奇妙な経済学を語る人びと: エコノミストは信用できるか

著者 :
  • 日経BPマーケティング(日本経済新聞出版
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感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (230ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784532350567

作品紹介・あらすじ

中国は日本経済の脅威、銀行の復活が経済再生に不可欠、人口減少で将来は暗い、アジアに円圏をつくれ-これらエコノミストの主張を徹底論破。

感想・レビュー・書評

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    ── 原田 泰《奇妙な経済学を語る人々 200308‥ 日本経済新聞社》P220
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4532350565
     
    (20170320)
     

  • 新古典派総合の人が書いたらそりゃこうなるでしょうよという本。経済学の学部生には異論は出ないんじゃないかな的な。

  • 著者はマスコミで持て囃されている経済議論での経済学軽視を指摘していますが、本書も経済学の観点から市井のエコノミストの俗説を斬っています。 シャウプ財行政やデフレに関する章は、著者の他書と重複する部分も多いですが、純粋な経済学的アプローチでかなりの範囲の問題が整理できるかなと改めて再認識しました。少子化問題に関する部分はちょっと無理かと最初は思いましたが、制度によって意識が変わることもあるので、それほど無茶苦茶な議論でもないかなとは思います。いずれにしても、見誤らない為にはマクロ経済学を勉強しないといけないなと痛感しました。

