いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編

著者 :
制作 : 佐藤 優 
  • 東洋経済新報社
3.71
  • (14)
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本棚登録 : 916
レビュー : 23
  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784492061992

作品紹介・あらすじ

佐藤優氏が30年間、たえず読み返してきた「座右の書」であり「最高の基本書」であり「伝説の学習参考書」。
あの『大学への日本史』が読みやすくなって、しかも最新情報で新登場!

《佐藤優氏が大絶賛する本書の3つの特色》
【特色1】「通史」が身につく
・1人の著者が全編を通してすべて執筆している(通常の教科書は分担執筆)
・そのため全体の「流れ」が明確で、個々の歴史事象だけでなく「歴史の動き」がわかりやすい

【特色2】「最新情報」に全面改訂
・監修者が全編チェックし、古い学説を全面改訂
・最先端の学説も反映した「最新の内容」に全面リニューアル、「いま使える内容」に

【特色3】「世界史」を意識した記述
・日本史は「世界史」の文脈で見ると理解が深まる
・全編が「世界の中の日本」という視点で貫かれ、日本史ファンにも「新たな発見」が満載

《きちんと説明できますか?》
Q.律令時代に藤原氏だけが権勢を誇れた秘密は?(→p.103参照)
Q.武士だった平清盛は、なぜ貴族社会で大出世できたか?(→p.145参照)
Q.源頼朝が平氏を滅ぼすのに5年もかかった理由は?(→p.151参照)
Q.なぜ豊臣秀吉は朝鮮に出兵しなければいけなかったのか?(→p.285参照)
Q.なぜ京都には東本願寺と西本願寺があるのか?(→p.274、p.341~342参照)

《この1冊で、ビジネスや社交に必要な教養が身につく》
〈「古代・中世・近世」の知識は運転技術,ワープロや表計算の技法のようにすぐに直接,役立つ知識ではない。しかし,だからこそ長持ちするし,複合的な問題を解決する際に役立つ。ビジネスパーソンの目的は歴史の専門家になることではなく,ビジネスや社交において必要十分な教養を身につけることだ。それには,本書1冊の内容を知っていれば十分である。本書を熟読し,「教養」という生きていくうえで一生役に立つ知識を,ぜひ身につけてほしい。〉(佐藤優氏「本書を強く推薦する」より)

「ビジネスや社交の教養には、この1冊だけで十分だ」と佐藤優氏が断言するほどの究極の1冊。
ビジネスパーソンが日本史をいっきに学び直す、最高にして最適の1冊です!

巻頭には、佐藤優氏が本書に寄せた解説を掲載。
巻末の「佐藤優×山岸良二スペシャル対談(本書の読みどころ)」では、なぜビジネスパーソンに日本史の知識が必要不可欠なのか、さらに佐藤氏流の日本史解釈、おすすめ勉強法まで解説!

歴史ファンにも、いちから学び直すビジネスパーソンにも、いまいちばん面白く、役に立つ日本史の本です!

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    良くも悪くも、「日本史の教科書」という一言に尽きる1冊だった。
    ツラツラと何のストーリー性もなく編纂されており、日本史の流れを色んな側面から眺め、学ぶには非常に役立つ1冊だと思う
    個人的には、文章だけでなくもう少しその文化に関する作品などの「画」を入れてほしかったな~とも思えたが・・・
    あと、江戸時代中期までしか掲載がなく、江戸時代終盤~明治・大正・昭和・平成に至るまでの日本史も掲載して欲しかったなと思った。
    最近そちらの歴史について若干おろそかなので・・・・・
    (調べたところ、続編として「近世・現世版」もあるようですね!次回はコチラを読んでみよう!!)

