自由と経済開発

  • 日経BPマーケティング(日本経済新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (426ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784532148294

作品紹介・あらすじ

倫理なき経済学への警鐘。成長最優先の開発に異議を唱え、貧困からの自由や政治的自由を重視する画期的な開発理論の集大成。1998年度ノーベル経済学賞受賞。

感想・レビュー・書評

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  • ー 私たちが生きるこの恐るべき世界はー少なくとも表面上はーあまねく全能の慈悲心の支配が及んでいる世界のようには見えない。(神の)情け深い世界秩序が、どのようにして過酷な悲惨、執拗な飢え、欠乏と絶望の暮らしに苦しむこれほど多くの人を含み得るのか。なぜ毎年何百万人もの子供が食料、医療、社会的保護の欠如のために死ななければならないのか。これらを理解することは困難である。

    もちろんこれは新しい問題ではない。神学者たちはこのテーマを論議してきた。神は人間が問題に自分で対処することを望んでいるのだ、という主張は知的にもかなり支持されてきた。私は宗教を持たない人間として、この論争の神学的価値を評価する立場にない。しかし、人間には生きる世界を自分たちで発展させ、変える責任があるのだという主張の持つ力を認めることはできる。人がこの基本的な関係を受け入れるのに信心の有無を問われる必要はない。一緒に―広い意味で―生きている人間として、身の回りに目にする恐ろしい出来事は、本質的にわれわれ皆の問題であるという思いから逃れることはできない。それらはだれかほかの人の責任でもあるかどうかはともかく、われわれの責任なのである。 ー

    経済成長、経済開発の数字的な側面に惑わされず、人が人間的な自由、つまり選択肢があり自分の幸福の観点により選択できる可能性、を享受できる度合いをみていくべきだ、と主張する論考。

    20年以上前の作品。教育と基本的な医療の重要性とか、政治制度の違いによる飢饉の発生頻度とか、今でも解決していない重要な論点が語られている。

    世界は確実に良くなってきているけれど、教育や医療、基本的な人権の尊重、生き方を選択出来る自由など、まだまだ行き届いてない事実は無視できない。

    続けて『正義のアイデア』を読もう。この世に蔓延る不正義、理性的ではないものとどう対峙すべきか、今こそじっくり考える時期だと思う。

  • 読了

  • これまでのセンの著作本以上に、民主主義・公開討論の重要性に光が当たっている本。
    ポイントは、上記(これらは、手段として重要なだけでなく、それ自体が本質的に重要)に加え、経済開発だけが重要なわけではなく、それも含めた自由の多様化が重要なのだということ、agency:人が主体的、能動的に行動する力を強化できることの重要性、理性的に人々が自己・社会を変えていくことができるということ、何が重要であるかに視点を定めその領域についての情報の収集・付与に力を注ぐことの大切さ、 というところですかねー。

    WB向け講義をまとめ直した本である模様。

  • 個人的に、真新しさは感じられなかった。
    ただ、頭ではもやもやとわかっていることも、いざ文章にするのは難しいもの。その頭のもやもやを書き上げてくれている。
    さまざまな要素が含まれているので、多少ねじ伏せた感はあるものの、さすが学者といえる。

  • 面白い

  • センの仕事の全体的な解説を行った著作。述べていることが多岐に割っているし、センの他の著作に比べると読みやすいし、新書で出ている講演よりかはセンの経済についての見方、その中での自由という概念をどういう風にとらえ、それが有効に機能するのかを示している点ではとても内容の濃い本になっている。基本的にセンの概念設計事態は決してわかりやすいものではないので、この本によってセンの考えが簡単に把握できるとは思わない。おそらくこの本で重要なのは、自由という権利を与えられた民主主義が機能することを貧困問題をベースにさまざま視点から見ていることだろう。その中で経済系な自由主義をどう考えればよいのか、アジア的な開発主義をどう考えれば良いのか、食糧問題、経済危機に対してどのように考えればいいのか示している。盛り沢山だが、センの問題意識が一貫しているため飽きずに興味深く読めた。

