HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

  • 東京創元社
4.10
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感想 : 191
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  • Amazon.co.jp ・本 (393ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784488016555

作品紹介・あらすじ

ノーベル賞受賞作家マリオ・バルガス・リョサを驚嘆せしめたゴンクール賞最優秀新人賞受賞の傑作。金髪の野獣と呼ばれたナチのユダヤ人大量虐殺の責任者ハイドリヒと彼の暗殺者である二人の青年をノンフィクション的手法で描き読者を慄然させる傑作。

感想・レビュー・書評

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  • チェコ・プラハで1942年におきたラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件を主題にした1冊である。
    ハイドリヒはナチスの将校であり、その冷酷さから「金髪の野獣」と呼ばれ、またホロコーストの推進者としても知られる。

    タイトルの「HHhH」とは、「Himmlers Hirn heißt Heydrich(ヒムラーの頭脳、すなわちハイドリヒ)」を表す。ヒムラーの意向に添ってハイドリヒが実に有能に働いていることを、ゲーリングが揶揄したひと言だという。ハイドリヒは上司ヒムラーに忠実であったが、心服していたわけではないようだ。
    (著者は、本書のタイトルとしては、ハイドリヒ暗殺作戦の暗号名であった「類人猿(エンスラポイド)作戦」をあてたかったと述べている。なぜ「HHhH」になったのかはわからない。)

    ハイドリヒ暗殺を主題に据え、主人公は暗殺に携わったチェコ人クビシュとスロヴァキア人ガブチークと言ってよいのだろうが、本書の主眼はむしろ、この暗殺事件をどのように描くかの葛藤である。史実を元に実在の人物を誠実に描くにはどうすればよいのか、著者の内面における戦いの記録と言ってもよい。

    著者は事実に反したこと、史実で語られている以上のことを想像で書くことを拒んでいる。
    ハイドリヒ周辺、暗殺者周辺、そして執筆にあたっている著者自身の描写が短い章立てで場面転換される。
    著者は史料を丹念にあたりながら、この場面は確かにあったと思われる、いや、これは書きすぎだろう、と呻吟しつつ、重い筆を進めていく。小説のスタイルを取りながら小説ではない、さりとてノンフィクションとも言いにくい。基礎小説と著者は呼んでいる。

    初めはいささか偏執的とも思える著者の「誠実さ」に辟易すらしながら、物語が進行するにつれ、いつしかプラハに、1942年に連れて行かれるのである。それはさながら潜水艇に乗り、徐々に歴史のその場に潜行していくようだ。操縦するのは著者、読者は乗員。どこへ連れて行くかは著者次第だが、操縦士である著者もまた、その現場に実際に触れることも、そこに参加することもできない。できるだけ近くに行こうとはするが、入り込むことのできない、そして結末を変えることができないもどかしさが最後まで残る。歴史上の人物たちに好意や怒りを抱けば抱くほど、そのもどかしさは募っていく。

    圧巻はやはり、暗殺者たちが立てこもった教会の襲撃場面だろう。負けることがわかっていながら絶望的な闘争を続ける実行グループの描写は忘れえないシーンである。
    その他にも、暗殺事件の報復行為で全滅させられた村、実行グループを匿ったために拷問を受けたり、自決したりした人々、暗殺事件以前にドイツチームと闘って大勝してしまったが故に命を落とすことになったサッカー選手たちなど、短く触れられる中にも心に残る描写が多い。

    ナチスを扱った著作は数多い。邦訳のないものも含めれば途轍もない数になりそうだ。
    ホロコーストを扱ったものに関しては、折りに触れて読んできたつもりだったが、本書を読んでいて、(副次的ではあるが)自分の読みの浅さや本の探し方の半端さに思い至ることになった。膨大な悲劇をどこまで咀嚼しきれるのか相変わらず心許ないのだが、この本で得たものも道しるべの1つにしながら、また折に触れ、読んでいきたいと思う。

    そう、著者も最後に語っているとおり、この種の話に終わりはないのだ。


    *プラハのオペラ座からメンデルスゾーンの銅像が取り外される(ユダヤ人であるため)話を題材にして、チェコ作家、イージー・ヴァイルが小説を書いているという。この人の本はいずれ読んでみたいと思う。