  •  専業主婦大国だったアメリカ
     アメリカの雇用者世帯に占める専業主婦世帯の比率を見ると、一九六〇年には五三・九%と
    日本が経験しなかったような高い水準にあったが、七〇年代に大きく低下して現在は二〇%を
    切っている (前掲図8−1)。アメリカの専業主婦の歴史は古く、働く女性は近年増え始めた
    にすぎない (以下は松波 (一九九六) によるところが大きい)。これはアメリカ労働省
    (UnitedStatesDepartmentofLabor(−欝恩) の報告書からも読み取ることができる。これによ
    ると、それより前の時代を振り返って、「かつては給料を得るために働く女性はほとんどおら
    ず、そのような女性は不幸だと思われ、レディーとみなされていなかった」と記述している。
    女性は生活の糧を得るために夫や父親と働く、あるいは彼らを助ける存在ではなく、夫や父親
    に保護される存在であった。女性は子供を育て、家事をしていればよく、一家の暮らしを支え
    たのは男性だった。賃金は順調に上昇したので、夫のみで生計をたてることができた。した
    がって、妻も娘も働く必要を認めなかったのである。
     女性が外で働かないということは、アメリカの伝統でもあった。「大草原の小さな家」 のイ
    ンガソル一家を見ると、インガソル夫人は、家の周りの農作業はするが、畑に出て働くことは
    しない。畑で働くのは夫の仕事なのである。一方、フランスでは、ミレーの絵を見れば分かる
    ように、夫婦ともに畑に出て働いている。日本ももちろん、農家の女性は外で働いていた。女
    性が働かないということは、産業革命の繁栄を得たイギリス、ビクトリア朝時代の風習で、そ
    れがアメリカに移植されたのだという。まして、第二次世界大戦後の繁栄を謳歌しているアメ
    リカでは、女性が働く必要を認めなかった。
     このような一九五〇年代の専業主婦の黄金時代のアメリカの生活様式が「パパは何でも知っ
    ている」や「うちのママは世界一」などのホームドラマを通じてもたらされたことが、日本に
    おける専業主婦のライフスタイルをかたちづくつたのではないかとも考えられる。大きな車、
    大きな家、大きな冷蔵庫、いくらでも飲み放題の牛乳、やさしいパパ、美しく賢いママ、可愛
    い子供たち、このような家庭を持ちたいと日本人は思ったのではなかったのか。人間について
    の主観的評価は別として、大きな家以外はすべて実現したっ東京以外では、大きな家もかなり
    の程度まで実現した。
    一九六〇年代のアメリカは専業主婦大国だった。図8Ilに見るように、結婚した妻のうち
    専業主婦である妻の比率は五〇%を超えていた。日本でこの比率がピークに達したのは高度成
    長の終わつた七〇年代のことであるが、せいぜい四〇%にすぎなかったと思われる。一方、ア
    メリカでは専業主婦比率は急激に減少し、現在では二〇%を切っている。これに対し、日本の
    変化はマイルドで、専業主婦比率は現在でも二六%である。
     経済停滞とともに増加したアメリカの働く女性
     なぜアメリカで専業主婦の比率が急減したのだろうか。この背景には、一九七〇年代からの
    アメリカ経済の停滞がある。アメリカでは七〇年以降、男性の実質賃金は低下し続けた。女性
    賃金の男性賃金に対する比率は七〇年ごろまで六〇%程度で安定していたが、その後徐々に上
    昇し、現在では七〇%となっている。女性の賃金が上がったからというよりも、むしろ男性の
    賃金が低下したことが男女の賃金格差を縮小したともいえる。男性賃金の低下を見た女性たち
    が、家族の生活水準を守るために働きだした。最初はタイピスト、秘書、看護婦のような女性
    の補助的専門職についていたが、やがて企業の中心部に進出し、高い賃金を得るようになっ
    た。女性は、結婚しても働くことが当然になったのである。
     日本でも一九七〇年代以降、高度成長は終わったが、なだらかな実質賃金の上昇は続いてい
    た。しかし、バブル崩壊以降、特に九八年以降、実質賃金が停滞、下落するようになった。男
    性だけの稼ぎで生活水準の向上を期待できなくなったのである。女性が働くことが当然に求め
    られるようになっていく。しかし、日本的雇用のなかでは、女性が働くことがより不利である
    という事実は免れない。すなわち、出産・育児の負担のある女性が長期雇用・年功賃金システ
    ムのなかで働くことは困難であった。七〇年代以降も実質賃金の上昇が続いていたことと女性
    が働くことが不利であったという事実が、専業主婦比率の急減を抑制していたと思われる。
     3 日本の家族の未来
     では、日本の家族はどう変わっていくだろうか。日本の家族の中心である専業主婦はどう変
    わっていくだろうか。それは、専業主婦の夫がどう変わっていくかを問うことにほかならな
    い。専業主婦の夫とは、日本の高度成長期に生まれた長期雇用、年功賃金に守られたサラリー
    マンだった。もちろん、現在の経済停滞は、デフレという金融政策の誤りによって、増幅され
    たものである。しかし、誤りが正されても、一九八〇年代前期、先進国の標準的な成長率のう
    ちの高めの成長率、すなわち三%程度の成長率に戻るだけである。そのなかで、かつてのよう
    な長期雇用、年功賃金のサラリーマン、すなわち、専業主婦の夫を大量に安定的に生み出して
    いくことはできないだろう。前章でも述べたが、森永 (二〇〇三) (前章の参考文献参照) の
    予測のように、年収一億のスクープレイヤーと三〇〇万円の標準サラリーマンに二極分化して
    いくのかもしれない。これは極端な予測だが、サラリーマンのなかでの収入格差が広がること
    は間違いないだろう。安定した高所得のサラリーマンの数、すなわち、専業主婦の夫は減少し
    ていくことになるだろう。したがって、専業主婦も減少するしかない。
       専業主婦は憧れだった
     これに対して、専業主婦は文化だと考える人々から、次のような反論があるかもしれない。
    専業主婦が一般化したのが一九六〇年代なら、かつての専業主婦の夫は、現在の物価水準で考
    えても三〇〇万円以下の収入しかなかったはずだ。なぜ、年収三〇〇万円では専業主婦になれ
    ないのかという反論だ。もちろん、これは妻が働かなくても生活できる収入である。しかし、
    この反論は、専業主婦が憧れだったという歴史的事実を忘れている。
     人口の大部分が農民だったとき、大部分の女性は農家の嫁になるしかなかった。農家の嫁
    は、野良で働き、家庭で働く存在だった。そのような立場に置かれた女性が、専業主婦になる
    ことは、野良で働くことから解放されるということだった。専業主婦になることは憧れだっ
    た。もちろん、専業主婦ではなく、結婚して働くことも可能だったが、家事、特に出産、育児
    に割かれる時間のことや、女性の職が限られ、夫と比べて高い所得を得られないことなどを考
    えれば、働かないことが合理的な選択だったのだろう。そして、働かない女性が家にいるとい
    うことが、家庭に文化的落ち着きを与えることになる。それが、女性にとって憧れであり、そ
    の夫にとっても望ましいことであり、これから夫や妻になろうとする人々にとっても憧れであ
    り、社会にとっても望ましいと思われることが専業主婦文化の成立であった。
     小津安二郎の映画には、専業主婦、むしろ有閑マダムといった方がよいかもしれない人々が
    登場する。小津の映画は、リアリズムであるとともに、その登場人物は憧れでもあったはず
    だ。登場人物は、重役や大学教授といった人々である。原節子は、憧れの専業主婦を演じてい
    たのだ。
     しかし、あらゆる文化はコストのかかるものである。そのコストは文化を享受している人が
    負担するしかない。妻が働けば年収が倍にできるとき、妻は専業主婦文化を守るだろうか。夫
    と妻の年収がともに三〇〇万円のとき、専業主婦文化に、年収を半分に引き下げるだけの価値
    があると思ってくれるだろうか。もちろん、年収一億円の夫の妻は、専業主婦文化を守ってく
    れるかもしれない。妻が働いて年収を三%(三〇〇万円は一億円の三%である)増大させるだ
    けなら、多分働かないだろう。しかし、一億円サラリーマンの妻も、一億円サラリーウーマン
    かもしれない。スポーツ選手と結婚した女性アナも、働くことが「できる女」の証明で、格好
    がいいことだ、ということになるかもしれない。
     憧れということは、他の人々よりも実質的に高い生活水準を維持していることを含んでい
    る。専業主婦の文化は、その高い生活水準の一部だった。夫の収入が一〇〇〇万円であれば、
    あえて一〇〇万円の収入を追加しないということだった。専業主婦の文化がそれ以上の値打ち
    があるということだった。
    憤れでない事業主婦文化は維持できるか
     憧れを維持するにはコストがかかる。夫の収入は、物価を調整しても、かつて専業主婦文化が成立した時代よりも高まっている。しかし、高いと思われている生活水準を維持するには、
    かつてよりコストがかかるようになっている。例えば、教育である。かつては、私立中学受験
    は、ごく一部の人のものだった。ところが、現在、都会では半分以上の人がこのゲームに参加
    している。かつて、小学校とは、勉強はもちろん、水泳や楽器やスポーツを教えてくれるとこ
    ろだった。しかし、現在、子供は水泳教室に行き、音楽教室に行き、スポーツ教室に行き、塾
    に通っている。必要とされる水準が上昇したのかもしれないし、公教育のレベルが下がったの
    かもしれない。ともかく、お金がかかるようになっている。専業主婦文化を守りたいと考えて
    いる人々は、とりあえず、公教育のレベル維持に尽力すべきではないかと私は思う。
     東京学芸大学の山田昌弘助教授は、専業主婦とは、その生活水準が、自分の努力によらない
    存在であると、率直な定義を与えている (山田 (一九九九))。子供に高い教育を与えること、
    住宅や車のレベルを高めること、衣服や小物に贅沢をすること、話題のレストランに出かける
    ことは、夫の収入に依存する。これはリスキーな生き方であると山田助教授は述べている。女
    性が働くことは、そのリスクを軽減することである。女性にとって、専業主婦文化は、そのリ
    スクに見合う魅力がないということかもしれない。
     結 語
     男たちは専業主婦の夫から働く妻の夫に変わるしかないだろう。専業主婦の夫であれば、家
    事・育児に参加しない権利を主張できても、働く妻の夫はそうはできない。結婚しないか、結
    婚しても子供を持たないか、ダブルインカム以上の高給を得て専業主婦願望の女性と結婚する
    かの選択しかない。しかし、一九九〇年代以降の日本経済は、結婚を希望する多くの男性に、
    働く妻の夫になる選択しか与えないだろう。
     日本の 「伝統的」家族も、その淵源は新しい。家族は社会の変化に応じて生まれたものであ
    る。それが生まれる過程で、過去の伝統や文化が読み直されて様々な影響を与えたことは事実
    だろうが、決定的なカは経済環境にある。専業主婦を養える専業主婦の夫が誕生しないかぎ
    り、専業主婦は生まれない。ところが、日本経済の停滞によって、専業主婦の夫という存在も
    衰微せざるを得ない。日本の家族も変わらざるを得なくなってきている。

