湛山読本―いまこそ、自由主義、再興せよ。

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  • 東洋経済新報社
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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784492061978

作品紹介・あらすじ

「ジャーナリスト湛山の真価を知るようになったのは1990年代以降の日本のいわゆる『失われた時代』を経て、日本のガバナンスの不具合を痛感してからのことである。バブルが崩壊し、不良債権処理につまづき、経済停滞が慢性化する。財政が危機的状況に立ち至り、金融が十分に機能せず、デフレが深まる。中国の台頭と挑戦で国民が動揺する。少子高
齢化と人口減少が社会と企業にのしかかり、世代間公正が揺らぎ、所得格差が拡大する。ネット革命に伴うメディアの変質も手伝ってポピュリズムとナショナリズムが激化する。3・11大震災と福島原発危機。民主党政権メルトダウンと政党デモクラシーの揺らぎ。そして、安倍政権とアベノミクスの登場……。湛山が私たちの同時代に生きていたとしたら、それらのテーマをどう考えただろうか。私は、湛山の言葉にもう一度、しっかりと耳を傾け、そして語りかけたくなった。
『石橋湛山全集』のページをめくって、声を上げて原文を読む。ジャーナリスト湛山の肉声に耳を澄まし、その奥にさわだつ思想の息吹に触れてみる。そして、平成の『失われた時代』と第一次世界大戦と第二次世界大戦の『両大戦間』の『失われた時代』の2つの同時代の状況と課題を照らし合わせつつ、湛山の問題提起を切り口にして、私たちの時代の課題を考えてみる。」──本書「はじめに」より。

石橋湛山(1884-1973)は大正・昭和期に東洋経済新報社主幹として活躍したジャーナリスト。自由主義的論説で知られ、戦後は政治家に転じ、首相も務めた。本書は、近代日本を代表するジャーナリストである湛山の論説から珠玉の70編を選び、現代日本を代表するジャーナリストである船橋洋一氏が、その時代背景、現代的意義を説く。

感想・レビュー・書評

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  • 宮武外骨に続き、私の「言論四天王」のひとりである石橋湛山の
    論文のセレクションである。

    『石橋湛山全集』から70本の論文を選び、11のテーマに分けて編集。
    湛山論文の後にそれが書かれた時代背景や関連する湛山の考え方を
    船橋氏が解説を加えている。

    多くが第一次大戦から第二次大戦の間に書かれた論文なのである
    が、その内容が古びていないことに改めて驚く。

    『石橋湛山全集』は私の書棚にもあるが、拾い読みばかりしているの
    で解説付きで湛山の文章を読むとその主張が一層理解出来る。

    戦争に抗ったジャーナリストと言えば真っ先に頭に浮かぶのは桐生
    悠々である。彼は生活を犠牲にしても反戦・反軍を貫き、激烈な
    言葉で批判をした。湛山も戦争に進むなかで危機感を抱いていたのは
    同じだ。

    しかし、悠々と湛山には決定的に違う部分がある。湛山は起きてしまっ
    たことは受け入れた。受け入れた上で、ならばどうするべきなのかを
    論考した。う回路を探り、言葉を慎重に選んで時の政府や軍部を批判
    した。

    何故か。まずは「東洋経済新報」の読者に自身の考えを伝えることが
    目的だからだ。当時の新聞がこぞって大本営発表を垂れ流すなかに
    あって、権力に迎合することを潔しとはせずに批判すべきは批判し、
    当局による発行停止処分さえ覚悟し、社員の処遇についてもきちん
    と考えていた。

    戦後は政治の政界に飛び込んだ湛山だが、彼の本領はやはり書くことに
    あったのだと感じる。特に敗戦後早々に日本の再生を訴える論文の、
    なんと生き生きとしていることか。

    自分が思う方向と全く違う方向へ進んだ日本を見ながら、筆を持って
    抗った言論人の文章は、政治家にこそ読んで欲しいと思う。ここに
    日本の在り様を考えるヒントがあるのだから。