    *簡単に触れられているフランスでの一斉検挙(ヴェルディヴ)は、『サラの鍵』の主題だった。

    *ジョナサン・リテルの『慈しみの女神たち』は、本書の少し前に出ている。こちらについての論評も興味深く読んだ。

    • ぽんきちさん
      薔薇★魑魅魍魎さん

      わ、ありがとうございます。
      見つけていただいて感激です。

      図書新聞さんに目を留めていただき、選んでいただいたこと、励...
      薔薇★魑魅魍魎さん

      わ、ありがとうございます。
      見つけていただいて感激です。

      図書新聞さんに目を留めていただき、選んでいただいたこと、励みになります。
      前回がラマチャンドランの『脳のなかの天使』でした。
      前回も今回も読み応えのある本だったなぁと思います。よい本に巡り会えるのは幸せなことですね。

      薔薇★魑魅魍魎さんの渾身のレビューもまた拝読するのを楽しみにしています。
      2013/09/22
    • sifareさん
      初めまして。読ませて頂いたどのレビューもしっかりと向き合って深く書かれているのですごいなぁとフォローさせて頂いたらこちらにも登録して頂き恐れ...
      初めまして。読ませて頂いたどのレビューもしっかりと向き合って深く書かれているのですごいなぁとフォローさせて頂いたらこちらにも登録して頂き恐れ入ります。始めたばかりなのでまだ整理さえできていないので恐縮です(・_・;)

      私もホロコーストに関した著作は読んできていますが、この本もまた新たな側面に光を当ててくれているようで読むのがとても楽しみです。
      どうぞ宜しくお願いします。
      2014/06/14
    • ぽんきちさん
      sifareさん
      フォロー&コメントありがとうございます。

      レビューに目を留めていただきましてこちらもありがとうございます。各作品に...
      sifareさん
      フォロー&コメントありがとうございます。

      レビューに目を留めていただきましてこちらもありがとうございます。各作品にどのくらい迫れているのかわかりませんが、自分なりにまとめていきたいと思っています。

      safareさんの本棚、自分と重なっているもの・違うもの、興味深く拝見しました。
      今後もよろしくお願いいたします(^^)。
      2014/06/14
  • 符牒のようなタイトルと、その文字だけを使った装丁が鮮やかで、ずっと気になっていた本。奥付けを見ると、今年の1月ですでに9刷がかかっている。その数字は本当なのか、ガイブンなのに!とちょっと目を疑ってしまいながら、ぱらっとめくってみた。

    副題にあるとおり、1942年のプラハで起こった、ゲシュタポ長官にして当時のチェコ総督、ラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件を核に据え、そこに至るまでと、その先を追った小説。当時の資料や関連書籍を丹念に追い、それをまとめる上での著者・ビネさんの逡巡が随所に顔を出しつつ、時系列的にハイドリヒの足跡と当時の欧州外交、彼をどうにか排除できないかと考える亡命チェコ政府の動きが語られる。

    フランス人作家にわりと見られる、ある種の冷やかさと軽やかさをもってハイドリヒの足跡が語られるさまは、事実を借りた著者の巧みな思考ダダ漏れ小説のようですごく面白かったけど、「私はこれと似た作風を知っているな」という既視感が常にあり、帯で各国の著名作家が絶賛しているのにならうような、手放しの絶賛には至らなかった。それはたぶん、私が沢木耕太郎作品を結構頻繁に読むからなのだろう。沢木さんの作品には、「私ノンフィクション」と評されることもあるように、取材・執筆過程での沢木さんが登場するものがそこそこある。沢木さんの作品は別に自分を題材に取っているわけではないが、主題を追っていくうちに起こる、自分の思考の波も記録されているので、「著者≒登場人物の沢木耕太郎」的な要素として、読み手にはとらえられる。もちろん、沢木作品はノンフィクションに軸を置き、この作品は(事実と事実をつなぐ)フィクションに軸を置いているので、似ているとはいえ、まったく別の成果品だし、どちらがよくてどちらが悪いというものではない。まあ、ビネさんが、ハイドリヒと彼を討とうとするチェコ側の動きを自分の作品として生成するときの逡巡がそう思わせたところもあるし、以前読んだ、ベルリン・オリンピックのプロパガンダ映画を作った映画監督のレニ・リーフェンシュタールを追った沢木さんの作品、『オリンピア ナチスの森で』の素材と構成が、この作品の流れに当たらずとも遠からずだった、という気がしただけだと思うけど。