  • p.19
    貧困はたんに所得が低いということではなく、基本的な潜在能力の欠如である、とみなすことには十分な理由がある。基本的な潜在能力の欠如は、早死、ひどい栄養失調(特に子供の)、いつまでも続く病弱、広範にわたる非識字やその他の欠陥に反映され得る。例えば、「消えた女性たち」(とくに南アジア、西アジア、北アフリカ、中国などの社会で、特定の年齢の女性に認められる異常に高い死亡率の結果)は、低所得という観点よりも人口学的、医学的、社会的な情報に基づいて分析されなければならない。性による不平等については低所得ではほとんど説明できないことがあるのである。

    p.31
    政治的自由を支持する最も有力な主張の一つの根拠は、政治的自由が市民に与える、優先順位の選択にあたっての価値を討議し、議論する――そしてその選択に参加する――機会そのものである。

    p.71
    生死の問題になり得るほどの切迫した経済的必要事項の順位が、なぜ個人的自由のそれより低くなければならないのだろうか。

    p.99
    貧困はたんに所得の低さというよりも、基本的な潜在能力が奪われた状態と見られなければならない。

    p.127
    取引の自由の欠如はそれ自体多くの意味で大きな問題なのである。
     もちろん、これは労働市場の自由が法律、規制あるいは監修によって否定されている時にとりわけ問題である。南北戦争以前の南部のアフリカ系アメリカ人奴隷は他の地域の賃金労働者と同じくらい(あるいはより多く)の金銭的所得を得、北部の都市労働者よりも長生きさえしていたかもしれないにしても、奴隷であることの(その結果、どれほどの所得や福利が得られたかどうかにかかわらず)事実そのものに根本的な欠乏状態が存在していたのである。

    p.129
    児童労働(たとえばパキスタン、インド、バングラディシュなどで多くみられる)という悲惨な問題においては奴隷と隷農という深く組み込まれた問題がある。というのは、過酷な労働に従事している多くの児童は強制的にそうさせられているからである。このような奴隷的身分の根本原因は、これらの子供たちの出身家庭の経済的窮乏状態――子供たちの親自身が雇用主との関係で何らかの奴隷関係のもとにある――にさかのぼれるかもしれない。そして児童労働という痛々しい問題に加えて、子供たちが何かをすることを強制されるという野蛮さがあるのである。とりわけ学校に行くという自由は、これらの地域の初等教育制度の貧弱さだけでなく、場合によっては子供には(そしてしばしば親にも)何をしたいかを決める選択が存在しないということによって損なわれている。

    p.162
     開発途上国一般にとって、社会的機会の創出における公共政策のイニシアチブの必要性は決定的に重要である。すでに論じたように、今日の豊かな国の過去に、教育、医療、土地改革そのほかの問題に対処した公的な行動の注目すべき歴史を見ることができる、これら社会的機会を広範に共有したことが国民の大多数に経済拡大のプロセスに直接参加することを可能にしたのである。
    (中略)
     人間開発とは何をするのだろうか。社会的機会の創出は人間の潜在能力の拡大と生活の質に(すでに論じた通り)直接の貢献をする。医療、教育、社会保障等々の拡大は生活の質とその開花に直接貢献する。所得が比較的低くても、医療と教育をすべての人に保障する国は全国民の寿命の長さと生活の質において目を見張るような成果を実際に達成することができる。医療と教育――そして人間開発全般――は非常に労働集約的な仕事であり、労働コストが安い経済開発の初期の段階では費用が比較的安く済む。