    面白味は一切ないが、余すことなくかつ正確に日本史を復習するための教科書としては、非常に良い1冊だと思う。(だって教科書そのものだもの!笑)


    【内容まとめ】
    1.推古天皇の時代を中心に、大化改新までを飛鳥時代、飛鳥文化と呼ぶ。
    聖徳太子は四天王寺や法隆寺をはじめ7つの寺を建てた。
    「法隆寺」は現存する世界最古の木造建築物である。

    2.大化改新=蘇我氏暗殺ではない。
    蘇我氏暗殺=「乙巳(いっし)の変」である。
    大化改新の目的は、「氏姓制度を廃して中央集権国家をつくる」ことだが、しかしその眼目は「公地公民制」と「班田収授制」を施行することにあった。

    3.律令体制の完成
    「律」は刑法・刑事訴訟法に相当し、「令」は行政法・民法に相当する。
    701年に大宝律令が完成し、翌年から施行された。律令体制によって中央豪族が貴族化していった。

    4.天武・持統両天皇は、薬師寺の造営をはじめ、仏教興隆につとめたので、仏教文化が栄えることになった。
    710年の平城遷都までの時代を年号にちなんで白鳳時代、この文化を「白鳳文化」と呼ぶ。

    5.天平文化
    奈良時代の文化は、聖武天皇のときの年号にちなんで「天平文化」と呼ばれている。
    律令国家の模範とされた唐文化への強い憧れの1つ。
    また「古事記」「日本書紀」の編纂がこの時期に完成し、諸国に「風土記」の編纂が命じられた。
    かつての飛鳥文化・白鳳文化と同じように、仏教文化としての性格を強く持っている。

    6.武士の発生
    地方の治安が乱れると、名主や開発領主たちは武装して武力を蓄え、自分の土地を守るようになった。
    こうして発生した武芸を専門とする人を「武士」という。
    武士は10世紀の頃から荘園・公領問わずに発生してきた。
    武士の勢力が初めて歴史上に姿を現したのが、承平・天慶(てんぎょう)の乱であった。

    7.平安中期の国風文化
    藤原時代ともいうが、まず何よりも貴族文化である事に特徴があった。
    摂関家藤原氏を中心に、多くの荘園からの豊かな収入の上に豪奢な生活を営み、高い文化を享受した。
    一般の多くの民衆は苦しい生活にあえいでおり、その文化を享受できていなかった。

    8.封建制度
    主君と従者との主従関係
    主君が従者に封土を給与し保護するのに対して、従者が主君に対して忠誠を誓う相互契約的な社会関係をいう。
    鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士を「御家人」という。

    9.元寇
    二度にわたる侵攻を撃退し得たことは武士の力を示すものであった反面、領地を獲得したわけではなかったので、御家人に対して恩賞を与えることができず、御家人の幕府に対する信頼感が薄らいだ。

    10.鎌倉幕府の滅亡
    幕府の弱体化を見抜いた後醍醐天皇は倒幕を試み、それをきっかけとして全国各地の武士が蜂起した。
    護良親王が吉野、楠木正成が河内の千早城に挙兵した。
    この情勢を見た幕府は、足利高氏(のちの尊氏)を討伐軍として上洛させたが、謀反を起こし六波羅探題を滅ぼした。
    こうして150年に及ぶ鎌倉幕府の幕は閉じた。

    11.室町幕府時代の南北朝時代
    1336年に足利尊氏が後醍醐天皇を吉野に追い、1392年の足利義満のときに南北朝を合一するまでのこの期間は、後醍醐天皇の系統を引く「南朝」と京都の持明天皇の北朝が併立していた。

    12.応仁の乱
    義政は弟・義視を養子としていたが、正夫人である日野富子との間に義尚が生まれると、富子は義尚を立てようとして山名持豊に頼ったため、義視は細川勝元との結びつきを強めた。
    ここで持豊と勝元は、将軍継嗣をめぐって決定的に対立するに至った。
    勝元側を東軍、持豊側を西軍と称して、京都を中心として10年にわたって戦闘を行った。
    戦局が次々と変わり地方でも内乱が激化したため、領国支配に不安を抱いた諸将は相次いで帰国、京都での戦乱はさしたる結果もなく自然消滅した。