    とはいってもただの思考ダダ漏れ小説ではなくて、事実を踏まえて再構成する、当時のひとつひとつの場面の描写は劇的で冴えている。ビネさんの露出を抑えれば、恐ろしく劇的な国際歴史陰謀小説としても高い評価を受けるだろうし、露出があってもその場面をコントロールすれば、ハイドリヒ暗殺事件の取材記としても高い評価を受けるだろう。ナチス・ドイツがヨーロッパ戦線でやらかしたことはあまりにえげつなすぎて、ノンフィクションや記録文書で目にすると、現代日本に暮らす人間の標準メンタルレベルでは耐えきれないと思うので、このあたりのノンフィクションを読む勇気や機会を持ちたいと思っていらっしゃるかたには、人間のやらかす単純で残酷で愚かな所業の行きつく先(ハイドリヒが死ぬとかナチが敗れるとか、そういう因果応報的なことではなくて)に目を向けるきっかけにはなると思う。

    『HHhH』という作品ではあるけれど、なんだか、『HHhH』という作品がまた別に想定されていて、そのメイキングのようにも受け取れる側面も持っている、「こんな本ですよ」とひとことで答えられない面白さと厚みを持った本だった。いささか駆け足で読んでしまったので、再読の時間をぜひ持ちたい。

  • アウシュビッツや、ヒトラーや、ユダヤ人大虐殺
    ホロコースト
    こんなことがあった
    恐ろしいことが起きた

    ということは、
    夜と霧もよんだし、他にも本や、
    映画で切り取られた部分の知識はあったけど
    ほとんど何もしなかったということに
    気付かされた。
    初め半分は、歴史背景や、人物、場所など
    調べながら読んだ

    ちょっと大変。

    単なる物語なら、そこまでしなかったと思う
    これは、正しいフィクションとでもいうか

    僕という作者が、おそらくの範囲の域を出ない
    部分があることを承知の上で、事実をもとに
    書いているから自然にそうしたくなった。

    こういう歴史の勉強の方が頭によく入るわー

    そして、最後に行くにつれ
    語ることが、語れなかった人のきもちを
    伝えることが大事だと思わされる。

    本当に歴史に疎かったけど
    僕がたびたび登場し、現代と当時を行き来する
    また、客観的に、また、感情的に
    書かれても、全く違和感のない小説になっていて
    素晴らしいと思いました。

  • これを傑作と呼ばずに、傑作と呼ばれる物語があるだろうか
    これを文庫にしないのは、東京創元社の怠慢の一つだ

  • タイトルの「HHhH」は、「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」という文章のドイツ語での略称。
    ヒムラーは聞いたことがあるけれど、ハイドリヒは聞いたことがなかった。
    誰?

    ”ハイドリヒはナチス・ドイツの悪名高きゲシュタポ長官にして、〈第三帝国で最も危険な男〉〈死刑執行人〉〈金髪の野獣〉などと呼ばれ、「ユダヤ人問題」の「最終解決」の発案者にして実行責任者として知られている人物である。”(訳者あとがきより)

    この小説は、このハイドリヒをチェコスロヴァキアの兵士が暗殺するまでの話だ。
    しかし、これを小説と言っていいのか。

    真実を捻じ曲げないために過剰なまでに小説的な表現を避ける作者。
    ドラマチックに書こうと思えばいくらでもドラマチックにかける題材を、淡々と文献で確認のとれたことだけを書いていく。

    その代わり作者が何を考え、感じ、事件を、登場人物たちをどう思っているか。
    その表現手法はどのような意図で選択したのか。
    こと細かに作者は語り続ける。

    ”〈歴史〉だけが真の必然だ。どんな方向からでも読めるけれど、書き直すことはできない。”

    ハイドリヒについて執拗に語り続ける作者が、その暗殺者たち、ある意味この小説の主人公たちと言っていい彼らをストーリーに組み入れるまで200ページ近くもかかる。
    (名前だけなら最初から出ているということに気がついたのは、読み終わってからだった)

    暗殺者がなぜ二人いるのか。
    ナチス・ドイツはチェコスロヴァキアを分断し、チェコを占領し、スロヴァキアは形の上では独立を認めたのだ。
    イギリスに逃げたチェコ政府の高官は、チェコスロヴァキアの威信をかけて二人の暗殺者を選び出した。

    この辺の歴史には詳しくないので、暗殺が成功したのか失敗したのかはわからない。
    本来なら手に汗握って読むところだけれど、作者がそれを望まないのでしょうがない。
    淡々と描かれた文章を淡々と読む。