     中国が日本の賃金を引き下げるのか
     中国が日本の賃金を引き下げるという議論もある。グローバル化によって、世界各地の賃金
    や資本収益率などの、いわゆる要素価格が等しくなるという考えがある。しかし、中国がこの
    要素価格均等化を引き起こして賃金を下げるというのなら、全世界で引き起こすはずで、世界
    全体が貧しくなるはずだ。日本だけが貧しくなるわけではない。にもかかわらず、中国脅威論
    が盛んなのは日本だけである。また、要素価格均等化なら、日本の賃金が中国に近づくだけで
    なく、日本の資本の収益率も中国やアメリカのように高くなつてしかるべきだが、そのような
    動きはあまり見出せない。すなわち、要素価格が均等化する力は働いているにしても、その動
    きは緩慢だということだろう。
    また、中国との競争で日本の仕事がなくなるというのなら、日本には、自国の通貨を切り下
    げるという手もある。これは、自国の実質賃金を引き下げるのと同じである。輸出品がバナナ
    しかないという国は、隣の、人口規模が一〇倍、気候と土壌は同じ、賃金は一〇分の言いう
    国がいきなりバナナを生産し始めたら、因ってしまう。しかし、日本のように様々なモノを生
    産している国にとって、ある財の価格が下がれば別の財の生産に移ればよいだけの話である。
    隣の国の生産しているものが安くなれば、自国がその財を購入すれば豊かになるということで
    もある。日本の多様な生産物において、中国と比べてのコストの違いは連続的であるというこ
    とだ。生産転換も可能であるし、為替レートがわずかに動くことによって、日本が競争力を回
    復する産業が無数に存在するということでもある。したがって、日本のように規模が大きく、
    多数のモノを生産している国は、いくつかの産業が停滞しても、通貨が下落すれば競争力を回
    復する産業がいくらでもある。小さな国で一つのモノだけを作っているような国ではバッ
    ファー(緩衝物)がなく、為替レートの調整は効きにくい。しかし、日本のような大きな経済
    ではバッファーがあって、そう簡単に全体がおかしくなるということはあり得ない。
    考えてみると、九〇年代以降は、日本経済が停滞しているといいながら、実は実質賃金が九
    八年まで上昇していた。今は低↑しているが、公務員の賃金も九九年まで上昇していた。年金
    は二〇〇二年まで継続的に上昇していた。だから構造改革が進まないといえばその通りだが、
    そのぐらい日本経済は強大なのだともいえる。
     4 中国経済の弱さ
     中国が急速に発展していることは事実である。しかし、同時に多くの限界も抱えている。例
    えば、雇用問題である。中国の雇用はなぜ伸びないのだろうか。それは、中国経済の特質と関係している。
     中国は、これまでの開発途上国にはない独自のカを持っている。いまや中国に作れないもの
    はなく、これまで日本が得意としてきた機械産業、ハイテク産業においても日本は追いつかれ
    追い抜かれてしまう。中国が他の途亡国と異なるところは、広大な国内市場を持ち、それゆえ
    に独自の素材産業、機械産業を持っていることだ。それゆえ、今までの途上国はいくら発展し
    ょぅが、日本の製造業は、発展する国への素材、機械輸出で利益を得ることができた。ところ
    が、中国相手ではそれができない。それゆえに、中国は脅威だという説がある。
     なるほど、中国が、他の途上国とは違うことは分かった。しかし、中国は、何のコストもな
    く、素材、機械産業を持てたのだろうか。素材産業、機械産業は、より多くの物的資本、人的
    資本を必要とする。独自にこれらの工業を持とうとすれば、雇用を犠牲にするしかない。同じ
    資本でより多くの労働者を雇える繊維や雑貨産業をより拡大していれば、より多くの雇用が吸
    収できただろうからだ。
    中国の雇用の低い伸び
     そのことを示すのは、中国の成長率が高い割には、雇用が伸びないことだ。図115は中国
    の実質GDPと就業者数を比べたものである。就業者数については、九〇年で統計の断続があ
    るが、それでも傾向は変わらない。実質GDPは改革開放政策の始まった一九七人年から二〇
    00年まで九・五%で成長してきたのに就業者数の伸びは低い。統計の断続を考慮して、七人年から八九年までと九〇年から二〇〇〇年までを見ると、それぞれ三・〇%と一・一%だ。九・五%の実質GDPの伸びに対して雇用の伸びは、七八年から八九年まではその三分の一以下、九〇年から二〇〇〇年まではその八分の一以下である。この雇用弾性値は、成功したといわれる途上国では〇・五以上が通常である。もし、この値が〇・五であれば、中国の雇用は七八年から現在までで、現実の七・一億人ではなくて一二・七億人になっていたはずである。この値は中国の人口とほぼ同じである。すなわち、中国は雇用問題をとっくに解決していたことになる。
     中国の素材、機楓産業は、雇用を犠牲にして得たものである。社会主義の中国は、雇われなかった人々を打ち捨ててはおけない。中国は、雇用されている人々の負担によって、雇用されていない人々の面倒を見ているはずである。中国が素材、機械産業を持ったことが中国経済を利しているかど
    うかは分からない。中国の素材、機械産業が負担を抱えているとすれば、日本がそう脅威に思
    うこともない。
     中国で豊富なのは労働であり、資本は稀少なはずである。稀少な資本を用いて豊富な労働を
    使わないことによって、中国経済には非効率が生じているはずである。
     さらに中国は、不良債権問題、財政赤字という日本と同じ問題を抱えている。不良債権処理
    のために必要な財政資金はGDPの二九%、あるいは五〇%ともいわれている(内閣府(二〇
    〇二)第?部第一章)。これも中国の弱さを表している。しかし、日本と同じ問題を抱えてい
    るにもかかわらず、中国の成長率は高く、日本の成長率は低い。財政赤字も不良債権も、成長
    率を引き下げる決定的な要因ではないということかもしれない (不良債権については、本書第
    5章参照)。
     結 語
     以上、中国脅威論の限界を述べてきた。しかし、中国が今後順調に成長しないと言っている
     わけではない。私が言いたいのは、中国が豊かになることは、日本が貧しくなることではない
     ということだ。考えてみれば、戦前の日本の一人当たりGDP (内外価格差を考慮した購買力
     平価GDP)は、せいぜい中国の二・五倍だった(マディソン (二〇〇〇)参照)。上海は東
    京以上の大都会だった。戦後、日本の一人当たりGDPが、筆力平価で中国の五倍(完八
    〇年では九倍)になったのは異常なことだ。毛沢東の中国が、あまりにも非効率な経済制度を
    採用したことの後遺症としか言いようがない。あるいは、戦前には、韓国と北朝鮮の一人当た
    りGDPはほぼ同じだったはずだ。ところが、現在では、一〇倍以1の差がついている。北朝
    鮮が、あまりにも非効率な制度を採用したからだ。
    そこそこの制度であれば、中国の一人当たりGDPは、とっくの昔に日本の二・五分の一に
    なっていてしかるべきである。台湾の一人当たり質力平価GDPは日本の二分の一である。
    中国が豊かになることを止める方策などない。宋の時代、中国は日本より圧倒的に豊かだった
    はずだ。宋の首都開封の繁栄を描写した清明1河図は日本の平安末期に描かれた。宋の皇帝
    は、民の繁栄は統治者の徳を表すと考えていた。当時の日本の権力者は、民が豊かで幸せであ
    ることが権力の正当性を与えるという考えなど持ち合わせていなかった。日本が中国よりも豊
    かで強大でありうると、日本人が思い始めて、まだ一〇〇余年しかたっていない。それ以前の
    千年以上も、日本人には、そんなことは思いもよらないことだった。
     少しでもまともな経済制度を採用すれば、中国が繁栄するのは当然である。そして、隣国の
    繁栄が日本を貧しくする理由はない。他人が豊かになることは、他人が豊かになることであっ
    て、自分が貧しくなることではない。それよりも、もっと積極的に考えてみよう。豊かになっ
    た国は、すでに豊かであった国の消費生活を模倣したいと思うようになる。
    (略)