    応仁の乱の結果、室町幕府の権威はまったく失われ、影響力がほとんど及ばなくなった。
    戦乱のどさくさにまぎれて力を蓄え、守護大名に取って代わって大名化する者も続出し、「下克上」の風潮が一般化していく。
    めまぐるしい勢力交代の中に、実力者が次々とのし上がってしのぎを削りあう戦国時代へと突入していく。

    13.楽市楽座
    楽市…領内の特定都市の商工業者の課役を免除して流通機構の統一を推進。
    楽座…それまでの座商人の特権を否定した。
    楽市楽座令により、座の本所として寺社が商業に対してもっていた特権は否定され、商品流通も戦国大名の統制下に組み込まれることになった。

    14.豊臣秀吉
    尾張の農民の子に生まれた豊臣秀吉(1537?1598)は、今川義元の臣下に仕えたが再び放浪し、1558年に織田信長の臣となった。
    1573年に浅井氏の北近江を与えられ、1577年からは中国・毛利氏の攻略にあたった。
    1582年、備中の高松城を包囲している時に本能寺の変を知り、ただちに毛利輝元と和議を結ぶと急いで京都に引き返し、山城の「山崎の合戦」で明智光秀を討った。
    翌1583年に滝川一益を伊勢に討ち、近江の「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を討ち、信長の三男である信孝を滅ぼした。
    大阪城の築城に着手したが、信長の次男・信雄(のぶかつ)が徳川家康と連合したため、1584年に尾張の小牧・長久手に対陣し、決戦を行わないままに和を結んだ。
    1585年になると秀吉の地位は一段と強まり、関白の地位についた。
    豊臣姓を名乗り、翌年に太政大臣となった。
    1587年に九州に出兵、島津家を降伏させた。
    1598年に死没。

    15.関ヶ原の戦い
    1600年、上杉家を攻めるために家康が会津に向かって東上すると、石田三成は家康討伐の軍を起こした。
    家康に従った軍勢には東国の大名が多かったので東軍といい、三成に従った軍勢は西国の軍勢が多かったので西軍という。
    両軍は美濃の関ヶ原にて対陣し、東軍の勝利に終わった。

    16.元禄文化
    5代綱吉の頃の元禄期を中心に開花した文化。
    京都・大阪・江戸のいわゆる三都を中心に展開された。
    町人が新興の意気に燃え、蓄えた財力が自信ともなってあるがままの現実を肯定し、自らの正当性を高らかに主張し、人間性の解放をうたいあげた。
    つまり元禄文化は現実主義的傾向が強く、清新の気に満ちていた。
    土壌は劇場と遊里であり、浮世草子・歌舞伎・浄瑠璃・浮世絵などが中心である。



    【引用】
    p26
    新石器時代の日本の文化を縄文文化と呼ぶ。
    日本では、先土器時代に次いで古い文化である。
    土器の発生とあわせて始まったとされ、弥生時代が紀元前500~400年に始まるまでの約1万年にわたる。
    自然の洞窟から竪穴式住居が一般的になり、縄文人が食べた貝や鳥、獣、魚類の骨などを捨てた跡である貝塚も発見されている。


    p46
    ・第1代の天皇は神武天皇ではない?
    大和朝廷成立の年代と一致することから、8代目の崇神(すじん)天皇からではないかと考えられている。


    p60
    592年、蘇我馬子は渡来人を使って崇峻天皇を殺害、このような中で最初の女帝「推古天皇」が即位し、翌年には天皇の甥である厩戸王(うまやとおう)の聖徳太子が摂政となる。
    聖徳太子の治績として特に注目されるべきものは、「冠位十二階」の制定と、「憲法十七条」である。
    また、607年に小野妹子を隋に派遣し、対等の立場を築いた。