    が、時間は止まらない。
    暗殺のシーンの後も話は続く。もちろん実際にも。
    そして、暗殺というのは殺す人と殺される人だけのものがたりではないのだ。

    愛する祖国のために暗殺者たちに協力する人たちがいる。
    上司の機嫌を損ねないために必死で犯人を捜そうとする人たちがいる。
    メインの登場人物たちではない、名もない(実際にはあるけど)人たちの話を読みながら心を打たれている自分がいた。

    ”この物語も終わりにさしかかり、僕は完全に虚しくなっている自分を感じる。ただ空っぽになっているのではなく、虚しいのだ。ここでやめてもいいけれど、ここでやめたのでは具合が悪い。この物語に協力してくれた人々は、ただの脇役ではない。結局は僕のせいでそうなってしまったのかもしれないけれど、僕自身はそんなふうに彼らを扱いたくない重い腰をあげ、文学としてではなく―少なくとも僕にその気はない―あの一九四二年六月十八日に、まだ生きていた人々の身に何が起こったかを記すことにしよう。”

    作者が書きたかったのはそれだったのだ。
    限りなくノンフィクションのような小説。
    歴史を作っているのは、その時を懸命に生きた人々なんだなあと思い知らされる。

  • 記憶に残る本がまた一冊。
    作者の紡ぎ出す一節一節に、惹き込まれ、寄り添い、心を震わす。

    勇者だけでなく彼らに協力し同じ時間を共に生きる人々。作者の彼らへの眼差しが力強く表され、厳かに捧げるべき敬意と弔意を今の時代の我々へと繋げてくれる。

  • 『あるテーマに深い関心を寄せると、何かにつけてそこに引き寄せられてしまうことがわかるのはとてもおもしろい』―『11』

    こんな小説は読んだことがない。

    ローラン・ビネの小説を読むのは二冊目。最初に読んだ「言語の七番目の機能」も風変わりな小説ではあったけれど、こちらは極端に言えば冴えない学者と古いタイプの刑事が相棒となって事件を解決するというシャーロック・ホームズ的推理小説と言ってもいい。実在する哲学の著名人が多数登場し構造主義と脱構造主義の対立やら大統領選をめぐる仏政界の左派と右派の駆け引きが絡んだ実際の出来事が巧く配置された虚実混沌とした世界が描き出されているとはいえ、小説の形式として変わったところはない。ところがこの「HHhH」(これが何を意味するかは中盤に明らかにされる)は、歴史上の事件を扱っているのだが、作家の言葉を信じる限り(なんていうのも小説読みとしては可笑しな言明だが)資料の空白を埋めるべく想像されがちなストーリーを排除した読みもの。だからといってドキュメンタリーでもない。描こうとしているのは実在の人物たちの、歴史の脚色を施されていない、物語である(再び、作家の言葉を信じる限り、ではあるけれど)。それをビネは「基礎小説(アンフラ・ロマン)」と呼ぶがその意味は定かではない。因みに、仏語の「アンフラ(infra)」は英語の「下(below)」に当たる。

    「史実に基づく」というような注釈付きの映画や小説が陥りがちの、作家や脚本家や監督の思い入れたっぷりのドラマというのは多々あり、それらは通常歴史映画とか歴史小説などと呼ばれるけれど、実際は年表的な意味での「歴史」というより結局のところ解釈(あるいは創作と言ってもいいけれど)であって、事実かどうかは定かではない。もっとも、歴史上の出来事に限らず、万人が同じように認識する(出来る)事実なんてものがあるのか不明だけれども(そんなことを思う故に敢えて読みたくない作家もいたりするのだけれど)。ローラン・ビネも同じような考えをいわゆる「歴史もの」に関して抱いているらしく、この小説の序段では、そんなことをくどくどと語る。

    『そういうわけで、僕はこの物語にいくらか様式的な体裁をつけることにする。そのほうがむしろ都合がいいのだ。というのも、これから語るエピソードによっては、あまりに資料を集めすぎたせいでどうしても自分の知識をひけらかしたくなる気持ちを抑える必要が出てくるものもあるから。この場合にかぎって言えば、ハイドリヒの生まれた町に関する僕の知識は、いまひとつ確実でない。ドイツにはハレという名の都市が二つあって、今、自分がどっちの町について語っているのか、わからないのだ。さしあたり、それにはこだわらないことにしよう。いずれわかるだろうから』―『13』