    『石橋湛山全集』を一気読みしたくなったが、取りあえず今後も拾い読み
    に留めておこう。

    尚、以下に1046年3月16日号「東洋経済新報」の社論として掲載され
    た「憲法改正草案を評す、勝れたる其の特色と欠点」を全文引用する。

    「政府の憲法改正草案要領が3月6日発表された。条文としての仕上げ
    がまだできていないので、厳密に批判すれば、なお欠けた箇条も多く、
    重要な点において不明の節も発見される。
    最大の問題である統帥権についても、天皇は何ら責任ある政治的実権を
    持たず、所謂象徴的存在に過ぎなかったことは、旧憲法においても改正
    草案と異ならない。……記者はその意味において、些かも現行憲法の
    天皇制に変革を加えたものではなく、ただその精神を成文の上に一層
    明白にしたに過ぎないと考える。
    天皇の政治的機能がそのようなものであることを保障する実行手段とし
    て、改正草案は総理大臣の選定を国会にゆだね、天皇は国会で指名され
    た者を総理大臣に任命すると規定した。
    国会で総理大臣の選挙を行うことは、従来のわが国の慣行とも大きくは
    異ならず、したがって採用しやすい。しかも一部特権階級に総理大臣の
    推薦を思いのままにさせる弊害を断つ、一つの妙案と考える。
    今回の憲法改正草案要領の最大の特色は、
    国の主権の発動として行う戦争及び武力に依る威嚇又は武力の行使を、
    他国との紛争の解決の手段とすることは永久に之を放棄すること
    陸海空軍その他の武力の保持を許さず、国の交戦権は認めない
    と定めた第二章にある。
    これまでの日本、否、二本ばかりでなく、独立国であればどんな国で
    あっても、未だかつて夢想したこともなかった大胆至極の決定だ。
    しかし、記者はこの一条を読んで、痛快極まりなく感じた。
    本当に国民が「国家の名誉を賭し、全力を挙げて此等の高遠なる目的
    を達成せんことを誓う」ならば、その瞬間、最早日本は敗戦国でも、
    四等、五等でもなく、栄誉に輝く世界平和の一等国、以前から日本に
    おいて唱えられた真実の神国に転じるであろう。
    発表された憲法改正草案に対して、その欠点を挙げれば、言及しなけれ
    ばならない条項は少なくない。中でも、国民の権利および義務の章にお
    いては、権利の擁護には十全を期した観があるが、義務を掲げることが
    非常に少ないことに、記者はたいへん不満を持っている。たとえば
    「国民はすべて勤労の権利を有す」とあるが、これに対し「国民はすべ
    て勤労の義務を有す」とする条項はない。
    昔、専制君主が存在した場合とは異なり、民主主義国では、国家の経営
    者は国民自身だ。経営者としての国民の義務の規定に注意が行き届いて
    いない憲法は、真に民主的とは言えないであろう。」

  • 緒方竹虎自民党副総裁は、1955年の保守合同の立役者の一人だった。吉田茂の後の大宰相を期待されたが、保守合同を成し遂げた後その年の11月、急死した。緒方については後にCIA(米中央情報局)との関係などマイナス・イメージで語られることもあるが、少なくとも当時、政治は汚いものとの嫌悪感を持っていた多くの国民の一人として、母にとっては、カネにきれいな政治家、はとても貴重な存在だったのだろう。 

     まず、湛山は、筋金入りの自由主義者だった。 湛山は戦後、ジャーナリストとしてだけでなく、思想家として、それも「徹底した自由主義者」(経済史家・長幸男)として再発見されることになった。 その思想の根幹は、自助(セルフ・ヘルプ)である。個人のかけがえのない価値を大切にする。社会としても、それを最大限尊重し、それをめいめいが引き出すことを奨励する。その意味において自由主義は個人主義でもある。 湛山は、福沢諭吉の「独立自尊」の哲学に深く共鳴するところがあった。 「人は生まれながら独立不羈にして、束縛をこうむるのゆえんなく、自由自在べきはずの道理を持つということなり」。 福沢諭吉はそう論じた。福沢は、個々人の価値と教育によるその能力と可能性の開花と個人の突破力を信じ、その思想と理念を基にした社会システムの構築が可能であり、持続的であると信じた。 この烈々たる気概を湛山も受けついだ。