    人口減少で日本の将来は暗くなるのか
     日本の人口は減少していく。人口減少社会は、労働力人口が減少していく社会であり、これ
    が日本経済の将来に不安をもたらしている。しかし、人口減少を悲観する必要はない。労働力
    が減少するなら一人当たりの生産性を高めればよい。同じ人口のなかのより多くの人が働けば
    よい。これは、これまで働く希望を持ちながら働けなかった女性の労働参加率を高めるチャン
    スでもある。年金など高齢社会のコストが高くなりすぎるなら、減らせばよいだけのことであ
    る。多少減らしても日本の年金水準は世界一高い。以下、人口が減少しても日本経済の将来を
    悲観する必要はないことを説明したい。
     1 人口を増加させることは可能か
     子供のコストは一人一億円
    まず、人口を増加させることは可能だろうか。なんとしてでも人口を増加させるべきだという意見もあるかもしれない。しかし、その 「なんとしてでも」は、かなり極端な政策を必要と
    することになる。子供が生まれないのは子供を育てるコストが高いからである。子供のコスト
    は、子供の養育費+子供を生み育てるために母親が仕事を離れなければならないコストであ
    る。教育費も含めて、養育費ももちろん高い。これも何とかしなければならないことだが、一
    番高いコストは母親が仕事から離れなければならないことだ。子供二人が小学校に入るまで就
    業を中断しなければならないとすれば、図7−1に見るように、二〇〇〇万円程度 (図のB)
    の所得が失われる。さらに母親が就業中断後に日本の年功賃金カーブに戻ることができず、
    パートで働くしかないとすると、そのために失われる所得は一億八〇〇〇万円以上 (図のB+
    C) になるという(内閣府(二〇〇一))。この試算での失われる所得はやや大きすぎるかもし
    れない。しかしいずれにせよ、失われる所得をコストと考え、養育費も加算すると、子供を二
    人生んだ場合で、一人の値段は一億円近いということになる。
     現在、日本の児童手当は月五〇〇〇円で六歳まで支給される。すなわち、子供一人当たりの
    支給額は五〇〇〇円×一二カ月×六年間で三六万円ということになる。一億円の値段のものに
    三六万円の補助をしても、その効果はほとんど認識できないだろう。一億円の値段のものに財
    政援助をして目に見える効果を得ようとすれば、莫大な財政支出が必要となる。しかし、もち
    ろん、数千万円単位の補助金を支払えば子供は増えるだろう。中央政府がコストの八割もの補
    助金を出せば、道路や橋やハコモノの建設が増大するのと同じ理屈である。五〇〇〇万円のロールスロイスに一〇〇〇万円の補助をすれば、今までベンツを買っていた人がロールスロイ
    スを買うことになるだろう。
    仮に値段を六割下げると需要が一・六倍になるとすると、子育てに対して六〇〇〇万円の財
    政支援をすれば現在一・三二である合計特殊出生率(一人の女性が生涯に生む子供の数。これ
    が二・一より大きければ人口は増加する)が二・一になつて、人口が減少しないことが期待で
    きる(実際に多少ともこれに近いことを行うとすれば、児童手当、税控除、休業補償、保育施
    設への補助、働く母親への保育援助などのどれが、またはどのような組み合わせがよいのか、
    十分な検討が必要である)。しかし、六〇〇〇万円の児童手当を支払うことに賛同する人は少
    ないだろう。人口が維持されるためには毎年百五十万人の子供が生まれることが必要であり、
    その子供の子育て期間に六〇〇〇万円の児童手当を払えば、毎年九〇兆円の財政支出が必要で
    ぁる。日本の財政の一般会計支出が八〇兆円であるから、それ以上を支払うということであ
    る。現実的に考えれば、子供を増やすことは難しい。少子化社会に適した社会の仕組みに変え
    ていくより仕方がない。
     女性にとっての子供のコスト
     前項では夫婦にとっての子供のコストという観点から、どうしたら子供が増えるかというこ
    とを考えた。これに対して、東京都立大学の金谷貞男教授は、結婚する女性にとっての子供の
    コストというアプローチを提唱する (以下一六二頁まで金谷 (二〇〇三) による)。
     このアプローチは、女性の家庭内の地位は、離婚した場合の生活水準に依存するという前提
    から出発する。なぜ、女性の家庭内の地位が、離婚した場合の生活水準に依存するのだろう
    か。女性が子供を生んで離婚すれば、生活水準が大幅に低下してしまう。小さな子供がいれば
    働くことが難しいからである。離婚によって生活水準が低下することが分かっていれば、女性
    の家庭内の地位が低くなる。もちろん、離婚する前に夫婦間の交渉があるわけだろうが、究極
    的には、結婚の破綻時の立場が結婚時の地位を決めるという。最終場面での立場の違いが、通
    常場面での位置関係を決めるというのは、常識的な議論だろう。他に貸してくれる銀行を持っ
    ている優良企業は、銀行の金利引き上げ交渉にも負けないが、そうでない企業は最終的には金
    利引き上げを受け入れるしかないだろう。貸出拒否という最終場面での立場の違いが、通常の
    金利交渉に影響を与えるわけだ。
     要するに、女性の家庭内の地位が低く、女性が結婚に魅力を感じないから、子供が生まれな
    いという。それでは、昔の女性の家庭内の地位はもっと低かったのに、なぜ結婚したのかとい
    う反論があるだろうが、それには次のように答えることができる。昔は女性の働く場所がな
    く、女性は結婚して夫から扶養される必要があった。しかし、経済成長に伴い、女性の働く場
    所は飛躍的に増大した。女性は、結婚する必要がなくなった。そこで、結婚して子供を生むこ
    とは、仕事に大きなハンディを背負うことになる。仕事にハンディとなっても、結婚生活の魅 力が高ければ、女性は結婚するだろう。ところが、家事育児は女性の仕事となり、仕事も継続
     できず、家庭内の地位も低い。それでは結婚したくなくなる。だから、女性の家庭内の地位を
     高めれば、子供の数は増えるだろうというのである。
     児童扶養履行強制制度の提案
     女性の家庭内の地位を高めるためには、離婚時の女性の経済水準を高めればよい。そこでま
    ず、アメリカと日本の離婚時保証の程度を確認してみよう。慰謝料や財産分与についてもアメ
    リカは有利であるが、ここでは、養育費制度についてのみ説明しよう。第一に、アメリカで
    は、養育費の金額は父親の収入と子供の数などの基準にしたがって州政府が決定する。第二