    『史実があると都合がいいのは、リアルな効果を考慮しなくてもいいことだ。この時期の若きハイドリヒをそれらしく演出する必要がない。一九一九年から一九二二年まではハレ(正しくはハレ=アン=デア=ザーレ、ちゃんと確かめた)の両親の家で暮らしている』―『20』

    そう、この小説では作者がひっきりなしに語りかけてくるのだけれど、それは時にこの作品を書く動機に関してであったり、作品自体の進捗についてであったり、同じ事件を扱った他の作品についての批評であったり、文学に関してであったり、映画やその演者に関してであったりする。なおかつ、作家の「現在地点」とも呼ぶべき立場は小説の進捗によって変化する(あるいは変化しているように見せかける様式を採用している)ので、余計にややこしい。つまり、読者を単純に歴史物語の世界に放り込んだりしないのだ(ナイーヴに額面通り受け取るなら、その態度は好感が持てるものだ)。そのくせ、歴史の授業を聞かされているような、映画批評を聞かされているような、はたまた語られるべき物語を小気味良く聞かされているような中途半端な立ち位置を強要されているにもかかわらず、読むものは歴史の世界に知らず知らずのうちにのめり込んでしまう。断章形式で綴られているのも、これが制作過程のメモの集まりであるかのような錯覚を醸し出しつつ、歴史上の出来事を余計なストーリー仕立てにしてしまうことを巧みに回避する様式として効果的。

    語られる事件は、第三帝国支配下のチェコ・スロバキアにおけるナチの親衛隊大将にして保護領総督(ボヘミア・モラヴィア総督)、そして「最終解決」の立案者であり実行責任者でもあったラインハルト・ハイドリヒの暗殺計画。その実行者ヨゼフ・ガブチーク(WiKiだとガプチーク)とヤン・クビシュの物語を書きたいのだと作家は言う。けれどより頁を多く費やすのは殺されたハイドリヒの人物像についての方(題名からして、それは明らか)。非道の人物ではあるけれど、ビネの口調はごく普通の有能な一人の人間を描くように努めているかに思える。事件の性質を考えれば、暗殺計画の実行者を英雄扱いし、殺された者を悪者とする視点で文章を綴りたくなる(と作家もその誘惑について認める)だろうけれど、細部に拘っているという告白にもある通り、細かな史実を裁定しながら書き進めるというスタイルでカモフラージュしながら、人間性というものについての洞察に読者を導いているようでもある。残された公式文章や記録されている言葉なども効果的に引用し、様々な関係者の視点から描写されたハイドリヒは立体的な人物像として浮かび上がる。それでいて妙な感情移入は起こらない。もちろん、暗殺計画を立案実行する側の人物たちも同じように描かれていくのだが、どうしてもハイドリヒの印象が強くなる。

    あるいはこの作品の根源には、ビネ自身がスロヴァキアで過ごした時に味わった言葉にしかねる思いを晶出させる意思のようなものがあるのだと理解してみることもできるだろう。しかし、この小説の特徴を語れば語るほど、実は小説家が意図していたかも知れないことから遠ざかってしまうような気分も味わう。なのでこれ以上語らないことにするけれど、この本を読むことの最大の特徴は、気付かぬ内に随分と色々な事柄について考えさせられている自分に気付かされることだと思う。ローラン・ビネは未訳の本の刊行が待たれる作家の一人だ。

  • やっと読み終わった…
    1942年の5月、ドイツ帝国占領下のチェコ・プラハで起きたラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件ー「類人猿(エンスラポイド)作戦」と呼ばれた作戦を担った亡命チェコ政府の暗殺部隊の戦いに焦点を当てた作品。主人公はヨゼフ・ガブチークとヤン・クビシュの二人の兵士、そして敵役は「金髪の野獣」と恐れられるラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将。

    本人は本書の中で「小説」と表現しているけれど、どう分類するかすごく難しい。ルポルタージュの要素もあり、とはいえ資料のない部分は創作に頼らざるを得ないので小説の割合も大きい。更に、著者本人の思考が主張しまくってくる。イメージとしては、承認欲求の強い歴史小説家が案内人を務める類人猿作戦のドキュメンタリー番組かな…著者本人が案内人としてコメントしつつ、著者本人の過去にまつわる再現VTRもあり、類人猿作戦の再現VTRもあり。