    推古天皇の時代を中心に、大化改新までを飛鳥時代、飛鳥文化と呼ぶ。

    聖徳太子は四天王寺や法隆寺をはじめ7つの寺を建てた。
    法隆寺は現存する世界最古の木造建築物である。


    p66
    大化改新=蘇我氏暗殺ではない。
    蘇我氏暗殺イコール「乙巳(いっし)の変」である。
    大化改新の目的は、氏姓制度を廃して中央集権国家をつくることにあったが、その眼目は土地の私有を廃して国家に収める公地公民制であり、それに基づいて班田収授制を施行することにあった。


    p70
    天武・持統両天皇は、薬師寺の造営をはじめ、仏教興隆につとめたので、仏教文化が栄えることになった。
    710年の平城遷都までの時代を年号にちなんで白鳳時代、この文化を「白鳳文化」と呼ぶ。


    p71
    ・律令体制の完成
    唐の制度を積極的に取り入れて、天皇を中心とする統一国家をつくる。そのための基礎が律令である。
    「律」は刑法・刑事訴訟法に相当し、「令」は行政法・民法に相当する。

    701年に大宝律令が完成し、翌年から施行された。律令体制によって中央豪族が貴族化していった。


    p74
    少納言、式部は役職である。
    今でいう国家機関のようなもの。


    p92
    ・天平文化
    奈良時代の文化は、聖武天皇のときの年号にちなんで天平文化と呼ばれている。
    律令が整備され、国家意識が高まった。
    ここ意識の高まりは、律令国家の模範とされた唐文化への強い憧れの1つ。
    「古事記」「日本書紀」の編纂がこの時期に完成し、諸国に「風土記」の編纂が命じられた。
    かつての飛鳥文化・白鳳文化と同じように、仏教文化としての性格を強く持っている。


    p111
    ・荘園の発生と展開
    墾田永年私財法の施行後、貴族・寺社による墾田がしきりに開発された。このようにして発生した私有地を荘園と呼んでいる。
    荘園制は8世紀に成立し、16世紀の太閤検地によって消滅するまで存続した。

    律令体制の基礎である班田制が完全に崩れ、律令の給与制に不安を抱いた貴族たちは加速度的に私有地=荘園を増やしていった。


    p119
    ・武士の発生
    政治に公私混同が一般化し、国司が私服を肥やすのに専念して地方の治安が乱れると、名主や開発領主たちは武装して武力を蓄え、自分の土地を守るようになった。
    こうして発生した武芸を専門とする人を「武士」という。
    武士は10世紀の頃から荘園・公領問わずに発生してきた。

    武士の勢力が初めて歴史上に姿を現したのが、承平・天慶(てんぎょう)の乱であった。
    平将門、藤原純友(すみとも)


    p129
    ・平安中期の国風文化
    藤原時代ともいうが、まず何よりも貴族文化である事に特徴があった。
    摂関家藤原氏を中心に、多くの荘園からの豊かな収入の上に豪奢な生活を営み、高い文化を享受した。
    一般の多くの民衆は苦しい生活にあえいでおり、その文化を享受できていなかった。

    貴族は寝殿造の住宅に住み、池に舟を浮かべて釣りを楽しんだり、庭で遊宴を催した。
    詩歌・管弦がよろこばれ、歌合わせ・蹴鞠などが盛んだった。


    p142
    保元の乱は貴族(後白河天皇と崇徳天皇)の争いに武士の戦闘力(源義朝と平清盛)が利用されたものであり、乱の結果、武力の役割が貴族にも武士自身にも強く認識されるようになった。
    恩賞に不満を抱いた源義朝は、平清盛と乱を起こした。(平治の乱)


    p154
    ・鎌倉幕府の成立には諸説あり
    1180年の侍所の設置
    1183年の東国支配権の承認
    1189年の奥州藤原氏滅亡、制定
    1192年の征夷大将軍の補任