    に、養育費は強制的に勤務先給与から天引きされる。勤務先企業が天引きを拒否すると、勤務
    先企業自身が養育費支払いの義務を負う。父親が自営業者の場合、アメリカ国税庁が責任を
    持って父親の租税還付金から養育費分を差し引く。第三に、父親が養育費支払いを避けるため
    に行方をくらますと、母親に代わって連邦政府が父親を探し出す。
    一方、日本の場合、離婚時経済保証の金額は当事者間の協議によることになっており、当事
    者の協議が調わない場合に、裁判所が決定することになっている。こうした制度の下で、離婚
    した母親が受け取っている養育費はわずかで、離婚した母子のうちの六割は養育費をまったく
    受け取れないでいる。さらになんとか養育費を受け取れた母子の場合でも、子供一人の養育費
    は、取り決めありで月額三・六万円、取り決めなしでは、受け取れた場合で二⊥ハ万円にすぎ
    ない (厚生省「平成九年度人口動態社会経済面調査報告、離婚家庭の子ども」一九九七年、二
    九ページ表8)。
     離婚時の経済保証が弱いので、日本の妻の家庭内での地位が低下する。その結果、未婚女性
    は結婚をためらい、子供が生まれないということになる。離婚時の経済的保証を整備するのに
    一番よいのは、アメリカの児童扶養履行強制制度を日本にも導入することだ。この効果がどれ
    だけ大きいかについては、まだ精査すべき点がある。しかし、この政策のよいことは財政コス
    トがかからないことだ。男女間の地位を変えるだけだから、児童手当の増額のような財政コス
    トがかからない。もちろん、強制履行のコストはかかるが、このコストも含めて男性に払わせ
    れば財政コストはかからない。実際には、強制履行のコストまでを負担させられることを考え
    れば、多くの男性が自発的に払うことになるだろう。
     男性側から見た児童扶養履行強制制度
     児童扶養履行強制制度は、女性にとっては有利であるが、男性にとっては不利ではないかと
    いう懸念があるかもしれない。しかし、金谷教授は、この制度は、結婚したい男性にも有利に
    働くという。女性の未婚率が高まることは、男性の未婚率が高まることでもある。なぜ男性が
    結婚できないかといえば、女性が結婚不信に陥っているからである。多くの男性が妻を大切にして子供を作り、幸せな家庭を築きたいと思っていても、それを女性に対して保証する手段が
    ない。つまり、その男性の思いが真実であるという保証がない。離婚女性が経済的困窮に陥る
    とすると、男性は「釣った魚に餌はやらない」という戦略が実行できるからだ。ところが、択
    童扶養履行強制制度があれば、男性はそのような戦略は実行できず、女性は結婚を信頼するこ
    とができる。したがって、児童扶養履行強制制度を導入すれば、結婚する女性が増え、結婚を
    望む男性たちも結婚できることになる。児童扶養履行強制制度は、結婚したい男性に有利な制
    度であり、決して不利な制度ではない。
     目に見える効果があるほど児童手当を増額する前に、まず、この方策の効果を確かめるべき
    である。確かに、日本の合計特殊出生率一・三二 (二〇〇二年の値) に対して、アメリカでは
    二・〇七五 (白人二・〇六五、非白人二・一四七、一九九九年の数値) 
    望已旦と高い。現実に、日本においても離婚をめぐる法制度が見直され、民事執行法が改正
    されれば、裁判所が養育費を差し押さえ、給与からの天引きができるようになる (「養育費天
    引き」 『AERA』 二〇〇三年六月三〇日号、「離婚と子供」朝日新聞、二〇〇三年七月一一
    日)。法の趣旨は離婚女性の保護というところにあるようだが、少子化対策という観点からも
    注目する必要があるだろう。同じ理屈で、妻の年金分割権が強化されることも、結婚の魅力を
    高め、子供を増やす効果があるかもしれない。
    最後の最後
    児童扶養履行強制制度でもあまり効果はないかもしれない。しかし、これは自分の子供を自
    分で育てるという制度であって、他人の税金で育てるという制度でもないし、他人の子供の年
    金保険料で老後の生活をまかなうという制度でもない。また、離婚を奨励する制度でもない。
    結婚に対する信頼を確保するための制度であるということだ。少子化対策としてはまずこれを
    導入するべきだ。
     もちろん、この制度を導入しても少子化は続くかもしれない。日本人が鴇(とき)のように絶滅する
    ことを心配しなければならない状況になれば、また考えを変える必要があるかもしれない。し
    かし、現在の人口減少のトレンドが続いても、一二〇〇年の日本の人口は五〇〇〇万人以上い
    る。現在のヨーロッパの大国と同じレベ〜であり(後述するように、ヨーロッパの人口も日本
    と同様に減少する)、明治初期の人口三〇〇〇万人よりも多い。日本人をなんとしてでも増や
    したいと考えるべきかどうかは、一〇〇年後の日本人に考えてもらってもよさそうだ。また、
    一人当たりの日本人にとって、日本の国土が広々とすれば、気分が大きくなって自然に人口が
    増大するかもしれない。して子供を作り、幸せな家庭を築きたいと思っていても、それを女性に対して保証する手段がない。つまり、その男性の思いが真実であるという保証がない。離婚女性が経済的困窮に陥るとすると、男性は「釣った魚に餌はやらない」という戦略が実行できるからだ。ところが、択
    童扶養履行強制制度があれば、男性はそのような戦略は実行できず、女性は結婚を信頼するこ
    とができる。したがって、児童扶養履行強制制度を導入すれば、結婚する女性が増え、結婚を
    望む男性たちも結婚できることになる。児童扶養履行強制制度は、結婚したい男性に有利な制
    度であり、決して不利な制度ではない。
     目に見える効果があるほど児童手当を増額する前に、まず、この方策の効果を確かめるべき
    である。確かに、日本の合計特殊出生率一・三二 (二〇〇二年の値) に対して、アメリカでは
    二・〇七五 (白人二・〇六五、非白人二・一四七、一九九九年の数値) 
    望已旦と高い。現実に、日本においても離婚をめぐる法制度が見直され、民事執行法が改正
    されれば、裁判所が養育費を差し押さえ、給与からの天引きができるようになる (「養育費天
    引き」 『AERA』 二〇〇三年六月三〇日号、「離婚と子供」朝日新聞、二〇〇三年七月一一
    日)。法の趣旨は離婚女性の保護というところにあるようだが、少子化対策という観点からも
    注目する必要があるだろう。同じ理屈で、妻の年金分割権が強化されることも、結婚の魅力を