     次に湛山は、愛国者だった。 湛山の愛国心は、世界に開かれた躍動する日本への惜しみない愛情であり、強張った民族主義や武張った国粋主義の対極にあった。 湛山は日本の国益を大切にしたが、それは「洗練された自己利益」(enlightened self-interest)をその内実とした。こちらの国益を大切にする以上、相手の国益も同じように大切にする。その両者の接点を見出すのを双方ともプラスと感じ、長続きさせようとする、そうした「開かれた国益」の追求である。 湛山においては、愛国心と自由主義は互いに矛盾する存在ではない。 思想の芯は、個人の価値をいかにして最大限実現するか、にある。 「人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない」

     湛山がお手本とした雑誌は、英『エコノミスト』(The Economist)誌だった。それを熟読玩味した。『東洋経済新報』そのものが英エコノミストを一つの模範として創刊されたのである。

     洋書を原書(英語)で読む原書主義も湛山流である。 湛山は、東洋経済新報社に入社してから経済学を独学で勉強したが、その際、アダム・スミス、ジョン・スチュアート・ミル、ウォルター・バジョット★16、ジョン・メイナード・ケインズなどの著作を原書で読破し、粘着力のある思考法と物事の本質を結晶化させる硬質の批判力を磨いた。 この原書主義は戦前の最大の財政家、高橋是清★17などとも通ずるが、丸善や教文館に行っては、これはという英文刊行物をせっせと注文した。

     この年の夏、第一次世界大戦が勃発し、大隈内閣は対中政策に失敗し、失速していく。 内政改革を華々しく掲げたものの、大隈内閣は外交につまづき、あっけなく潰えた。 2009年登場した民主党政権の場合も、普天間問題と尖閣問題が命取りとなった。改革を華々しく掲げ、政権を取った野党新政権の最大の鬼門は昔も今も、外交と安全保障である。

     自由貿易体制は、自由主義の国際秩序の枠組みとして欠かせない。 しかし、それは天からの恵みの雨ではない。国々が、中でもその体制の恩恵を受ける国々が、力を合わせてつくり上げなければならない。その国際システムをつくるには、国内に、それを支える支持基盤とそれを広げる連携を構築しなければならない。 湛山は、自由通商協会の志立鉄次郎と上田貞次郎にそのような有志連合の芽を見た。 志立鉄次郎は実業人。日本銀行、九州鉄道、住友銀行、大阪朝日新聞社を経て1913年、日本興業銀行総裁に就任。1924年、産業組合中央会会長となった。上田貞次郎は経済学者。英独に留学後、母校東京高等商業学校(現一橋大学)教授。英国経済学の流れを汲む自由主義を唱えた。二人とも1927年、ジュネーブでの国際経済会議に日本政府代表として出席した。この会議は、国際連盟加盟国を中心に各国代表が個人の資格で参加、「通商の自由」を決議採択した。

     どちらも若干の真理と、若干の誤りを含んでいる。したがって、それぞれの議論の中の誤りを誤りと認め、また、それぞれの中に含まれる真理の一端をたぐり寄せ、真実に近い実相をつかむのは、言論の自由があって初めて可能になる作業なのである。 要するに、人間社会の進歩には、言論の自由が不可欠なのである。 過激思想の挑戦は、言論の自由をさらに徹底させることで解決するほかないのである。 「陽の当たる所に病菌が生存できないように、自由で明朗な社会には、誤った思想が蔓延ることはできない」と湛山が言う通りである。