    ・封建制度
    主君と従者との主従関係
    主君が従者に封土を給与し保護するのに対して、従者が主君に対して忠誠を誓う相互契約的な社会関係をいう。
    鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士を「御家人」という。


    p161
    ・承久の乱
    独裁的に院政を行う後鳥羽上皇による乱。
    北条政子が頼朝以来の恩顧を説いて御家人を感激させ、幕府への忠誠を誓い、結果、戦争は幕府方の圧勝に終わった。
    この乱の結果、貴族階級は決定的な打撃を受け、院政の実質は失われることになり、幕府はその勢力を全国に及ぼすようになった。
    (京都守護の六波羅探題によって京都は常にチェックされていた。)

    また、「御成敗式目」も制定され、裁判にはっきりとした基準が与えられた。


    p177
    元寇の二度にわたる侵攻を撃退し得たことは武士の力を示すものであった反面、領地を獲得したわけではなかったので、御家人に対して恩賞を与えることができず、御家人の幕府に対する信頼感が薄らいだ。


    p196
    ・鎌倉幕府の滅亡
    幕府の弱体化を見抜いた後醍醐天皇は倒幕を試み、それをきっかけとして全国各地の武士が蜂起した。
    護良親王が吉野、楠木正成が河内の千早城に挙兵した。
    この情勢を見た幕府は、足利高氏(のちの尊氏)を討伐軍として上洛させたが、謀反を起こし六波羅探題を滅ぼした。

    こうして150年に及ぶ鎌倉幕府の幕は閉じた。


    p200
    ・南北朝時代
    1336年に足利尊氏が後醍醐天皇を吉野に追い、1392年の足利義満のときに南北朝を合一するまでのこの期間は、後醍醐天皇の系統を引く「南朝」と京都の持明天皇の北朝が併立していた。


    p231
    ・8代目 義政の政治
    守護家同士の激しい対立の中で将軍職にあった義政には、政治に対する熱意の持ちようもなく、政務を忘れて遊び暮らし、義政の側室や側近が政治に口出しして政治は混乱した。
    さらに飢饉などの災害が相次ぎ、農民や庶民は生活に苦しんだが、義政はそれを顧みずに土木工事を繰り返し、徳政令を頻発した。


    p232
    ・応仁の乱
    義政は弟・義視を養子としていたが、正夫人である日野富子との間に義尚が生まれると、富子は義尚を立てようとして山名持豊に頼ったため、義視は細川勝元との結びつきを強めた。
    ここで持豊と勝元は、将軍継嗣をめぐって決定的に対立するに至った。
    勝元側を東軍、持豊側を西軍と称して、京都を中心として10年にわたって戦闘を行った。

    戦局が次々と変わり、地方でも内乱が激化したため、領国支配に不安を抱いた諸将は相次いで帰国、京都での戦乱はさしたる結果もなく自然消滅した。

    応仁の乱の結果、室町幕府の権威はまったく失われた、影響力がほとんど及ばなくなった。
    戦乱のどさくさにまぎれて力を蓄え、守護大名に取って代わって大名化する者も続出し、「下克上」の風潮が一般化していく。
    めまぐるしい勢力交代の中に、実力者が次々とのし上がってしのぎを削りあう戦国時代へと突入していく。


    p234
    ・東山文化
    足利義政の治世を中心に、15世紀後半の文化を、義光に倣って京都東山の山荘を営み、戦乱の世相をよそに風流の生活を送ったことにちなんで「東山文化」という。
    室町時代の文化を総称して「東山文化」と称することもある。

    東山文化は、何より将軍義政とその周辺によって形成された文化であった。
    政治的に無力であった義政は、わずらわしい現実を逃れ、東山で隠遁的な生活を送り、書画・骨董の鑑賞や風流の世界に生きようとした。
    伝統的な貴族文化が巧みに取り入れられ、わび・さびといった枯淡・簡素な美しさを追求する武家文化がつくられた。


    p243
    ・戦国大名の台頭
    応仁の乱によって将軍の権威が失墜したことは、守護大名にとっては強力なうしろだてを失ったことであったから、そのような守護大名には新興の実力者を抑えることができず、次々と滅ぼされることになった。
    こうして守護大名に代わって実力者が領国支配にあたることになった。
    これを戦国大名という。