    高め、子供を増やす効果があるかもしれない。
    最後の最後
    児童扶養履行強制制度でもあまり効果はないかもしれない。しかし、これは自分の子供を自
    分で育てるという制度であって、他人の税金で育てるという制度でもないし、他人の子供の年
    金保険料で老後の生活をまかなうという制度でもない。また、離婚を奨励する制度でもない。
    結婚に対する信頼を確保するための制度であるということだ。少子化対策としてはまずこれを
    導入するべきだ。
     もちろん、この制度を導入しても少子化は続くかもしれない。日本人が鴇(とき)のように絶滅する
    ことを心配しなければならない状況になれば、また考えを変える必要があるかもしれない。し
    かし、現在の人口減少のトレンドが続いても、一二〇〇年の日本の人口は五〇〇〇万人以上い
    る。現在のヨーロッパの大国と同じレベ〜であり(後述するように、ヨーロッパの人口も日本
    と同様に減少する)、明治初期の人口三〇〇〇万人よりも多い。日本人をなんとしてでも増や
    したいと考えるべきかどうかは、一〇〇年後の日本人に考えてもらってもよさそうだ。また、
    一人当たりの日本人にとって、日本の国土が広々とすれば、気分が大きくなって自然に人口が
    増大するかもしれない。
     (中略)
     高度成長が有利な年金をもたらした
     なぜ、一九七〇年代の初めに、当時の高齢者が納めた年金保険料の割には極めて有利な年金
    制度が成立したのだろうか。払い込んでもいない保険料から、極めて有利な年金がもらえたの
    はなぜだろうか。それは、それ以前の高度成長という事実を抜きにしてはあり得ない。
    一九五〇年から七三年まで、日本経済は、実質で一〇%成長をした。人口増加を除いた一人
    当たりでも、八%成長である。平均的な日本人の所得も八%成長したことになる。三〇年間近
    くも八%成長が続けば、それが永久に続くと考えてしまっても、不思議ではない。三〇年間
    八%成長が続くということは、父が定年を迎えた六〇歳の時、三〇歳の息子は父が三〇歳の時
    の給料の一・〇八の三〇乗倍、すなわち一〇倍の給料をもらっていることになる。
     現在の感覚で考えるためにもっともらしい数字を考えてみれば、父の年収が八〇〇万円な
    ら、息子の年収は八〇〇〇万円ということになる。そんなに金持ちの息子なら、両親に豪邸を
    プレゼントしてもおかしくない。しかも、そんな金持ちの息子が何人もいたというのが高度成
    長期だったのである。日本中のすべての親が、プロ野球のスター選手を二人も息子に持ったよ
    うなものである。高度成長の終わった瞬間に、現行の年金制度の仕組みが成立し、その時点で
    高齢者がわずかしかいなかった。だからこそ、払い込んでもいない保険料から極めて有利な年
    金がもらえるという制度が成立したのである。しかし、三〇年間で所得が一〇倍になるような
    成長は続かなかった。七〇年から九〇年の一人当たりの成長率は三・四%にすぎなかったし、
    九〇年から二〇〇〇年までの成長率は、一・一%にすぎなかった。七〇年代と八〇年代の成長
    率を前提にすれば、息子の給料は父の給料の二・六四倍にしかならないし、九〇年代の成長率
    では一・三七倍にしかならない。しかも、高齢者は増加し、若者は減少していく。
     私は、日本中のすべての高齢者が、払い込んでもいない年金が魔法のポケットから出てくる
    はずはないという当たり前の事実を認識してくれると思っそいる。世代間の対立などあり得な
    い。すべての親は、子供の幸せを願っており、それが日本を繁栄させてきた。高すぎる年金は
    諦めてもらうしかないが、子供は、親にそれなりのプレゼントをすることを嫌がってもいな
    い。年金のカットは、制度の永続を保証し、人々にむしろ安心を与えるはずだ。
     日本の公的年金は世界一高い
     では、どれだけカットすればよいのか。また、そもそも現在の年金は、国際的に見てとの程度の水準なのだろうか。日本の年金を、アメリカ、イギリス、スウェーデンと比較してみょ
    う。これらの国に関しては夫婦平均(スウェーデンとイギリスは付加年金平均を加算)を日本
    の標準世帯と比較することとする。
    表711で平均年金月額を為替レートで換算したものを見ると、日本の受給額は二〇〇〇年
    改正後においてもスウェーデン、イギリス、アメリカに比べて非常に高水準であることが分か
    る。最も高いスウェーデンでも、日本の五三・四%であり、イギリスでは、二九⊥ハ%であ
    る。日本の年金給付水準は諸外国の倍以1である0こう言えばすぐに、日本は物価が高いから
    比較できないという反論があるだろう。そこで、表7−1では、各国の物価水準の違いを考慮
    して、購買力平価により円換算して比較した数値も掲載してある。この場合でも、日本の受給
    額はやはり世界二商い。日本に次いで最も高いのは物価の安いアメリカになるが、それでも日
    本の七五・八%でしかない。日本の年金給付水準は、他の国に比べて二〇〇〇年改正後におい
    てもおおむね三割以上は高いのである。しかも、先進国の中で年金額を引き上げようとしてい
    る国はない。むしろ引き下げようとしている。
     また、日本は現時点では六〇歳支給である0段階的に引き上げられるといっても六五歳支給
    になるのは二〇二五年のことである0受給者が平均寿命程度生きるとすると、六〇歳から八〇
    歳までの二〇年払いになる。他国はすでに六五歳支給になっているので、八〇歳まで生きても
    一五年払いである。総受給額は三割(二〇年÷二九年)高いことになる。つまり、アメリカに 比べて、購買力平価で見た月額が三割高い上、受給期間で三割高いことになり、実質的な格差
     は一・七倍ということになる。実際には、他国は日本の六〇%の水準にすぎないのである。
     年金改革の方向
     日本の年金は、このままでは維持不可能である。ほとんどすべての論者が、維持不可能であ
    ることとカットすることが必要であるということについては意見が一致していると私は思う。
     日本の年金が維持不可能なものとなつてしまったのは、高度成長が永遠に続くと錯覚したこ
    とにある。まず認識すべきなのは、これが錯覚であるということだ。このことさえ認識すれ
    ば、後は大して大きな問題ではない。
     高齢世代の生活水準は、究極的には現役世代の豊かさに依存している0現役世代が豊かであ
    れば、高齢世代も豊かな生活を送れるが、そうでなければ諦めるしかない。公的年金が、社会
