去年を待ちながら (創元推理文庫 696-1)

  • 東京創元社
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  • Amazon.co.jp ・本 (410ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784488696016

感想・レビュー・書評

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  •  ハインライン『夏への扉』が嫌いだ。

     知っている、『夏への扉』が、オールタイムベストの常連にふさわしい傑作だということも、初心者にSFを勧めるさいによく選ばれる一般性を備えていることも。実際、SFをあまりあるいはほとんど読まないという人からも、『夏への扉』は読んだよ、という話はたまに聞かされたりするし。


    あぁ、レビューの評価もいいね。


     それでも、オレは『夏への扉』が嫌いだ。ハインラインが右翼であるとか、そんなことはどうでもいい。『宇宙の戦士』批判をしたいわけではないのだ。『月は無慈悲な夜の女王』は好きだ、「鎮魂歌」は好きだ。それでも『夏への扉』は許せない。

    『夏への扉』は主人公ダンが、狡猾な恋人のベルにだまされて財産を失ったうえに、コールドスリープ送りにされる。しかし未来の世界からタイムマシンでふたたび過去に戻ってきたダンが、自分に都合のいいように歴史改変をおこない、裏切り者の親友と元恋人に復讐を果たし、経済的には成功をおさめ、さらに年若い誠実な恋人を得るという話だ。

     タイムトラベルが、願望充足にストレートにつながっていて、エンターテイメントとしては面白いのだろう。

     物語の中盤、すでにダンからだまし取った財産も失ったベルは、事件から30年たった2000年、ダンがコールドスリープから目覚めて以来、半年近く連絡を取ろうとしてきた。しかし…

    「でぶでぶに肥って、きいきい声を張りあげ、妙な媚態を見せてはしゃぐベル」
    「まだ彼女が、身体をひと身代と考えていることは明らかだったスティックタイトの部屋着(ネグリジェ)を、肌も露なかっこうに着ているのだ。それはしかし、彼女が女で、哺乳動物で、食い過ぎで、運動不足である事実を、露わに見せるにすぎなかった」

     無一文で世界に出てきたばかりのダンをすぐさま探しあてたかつての恋人に対する主人公の反応がこれである。この男は、60近くになった女が最大限の着飾りをしたということに、苦笑いまじりの世辞のひとつも言うことを思いつかぬのか。

     愛が冷めたなどとは言ってくれるまい。かつて愛していたが、今は愛していないなどということはない。童貞のようなことを言おう。今、愛していないのなら、いままでだって一度も愛したことなどなかったのだ。ところで、ダンのベルに対する評価というものは、付き合っていたころですら「バストの広さ」だとかそんなものだ。

     わたしは、この態度だけで、まったく『夏への扉』を好きになることはできない。



    「かくて、無一文の男と、見捨てられ、子供をかかえ、妊娠している街の女との生活がはじまるのだが、これはまことにドストエフスキー的な主題である。/肉体だけを愛する男なら、クリスチーネに見むきもすまい。思想だけを愛する男なら、同情したり忠告したりするにすぎまい。しかしゴッホは結婚した。誰がみたって無謀の沙汰だ。まさしく体あたりの結婚だ。それはかれにも十分わかっていた。だが、どうしても、かれはかの女と結婚しなければならなかった。ミシュレの次の言葉を呟きながら。「この地上に、女がひとりぼっちで絶望しているというようなことが、どうしてあっていいものか。」(花田清輝「歌」)



     ディックにとって「タイムスリップ」によって未来を知るとは、未来を都合よく功利的に変えることや、パラドックスの論理ゲームをおこなうためのものではない。変更できない未来を知るということは、選択・決断の無力化した世界を突きつけられるということである。

    『去年を待ちながら』において、未来に対する関心は、異星人の侵略に対する抵抗と、不仲の妻との関係がパラレルに語られる。主人公は、タイムスリップで得た知識によって戦争の状態を改善しうるか、妻との関係を終わらせることができるかということを功利的に考える。

     ディック作品である以上、主人公はとうぜん妻と不仲なのだが、この妻、キャサリンはエリックとの不和によるストレスからドラッグパーティに参加して新種の麻薬JJ180に手を出し、中毒症状におちいる。パニックを起こしたキャサリンは、こともあろうにエリックを道連れにせんと、コーヒーの中に JJ180を隠しいれて、彼をも中毒患者にしてしまう。間違いなくSF史上最悪のバカ女ではあると思う。