    1507年に越後で長尾為景が守護を滅ぼし上杉家を築き、1516年には伊勢長氏(北条)が相模を、翌年には毛利元就が安芸を、美濃では斎藤道三。
    1541年には甲斐の武田晴信(信玄)が父・信虎を追放、美濃では斎藤道三が守護・土岐頼芸を追放した。
    1548年には長尾景虎(上杉謙信)が越後の家を継ぎ、1555年には浅井氏が近江を支配下に。
    1560年には今川義元が織田信長に滅ぼされている。

    守護家で残ったのは島津家と大分の大友家、奥州・九州を除くと近江の六角氏と越前の朝倉氏のみであった。


    p253
    ・楽市楽座
    楽市…領内の特定都市の商工業者の課役を免除して流通機構の統一を推進。
    楽座…それまでの座商人の特権を否定した。

    楽市楽座令により、座の本所として寺社が商業に対してもっていた特権は否定され、商品流通も戦国大名の統制下に組み込まれることになった。


    p276
    ・豊臣秀吉
    尾張の農民の子に生まれた豊臣秀吉(1537?1598)は、今川義元の臣下に仕えたが再び放浪し、1558年に織田信長の臣となった。
    1573年に浅井氏の北近江を与えられ、1577年からは中国・毛利氏の攻略にあたった。

    1582年、備中の高松城を包囲している時に本能寺の変を知り、ただちに毛利輝元と和議を結ぶと急いで京都に引き返し、山城の「山崎の合戦」で明智光秀を討った。
    翌1583年に滝川一益を伊勢に討ち、近江の「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を討ち、信長の三男である信孝を滅ぼした。

    大阪城の築城に着手したが、信長の次男・信雄(のぶかつ)が徳川家康と連合したため、1584年に尾張の小牧・長久手に対陣し、決戦を行わないままに和を結んだ。

    1585年になると秀吉の地位は一段と強まり、関白の地位についた。
    豊臣姓を名乗り、翌年に太政大臣となった。
    1587年に九州に出兵、島津家を降伏させた。
    1598年に死没。


    p293
    1600年、上杉家を攻めるために家康が会津に向かって東上すると、石田三成は家康討伐の軍を起こした。
    家康に従った軍勢には東国の大名が多かったので東軍といい、三成に従った軍勢は西国の軍勢が多かったので西軍という。
    両軍は美濃の関ヶ原にて対陣し、東軍の勝利に終わった。

    戦後、家康は西軍方の大名の改易(とりつぶし)や減封を大々的に行なった。
    畿内の一大名になった豊臣氏滅亡のため、寺社造営をすすめ、まずはその莫大な金銀を消化させた。
    無理難題を押し付けて秀頼に挙兵させ、大阪城を攻め、豊臣家は滅亡した。
    1614年 大坂冬の陣
    1615年 大坂夏の陣


    p352
    ・元禄文化
    5代綱吉の頃の元禄期を中心に開花した文化。
    京都・大阪・江戸のいわゆる三都を中心に展開された。
    町人が新興の意気に燃え、蓄えた財力が自信ともなってあるがままの現実を肯定し、自らの正当性を高らかに主張し、人間性の解放をうたいあげた。
    つまり元禄文化は現実主義的傾向が強く、清新の気に満ちていた。
    土壌は劇場と遊里であり、浮世草子・歌舞伎・浄瑠璃・浮世絵などが中心である。