    全体の現役世代と高齢者の助け合いの制度であるというなら、これは最も合理的なものであ
    り、また、運用利回りの低下についても、最も諦めのつく方策である。
     人口減少についても、子供の数が減れば年金が減少するのも当然ではないだろうか。もちろ
    ん、日本にではなく、発展する海外に投資することによって年金の運用利回りを維持するとい
    ぅ方策もある。しかし、それは公的年金の役割なのだろうか。年金の支給額が、日本の繁栄に
    ょってではなく、外国の繁栄に依存するような制度が、一国の社会全体の助け合いの制度とは
    到底思えない。そのような制度は、政府のなすべき範囲ではないと私は信じる。したがって、
    公的年金の民営化も奇妙な制度である。より豊かな老後を目指して個人が貯蓄し、また高い運
    用利回りを求めるのは自由であるが、それは政府の仕事ではない。
     年金制度はスリムなものに
    厚生省の二〇〇〇年財政再計算で、年金負担は二〇三〇年(ほぼピーク時)で現在の総報酬
    比二三・五八%から一二・六%(いずれも雇用主負担を含む)に上昇することになっている
    (厚生省1厚生年金・国民年金数理レポート」)。これは人口の中位推計を前提としているの
    で、低位推計を前提とすれば、これよりも三%ポイントほど高い二五%程度となるだろう(こ
    れは二〇〇二年の新人口推計の中位推計の数字でもあまり変わらないだろう。また、年金の積
    立金をゼロとすれば年金負担を総報酬比で二±一%ポイント減らせるという説もあるが、ここ
    では用心深く、二五%となるという数字を前提に考えることとする)。すなわち、年金負担は
    倍近く上昇する。
    一方、前述のように、世界のほとんどの年金は六五歳支給であり(日本は六〇歳支給)、か
    つ、日本の年金額の六割の水準にすぎない。そこで、日本の年金を世界的水準にすれば、年金
    負担を上げる必要がなくなる。具体的には、六〇歳支給を六五歳支給にすれば、平均寿命八〇
    歳で二〇年支給から二血年支給にするわけであるから、支給総額は二五%減となる。さらに、支給月額を二〇%減とすれば、合わせて五〇%のカットとなる。もちろん、二〇〇〇年財政再
    計算でも二三年後に六五歳支給となっているので、これをより早く減額する必要がある。支給
    開始年齢を毎年六カ月ずつ遅らせて二じ年で六五歳にし、支給額を毎年二%ずつ減らして一〇
    年で二〇%カットすれば、年金保険料を引き1げる必要はなくなる。もちろん、減額早期支給
    制度は年金財政の負担にはならないのだから維持すべきである。
     要するに、日本の年金を実質価値でスウェーデン並みにすれば、年金負担を引き上げる必要
    はないということだ。なんという豊かさ、なんというすばらしさ。貧しい極東の島国が一〇〇
    年あまりの間にここまで来てしまった。ここまでの日本を築き上げた世代のために、未来の世
    代は喜んで現行の年金保険料を払い続けてくれるだろう。高齢社会をなんら心配することはな
    どうしたらより多くの人が働けるか
    人口が減少しても、一人当たりの生産性が高まれば、人口減少社会を豊かな社会にすること
    ができる。また、現在は働いていない女性や高齢者が働けば、さらに豊かな社会にできる。女
    性にとっては家事・育児と仕事を両立できる社会環境、高齢者にとってはいつまでも働ける雇
    用環境をつくることが必要だ。
    働きたい女性の労働参加を支援する
     日本の女性は、現実に働いている以上に働くことを望んでいる。日本の女性の労働力率を年
    齢階級別にみると二五卜二元歳の部分で大きく落ち込んでいるが、他の国ではそのようになっ
    ていない。働きたい女性が働けるような環境を整えることは、女性自身の希望に沿うことであ
    り、かつ、人口減少社会に向かう日本にとっても望ましいことだ。
     アメリカやヨーロッパの女性の労働力率を見ると、日本のように育児期に該当する年齢層の
    労働力率が特に落ち込んでM字カーブとなる傾向は見られない。欧米と同じように女性が働き
    やすい社会をつくることができれば、働きたい女性が働くことが可能になる。
     働きたい女性に、働いてもらうことは、労働力人口の減少する少子高齢社会において重要で
    ある。ただし、その比率を上昇させることによって得られる実質GDPの増加はそれほビ大き
    いものではない。日本の女性がアメリカ並みの労働力率で働いて、それがすべてフルタイムの
    労働者であったとしても、労働力の増加は一割程度でしかない。女性労働者は、仝労働者の半
    分にすぎないから、労働者数の増加は五%にすぎない。したがって、働きたい女性が働けるようにするために過大なコストをかけるのは本末転倒であることも認識しておく必要がある。
    育児をしながら働くためには、子供をどこかに預けることが必要になる。親族が預かってく
    れなければ、保育所に預けることになる。実は、M字カーブは日本だけのものではなかった。
    アメリカでもフランスでも、七〇年代まで、女性の年齢別の労働力率のカーブはM字型をして
    いた(フランスでは子育て後の女性の労働力率が低く、M字の右側の山はなかった)。M字
    カーブは、保育制度の充実とともに解消していったことなのだ。欧米で起きたことなら、日本
    でも起こすことができるだろう。
    コスト引き下げの必要な保育所
    保育所の充実は必要であるが、それを充実させる方向については重要な問題占仰がある。保育
    所は、パートタイムで働く女性ではなく、フ〜タイムで働く女性を支援できるようにするべき
    だ。というのは、保育所のコストは働く女性の収入に比べて、かなり高いものだからである。
    保育所を利用する子育て期の女性のパートタイム労働による平均年収は、二五卜二九歳で一三
    四万六〇〇〇円、三〇⊥二四歳で…三万三〇〇〇円(労働省「賃金構造基本統計調査報告
    (完九九年)」より)となっている0毒子竺人を預かるコストは、東京都九区の公営保
    育所では年間二二七万三〇〇〇円(月額六万九四八二円)、民営保育所で大当たり年間一
    五八万円(月額三万一六二六円)の公費(厚生省「厚生白書(平成一〇年版)」)が使われて
    いる。利用者からは保育料の徴収があるが、公費に比べると多いものではない(東京都区部で
    四七・六%が月額三⊥二左方円)。公営保育所を中心とした保育所の高コスト構造を是正す
    るとともに、パートタイムからフ〜タイムで働けるようにするべきだろう。すなわち、フルタ