     彼らは口を開けば、言論の抑圧を言い訳にする。現代の日本社会に言論の自由がないことは、彼らと同じ言論機関にある私が、誰よりも知っている。しかし、言論の自由が制限された社会にあっても、許される範囲の中で、言論機関が報道し、批判できることは山ほどある。強力な権力の前では筆を投げながら、弱い者は容赦なく追及する態度は、言論の不自由とは何の関係もない。

     湛山は、満州権益を放棄すべしと主張してきた。その上に青島領有となると「害悪に害悪を重ね、危険に危険を加える」ことになる。 しかし、加藤外相はまったく真逆のことを考えていた。加藤が参戦を決断した裏には、参戦によってドイツから獲得する山東半島を中国に還付することで中国側から満州権益面での譲歩を引き出そうとする計算があった。 1905年の北京条約で満州権益は1923年に租借期限が切れることが決まっていた。参戦は、この不安定な満州権益を「その後」も確保するため、ドイツから獲得した山東半島の返還を□取引材料□として使うことを意図していた。対華二十一カ条要求はまさにその具体的外交攻勢だったのである(奈良岡聰智『対華二十一カ条要求とは何だったのか』308頁)。 対華二十一カ条要求については後に取り上げることとするが、この□取引材料□は余りにも虫が良すぎる話だったし、結局、中国のすさまじい反発を招き、□取引材料□どころの話ではなくなった。

     その際、互いに「功利の立場」で迫ってこそ、理にかなう国益で攻め合ってこそ、そしてそれを真剣勝負で行ってこそ、理解も、さらには信用も生まれる。 「曖昧な道徳家であってはならない。徹底した功利主義者でなければならない」。 二十一カ条要求の本質的問題は、恐怖心(満州権益喪失)と支配欲(山東半島利権)と過信(英国何するものぞ)に突き動かされ、「開かれた国益」、つまりは自他ともに生かす功利主義に基づく対中戦略を欠いたことにあった。

     1910年、日本は韓国を併合すると同時に朝鮮統治のための朝鮮総督府を京城(現・ソウル)に置いた。歴代総督には陸軍大将を据えた。総督は天皇に直属し、朝鮮の陸海軍を統率するとともに強大な政治権限が与えられた。 それは、朝鮮民族にとって耐え難い屈辱だった。反日感情が鬱積していたところへ、ウィルソンの民族自決の呼びかけが多くの朝鮮の人々の心をとらえた。 1919年3月1日、京城中心部のパゴダ公園において、天道教、キリスト教、仏教の民族代表33名が署名した独立宣言書を朗読した。「独立万歳」を叫ぶ示威運動には200万人以上が参加した。朝鮮総督府は武力によってこれを弾圧した。約7500人が死亡、4万6000人が検挙された。

     どんなに正しいことであろうと、自らはそれを行わず、他者にだけそれを強いるとすれば、それは誤りである。いわゆる民族の自決は、正しいことには違いないが、それをドイツとその同盟国の領内にだけ強要し、連合国や他の諸国が、自らの領内での適用を拒むのであれば、これほどの不公平はない。  □ 連合国がドイツに課そうとしているこの条件は、将来の人類に「勝てば官軍、負ければ賊」の印象を強烈に与えるだけだ。私は連合国の条件は、そのようなものだと思う。裁判をするならば、是非とも交戦国すべての責任者を法廷に立たせるべきだ。開戦の前後と戦争遂行中の一切の事実を明らかにせずには、ドイツだけに罪があるとは言えない。

     敗者への復讐に駆られ、それを痛めつけ、再起の芽を摘むような講和条件は、今度は敗者の復讐心を搔き立てるから、持続的な平和をもたらさない。 「独逸を全敗させてしまうことは、日本のためにも、また世界のためにも、損失があるが利益はない」(「独逸は全敗せしむべき乎」社説、1918年10月15日号)。 湛山の主張は、ケインズが『平和の経済的帰結』で説いた「カルタゴ的平和」の不条理と同じ論理に基づいている。 そのような平和は経済的に成り立たないし、見合わない。だから、もたない。