  • 大和王権の時代から、徳川幕府の始まりの辺りまでを、通史として一気に勉強するという目的で編纂されています。個々の時代については、出来事と背景について学ぶことで、それが次の時代にどのようにつながっていったのかを理解することができます。こういった歴史の学び方は今までになく、一通りの日本史の流れについて、すっきりと整理できた満足感を持つことが出来ました。ただ骨太のため、読むのにほぼ1年かかりました。今なら、日本史で大きな革命が、大化の改新と明治維新であったことが納得できます。
    この本で、日本史を通して学び、その知識の背景のもと、各時代の中身を勉強すると非常に強いと思います。昨年流行した応仁の乱についても、深く考えることができると思います。

  • 「佐藤優さんがサラサラっと通史をまとめたのかな」と軽い気持ちで予約し、実物見てびっくり。
    ぶ厚い二分冊。これを二週間で?!
    私の後にたくさんの人が待っているけど、皆さん同様なんじゃないかなあ。

    それでもって佐藤優さんは企画にすぎず、著者は安藤達朗さんといって、16年前に亡くなった駿河台予備校日本史講師。
    この本は安藤さんが1973年、大学受験でまだセンター入試も共通一次試験もおこなわれていなかった、おそらく日本史の試験が一番難しかったころに書かれたもので、最初から最後まで一人の人が書き上げる参考書ということに非常に価値があるのだそうです。

    その『大学への日本史』を、佐藤さんが「ビジネスパーソンが、歴史の専門家になるためでなく、ビジネスや社交において必要十分な教養を身につけるために」リニューアルを企画、東邦大学付属東邦中高教諭の山岸良二先生に専門家的観点からオリジナルでの記述が現時点において実証的観点から不適切になっている個所について改訂していただきました。

    つまり大学受験の参考書なわけで、私のようなものがたった二週間でマスターできるはずもなく、本当は購入して読み直すのがbetterなのはわかります…。
    ただ、難しいけど面白いです。
    あと一冊、期限までに必死に読みます;

    この本を読み終えて、一番憧れる生き方は、決して尊敬はしないが、足利義政。
    安倍晋三さんがこれでは困りますが。

  • 図表が適切に挿入されていてわかりやすい。勢力関係・家系などは特に図で見た方が頭に入る。

    解説も、基本は教科書のような事実を述べていくのだが、権力争いの展開など、コトの変遷や人物の狙い・思わくに対する解説が丁寧に感じる。
    また、歴史書はそれを作る人物の史観が入るので注意、などという記述も従来の教科書にはあまりないように思う。これらは大学での日本史記述問題で問われそうなポイントで、そこをしっかり押さえた本書はさすがである。
    ただ、当然ながら記述には粗密があり、ここをあっさり流してしまうのか、と個人的に残念なところがあった。

    巻末の対談が気持ち悪い。本当に最前線のエリートパーソンはあんな会話をしているのだろうか? それを知っている必要があるのだろうか? 架空の人物を持ち出して自分の優位性を誇る過剰なペダンチックスタイルだと思う。

  • 歴史小説や、歴史的な事件の概説書を読む上での補助テキストとして、
    使っています。こういうテキストは、長く使うもので、よっしゃー、頭から読み通す!
    的なものではないと思います。その都度、その都度、
    この用語って、どういう意味かとか、この時の天皇って誰だっけ、
    関連人物は誰か?など、簡単な疑問に、かなりの精度で答えてくれます。

    受験勉強に役立つどうかは、わかりませんが、社会人になって、
    少なくない人は、「歴史を改めて勉強したいと思いました」というフレーズを、
    どこかで言った記憶があると思います。私の場合は、歴史的な事件を調べていくと、
    どうしても、体系的な知識を身に着けたいなと思いに駆られ、このテキストを利用してます。
    歴史知識の習得は、受験勉強のように、ある期間、ガッツリ暗記するものではありません。
    おそらく、一生かけて、身に着けていくものだと思います。それは、自分の人生経験とリンクして、
    また、自身の社会における立ち位置を、どうしても考えてしまう市民の切実な願いを、
    歴史勉強は、そのヒントと意義を与えてくれると思います。