     しかしながら、JJ180の副作用である時間変調の能力をも手に入れたエリックは、この力を通じて、事態の打開をはかる。

     このような未来の変更は、SFのなかで、それこそ『夏への扉』を筆頭に、通俗的に繰り返されてきたものだ。 
     しかし、結末においてエリックは、望ましくない状態も含めての未来の社会がそのまま来ることを受け入れながら、積極的にそれに関わっていくことを「決意」する。

     作中で、地球は同盟(実質的には被支配化されつつある)関係にあるリリスター星と、敵対関係にあるリーグ星との戦争に巻き込まれている。
     時間移動の中で、エリックは、自分よりも多くを知っている未来の自分に出会い、戦争を有利に進めるための助言を受ける「アリゾナの捕虜収容所のリーグ星人、デグ・ダル・イル少佐に会え」彼をつれて、国連事務総長モリナーリに引き合わせればリーグ星人と地球人の和平が生まれ、リリスター星人の支配を打ち破れるというのだ。

     ふつうのSFなら、この通りに話が進み、スペクタクルあふれる活劇から、大団円となるだろう。だれがそれ以外のものを期待する?僕だってこれで十分楽しめる。だがディックはどういうわけかこのようなプロットを断固として放棄してしまう。

     エリックは収容所からもらいうけたリーグ星人と和平交渉をめぐる会話を進めようとするも、絶望的なまでにコミュニケーションがとれず(この断絶状態のいやな感じはさすがにディックだ。)、あまつさえ目を離したすきにリリスター星人に頼みの綱であるリーグ星人を暗殺されてしまう。

     これ、全体の9割以上を過ぎたところで起こるのだ。いままでの話がぶち壊し、何を考えているのか、ディック。しかしながら、任務に失敗したエリックは彷徨するうちに自殺願望を断ち切り、時間移行というSF的な能力とは別の側面から、世界の状況へ関わることを決意する。これはある意味では反SF とさえ言えるほどの展開である。

    「自分の立場をはっきりと打ち出そうとエリックは自分に言い聞かせた。ぼくが知っている人たちに対して(中略)一年先の未来で見た通りに事態が進行し始めた」

     これは、世界の運命に対する決意だが、妻に対する態度もとうぜんこの決意と同じように動く。


     未来のエリックはこうも告げる。それはキャシーの看病にほとほと疲れきった男の切実な忠告でもあるが。

    「たしかにきみはキャシーをJJ180から救い出した──いや、これから救い出すことになる。だがそれは彼女の身体がボロボロになってしまったあとだ。もう以前の美しさを取り戻すことはあり得ない。」「君がその気になれば少しは違った世界にできるんだ。ほとんど同じだが、結婚の状況だけは異なる世界にね。キャシーと別れて、メアリー・ライネケ、あるいはだれでもいい。ほかの女と結婚するんだ」


    そう、頭のおかしくなった、体の線もくずれた女など捨てて、新しい女に乗りかえろ。いつだかに見たあの誘惑、オールタイムベストで臆面もなく数十年にわたって承諾されてきたあの誘惑だ。受けたって、だれも文句など言いやしないさ。


     エリックは自律運動タクシーに「かりにきみがぼくの立場で、きみの奥さんが病気だとしよう。重病で、回復の見込みはない。きみはそんな奥さんを捨てるかね?」と尋ねる。「タクシー」にそんなこと聞くか、普通。

     結果として
    「わたしならそばにいてやりますね」
    「人生はさまざまな様相の現実からなっていて、それを変えることはできないからです。妻を捨てるということは、こうした現実に耐えられないって言っているのと同じなんです。自分だけもっと楽な特別の条件がなければ生きていけないって言うのと等しいことなんです」
    と、エリックはすてきな説教をされる(あらためて言うが、「タクシー」にだ)。

     キャサリンに対してエリックが出した結論は直接当たってほしい。しかし、この説教を受けるような問いを敢えてしたエリックは、まずこのような言葉を欲していたのであり、結論はすでに彼のなかにあった。そして、エリックの結論に対しての自律運動タクシーの感想は、『高い城の男』で、バイネスがナチスの価値にないと言った、あの実在する「よい人」だった。