    オレンジ計画。アメリカ海軍によって日露戦争後に立案された、将来起こりうる対日戦争に備えた戦争遂行計画。米国は、ワシントン会議後、オレンジ作戦の全面的見直しに着手。1924年に海軍の「基本オレンジ計画」および、「陸海軍統合作戦計画─オレンジ」を策定した。これは、米国が第一次世界大戦以来、初めて持つ本格的な戦争計画だった。その特徴は、日本を海上封鎖して経済的に孤立させるという点にあった。

     湛山は、この論文の中で、「小欲」を斥け、「大欲」のススメを説いている。 大陸にいかばかりの利権を確保し、それを後生大事に囲い、ひたすらそれを耕していきたいという日本の欲は、農村社会的な小欲に過ぎない。 そんな「小欲」にこだわっているようではこの国は伸びない。

     ワシントン会議は、1921年11月12日、ワシントン市内の「DAR(独立戦争の娘たち)ホール」で開かれた。このホールは現在は、コンチネンタル・メモリアルホールと名前を変えている。ホワイトハウスから17丁目通りを3、4分歩いたところである。 日米英仏伊のほか中国など計9カ国が参加し、太平洋、海軍、中国の3つの主題に関して、同年11月から翌年2月まで交渉が行われた。 その結果、太平洋についての権利を相互に尊重する4カ国条約、海軍軍備制限を決めた5カ国条約、中国の主権尊重、門戸開放、機会均等を定めた9カ国条約など5条約と13決議を採択した。 開催直後に、ヒューズ★4米国務長官は海軍軍縮制限について「爆弾提案」を行った。 建艦を10年間禁止して、米、英、日の主力艦保有量を5:5:3にするという案である。交渉の結果、1922年2月、日本、米国、英国、フランス、イタリアは、海軍軍備制限の5カ国条約に調印した。 日本国内には5:5:3ではなく10:10:7をあくまで主張する加藤寛治軍令部次長のような強硬派もいたが、加藤友三郎はそれらを押さえ込んだ。ただ、加藤はその見返りとして、5カ国条約の第19条に米国、英国、日本が太平洋島嶼に要塞や海軍根拠地を建設しないとの合意を取り付けた。

     だいいち、人種、移民、アジアに関する日本の関心はあまりにも身勝手で、独りよがりである。 「中国人はどうなっても、朝鮮人はどうなっても、日本人さえ、白人の間に同等の待遇を得られれば満足であるとする心は利己的であり、卑屈である。世界から尊敬を受けられる態度ではない」。 湛山は、アジアの連帯を信じたが、日本のアジア主義の虚妄を冷徹に見抜いていた。

     1921年のワシントン会議は、アジア太平洋の平和と安定に関して、4カ国条約(極東秩序)、9カ国条約(中国)、5カ国条約(海軍軍縮)の三本柱から成るワシントン体制を送り出した。 しかし、そこには数多くの矛盾が含まれていたし、想定外の要素をはらんでいた。 最大の矛盾は、中国の民族主義の要求を抑制して成立したものだったことである。 そもそも、中国に統一主体が出現することを想定していなかった。 9カ国条約による集団的安全保障によって中国問題を処理できると考えること自体、希望的観測に等しかった。それによって独立と領土保全が保障されるはずの中国が国民革命の途上にあり、近代国家としての行政機能も満足に働かない現実を過小評価していた。 ワシントン体制はもう一つ、ボルシェビズム革命を経たソ連をアウトローとして扱い、除外した。 1920年代半ば、ワシントン体制から疎外された中国の民族主義とソ連の共産主義が孫文の容共政策によって結合する。 日本にとって最大の誤算は、その延長としての北伐だった。