    イムで働く女性からはより高い保育料を徴収して、待機児童を減らすとともに、女性が十分働
    けるよう延長保育を充実させることが必要である。
     妄、パートタイムの仕事だけであれば、乳幼児期は母親が世話をし、その後は、保育所よ
    りも、最近増加している幼稚園の預かり保育(原則夕方五時まで)で対応していくことも考え
    られる。すでに預かり保育をしている幼稚園は公立市立を含めた全体で約三〇%、私立で約五
    〇%となっている(厚生省「厚生自書季成一〇年版)」)。働く女性が圧倒的に多くなれば、
    働く女性の保育需要を満たせない幼稚園は存続できなくなり、子供を預かるという点について
    は幼稚園と保育所の区別はなくなってくる。保育所は厚生労働省、幼稚園は文部省の縄張りと
    いうことにかかわりなく、女性の労働力率を1げるために何が必要かという観点からの改革が
    必要だ。既存の施設の利用率を1げることによって様々な保育コストの削減が可能なはずだ。
     ただし幼稚園と保育所縄張りをなくす、幼保完化だけでもかなり大変なことだ。幼保完
    化に反対する厚生労働省の根拠は、「保育所では調理場が必要であるのに幼稚園ではそのよう
    な規制がないため」だという。そして、なぜ調理場が必要なのかというと、「調理の過程を理
    解しなければ大人になってもきちんとした家庭をつくれない」からだという。ところが、調理の過程を理解するためなら、調理の現場を見せなければならないが、衛生面で問題があるから
    子供には入らせず、シースルーな調理場にもなっていないということだ (福井(二〇〇〇))。
    要するに、調理場の施設基準があることによって、保育所への新規参入が困難になり、このこ
                                                    ル
    とが既存事業者の利益になっている以上、厚生労働省はそれを守るしかないわけだ。
     こんな話はいくらでもある。だから構造改革は必要だ。しかし、これほどつまらない制度の
    下でも、日本経済は三%成長をしてきたのだから、構造改革をしなかったことが九〇年代以降
    の低成長の理由ではあり得ない。
     働き続けられる職場環境の重要性
     仕事と育児の両立をするためには保育所の充実ばかりでなく、子育てしながら働き続けるこ
    とのできる職場環境の整備も重要である。つまり、育児休業を取りやすく、職場復帰をしやす
    い環境、短時間勤務制度やフレックスタイム制度など子育てに配慮した勤務時間制度の充実、
    事業主による子育てへの支援の促進をしていく必要がある。こうした動きが、保育所の充実と
    ともに進んでいけば、他の先進国と同様にM字カーブの解消ができていくことになる。保育自
    体が官僚的非効率によって高いコストになっているのではなくて、そもそも高いコストのかか
    るものであるならば、幼児はある年齢まで親が育てることが合理的で、その後に再び働きに出
    られるようなフレキシブルな労働慣行こそが重要であるかもしれない。
     そして人口減少に歯止めをかけるために一番重要なのは、労働慣行の変化かもしれない。年
    功賃金制度によって、第1節で述べたように、女性が子供を持つことによって失わなければな
    らない所得が一億円という高額なものになってしまう。年功賃金制度が崩壊し、賃金が低いと
    ころでフラットになってしまえば、子供を持つコストは一挙に低下する。子育て後の再雇用賃
    金が低ければ、パートではない仕事を見いだすことも容易になろう。また、夫の賃金もフラッ
    トになってしまえば、妻も働くしかない状況になる。森永(二〇〇三) の予測するように、年
    収三〇〇万円の一般サラリーマンと一億円のスーパーサラリーマンに二極化すれば、子育て後
    の女性もフルタイムの仕事を見いだせるようになるだろう。子供を生み育てるコストは、子供
    がある程度独り立ちできるまでの六年間の母親が働くことによって得られる収入の二〇〇〇万
    円程度、つまり(図7−1のBの部分)十直接の養育費に下がるだろう。このとき、数百万円
    の児童手当や休業補償は大きな効果を持つかもしれない。また、一億円のスーパーサラリーマ
    ンが子供を欲しければ、勝手にしてくれということだ。森永氏の予測は極端だが、その方向へ
    の変化は確かに起きるだろう。人口減少はここから歯止めがかかる可能性があり、女性の労働
    力率も上昇するだろう。
     アメリカ経済の九〇年代になってからの好調をIT革命に帰する論調が盛んだったが(IT
    バブルの崩壊とともに最近ではそれほどでもない)、七〇年代からのアメリカ経済をみれば女
    性の労働力率の上昇によって経済が成長してきたという認識は重要である。なぜなら、アメリカにおいて労働者一人当たりの生産上昇はわずかであり、したがって実質賃金は七〇年代から
    ほとんど上昇していなかった(九〇年代の末期になってやっと上昇した)。一人当たりの生産
    性上昇がわずかであるのにアメリカの実質GDPが成長してきたのは、雇用が増大してきたか
    らである。そして、雇用の増大を支えてきたのはアメリカの女性の職場進出だった(松波(一
    九九六))。




  • エコノミストは信用できるか、のサブタイトルで、世間一般に言われている俗説を検証する。

  • 本書によると、エコノミスト(経済の専門家)の言うことには限界があって、全てが当たっているわけではなく、これは予測と考えれば当然だとしても、もっと悪いことには言っていることが奇妙なのだそうです。

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著者プロフィール

1950年生まれ。東京大学農学部卒業。学習院大学博士(経済学)。経済企画庁国民生活調査課長、海外調査課長、財務省財務総合政策研究所次長、大和総研専務理事チーフエコノミスト、早稲田大学政治経済学術院教授、日本銀行政策委員会審議委員などを経て、現在、名古屋商科大学ビジネススクール教授。著書『昭和恐慌の研究』(共著、東洋経済新報社、日経・経済図書文化賞受賞)、『日本国の原則』(日経ビジネス人文庫、石橋湛山賞受賞)、『若者を見殺しにする日本経済』(ちくま新書)、『ベーシック・インカム』(中公新書)、『デフレと闘う』(中央公論新社)など多数。

「2021年 『コロナ政策の費用対効果』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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