    もちろん、こういったテキストは、ある個人の思想とは無縁なので(と言っても意図はあります)、
    めちゃくちゃ面白い読み物ではありませんが、それは、目的が正しい歴史的事実の習得にあるのであって、
    また、その出来事の因果関係を、記しているのであって、読者の感情を揺さぶりを目的にしている歴史小説とは、
    違います。

    私はキンドル版を使っていますが、
    用語の検索が簡単にできるので、重宝しています。
    ただ、紙版の方が、使っていくうちに愛着が湧くので、
    知識の習得を目指すなら、紙版の方が良いかなとは思います。

  • 近代編と同様、一気通貫のわかりやすさで縄文時代~江戸時代までを辿る。

    律令制や荘園ってなに、っていうのが初めてワカタヨ(←コラコラ)。

    しかし、天皇家、貴族や武士などの支配階級が骨肉相食む権力争いを繰り広げ、一方オレらみたいな市井の者は上でなにをやっているかわかりもせず、ただひたすらに搾取されて来た歴史・・・と思うとかなり寝覚めが悪いのである。落ち着いて眠れる生活、幸せな人生って、歴史の上にあったのかな・・・。

    腹の立つこと、胸くその悪いことは今の時代にも多いけれど、一応平和だし、比較的落ち着いていることを思えば、しっかり維持する努力をしなきゃね、と思った。

  • 図書館で予約して借りたけど、返却期限が来てしまってさわりしか読めず!!でもさわりで挫折しそうだったから、時間があっても読めなかったと思う!日本人の名前難しすぎるよ。これなんて読むの?あれ、これ昔はこんな名前じゃなかったような…とか、所々で引っかかってしまって頭に全然入ってこない。笑

  • 難しすぎる

  • 日本史を学び直すのに最適の一冊。高校と大学の中間のレベル。史料問題も載っている。詳細→http://takeshi3017.chu.jp/file7/naiyou26401.html

  •  日本史が通しで説明されているから分かりやすい。
     
     特に理系にとっては歴史を本気で勉強することなかったから知らない(覚えていない?)ことだらけなのを自覚した。

     そして、歴史は似た事象を繰り返す、ということが読み取れる。

     特にそれを強く思ったのが、古代大和政権の朝鮮半島経営について。

    大和政権は朝鮮半島の任那にて半島経営をしていました。
     ↓
    唐新羅連合軍に白村江の戦いでボコされて撤退
     ↓
    唐文化にかぶれて仏教伝来
     ↓
    やっぱ和の心大事だよね。日本文化が花開く

     なんか明治維新後から現在に続く日本そのままじゃね?
     唐新羅連合軍がアメリカに、和歌やかなの平安文化がクールジャパンに変わっただけで。

     そうするとこの後なにが起こるのか、歴史の大きな流れから推測することができる。

     佐藤優はビジネスパーソンの最低限必要な知識に必要だ、ということで本書を企画したよう。

     別にビジネスパーソンじゃなくても、広く一般人が歴史を知っていてもいいんじゃないかな。

     特に読書家にオススメ。

     日本史のちょっとした記述でも、この歴史小説の舞台はこの時代なのか、と思い浮かべる。

     歴史の流れを知っておけば、歴史小説も二倍にも三倍にも楽しめる。

     
     それにしても室町幕府グダグダすぎだろ。

     近世編に続く。

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著者プロフィール

安藤 達朗(アンドウ タツロウ)
元駿台予備学校日本史科講師
元駿台予備学校日本史科講師。1935年、台湾生まれ。戦後、鹿児島に引き揚げる。東京大学文学部国史学科卒業、同大学院比較文学比較文化専攻課程修了。
著書に、『大学への日本史』(研文書院)、『日本史講義』シリーズ、『日本史B問題精選』、『大学入試必ずワカる日本史の学習法』(以上、駿台文庫)などがある。
2002年没。

「2016年 『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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