し始める。彼が書き物をしていないとき、ピッコラ神父が彼のノートに書き込む。だが神父自身も自分が何者なのか、よく覚えてはいない。そんな状態の2人の書き物の合間に、「解説者」がときどき現れて解説する。三者の傍白はそれぞれ違う字体で記される。
語り手が複数で、そして時に記憶が曖昧であるという構成は、物語に不安感と曖昧さをもたらす。陰謀とはそもそも、白日の下に晒されたりはしないものだ。テーマと相まって靄の中を行くように、読者も歴史の裏舞台を手探りで進んでいくことになる。
若き日のシモニーニは、身寄りを亡くし、悪徳公証人の元で働くことになる。ここで偽書作成能力を身につけたシモニーニは、その腕を活かして歴史的事件に荷担していく。
炭焼き党、イエズス会、フリーメーソン、ロシア情報部、黒ミサ教団。さまざまな団体と関わりを持ちつつ、あちらこちらで人を裏切りながら、報酬を得て、美食を楽しむシモニーニ。
イタリア統一、パリ・コミューン、ドレフュス事件。シモニーニは歴史を渡る。そしてクライマックスとなる「シオン賢者の議定書」偽造。
シモニーニは、幼少時、ユダヤ人を嫌う祖父から、ユダヤ人が如何に忌避すべき人種であるかをたたき込まれていた。彼の文才は、ユダヤ人に関する俗説から、人々がいかにも本当らしいと思えるようなユダヤ人像を造り出す。プラハの墓地に葬られたユダヤ人賢者が甦り、世界征服の議定を行うという形で文書はできあがる。
シモニーニの回想録が進むにつれ、彼がなぜ記憶を失ったか、そしてピッコラ神父が何者かが朧気にわかっていく。このあたりの謎解きはミステリの味わいも感じさせる。
だが、物語を覆う霧は完全には晴れない。物語の終盤で、足を洗って隠居生活に入るかに思われたシモニーニは、1つの任務を命じられる。彼はふらふらと成すべきことを成しに向かう。その先は明るいようには見えない。
シモーネ・シモニーニなる人物は、もちろん、エーコが生み出した架空の人物である。
だが、その他の主要人物はほぼ実在の人物だというから恐れ入る(シモニーニの祖父さえそうだというのだ!)。エーコは複雑な歴史の糸を巧みにほどき、どの時点でどの場所にシモニーニがいることが適当だったかを割り出している。
秘密結社の内情、美食家を唸らせるメニューの数々、パリの下町の様子、恐るべき黒ミサの乱痴気騒ぎ等、細部の描写もさすがは博覧強記の人といったところか。
しかし、全体として印象に残るのは、世論の熱狂の根拠のなさ、だろうか。
世には多くの陰謀が確かにあるのかもしれない。だが、どれが成功し、どれが成功しないかは紙一重だ。あるときはしがない偽文書作りが成功を収めるかもしれないが、一歩間違って彼が命を落としていれば、サイコロのまったく別の目が出たかもしれない。成功したものが正しいとは限らないし、成功しなかったものがまったくの悪だったかと言えばそれはわからない。
いったいに、歴史のうねりがどちらに向くかは実は些細なことが決めているのかもしれない。
私たちが今「正しい」と信じている通説は本当か? 100年経ったら、そんなばかげたことを信じていたのかと後世の人々が呆れるようなことなのかもしれない。
あるいは、誰かが信じさせようとしていることを、ころりと騙されて信じてしまうことがあるのかもしれない。そんなことが起きえないと誰が言えようか。
霞の中で、ラビリンスを行く心許なさを残して、物語は閉じる。
私たちはシモニーニとどれほど違うのだろうか。
*「薔薇の名前」は何とか読み通したけど、「フーコーの振り子」は挫折したっけなぁ・・・(==)、とつい遠い目をしてしまいました。エーコ先生、長いっす・・・。でも、完全に読み解けたとは思えないですが、なかなかスリリングな読書体験でした。合掌。 -
よく考えずに手を出したらとんでないお話だった。
主人公はユダヤ人嫌いの祖父に育てられたシモニーニ。祖父の死後、公証人のもとで文書偽造に関わった彼はやがてその腕を買われ、各国の秘密情報部と接点を持つようになり、守備範囲を政治的な文書へと広げていく──というストーリー。主人公以外の人物はほぼ全員が実在。さまざまな人種、思想が入り乱れての陰謀、策略の上塗り大会。
構成も凝っており、主人公とある神父の書簡のやり取りから始まる。主人公はこの神父と自分が同一人物ではないかと疑っており、そんな主人公の曖昧な記憶を埋めるかのように「書き手」が物語を補足する。書簡の中には身に覚えのない死体が登場し、時系列もあやふや。この殺人を巡る展開はミステリでもあり、そう思うとストーリー全体がフーダニットにも思えなくはないのよね。
勉強不足に加えて、実在の人物・事件と身構えたので余計に難しく感じてしまった。逆にフィクションだと思い込む方が面白く読めるのかも。 -
エーコ、亡くなるのと販売が前後した遺作、ってことでいいのかな。 去年の年始くらいから発売予定になってて待ちくたびれたところはあったけれども、まさか亡くなるとは…か
ユダヤ人迫害の根拠の一つながら実は偽文書だったと言われる「シオンの議定書」の誕生を巡るミステリー。 ややこしいのは主人公シモニーニ以外の登場人物は実在したってこと。とはいえ、あくまでフィクション。寝不足気味の通勤電車の車内ではなかなか読み進めないんだけど、そんなブツ切れの時間に読んでも読み進められるくらいには読みやすいし、特に時代についての知識がなくても読むのには困らない。 -
陰謀論という虚構が「現実」として成立するメカニズムを、物語という形式をもって書き出した傑作
シモニーニが文書偽造をしていく過程で人間の醜い部分を発見する箇所は他人事と思えない
娯楽小説としても、意欲を唆る描写が豊富にあり読んでて楽しかった
かくいうシモニーニもユダヤ人やドイツ人、他人種への偏見に取り憑かれてて「ざまぁねえな」と思った