    p.202
    複数政党制民主主義が機能している国では飢饉はたしかに一度も起こったことがない

    p.278
     文化的破壊を予想して恐れをなしている人たちがいるが、実際のところ、世界には彼らが認めるよりはもっと相互関連性と文化相互間の影響力が働いていると言えるのである。文化的な恐怖を抱いている人は、それぞれの文化が非常にもろいものだという見方をすることが多く、よそからのものに支配されることなくそこから学ぶことができる能力を過小評価する傾向がある。「国の伝統」という言葉は、さまざまな異なる伝統に対する外部の影響の歴史を隠してしまうことができる。例えば、われわれが理解するかぎりは、唐辛子はインド料理の中心的な部分(人によってはインド料理の「主題曲」とさえ見る)かもしれない。しかし唐辛子はポルトガル人がわずか数世紀前に持ってくるまではインドでは知られていなかったのが事実なのである(古代のインド料理法では唐辛子ではなく胡椒を使った)。だからといって、今日のインドがその分だけ「インド的」でないということいはならない。

    p.300
     社会正義を含む倫理的考えの解釈の方法は、人によって非常に異なるかもしれない。そして人はこれについて自分の考えをどうまとめるべきか、とても確信を持てないかもしれない。しかし正義に関する基本的考えは、社会的存在としての人間にとって無縁なものではない。社会的存在である人間は自己利益について心を砕くだけでなく、家族の成員、隣人、仲間の市民、世界の他の人々について考えることもできるのだ。

    p.304
     日本は資本主義の成功のもっともすぐれた実例として見られることが多い。そして生金の長期不況と金融の混乱にもかかわらず、日本についてのこの診断が完全に消え去ることはありそうにない。しかし日本のビジネスを支配する動機のパターンは、純粋な利益極大化以上の内容を多く含んでいるのである。さまざまな論者が日本の動機の際立った特徴を強調してきた。
    (中略)
     『ウォールストリート・ジャーナル』は日本が、「機能する唯一の共産主義国家」であるという一見不可思議な主張をしたが、これにさえなにがしかの真実がある。この謎めいた描写は、日本における多くの経済・ビジネス活動の基礎には非利潤動機が存在していることを指摘しているのである。世界でもっとも成功している資本主義国家の一つが、自己利益の単純な追求とはかけ離れた動機の構造を持ちながら経済的に繁栄していることは奇妙な事実だが、この事実を理解し解釈しなければならない。日本的な動機構造は重要な領域において、資本主義の根底をなすと言われてきた自己利益の追求から逸脱しているのだ。

    p.310
    もしある人の貧困が自分を悲しくするからその貧困者を助けるのであれば、それは同情に基づく行動であろう。しかし、もし貧困者の存在があなたを特別に悲しませることはないが、あなたが不正だと考える制度を変えたいと決意させるのならば(あるいはもっと一般的に、あなたの決意を説明するものがその貧困者の存在が作り出す不幸だけではないとき)、それは献身に基づく行動になるだろう。

  • ノーベル経済学賞受賞者による開発論。「自由」が開発に及ぼす効果についての考察は、その後の開発援助の趨勢に大きな影響を及ぼした。

  • 貧困の再定義。

  • 開発の目的は、GDPをあげるなどの狭義のものではなく、個人の自由を増やすことに照準を合わせなければいけない。すなわち、個人の潜在能力を伸ばすことが重要なのだ、センは言っている。アメリカの金融破綻からうかがえるように、倫理なき経済は一部の人間を肥やすだけで、国の富にはならないのかもしれない。

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著者プロフィール

1933年、インドのベンガル州シャンティニケタンに生まれる。カルカッタのプレジデンシー・カレッジからケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進み、1959年に経済学博士号を取得。デリー・スクール・オブ・エコノミクス、オックスフォード大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、ハーバード大学などで教鞭をとり、1998年から2004年にかけて、トリニティ・カレッジの学寮長を務める。1998年には、厚生経済学と社会的選択の理論への多大な貢献によってノーベル経済学賞を受賞。2004年以降、ハーバード大学教授。主な邦訳書に、『福祉の経済学』(岩波書店、1988年)、『貧困と飢饉』(岩波書店、2000年)、『不平等の経済学』(東洋経済新報社、2000年)、『議論好きなインド人』(明石書店、2008年)、『正義のアイデア』(明石書店、2011年)、『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)などがある。

「2015年 『開発なき成長の限界』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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