     日本で最初に護憲運動が盛り上がったのは、1913年、桂太郎内閣時代である。 桂内閣打倒を叫んだ人々は、普通選挙導入を争点にした。 当時の日本の総人口は5175万人である。このうち選挙権を持っていたのはわずか3%の154万人にすぎなかった。 湛山は、この時以来、普通選挙支持の旗幟を鮮明にし、以後一貫して、その立場から論陣を張った。 そもそも、財産が多いか少ないかを選挙権の基準に据えるのは、「金のある者は国民だが、金のない者は国民ではないということであり、それが不道理であることは識者に聞くまでもない」(「選挙権拡張案の提出」社説、1913年3月15日号)。 もし議会がなかったら、ただちに政府ないしは権力階級の「打壊」の運動を見ることになる。明治維新の際に見たような状況が再現されることになるだろう。 湛山は、普通選挙は国民の権利を保障するためのものであるが、同時に、国の安全のためでもあるのだ、と「来るべき総選挙で投票権を持つ300万の同胞」に訴えた。

     1921年11月4日。 原敬首相は、京都で開かれる政友会近畿大会に列席するため東京駅に行った。夜7時半発の列車に乗車するため改札口(現在の丸の内南口)に向かったところで、いがぐり頭の青年が短刀を握ったまま、原めがけて突進してきた。 原は右胸を刺され、倒れた。駅長室に運ばれたが、すでに息は絶えていた。 犯人の中岡艮一は、18歳。山手線大塚駅の転轍手だった。 中岡の供述によれば、疑獄事件や弱腰外交などに憤り、天誅を下そうとしたのが動機だった(黒幕説もある。歴史家の伊藤之雄はそれに触れながらも「真相はわからない」と述べている。伊藤之雄『原敬──外交と政治の理想 下』424~425頁)。

     1923年9月1日午前11時58分、関東地方で余震を伴う激しい地震が発生した。 関東大震災である。 地震と火災による死者・行方不明者は10万5385人に達した。 加藤友三郎首相は、震災直前に死去した。山本権兵衛内閣(第二次)が発足したのは、9月2日夜のことだった。 9月2日。戒厳令施行。軍と警察による治安維持が行われた。しかし、被災地では朝鮮人が来襲するとのデマが広がり、自警団による殺傷事件が発生した。警察や軍もデマを否定せず、自らも殺傷に手を染めた。関東大震災の朝鮮人犠牲者は約7000人と言われる。

     戦前の悪法の中の悪法と言われる治安維持法が施行されたのは、1925年4月、第二次護憲運動の熱気のさ中だった。加藤高明憲政会、高橋是清政友会、犬養毅革新俱楽部のいわゆる護憲三派連合政権の時代である。 この法律は「国体を変革し、及び私有財産制度を否認せむとする」一切の結社及び運動を禁止し、違反者は懲役十年以下の刑に処するという内容で、同年5月12日から実施された。 護憲三派連合政権が、この時点で治安維持法を制定したのは、その年3月に成立した男子普通選挙法との交換条件、いわば「アメとムチ」という側面と、同政権がその年1月に締結した日ソ基本条約と日ソ国交樹立を契機に共産党・コミンテルンの宣伝取り締まりという側面があるとされる。

     なぜ、「健全なる経済界の輿論」はつねに物価上昇を嫌い、物価下落を喜ぶのか。 その理由はただ一つ、対外関係への考慮から来ている。日本のインフレが外国のそれより高いと、輸出が減り、輸入が増え、金が流出する。政府も経済界も、それを嫌う。なぜなら、金が流出するということは、金本位国においては紙幣兌換の基礎を脅かすことになるからである。しかし、この理由づけは、金本位制を守るための論理でしかない。金本位制をそんなにありがたがらなければならない理由などない、と湛山は主張する。

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著者プロフィール

一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ理事長。1944年北京生まれ。法学博士。東京大学教養学部卒業後、朝日新聞社入社。同社北京特派員、ワシントン特派員、アメリカ総局長等を経て、2007年から2010年12月まで朝日新聞社主筆。2011年9月に独立系シンクタンク「日本再建イニシアティブ」(RJIF)設立。福島第一原発事故を独自に検証する「福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)」を設立。『カウントダウン・メルトダウン』(文藝春秋)では大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

「2021年 『こども地政学 なぜ地政学が必要なのかがわかる本』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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