     未来を知るということは、波瀾万丈のストーリーを展開するための道具ではなく、人間の無力さを引き立たせるものであり、また無力さのなかの人間を際立たせるものである。エリックは展望のない状況のなかに、未来の自分自身の警告を受けながらあらためて飛び込む。それはある意味では「一度目は喜劇として、二度目は悲劇として」と言えるほどのものだ。魂の遍歴は終わった。

  • 西暦2055年、地球人類は《リリスター》と《リーグ》という二大勢力の星間戦争に巻き込まれ、前者陣営だが負け戦らしい。国連総長モールはリリスターをはぐらかすのに必死、WW2後半のムッソリーニの苦境がモデル。主人公は総長の主治医。彼のDV妻は「一回呑んだだけで中毒になる」JJ180(平均4ヶ月後には死に至る)を服用し、彼にも飲ませた。しかし彼はその副作用=タイムトラベルのうちに稀有なことに未来へスリップし‥なんとJJの解毒剤の化学式を持ち帰った‥。戦争のない過去、まだ結婚せず恋人同士であった過去には戻れないが

    「平行世界の別の現実からピンピンしている代替の大統領(国連総長は事実上世界大統領)を連れてくる」というのは荒木飛呂彦『スティールボールラン』の元ネタではないか。ほか、印象的な「人間以上に人間臭いロボットタクシー」もディックの創始かもしれない。ほかの作品では「通行料を取る自動ドア」も出てきた。

     Last Yearはもちろん「去年」だが最後の年の意味も込められているのかも、とふと思った。未来にトリップすればDV妻の悲惨な姿、戦争の結果、自分の死さえ見なければいけないかも知れない。“ファシスト”党の創始者で枢軸陣営ではあったがムッソリーニの労使協調路線はなかなかうまく行っていた。ディックも尊敬しているという。巻末の『自作解説』で『偶然世界』の自己評価が低いのが全作中ではあまり人気のない一因か。本作もそうだが、おしなべて長編群の結末はハッピーエンドとは思えず解釈が難しい。

  • 途中まではSFだと思って先を楽しみに読んでいたが、読み終えてみれば、エリックとキャシーのスイートセント夫妻の確執の物語だったのかと、かなり拍子抜けした。SFだと思ったら実は男女の愛憎劇だったというのは、「アルファ系衛星の氏族たち」もそうだったなあと妙な感慨を覚えた。寺地五一・高木直二訳。1989年4月21日初版。定価580円(本体563円)。
    収録作品:「去年を待ちながら」、「訳者あとがき」(寺地五一)、「ディック、自作を語る1955~1966」(大森望)

  • 夏のディック祭。ディックの作品に☆1を付けると、絶対的な信者から脅迫を受けそうだが、あえて1つ。

    星間戦争中、なぜか地球代表の国連事務総長の主治医を任されたある医者が、妻が手に入れた時間跳躍ができるようになる非合法麻薬 JJ-180を使ってあっちこっちに飛び…という、テンヤワンヤ系のSF。

    宇宙船、未来都市、星間戦争、タイムトラベル、パラレルワールド等、詰め込むものは詰め込みましたという作品だし、「アルファ・ケンタウリ」など、SFマニアは引っかからざるをえないキーワードも満載なのだが、とにかく読みにくい。

    JJ-180が出てくるまでは、個人名のファーストネーム、ラストネーム、ニックネームなどがポンポン飛び交い、特に会話でほぼ名前だけというのには閉口する。

    JJ-180以降は読みやすくはなるのだが、事務総長と会話している途中で、そこにいない人との会話が挟まったり、他人の病状について1ページ以上にわたって記載されたりと、訳以前に、原文の組み立てが今ひとつなのであろう。

    タイムトラベルからパラレルワールドに入り込むあたりは面白いが、いかんせん詰め込みすぎて消化不良。訳者あとがきで、訳者自体よくわからなかったと記述しているが、訳もストーリーも最近読んだ中では一番ひどかった。

    巻末に、解説代わりの資料でディック本人が代表作について述べており、本作は「『電気羊』と並んで良く書けた」と自画自賛しているが、どうなんだろ?