    この本を楽しめるかどうかは、この様式を楽しめるかどうかにかかっていると思う。正直私には苦行だった…とにかく筆者が女々しくてウザい。これは書かなくてもいいことだけど〜と言いながら結局だらだら説明していたり、他者の小説作品をあげつらって史実と違うと批判したり、時折「メンヘラの散文か!?」と思うような瞬間もあったり…一事が万事そんな調子なのだ。小説パートについては面白く読めるんだけど。。。筆者のパートナーの姉の結婚式に呼ばれんかった、って何?日記間違って書いちゃった?とか。史実に対して誠実でありたいというような苦悩のコメントから見るに、誠実な人なんだろうけど、その誠実さの押し売りがまた面倒なのである。

    他の方のレビューで、HHhHという作品のメイキングというような表現があって、なるほどと思った。でもメイキングって、本編を一度通しで見たからこそ楽しめるものであって、いきなりメイキング見せられて副音声で監督の声とか流れてきたって散漫になって集中できないよね…

    私は最後まで作者の登場が煩わしいと感じていたけど、人によっては楽しめるのだろうし、テーマに沿った小説パートは確かに面白かった。

    --

    ノーベル賞受賞作家マリオ・バルガス・リョサを驚嘆せしめたゴンクール賞最優秀新人賞受賞作。金髪の野獣と呼ばれたナチのユダヤ人大量虐殺の責任者ハイドリヒと彼の暗殺者である二人の青年をノンフィクション的手法で描き読者を慄然させる傑作。

  • 2014.10記。
    (ネタバレには気を付けていますが、ストーリーに結構立ち入っています)

    第三帝国で最も危険と言われた男、ラインハルト・ハイドリヒ。
    英仏に見捨てられ、ナチス・ドイツに占領されたチェコ。

    二人のパラシュート部隊員が、祖国チェコ(スロヴァキア)のために首都プラハで決死のハイドリヒ暗殺作戦を実行する。
    緊迫感あふれるこの小説の中で、「史実とは何か、史実を忠実に小説にすることは可能か」、著者は徹底的に追求する。

    例えば、「X月X日、ハイドリヒは黒いメルセデスに乗っていた」といった何気ない描写。ここで著者のローラン・ビネは立ち止まる。「厳密にはこのとき乗っていたメルセデスが黒だったという証拠はないのだが、当時の文献によると・・・」といった調子の検討記録がその都度挿入される。この異様なまでのストイックさで、二人とその周辺の人々を徹底的に検証し尽くしていく。

    ストーリーの先を急ぎたい読者にとって、この検証部分は邪魔に感じるかもしれない。しかし、この検証の緻密さゆえに、その後の記述が一切の脚色のない「事実そのもの(にもっとも肉薄した推察)」であることがいやおうなく伝わってくる。「多少事実誤認はあっても、問題の本質は変わらない」、こんな考え方をビネは採らない。

    多くの困難、見込み違いを乗り越えて、ハイドリヒ暗殺作戦は遂行される。親衛隊の常軌を逸した犯人追及と必死の逃避行、ここからは、恐怖と切なさとで平静に読み進むのは難しい。

    蛇足だが、本書をバルガス・リョサが激賞したそうだ。実際、彼の「チボの狂宴」は実在の独裁者の暗殺劇を描いているという意味で一定の共通点がある。

    歴史とは、真実とは、小説とは、リアリティとは。重い・・・。

  • アルファベットが 4文字並んだ奇妙なタイトルに惹かれて手に取った一冊は、しかし、中身はもっと奇妙だった。

    タイトルは Himmlers Hirn heißt Heydrich (ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)の意味。Heydrich はナチス・ドイツにおいて親衛隊(SS)を率いたヒムラーの片腕として、「金髪の野獣」「第三帝国で最も危険な男」「プラハの死刑執行人」など数々の異名を持つ男、ラインハルト・ハイドリヒのことで、彼がこの小説の最も重要な登場人物の一人。彼をプラハの街角で暗殺すべく、イギリスからプラハにパラシュート降下した 2人(3人?)の若者が、また別の最も重要な登場人物。

    ここまで書くと、ハラハラ、ドキドキのスパイ小説を期待させるが、しかし、著者の筆は極めて冷静で、歴史とは何か? 歴史小説とは何か? 歴史小説には、どこまで小説(虚構)が許されるのかを自問自答しながら、物語はゆっくりと、極めて静かにクライマックスへと向かう。教会での銃撃戦シーンは 2008年の虚構として描かれ、ここだけが著者の創作が少なからず入った箇所だと暗示される(しかし、大半は史料に基づく)が、このパートが無ければ歴史書と呼ぶべき一冊だっただろう。

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