    2回目に読んだら、登場人物の把握が先にできている分、印象が少しは変わりそうな作品だけど、もう一度読みたいかと言われると、ウーン…。

  • フィリップ.K.ディックと言えば映画「ブレードランナー」の原作となった「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」が有名ですね。数あるディックの作品の中で最高傑作は、この「アンドロイド」と「流れよわが涙と警官は言った」、それに「去年を待ちながら」の3作と言われています。
    今回はその中から、あまりにも有名な「アンドロイド」は避けて、私のもっとも好きな「去年を待ちながら」(原題「Now Wait For Last Year」)を紹介することにします。


    1. 不確かな現実

    ディックの作品と言えば、「現実と虚構の区別がつかなくなる」という状況設定が好んで多用されることで知られています。「アンドロイド」では、逃亡したアンドロイドを追う賞金ハンターであるはずの自分自身が、もしかしたらアンドロイドかもしれないという苦悩が最大のモチーフになっています。また、ディックの短編をもとに制作された映画「トータル・リコール」では、シュワちゃんが火星を舞台に大活躍を繰り広げるのですが、これが、シミュレーションによる火星旅行を売りものにする旅行代理店の装置の中で起こっていることなのか、現実の出来事なのかがわからなくなってしまいます(映画の中ではその疑問は解決されたことになっていますが、あえて不明にしたままでそのあいまいさを楽しむのが正しいディックの読み方と言えるでしょう。何が正しいかは、もちろん簡単には言えませんが)。

    「去年を待ちながら」もそうしたディック的世界を十分に楽しめる作品になっています。時は近未来。地球は二大宇宙文明が繰り広げる泥沼の星間戦争に巻き込まれています。ところがどうも地球は間違った相手と同盟を結んでしまったようなのです。体よく地球を属国にしようとねらっている同盟国の首相フレネクシーに対し、国連事務総長モリナーリは、水際での必死の駆け引きを余儀なくされています。
    そして物語の主人公は、モリナーリの主治医を務めることになった人工臓器移植医エリック(この「人工臓器移植医」という設定がすでに「現実と非現実」を示唆していますね)。彼の妻はある大企業でアンティーク収集担当重役をつとめるキャシー。この「アンティーク収集担当重役」という訳のわからない職業について少し説明しましょう。この時代の地球では、子供時代をすごした町を当時の雰囲気そのままに復元したベビーランドを、火星に建設することが大金持ちの間で流行しています。キャシーはその復元された町をよりいっそう本物らしく(!)するために、上司のためにさまざまな小物を収集する役割なのです(これもやはり「現実と非現実」ですね)。
    物語は、同盟国であるはずのリリスター星がひそかにばらまいた禁断のドラッグ「JJ180」をめぐって進行していきます。リリスター星人の罠にはまってJJ180の中毒患者にされてしまったキャシー。キャシーとのいさかいの中で、エリックもまただまされてそれを服用してしまいます。ところで、JJ180には服用すると時間の中を自由に移動できるという効果があったのです。かくして時間と空間が交錯しはじめます・・・。
    JJ180を服用することでジャンプした未来や過去は現実なのでしょうか。それともドラッグがもたらす単なる幻覚にすぎないのでしょうか。たしかにドラッグにそんな効果があるなんてこと自体眉唾ものなのですが。しかしそんな疑問をよそにスピーディに進行していく物語の中で、やがてJJ180は幾通りもの未来を生み出してしまいます。それらのどれが現在とつながっているのか。そもそも現在とつながった未来はその中にあるのか。すべてが不確かになっていきます・・・。


    2. 絶望のはてに

    ところで、前回紹介した「暗殺者」と異なり、この小説にはかっこいいヒーローは誰ひとり登場しません(これは「アンドロイド」でもそうでした。映画とは異なり、主人公デッカードは本物の羊を買いたいと思っているだけの実に冴えない男なのです)。エリックは性的にも家庭的にも社会的にも妻にさっぱり頭があがらないし、彼女とのいさかいの毎日に疲れはてています。国連事務総長のモリナーリにしても自殺願望を抱いた、英雄とは程遠い人物です。エリックとはじめて会ったモリナーリはズボンの前をだらしなく開けたままの姿でした。
    リリスター星との同盟による戦争にしてからが、戦況ははかばかしくありません。登場人物の誰もがいつ終わるともしれない負け戦に疲れ、絶望し、金持ちはベビーランドの建設に逃避しているというわけです。

    全編を憂鬱と倦怠と疲労感に押し包まれたこの本は、それでいて私の心を癒やしてくれる効果を持っているようです。村上春樹は「ダンス・ダンス・ダンス」の中でこう言っています。

    「フォークナーとフィリップ.K.ディックの小説は神経がある種のくたびれかたをしているときに読むと、とてもうまく理解できる。僕はそういう時期がくるとかならずどちらかの小説を読むことにしている」

    時間と空間が交錯しすべてが不確かになっていく中で、逆にはっきりしてくるのは同盟国リリスターの地球侵攻でした。しかしそれを背景に急展開する物語の焦点は、ある一点に絞り込まれていきます。
    それは世界がどうなろうが私たちについて回る「現実をどう引き受け、どう生きるか」という問題です。
    JJ180の作用で未来を訪れたエリックは、キャシーがJJ180の中毒の結果不治の病にかかって精神病院に入院しているのを知ります。元の時代に戻ったエリックは未来のエリックの助言にしたがってキャシーと離婚するのですが、一方でうしろめさを振り切ることができません。そんなエリックに、自律運動タクシーは「わたしならそばにいてやりますね」と言います。

    「人生はさまざまな様相の現実から成っていて、それを変えることはできないからです。妻を捨てるということは、こうした現実に耐えられないって言っているのと同じなんです。自分だけもっと楽な別の条件がなければ生きて行けないって言うのと等しいことなんです」

    安っぽいヒューマニズムではありません。キャシーとの終わる見込みのない絶望的ないさかい、治る見込みのない彼女の病気、勝つ見込みのない戦争、そして現在とのつながりの確証を見いだせない未来へのタイムトリップ。それらのはてに(自律運動タクシーの口?を借りて)たどりついた結論であるだけに、この言葉には重みがあります。それが、状況は違えど私たちが生きる生そのものであるからです。
    この結末を読みたいばかりに私は何度もこの本を手にとるのかもしれません。

  • ディック先生のトリップ体験がふんだんに活かされている作品。エンタメというよりは深刻な感じだった。ダメ人間群像劇は、他の作品に求めることにします。

    暗い閉塞感や、でも結局は妄想なんでしょ?な感じはさすが。エリック・スイートセント氏(主人公)の徒労っぷりには同情いたします。


    本書にはおまけがついております。ディック先生が自作を語るコーナーです。読み応えがあって面白いです。個人的には、『タイタンのゲーム・プレーヤー』への評価がツボでした。去年、復刊したので読んでみましたが、何だかなあという感じでした。さて、先生ご自身の評価は...(苦笑)

  • いわゆるタイムスリップSFということになるが、そこはP.K.ディック。出口なしの戦争、命取りのドラッグ、絶望的な結婚生活という沈鬱な状況が、時間改変のトリックによって劇的に救われることはない。にもかかわらず、絶望的な状況でもがく人々は、なぜかほの暗い魅力を放つ。
     主人公の医師エリックが生きているこの世界では、地球は、まちがった相手と同盟関係を結んでしまったがゆえに、泥沼の負け戦にひきずりこまれているうえ、同盟国によって事実上の植民地にされつつある。その指導者モリナーリは、ぶざまでみじめな、そしてしたたかで異様な魅力をもつ独裁者だ。肉体的にも精神的にも崩壊しかかっているように見えるこの男は、窮地から容易に逃れるすべはないことを知りつつ、自らの弱さそのものによって決定的敗北を避けつづけるという形で、なお闘っているのである。彼の主治医として、そしてドラッグ中毒の妻とトラブルをかかえる夫として、エリックはモリナーリの闘争をささえ、その方向づけすらすることになる。
    時空を超えた戦術と過大な犠牲を払ったうえに、異なる未来を選ぶ可能性を示されてなお、ラストシーンを覆う空気は沈鬱である。ひとは自身の幸福をえらびとる機会があることを知りながらそれを掴み取ることもできず、ただ決定的な破局を先延ばしにしながら耐えるしかないのかもしれない。だがそれは、決してなすすべがないことを意味するわけでもないのである。コミットメントという言葉は、このような状況にこそふさわしいのかもしれない。ディックにしか書くことのできない傑作。

  • とってもディックらしい一冊。
    ドラックに時間移動にパラドックス。
    ステキです。

  • 巻き込まれ型星間戦争、馬鹿馬鹿しい政治的圧力、人工臓器による無理な延命、時間感覚に干渉するドラッグ、道教の権威、火星上に再現された過去の地球の街、路地裏を走り回る小さな自律式機械群、そして奥さんに対する恐怖心(ここ一番重要)など、まさにディックワールドの集大成。

  • 2009/04/12 購入
    2009/05/08 読了 ★★
    2016/01/27 読了

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